「自由意志」 聖アウグスティヌス

■目次

1巻 罪は自由意志から起こる

1、悪い行いは神によってつくられず、知識によっても教えられません。

エヴォディウス:神は悪の創始者ではないか。この問いに答えてもらえないでしょうか。

アウグスティヌス:あなたが尋ねているのはどんな種類の悪でしょうか?それをはっきり示してくれれば答えることができます。というのも、一般に悪には二種類あるからです。一つは「悪を行う」ことであり、もう一つは「悪を受ける」ことです。

エヴォディウス:その両方について知りたいです。

アウグスティヌス:あなたは神が善であることを知っています。あるいはそう信じています。それなら、神が悪を行うことはありません、ということは明らかにわかるでしょう。さらに、私たちは神は正しい方であり、神は善い人に報いを与え、悪人に罰をくだすことを告白します。「悪を受ける」者にとっての悪とは、この罰のことです。ですから、だれも不正に罰せられることがないため、神は「悪を行う」意味での悪の創始者ではありません。神は、ただ第二の「罰をくだす」という意味で「悪」をつくります

エヴォディウス:それでは、「悪を行う」での「悪」については、他につくったものがあるのですね。今の話では、それは神でありませんから。

アウグスティヌス:たしかにそうです。しかし、それがだれかと問われても答えることができません。なぜなら、それはだれか一人ではなく、悪人のだれもが自分の悪い行いの創始者だからです。これが納得できないなら、悪い行いは神の正義によって罰せられると今言ったことを、よく考えなさい。ただし、その行いが意志によってなされていないなら、罰せられるのは正当とは言えません。

エヴォディウス:罪について教えられたことがない人が罪を犯すことができるとは思えません。そうだとすると、私たちに罪を犯すことを教えた者は、いったい誰でしょう?

アウグスティヌス:あなたは、「教え」は、ある善いものだと思っていますね。

エヴォディウス:「教え」を悪いものが行っている、という人はいないでしょう。

アウグスティヌス:もし善いものでも悪いものでもないとしたら、どうでしょうか?

エヴォディウス:私は善いものだと思っています。

アウグスティヌス:確かにそうです。実際、知識は教えによって与えられ、学ぶのであって、人は教えられることがないならば、学ぶことはありません。他に考えられることはありますか?

エヴォディウス:私は、教えによって学ぶことは善い行いだけである、と考えます。

アウグスティヌス:すると、悪い行いは、学ばれないということになります。というのも「教え」という名詞は、「学ぶ」という動詞が語源だからです。

エヴォディウス:しかし、悪い行いは学ばれないならば、どこから、人に生じたのでしょうか?

アウグスティヌス:それは教え、すなわち学ぶことから離れたり、興味を失った為ではないでしょうか?他に理由があったとしても、教えは「善いもの」であり、またこの「教え」は「学ぶ」という動詞から来たのであるから、悪い行いが決して学ぶことができないのは明らかです。もし、それが学ぶことができるなら、それは教えの中に含まれ、教えもまた善いものではないことになります。しかし、あなたが認めるように、教えは善いものです。だから、悪い行いは学ばれません。したがって、私たちに悪い行いを教えたのは誰かと尋ねても無駄です。仮に悪が教えられるとすれば、それは悪を行うためでなく、避けるためです。ですから、悪を行うとは、教えの道を踏み外すことに他なりません。

エヴォディウス:ところで、私は二種類の教えがあると思います。私たちは、その一つによって善を行うことを学び、他によって悪を行うことを学びます。しかし先ほど、教えは善いものかと問われたとき、私は、善への愛にとらえられたので、善を行うことを教えるものに、目を凝らし、教えは善いものであると答えました。しかし、今疑いなく、悪いものの教えがあることに気づいたので、その教えをつくったのは誰であるか、教えてほしいのです。

アウグスティヌス:少なくとも、知性は善いものである、とあなたは考えるでしょう。

エヴォディウス:私は、知性は善いものだと思っています。それにまさる善は人間の中にはありませんから。したがってすべての知性のなかで、悪いものはありません。

アウグスティヌス:それでは、教えられても、それを悟らない人がいたならば、その人は学んだ人と言えるでしょうか。

エヴォディウス:もちろん、言えません。

アウグスティヌス:すると、知性はすべて善いもので、知性によって悟らない人は学んだ人ではないとすると、学んだ人はすべて善を行う人です。なぜなら、学ぶ人は、すべて学んだことを悟り、悟った人はすべて善を行うからです。ですから、私たちの学問の創始者を尋ねる人は、私たちの善い行いの創始者を尋ねています。だから、悪い教師を追い求めることはしないでほしい。なぜなら、その人が悪い人ならば教師ではなく、教師であれば悪い人ではないからです。

2、悪の起源と問うことは、信仰における問いです

エヴォディウス:では、先にすすんでください。私たちは悪を行うために学ぶのではないことを、あなたは教えてくれましたが、それでは、私たちが悪を行うのはどこから来るのか教えてください。

アウグスティヌス:私がまだ青年だったとき、私を激しく突き上げ、疲れさせたあげく、異端であるマニ教を尋ね、そこで質問した、その問題を、あなたは聞いています。私はその問題に極度に苦しみ、彼らのむなしい説明に圧倒されて、闇の世界に入ってしましました。そのとき、もし真理探究ために、神の助けを激しく乞い求めなかったならば、私はマニ教から離れ、自由な探求を再び行うことはできなかったでしょう。私はその問題を解決しようと全力を尽くしたのですから、私を解決へ導いてくれた順序にしたがって、あなたも一緒に振り返りながら考えましょう。神は、私たちと共にいて、私たちの信じたことを悟ることができるようにしてくださいます。「あなたたちは信じなければ悟ることはできない」(イザヤ7・9)と言われています。ですから、次のように信じることから始めましょう。「私たちは、存在するすべてのものは唯一の神によって存在し、そして神は罪の創造者でないことを信じます」。しかし、罪は神によって造られた魂から生まれ、その魂は神によって存在するのだとすると、どうして罪は、神がその起源でないのか、この問題が心を悩まします。

