4 神との一致とは何であるか、一つの比喩

神ならぬつくられたものは、いかなるものであれ、その働きや巧みさは、神の尺度にあうものでなく、また、それに至りつくものでもないから、すべてつくられたもの、及びその働きや巧みさ、すなわち理解とか味わうこととか、感じるというようなことから離脱しないといけない。というのは、神に似ないもの、そわないものを、ことごとく捨ててこそ神に似るものとなり、神のみ旨でないものが心の中に残るようなことがなくなり、そのようにして神の中に変容されることになる。以上のことを、よく理解するために、たとえをあげる。

太陽の光が、一つの窓ガラスにあたったとしよう。そのガラスに、いくらかの汚れや曇りがある場合には、そうした汚れが全くなく、きれいに拭われているときのように、光のなかにすっかり照らし出されて、そのあり様が変わってしまうことはできない。つまり、こうした汚れや曇りがあればあるほど、照らされることが少なく、反対に、そうしたものがなければならないほど、一層照らし出されることになる。しかもこれは、光の問題ではなく、ガラス自体に関係することである。もし、ガラスが清く、全く純粋であるならば、それはまるで、光そのものになったかのように思われ、その光と同じ光を発するまでに、有様を変えて光輝くようになるであろう。しかし、窓ガラスは光のように見えていても、実際光自体とは異なった本性を持っている。さらに、その窓ガラスが光、または光線と言えるのは、光と一つのものとなる光との交わりによるということである。この窓ガラスのように、われわれに霊魂は、神の本質から出るあの神的な光により、いつもつつまれている。いな、さらによく言えば、神の光自身が、そのまま霊魂のうちに宿ると言える。われわれが、心を空しくにすれば、すなわち、愛するとは、神のために神でないすべてのものから赤裸になることなのであるから、意志を全く神と一致させることによって、地上的なもののすべての覆いや汚れを拭い去ってしまうならば、ただちに神の光に照らしだされ、その中に変容する。神はその人にご自身の超自然的在り方をお与えになるため神と同じものになったかと思われ、また、ご自身がお持ちになっているものを持つというになるのである。このようにして、神が霊魂に、この超自然の恩恵をお与えになると、神との一致ができて、神のすべてが霊魂と一つのものになり、その神と一つのものとなる交わり(参与)によって変容されてしまうのである。そこで霊魂は、霊魂というよりも、むしろ神のように見えてくる。だがそれは、神と一つのものとなる交わり(参与)によって神になると言えるのであって、どんなに変容したといっても、その存在は前と同じように依然として神のそれとは非常に違ったその自然的本質をもっているのであって、それは、硝子がどんなに光に照らしだされても、光とは別個の性質のものであることは同様である。

以上のことから、神との一致のための心構えは、神について理解したり、味わうことでもなく、何かを感じることでも想像することでも、他のいかなることでもなく、ただ一つ、純潔と愛ということ、すなわち、神のみのために、あのことや、このことのすべてを捨てて全く赤裸になるということである。全き清らかさのないところには、魂の全き変容もない。また、どれほど清らかであるかによって、神との一致の深さ、またそれから照らし出される光の程度が決定されるのである。ここに言うように完全でもなく、清くすきとおってもいなければ、神との一致も完全なものとはならないであろう。