11 超自然的なものをはっきりと記憶にとどめることの弊害④神との一致の妨げになる

この第四の弊害については、別に多言を要しない。なぜなら、本書の第三部の至るところで、すでに説明したからであって、そこで、望徳によって神と一致するためには何ものも記憶にとどめておいてはならないといったのである。それというのも、望徳が全く神のものであるためには、記憶の中に神ならぬ何ものもとどめておいてはならないからである。これも前に述べたように、記憶でとらえることのできる形とか姿、イメージとか、その他の知解は、それが天上のものであれ、地上のものであれ、また自然的なものにせよ超自然のものにせよ、決して神ではなく、神に似たところすらないのであって、ダヴィドはそれを教えてこう言っている。「主よ、あなたのような神は神々のうちになく 」(詩86・8)。これによって明らかなことは、もし記憶が、それらの中の何かをつかもうとするならば、神に行くさまたげをおくことになることである。一方において足がからまれ、他方において所有することが多いため希望する力は減ずることになる。したがって、完全な望徳によって、記憶による神との一致を妨げないためには、超自然的なものについての、はっきりしたイメージや知解から赤裸になり、すっかり忘れ去ってしまわなくてはならない。