エヴォディウス:私が思いめぐらしていることで、私を苦しめること、そしてあのような問いへと強制的に追い込んだものが何であるかを、あなたは今、はっきり言ってくれました。

アウグスティヌス:勇気を出し、信じていることを堅く保ちましょう。なぜ、そうなのか、その理由が明らかでないときでも、信じる以上に善いことはありません。たしかに、神について最も善く考えることが敬虔の真の始めであり、信じる人は神について最も善く考えるのです。すなわち、「神は全能であり、神の中に変化するものは一つもなく、神はすべて善いものの創造者ですが、自らはそれらすべてにはるかにまさり、自らつくったすべてのもののもっとも正しい支配者です。また自然本性をつくるに際して、自らと等しい者については、つくったのではなく生んだのです。私たちがその方を神のひとり子と呼び、さらに、神の力、神の知恵とも呼びます(1コリント1・14)。無からつくられたすべてのものは、この方によってつくられた(ヨハネ1・3)」。これらのことを堅く信じるならば、私たちは神の教えを得ることができます。では、あなたの尋ねている事柄を考察していきましょう。

3、悪い行いは欲情の支配するものです 

アウグスティヌス:あなたは、悪い行いはどこから生じたのか、と質問しています。それなら、まず、悪い行いとは何かを詳しく調べないといけません。それについて、あなたが考えていることを言ってみてください。もし全部を一度に、短く要約できないなら、せめて悪い行いと呼ばれるものを一つあげ、あなたの考えを示してください。 

エヴォディウス:姦淫、殺人、聖物窃盗、その他ははぶきます。数えきる暇はありませんし、全部覚えてもいませんから。しかし、これらを悪い行いだと思わない人はいないでしょう。

アウグスティヌス:では、なぜ姦淫は悪い行いなのか、答えてください。法律がそれを禁じているからですか?

エヴォディウス:いや、法律が禁じるから悪いのではなく、悪いから法律が禁じているのです。

アウグスティヌス:すると、だれかが私たちを困らせようとして、姦淫の快を誇張して、しかも「なぜ、それが悪いのか、あなたたちはなぜそれが罰に価すると判断するのか」と言ってきたら、どうでしょうか。姦淫は悪いと信じているだけでなく、その理由を知りたいと望んでいる人々に対しても、あなたは法律を頼みに説明するするでしょうか。私はもちろん、あなたと同じで姦淫は悪いことと強く信じています。しかし今、信仰によって受け入れたことを知性によって認識することで、強い信仰を持ちたいと思っています。そこで、あなたも、できるだけよく考えて、姦淫を悪とみなす理由を私に示してください。

エヴォディウス:私がそれを悪い行いだと思うのは、妻がそういう目にあうことを望まないからです。だれでも、自分の身に起こることを欲しないことを他人にするならば、たしかに悪を行うことになります。

アウグスティヌス:では、ある人に情欲が起こって、自分の妻を他人に渡し、彼女が犯されることを進んで認め、しかしその代わりに自分も他人の妻に同じことをする権利を求めるとしたら、どうでしょうか。あなたは、それを悪い行いと思わないだろうか。

エヴォディウス:とんでもない。もっと悪いことです。

アウグスティヌス:しかし、あなたの答えから考えるならば、彼は罪を犯していないことになります。なぜなら、彼は自分の望まないことをしたのではないからです。だから、姦淫が悪いことを私に納得させるには、別の理由を探さないといけません。

エヴォディウス:私は、多くの人がそういう罪によって罰せられるのをしばしば見ています。だから姦淫は悪だと思います。

アウグスティヌス:それは違います。人は正しい行いによっても、しばしば罰せられているからです。神の権威によって書かれた聖書を調べてみるといいです。罰せられることが悪い行いの証拠であるなら、使徒に対してもすべての殉教者に対しても、いかに誤った見解をもつことがわかるでしょう。彼らはみな、自分の信仰を告白したために罰せられたのです。ですから、罰せられる行いがすべて悪いとしたら、当時はキリストを信じることも、その信仰を告白することも悪だったことになります。しかし、罰せられる行いのすべてが悪でないとすると、姦淫は悪であるという証拠を他に求めないといけません。

エヴォディウス:もう答えがみつかりません。 

アウグスティヌス:姦淫における欲情が悪と言えないでしょうか。外側の行為に悪を求めている限り、答えを見出すことはできないでしょう。そこで、次のように考えれば、欲情が姦淫における悪であることがわかります。すなわち、ある人が他人の妻を犯そうと、今すぐにないとしても、それを望んでいて、実行の機会があれば、すぐにでもしようとしていることが何らかの仕方で明らかになった場合、彼は現行犯で逮捕されたときに劣らず、罪人であるということになります。なぜなら聖書に「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とあるからです。

エヴォディウス:これ以上のわかりやすい説明はありません。実に、あらゆる悪い行いを支配しているのは、欲情以外の何ものでもありません。 

4、欲情を伴わない悪い行いもあります。

アウグスティヌス:欲情は、別名で、欲望と呼ばれることを知っていますか?

エヴォディウス:知っています。

アウグスティヌス:では、欲望と恐怖とはまったく同じものか、それとも違っているものか、どちらだと思いますか。

エヴォディウス:大きな違いがあると思います。 

アウグスティヌス:あなたがそう思うのは、欲望はあるものを求め、恐怖はそれを避けるから、という理由でしょうか?

