10 超自然的なものをはっきりと記憶にとどめるときの弊害③霊を盲目にさせる

以上のことから、これらの超自然的知覚を通じ、悪魔がどれほど多くの害をおよぼすか容易に察せられることと思う。悪魔はただ、多くの考えや、偽りのイメージを、いかにもほんとうのもの、よいもののように、暗示によって心と感覚のうちに、まことに効果的かつ確実性をもたせてきざみこむだけではなく(とうてい、そうとしか思われないまでに、光の天使に姿をかえて人々に光のごとく思わせる)神に由来する真理についても、霊的、感覚的な欲望や感情を動かすことによって、いろいろな形でそれを歪めようとする。というのも、もしわれわれが、このような感覚を喜ぶようになると、悪魔にとって、その欲望と感情を刺激し、霊的なむさぼり、その他の弊害におとしいれることは容易なことだからである。なおいっそうの成功を収めるため悪魔は、神に関することについても感覚のうちに甘い感情を注ぎ込むもので、そのために心はとろけて、そのとりことなり、次第に盲目になって、愛よりむしろ、その快い味わいに心を奪われて(少なくとも、愛のそれほど重みをおかなくなる)、また、信仰や望徳や神のうちにある赤裸と虚心よりも、そうした知覚の方を重んじるようになるため、悪魔はきわめてたやすく、徐々にわれわれを欺き、その欺瞞を信じこませてしまう。なぜなら、盲目の霊魂には偽りが偽りとしは見えず、悪が悪とは思われなくなるからである。その人には闇が光に見え、光が闇と思われるからであって、そのため、通常のことでも道徳的なことでも、また霊的なことに関してもピントはずれになる。こうしたすべてのことは、最初にあるあの超自然的なことについての楽しみをしりぞけなかったことから来るわけで、そうした楽しみが、始めはわずかでしかなく、それほど悪いものでないため大して気にしないで放っておくと、やがて、芥子種のように大きな木になってしまうのである。したがって、悪魔からのこのような大きな災いを受けるのを避けるためには、そうしたことを楽しまないことは極めて大切である。なぜなら、このような楽しみに目がくらんで倒れることは確実だからである。楽しみや快さや甘美というものは、別に悪魔からの誘いがなくても、それ自身心を盲目にするものである。