12 超自然的に現れるものを、五感を通して、知性が把握する場合に、生じる弊害について、および、これらのものに対していかに処すべきかについて

前章における①の観念は、第一部の感覚の暗夜において説明したのでここでは、何も言わない。ここでは前章における②の1について説明する。すなわち、五感による外的感覚、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる感覚を通じて、超自然的に知性に結びつく観想的なもの、知覚について述べる。

視覚に関して、何か至福のイメージや、人物などで、聖人のだれとか、天使、悪天使の姿、さらには、何かの光とか異様な輝きというようなものである。聴覚の場合は、何かまったく変わった言葉が聞こえて来る。それは、時に目に見えるものの姿が語りかけ、または、そうしたものなしに、だれが話しているか分からないときがある。臭覚においては、どこからともなく、非常に快い香りがしみわたるように感じられる。味覚にも、極めて美味なものが感じられて、また触覚には、たまらない快さのために、骨の髄まで悦び、花咲き香る心地して愉悦のうちに浸る。これが通常「霊の塗油」と呼ばれるのは、霊から出て、その清らかな霊の肢体へと広がっていくからである。

こうした感覚的な楽しみは、霊的な道を歩む人には極めて普通のことで、それぞれの人に応じ、程度を異にしながら感じやすい心の敬虔な感情からあふれ出てくるものである。

それで知っておくべきことは、たとえこれらのすべてのことが、神を通して、体の感覚にとらえられるものであることができるとしても、それを確かなものだと思ったり受け取ったりしてはいけないことである。感覚的な交わりには、多くの危険と錯覚を伴う。そこには、体の感覚が、自分の感じていることが本物だと思い込んで霊的なものを判断し評価することになるからである。しかも、実際はそこに、体と霊魂、また感覚と理性との間に大きな違いがある。それに目にとらえやすいものであるだけに、強く感覚に訴えるため、自分にとって、それらが何か大切なものであるかのように思われ、それが、われわれのめざす神との一致のための導きの光ある手段と思い込み、信仰には頼らないで、それら体に由来するもののあとに引っ張られてゆくことになる。そして、このようなものを大切にすればするほど、信仰の道と手段とを、ますます失うことになる。

このようなイメージや感情は常に払いのけるようにしなくてはならないが、もしそれが神からのものであっても、神を侮辱することにはならず、またそうしたものによって神がわれわれに与えようとなさる実りを受け取らないというわけではない。もし、それが神からのものであるならば、それが感じられる瞬間に、精神のなかにその結果を引き起こすもので、それを望むか望まないかなどと考える余裕がないからである。つまり、それが引き起こされるのも、中止されるのも、われわれの望む望まないとに関係なくなされる。悪魔からくるものも、心はそれを望まなくても、心のなかに、騒がしさや、味気なさや、虚栄心、それに自負心をひきおこす。しかし、これらは、神よりのものが善に向かう力をもっているほど、悪に向かわせる力をもっていない。というのは、悪魔からのものは、意志の中に第一衝動しか引き起こせないで意志が望まないなら、もはやそれ以上に意志を動かすことはできないから。これに反し、神からくるものは魂に浸透し、意志を動かし愛を生み出し、否応なく、その効果を残す。たとえ、どのようにしても、それに逆らえない。

したがって、たとえそれが神からのものであっても、われわれは決して、それをそのまま受け取るようなことがあってはならない。そのまま受け取ったならば、次の6つの厄介なことが生じる。1、信仰が次第にうすらいでくる。というのは、五感をもって体験されることは、信仰を非常に衰えさせるので。2、そうしたものを退けなければ、精神にとって障害となるからである。というのは、心はそこに捕らえられてしまい、見えないものに向かって、飛んで行けなくなるからである。3、心がこれらのことに執着して真の放棄や魂の赤裸へと歩まなくなってしまうからである。4、これらがもたらす実りと、それらが内奥において生み出す大切な霊を、次第に失うことになる。というのは、全く大切でない感覚的なものに目を注ぐからである。5、神の恵みを失う。というのは、そうした賜物も、それに対しする愛着があるため、そうしたものを欲しいと思うそのことのために、せっかくのものが、ためにならなくなってしまう。6、そうしたものを望むことは、悪魔に向かって門を開くことで、悪魔は、それに類したいろいろなものによって、われわれを欺くようになるからである。だから、そうしたものがだれからのものであろうと目をつむって、払いのけるのがよいのである。