エヴォディウス:そのとおりです。

アウグスティヌス:すると、人が欲望をもってあるものを追求したためでなく、むしろ災いを恐れたので人を殺したとすれば、どうでしょう。彼は殺人犯ではないと言えるでしょうか?

エヴォディウス:もちろん殺人犯です。しかしその場合でも、彼の行為に欲望がなかったわけではありません。なぜなら、恐怖から人を殺したとすると、その人は確かに、恐怖なしに生きることを望んでいたからです。

アウグスティヌス:恐怖なしに生きることを、あなたは小さい善と思いますか?

エヴォディウス:いいえ、大きな善です。しかし、その殺人犯は、その犯行ゆえにその善を手に入れることは決してできません。

アウグスティヌス:私は、彼がなにを手に入れるかを聞いているのではなく、 何を求めているかを聞いています。恐怖のなく生活することを求める人が善を求めていることは確かです。ですから、こうした種類の欲望は、罰せられるべき性質のものではありません。それが罰せられるとしたら、善を愛するすべての人を罰することになります。そこで私たちは、殺人であってもそこに悪い欲望の見出されないものもあると言わざるをえません。さらにまた、すべての罪はその中に欲情が支配するために悪であるというのも誤りでしょう。言い換えると、罪とされない殺人もあります。 

エヴォディウス:人を殺せば殺人になるとしても、ときには罪にならないこともあります。たとえば、兵士が敵兵を殺し、裁判官と刑執行人が犯人を死刑にし、あるいは矢が偶然に手から離れることもあります。彼がこうして人を殺しても、罪を犯すとは私には思えません。

アウグスティヌス:その通りです。そのような人は普通、殺人犯とは言われません。それでは、奴隷がひどい虐待を恐れて主人を殺した場合、その奴隷は、殺人犯の名で呼ぶのが適切かどうか、これについて、答えてほしい。

エヴォディウス:兵士や裁判官の場合と奴隷の場合とは大きな違いがあると思います。なぜなら、前者は法律にもとづいて行動し、あるいはそれに反して行動しなかったのですが、後者のしたことはどんな法律も認めていないからです。 

アウグスティヌス:あなたは、また権威に頼っています。信じたことを悟るという私たちの今の課題を、あなたは思い出さないといけません。私たちは、法律がこうした行為を罰するとき、誤って罰することはないかを、理解できるように試みないといけません。

エヴォディウス:自ら進んで、しかも法律を知りつつ主人を殺した者を罰する場合、法律は決して不正に罰するのではありません。彼は先ほどあげた、あの人殺しではない者に属しませんから。

アウグスティヌス:あなたは、すべての悪い行いには欲情が支配し、欲情のため、その行いは悪いのだと今言ったことを、忘れましたか?

エヴォディウス:いいえ、よく覚えています。

アウグスティヌス:あなたはまた、恐怖なしに生きることを求めている人は悪い欲望をもつのではないことにも同意したではありませんか。

エヴォディウス:それも覚えています。

アウグスティヌス:その奴隷が、恐怖のない生への欲望から主人を殺したならば、それは責めるべき欲望によるのではありません。ですから、私たちは、その行為が悪である理由をまだ確認できません。というのも、すべての悪い行いは、欲情すなわち非難できる欲望からなされたのでない限り悪ではないという点で、私たちの考えは一致しているからです。

エヴォディウス:その場合、その奴隷にたいして罰が行われるなら正しくありません。もちろん、他に答えがあれば、あえてこの答にこだわりませんが。

アウグスティヌス:恐怖を避けるためになされたことは無罪でなければならないと、あなたは確信するかもしれませんが、その前に、奴隷は自分の欲情を満たすために、主人の恐怖を除こうと欲したのではないかと考えてみるべきです。というのも、恐怖なしに生きることは、善人だけでなく、すべての悪人も求めているからです。もちろん次の違いはあります。善人は、所有されないこの世のものから自分の愛を引き離すことによって、失うという恐れなしに生活していますが、悪人はこの世のものを愛し、安心して憩うことができるように、失うものがないようにすべての障害を除こうと企てます。その結果、悪人は罪と汚れに満ちた生活を送るのです。しかし、これはむしろ死と呼んだ方がよいものです。

エヴォディウス:目が覚めたようです。欲情と呼ばれる非難すべき欲望が何であるかがよくわかって、大変うれしく思います。その欲望は明らかに、人が意図せずに失うことのありえるものへの愛なのです。 

5、法律はすべて正しいか。人間の法と神の法について

アウグスティヌス:次の問題を考えてみましょう。人は襲ってくる敵兵や、短刃を隠し待ち伏せする者を、欲情によらないで、ただ生命や純潔を守るために殺すことができるでしょうか。

エヴォディウス:この世のもののために剣をぬくとしたならば、そこに欲情は働いていると思います。また、それが失うことができないものならば、それを守るために人を殺す必要はありません。

アウグスティヌス:すると、旅人が身の安全を守るために追いはぎを殺すことを認める法律や、あるいは男でも女でも、暴力をもって襲ってくる暴漢者を、危害を受けるまえに殺してもよいと認める法律は正しくないことになります。しかし、他方、兵士が敵兵を殺すのは法律が命じるもので、それに従わず、相手を殺すのを拒んだとすれば、指揮官によって罰せられることになります。正しくないことも定めている法律は、法律としては認められないので、この法律は効力はないと、考えていいでしょうか。

エヴォディウス:しかし、法律は、国民の中で、大きな悪が行われることを防ぐために小さな悪を認めていることで、国民の安全を守る性質を持っています。すなわち、他人の生命をねらう人が殺されるのは、自分の生命を守る人が殺されることよりも安全です。また、人が不意に犯されれることは、犯す人が犯される人によって殺されることよりも、ずっと恐ろしいことです。兵士が敵兵を殺すとき、彼は確かに法律に仕える者であり、なんの欲情によらないで、義務を行ったことになります。また、法律は国民を守るためにつくられた以上、欲情をもとに裁くことはできません。法律の制定者が神の命令に従い、永遠の正義が指示するところに従って制定した場合、明らかに彼は、一切の欲情なしに制定できたのです。しかし、彼がある欲情とともに法律を定めたとしても、その法律を守るべきでないという結論にはなりません。なぜなら、善い法律が善くない人によってもたらされることもあるからです。たとえば、非合法な手段で王になった人が、だれかの依頼で賄賂を受け取り、女を誘惑することは、たとえ自分の妻にするためであっても絶対に認められないという法律を定めたとします。この場合、その法律は不正で腐敗した人が制定したのだから悪い法律であると、いうことにはなりません。それゆえ、人民の安全のために、敵の暴力に対して同じ暴力をもって排除しなさいと命じる法律には、人は欲情なしに従うことができまます。そのことは、法律的かつ階級的に上位の支配者に仕えるすべての役人についても言われます。ところで、法律についてはこのように弁護されるとしても、それを守る人間についてはどうしたら弁護されるか、私にはわかりません。なぜなら、法律は人に殺人を強制するのではなく、ただ権限を与えているだけですから。したがって、意図しないで失うかもしれないもの、それゆえ愛すべきではないもののために人を殺す自由は彼らにはありません。ところで、人間の生命にかんしては、肉体が殺されても、魂は少しも奪われないかどうかを尋ねる人がいます。しかし奪われるのであれば、魂は無価値ですし、奪われないのであれば、恐れる理由はありません。純潔については、それが魂の徳で、魂自身の中に座をもつこと、したがって、それ自体は凌辱する人の暴行によっても奪われないことを、疑う人はいないでしょう。すると、私たちによって殺された人がわたしたちから奪おうとしたものは、もともとわれわれが勝手に自由にできるものでは全くなかったのです。私は、それが私たちの自由にできるものだと呼んでいい理由が見つかりません。こういうわけで、彼らを殺すことを認める法律が非難されないのは確かだとしても、実際に殺す人をどうしたら弁護できるか私にはわかりません。

アウグスティヌス:あなたは、どうして、どの法律でも有罪としない人を弁護しようとするのでしょうか?

エヴォディウス:彼らを有罪としないのは、成文となって人々に読まれる法律だけです。しかし、この世界に神の摂理の支配しないものはないとすると、いっそう権威があり、真に隠れている法によって、この世の法律も保たれているのではないかと、疑問があります。なぜなら、卑しいことのために人を殺して身を汚した人が、この世の法律では裁くことがきないことがあるにしても、神の法の前で無罪放免されることはないからです。ですから、国民を治めるために書かれた法律がこうした行為を認めつつも、他方では神の摂理がこれを罰することは正しいと思います。犯罪を罰することは国家の法律が引き受けることで、この法律は、国家が人間によって統治されうる限り、犯罪を罰することで、罪を犯さない人々に平和を得させるために十分なものです。しかし、国家の法律では罰することのできない罪にふさわしい罰は他にあり、そしてその罰からの解放は、知恵のみができることと思います。

アウグスティヌス:あなたの答えた区別は立派です。私も、同意します。その答は、まだ不十分で不完全とはいえ、すぐれています。あなたの考えによれば、国家を治めるために制定された成分法は多くの悪を認め、それを無罪としていますが、しかしそれは神の摂理によって罰せられるべきものです。とはいえ、その法律が正しい。というのも、法律がすべての罪を罰しないからといって、このことで法律を非難すべきではないからです。

6、時間的な法と永遠の法という二つの法について

アウグスティヌス:ところで、次の問題を考えてみましょう。国民を守る法律によって、悪い行いはどの程度で罰せられるのか。次に、神の摂理のもとで、隠れた形においてですが、逃げることのできない仕方で罰せられる罪は、どのようなものでしょうか。

エヴォディウス:ぜひ、考えてみましょう。しかし、その問題は終わりそうにありません。永久に続きそうです。

アウグスティヌス:勇気をだし、敬虔を杖とし、認識の道を歩まないといけません。神が助けるなら、どんなに険しく難しい道も、必ず平坦で楽になります。だから、神に信頼して、その助けを求めつつ、私たちが今出した問題を考えましょう。まず、次の問いに答えてください。成文法となって交付された法律は、この世に生きる人々から悪を除くことができるでしょうか。

エヴォディウス:明らかに、除くことができます。国民も国家も、法律のもとで生きる人々によって構成されているからです。

アウグスティヌス:それでは、どのような人でも、亡びることなく、永遠に同じ政府に属しているでしょうか。それとも、逆に、その政府は可変的で、時間の流れに服しているのでしょうか。 

エヴォディウス:政府は、まったく可変的で、時間の流れに服しています

アウグスティヌス:では、国民がとても慎み深く、共通の利益に忠実であり、国民のだれもが公事を私事に優先させているとします。その場合、公事すなわち国政を司る役人の選挙をその国民自身に委ねる法律は、正しい法律ではないだろうか。

エヴォディウス:たしかに正しい法律です。

アウグスティヌス:しかし、その国民が次第に堕落して、私事を公事に優先させたり、選挙権を売買したりして、その結果、野心家に混乱させられ、政治を悪党や犯罪人に渡してしまったとします。しかし、そのとき、大変有能な有徳な人が立ちあがり、名誉ある役職の任免権を国民から取り上げて、これを少数の、あるいはただ一人の有徳の士の判断にゆだねるとしたら、この場合も同じように、法律は正しいのしょうか。

エヴォディウス:それも正しい法律です。

アウグスティヌス:しかし、この二つの法律は矛盾すると思います。前者は名誉ある役職の任命権を国民に与えますが、後者はこれを取り上げています。一つの国家に二つの法律が同時にあることは、まったく認められないとすると、一方は不正で、施行されるべきではなかったと言わざるをえません。

エヴォディウス:たしかに、そうです。

アウグスティヌス:そこで、たとえ正しくても、ときどきの状況に応じて正当に変更される法律を、時間的な法と呼ぶことにします。

エヴォディウス:ええ、そのように呼びましょう。

アウグスティヌス:さて、わたしたちは「最高の理性」と名づけられる法に、常に従わないといけません。この法律によって悪人には悲惨な生が、善人には幸せな生が報いられます。さらに、私たちが時間的な法と呼ぶ法律は、この法によって正しく制定され、かつ正しく変更されます。ですから、この法は、だれでもそれを知る人には不変なもの、永遠なものと見なされるのではないだろうか。それとも、悪人が悲惨に、善人が幸福になるということ、あるいは、慎み深い国民は自らの手で役人を選ぶが、だらくした国民は、その権限をもたないということが、不正となるだろうか。

アウグスティスス:その法律は永遠なものに従って正しいとされるのです。それとも、あなたに別の考えがありますか。

エヴォディウス:あなたの考えに同意します。

アウグスティヌス:すると、私たちの中に刻印されている永遠の法の概念を、簡潔に表現すれば、「万物をもっともよく秩序づける正義」となります。あなたに別の見解があるならいって欲しい。

エヴォディウス:あなたの言われた通りで、反対しません。

アウグスティヌス:そこで、これが唯一の法であり、人間を治めるあの時間的な法はすべてこれに基いて変更されるのであって、この法自体は決して変更されることがありません。

エヴォディウス:そうです。決して変更されることはありません。実際、どんな力も偶然も政府が変わったとしても、万物をもっともよく秩序づける正義をだめにすることはできません。

7、内なる理性が人間に生の自覚を与え、生を導く

アウグスティヌス:次に、人間のなかで、人間をもっとも秩序づけるものは何であるかを考えましょう。先に述べた通り、多くの人が一つの法律によって結ばれるとき、そこに国民が成立しますが、この法律は時間的な法です。—–ところで、私に答えてほしいが、あなたが生きていることは、あなたにとって確実ですか? 

エヴォディウス:それ以上に確実なものはありません。

アウグスティヌス:すると、あなたは、自分が生きていること、自分が生きていると知っていることとを区別できるのですね。

エヴォディウス:自分が生きていると知っている者は、ただ生きているだけです、ということはよくわかっています。しかし、生きている者がみな自分が生きていることを知っているかどうかは、わかりません。

アウグスティヌス:あなたは動物が理性をもたないことを信じるだけでなく、理解してほしい。そうすれば、私たちは今の問題を速やかに論じ終えることができます。ところが、あなたはわからないと言うので、長い議論になります。しかし、今の問題は、必要と思われるだけの論証をかさねてわかるようになるまで、長くなろうと省くことは許されないものです。では、次の問いに答えてください。私たちは、動物が人間に飼われて、その肉体も魂も人間の命令に従い、本能的・習慣的に人間の意志に仕えるのをいつも見ています。しかし、ある野獣はそれと逆に、狂暴さや巨大な体や、あるいは特にするどい感覚によって、人間を支配しようと企てることが、何らかの仕方で起こると考えられるでしょうか。もちろん、その野獣は巨大な体をもって、白昼あるいは闇夜に多くの人を殺すことができます。

エヴォディウス:そんなことは決して起こらないと思います。

アウグスティヌス:その通りです。しかし、もう一度答えてください。多くの動物が腕力やその他の肉体の力で人間を簡単に倒すことができることは明らかです。しかし、動物は人間に命令することはできないのに、人間は多くの動物に命令することができるという場合、人間を動物にまさるとするのは一体なんでしょうか。それはおそらく、理性ないし知性と呼んでいるものではないでしょうか。

エヴォディウス:それ以外には見当たりません。その理由はこうです。私たちを動物にまさるとするものは、魂の中にあります。もし動物が魂のないものだとすると、私たちは魂をもつことで動物にまさるといえます。しかし動物は魂をもちます。それゆえ、あるものが、動物に魂に欠けているために私たちによって支配されているのですが、そのあるものは私たちの魂の中にあり、私たちはそれによって動物にまさるのです。このあるものが価値のないもの、価値の低いものでないことは、だれにも明らかです。私はそれを理性と呼ぶほか正しく呼ぶことはできません。

アウグスティヌス:見て下さい。人間にはまったく困難と思われたことが、神の助けによって容易に示されました。私は、あなたと討論を始めてから、論じてきた問題と同じく、この問題もまた長い討論が必要と思っていましたが、それが今解決しました。それでは、理性が次の討論に導いてくれるように、よく気をつけましょう。私たちが「知る」というのは「理性によってとらえる」ことにほかなりません。あなたはこれを知りました。

エヴォディウス:そのとおりです。

アウグスティヌス:したがって、自分が生きていると知る者は、理性を欠いていないのです。

エヴォディウス:確かにそうです。

アウグスティヌス:動物は生きていますが、理性を用いていません。

エヴォディウス:たしかにそうです。

アウグスティヌス:みてください。あなたは先ほど知らないと答えたことを、今知ることができました。すなわち、自分が生きていると知る者は、だれでも必ず生きているが、生きている者がすべて、生きているのを知っているのではない、ということはそういうことです。

エヴォディウス:それについての疑問はもうありません。めざす目標に向かって進んでください。生きていることと、自分が生きていると知ることとは同じではないことが、よく分かりましたから。

アウグスティヌス:では、その二つの中、どちらがすぐれていると思いますか?

エヴォディウス:もちろん、生きていることを知ることです。

アウグスティヌス:生きていることの知識は、生きている事実よりもすぐれていると思うのですね。しかしその知識は、すぐれた純なる生命であって、これを用いることができる人は、理性でもって知解する人だけだということを、あなたは知っていると思います。ところで、「知解する」とは、精神の光そのものに照らされて、より大きな光と完全さの中に生きることに他なりません。それゆえ、あなたは生命以外のものを生命以上のものとしたのではなく、たんなる生命よりもいっそう善い生命を、すぐれたものとしたのです。

エヴォディウス:あなたは、私の考えていたことをよく理解し、解明してくれました。ただし、それは、知識は悪いものでありえないという前提に立っています。

アウグスティヌス:もし私たちが「知識」を「経験」という名の代わりに用いるとしたなら、意味を変えなければその前提は成り立ちません。なぜなら、苦痛を経験することもあるのだから、経験がいつも善いものとは言えないのです。しかし、知識は、理性や知性によって得られたために、悪いものではありえないでしょう。

エヴォディウス:その区別も記憶にとどめましょう。次の問題にすすんでください。

8、前章の続き

アウグスティヌス:人間が動物にまさるもとになるのは理性ですが、これは霊とも呼ばれます。あるいは、その両方の名で呼ばれます。名称はなんであれ、それが人間の他のすべての部分を支配し命令するとき、人間はもっともよく秩序づけらます。さて、われわれが、動物のみならず木や草とも多くの共通の性質をもつことは、よく知られています。すなわち、身体の栄養を摂り、大きくなり、子を生み、力をます能力は、植物にも備わっています。しかし、これらは、生命の最下の段階に属しています。さらに、動物は物体を視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって知覚し、しかも多くの動物は私たちよりずっと鋭敏に知覚できます。加えて、動物は体の力と強さと頑丈さを持ち、その運動はすばやい。私たちはこうしたすべての点で、ある動物にまさり、ある動物と等しいが、大抵の動物に劣っています。しかし、私たちは、動物と共通する性質をもっています。すなわち、人間と動物の生存行為は、身体の快を求め、苦痛を避けるという点では同じです。冗談や笑いは動物には見られません。しかし、これらは人間にはあっても、もっともすぐれた性質ではありません。人間の本性を真に正しく観察する人は、これらが人間的なものですが、人間のもっとも低い性質に属することを知っています。さらに、賞賛、名誉への愛や支配欲があります。これは確かに動物にはありませんが、こうした欲情があるからといって、私たちは動物にまさると考えてはいけません。なぜなら、こうした欲情は理性に服従しない欲求であって、むしろ私たちを悲惨な者とするからです。自分の悲惨のために自分は他人にまさると考える者は一人もいません。しかし、すぐれたものが劣るものに支配されるとき、その秩序は正しいものではありません。あなたはどう思いますか。

エヴォディウス:明らかにそうです。

アウグスティヌス:したがって、今のべた理性、あるいは精神、あるいは霊が、魂の非理性的な動きを支配し、人間を治めるとき、その統治は永遠的と認められた法によって課せられたものです。

エヴォディウス:わかりました。あなたの意見にしたがいます。

9、理性が支配していなければ人は知者でありえない。

アウグスティヌス:人が理性によって秩序づけられているとき、その人は知者であると思いませんか?

エヴォディウス:その人が知者でないなら、だれを知者と言っていいか、私にはわかりません。 

アウグスティヌス:あなたはたぶん、大抵の人は愚かであることを知っているでしょう。 

エヴォディウス:それは明かです。 

アウグスティヌス:しかし、愚者は知者の反対であるなら、私たちはすでに知者を知っているのだから、愚者とは何かが、あなたにはすぐにわかるでしょう。 

エヴォディウス:愚者とは、精神が最高の権能をもっていない人であることは、だれの目にも明らかです。 

アウグスティヌス:人がその状態にあるのを、私たちはどう言ったらよいだろうか。彼には精神が欠けているのか、それとも、精神はあっても、支配力に欠けているのだろうか。 

エヴォディウス:たぶん後者でしょう。

アウグスティヌス:ぜひ、聞いておきたい。人間に精神が備わっていても、精神が支配していないことを、何によって確かめることができますか。

エヴォディウス:その問題は、むしろあなたが引き受けてください。私にはその問題は難しすぎます。 

アウグスティヌス:少なくとも、このことはすぐに思い出されると思います。それはたった今、言ったことです。すなわち、人間に飼い慣らされた動物は人間に仕えますが、人間は理性が示すように、何らかの点で動物にまさっているのでなけば、逆に動物によって苦しめられるということです。しかし、私たちは、人間のこの優位性を身体に求めたのではありません。それが魂の中にあることは明らかなことで、それを理性と呼ぶ以外にどんな名称が適切であるか、私たちはまだ確認しませんでした。しかし、その後、精神もしくは霊と呼んだことを私たちは覚えています。しかし、もし理性と精神は異なるとしたら、精神が理性を用いることは確かではないだろうか。そこでこう結論されます。理性をもつものが精神を欠くことは決してありえません。 

エヴォディウス:確かに思いだしました。そのことを覚えておきます。

アウグスティヌス:それでは、知者でなければ動物を飼うことができないと考えますか。私が知者と呼ぶ人は、真理がそう呼ぶのを命じている人であって、あらゆる欲情が精神の支配に服して抑えられている人です。 

エヴォディウス:世間が調教師と呼んでいる人や、羊飼いや牛飼いなどを、そのことだけで、知者とみなすのは滑稽です。むろん、彼らは動物を馴らして人間に従わせ、まだ馴らされていない動物がいれば、自分の腕前でも、従わせるのですが。 

アウグスティヌス:そのとおり。そこであなたは、精神が人間に備わっていても、現実にはそれが支配していない場合を示す、確かな証拠をもちました。すなわち、今あげた人々は、実際、精神なしではできないことをしています。しかし、彼らが愚かなことを行うなら、精神は彼らを支配していないと言えます。ですから、精神の支配は知者においてのみあることを認めることができます。 

エヴォディウス:問題は、これですっかり解決しました。それにこたえる言葉も見出されないのは不思議な感じです。

10、精神の徳について

エヴォディウス:しかし、さらに続けましょう。人間の知恵とは人間の精神の支配であること、だが精神が現実に支配していないこともありえること、この二つがこれまでに明らかになりました。

アウグスティヌス:欲情に対する精神の支配は、永遠の法が精神に与えたものであると、私たちは同意しましたが、ところであなたは、欲情のほうが精神よりも強いと思ってないだろうか。しかし、私はそうではないと思います。弱者が強者に命じることは、まったく秩序に反するからです。したがって、精神は欲望を正しく支配するという事実からしても、精神が欲望よりも強いことは必然であると、私は思います。

エヴォディウス:私もそう思います。

アウグスティヌス:では、徳はどんな悪徳にもまさり、徳がより高く、よりすぐれたものとなればなるだけ、いっそう堅固で不滅なものになると、言うべきではないだろうか。

エヴォディウス:それを疑う人はいるでしょうか。

アウグスティヌス:それゆえ、悪徳をもつ魂が、徳をそなえた魂にまさることはありません。

エヴォディウス:本当にそうです。

アウグスティヌス:どんな魂も身体にまさり、かつ強いことを、あなたは決して否定しないでしょう。

エヴォディウス:生命をもつ実体は、それを持たないものにまさり、生命を与えるものは、それを受け取るものよりもまさっていることを知っている人は、決してそのことを否定しません。

アウグスティヌス:それゆえ、どんな身体も、徳を備えた魂よりも劣っています。

エヴォディウス:明らかにそうです。

アウグスティヌス:それでは、正しい魂は、自分と同じ公正と徳とをもって支配している他の精神を、その支配から引き下ろして、これを欲情に従わせることができるだろうか。

エヴォディウス:決してできません。なぜなら、両方とも同じ程度にすぐれた精神であるから、というだけでなく、他にたいしてそんなことを企てるとしたら、かえって自分が正義から離れ、悪徳に染まり、弱いものとなっていくからです。

アウグスティヌス:その通りです。では、次の問いに答えてくれれば十分です。理性的で知恵をもつ精神以上にすぐれたものがあると思いますか?

エヴォディウス:神以外にないと思います。

アウグスティヌス:私も同じ考えです。しかしこの問題は難しいし、今十分な理解を得られるまで、探求するのは適切でありません。ともかく、この結論を信仰において心に固くとどめることとし、深く立ち入った考察はあとにしましょう。

11、精神を欲情に仕えさせるものは自由意志である

アウグスティヌス:私たちが今知ることができたのは、徳を備えた精神にまさる本性をもつものは、決して不正なものではないということです。それゆえ、徳を備えた精神にとって、精神が欲情の奴隷となる可能性があろうと、現実には決して起こりません。 

エヴォディウス:確かに、そうです。

アウグスティヌス:ですから、結論を言いますと、支配者にして徳を備えた精神と同等か、あるいはそれよりすぐれたものが、自分の正義のために精神を欲情の奴隷とすることはありえません。他方、それより劣るものであっても、自分の弱さゆえに、そうしたことをすることもありえません。以上は、私たちが先に一致したことが教えるとおりです。それゆえ、精神を欲情の仲間にさせるものは、自らの意志、あるいは自由な決定以外のものではありません。

エヴォディウス:それ以外の結論はありえないと思います。 

アウグスティヌス:それならあなたは、精神が大きな罪を犯すなら、罰せられるのが正しいと考えるでしょう。 

エヴォディウス:その通りです。

アウグスティヌス:でわ、その罰は軽いものだと考えられるだろうか。精神は欲情に支配され、豊かな徳を奪われ、欠乏と飢えを感じながら迷い、ある時は偽りを真とし、あるときはそれを弁護し、あるときはすでに承認したものを否定し、別の偽りの中に迷い込みます。またある時は自ら判断するのをやめ、しばしば明瞭な論証を恐れ、あるときは真理の発見に絶望し、愚かさの闇に支配されます。あるときは認識の源である光を求めますが、疲れ果ててまた戻ってきます。やがて欲望が暴君のように支配をふるい、あらゆる方向から吹いて来る暴風が人間の魂と生命をすっかり錯乱させます。そのため精神は恐怖から野望へ、不安からむなしい偽りの快楽へと走り、愛するものを失う苦痛から、まだ持たないものを獲ようとする野望へと走り、不正に受け取ったものの苦しみから復讐の焔の中へと飛び込む。そして、どこへ行っても貪りがしめつけ、贅沢が破滅させ、野望が命令し、高慢が大きくなり、嫉妬が苦しめ、怠惰が深い眠りにおとし、強情が興奮させ、隷従が疲れさせます。こうして、他にも無数のものが、その欲情の支配をますます強めます。あなたも知る通り、精神は知恵に固着しないならば、すべてこのような苦痛を必ず受けますが、私たちはどうして、これを罰でないと考えることができようか。 

エヴォディウス:その罰は大きいと思います。そして、一度知恵をもった者が、欲情の奴隷になることを選んだとすれば、その罰はまったく正しいのです。しかし、人は知者であることを欲し、またそう決めたとしても、実際に知者であり続けれるかどうか、私は疑っています。なぜなら、私たちの信仰によれば、人は神によって完全なものとしてつくられ、至福の生の中におかれたのですから、そこから落ちて、辛苦にみちた可死的な生の中に入ったとすれば、それは彼自身の意志によることです。私はこのことを堅く信じていますが、まだ知解するまでに至っていません。しかし、この問題の詳しい探求は後回しにするのがよいと思います。

12、善い精神をもって神に固着する

エヴォディウス:しかし、私をひどく苦しめている問題はこれです。私たちはもともと愚かであって、決して知者でなかったとすれば、なぜこんなにも厳しい罰を受けなければならないのでしょうか。私たちは、徳の砦を壊し、欲情の奴隷となることを選んだ者に対すると同じ罰を受けるのは当然です、とも言われます。もしこの問題を討論し解明することができるなら、それを後回しにすることは同意できません。 

アウグスティヌス:あなたは、私たちがかつて一度も知恵を持ったことがないと、まったく確信して言っています。あなたは、私たちが地上に生まれてからの時しか考えていません。さて、知恵は魂のなかに存在します。この場合、魂が身体と結合する前に、どのようにすごしたかどうか、そして、魂はかつて知恵をもって、生きていたかは大きな問題であり、深い秘密であるから、しかるべきところで考察します(→3巻無知と困難からの解放)。しかし、そのために、私たちの当面の問題をできる限り解明することに妨げになりません。

アウグスティヌス:では、あなたに聞きます。私たちは何らかの意志をもっているでしょうか。 

エヴォディウス:わかりません。 

アウグスティヌス:それを知ろうとはしませんか。 

エヴォディウス:それさえもわかりません。

アウグスティヌス:それなら、なにも聞かないでください。

エヴォディウス:なぜですか。 

アウグスティヌス:自分の問うことを知ろうと望まないなら、私はあなたの質問に答える必要はありません。さらに、あなたが知恵に至ることを望まないなら、このような事柄についてあなたと論ずる必要はありません。さいごに、あなたが私から善きものを得たいと願わないなら、あなたは私の友人ではありえません。幸福な生への意志があなた自身にあるかどうかは、あなた自身がわかるはずです。 

エヴォディウス:私たちが意志をもつことは否定できません。では先に進んでください。そして、あなたがそこから引き出す結論を教えてください。 

アウグスティヌス:そうしましょう。しかし、まず、あなたは自分が善い意志を持つことを知っているかどうか、言ってください。 

エヴォディウス:善い意志とは何ですか。 

アウグスティヌス:私たちが正しくかつ有徳に生き、それによって最高の知恵に至ることを求める意志です。では、善い意志のことを考えてみましょう。あなたは正しく有徳な生を欲しないだろうか。それとも、知者であることを心から欲しないであろうか。それともまた、これらを欲する時、私たちが善い意志をもつとのことを、あなたはあえて否定するだろうか。 

エヴォディウス:どれ一つ否定しません。したがって、私は意志をもつだけでなく、善い意志をすでにもっていることを認めます。 

アウグスティヌス:あなたに聞きます。あなたはこの善い意思をどの程度の価値があるものとして評価していますか。富や名誉や肉の快楽やあるいはそれら全部が、この意志に等しい価値があると思いますか。 

エヴォディウス:そのように思うのは汚らわしい無分別であり、神はそれを退けるでしょう。

アウグスティヌス:すると、私たちが善い意志と呼ばれるものを魂のなかに持つことは、少なくない喜びであり、これに比べれば、今述べた富や名声や肉の快楽などはまったく卑しいものです。多くの人はそれらを獲得するために、どんな苦労も危険も顧みないようだけれども。

エヴォディウス:それは確かに喜ばしいもの、しかも最大に喜ばしいものです。

アウグスティヌス:ではどうでしょう。その喜びを享受しない人が、こんな大きな善を欠いても、なおわずかの損失しかこうむらないと、あなたは思いますか。 

エヴォディウス:いいえ、それは莫大な損失です。 

アウグスティヌス:これほど大きな、これほど真なる善を享受するか、それともそれを欠くかは、私たちの意志の中にあることが、もうわかったと思います。実際、善い意志は最高善の享受において成立します。そしてそこにおいてのみ、意志は真に自由となるのです。人は善い意志をもつとき、たしかに、地上のすべての国と肉体のすべての快楽にはるかにまさるものをもっています。しかしそれを持たない時、すべての善いものにはるかにまさるものを、たしかに欠いています。それらの善はどれも私たちの権能の中になく、ただ意志のみが、自らによって私たちに与えるものです。そこで人は、名誉や評判や莫大な富や、その他の一切の地上の善きものを失う時、自分はまったく悲惨だと考えます。しかし、それらがみな十分であるとしても、たちまち失われるものや、欲しても得られないものに固執して、それとは到底比べられない善い意志を欠くとしたら、その人はもっともみじめだとあなたは思うでしょう。善き意志はきわめて大きな善ですが、それをもつにはただ欲するということだけで十分です。 

エヴォディウス:まったくその通りです。

アウグスティヌス:それゆえ、愚者はかつて知者であったことはないにしても、このような悲惨に苦しむことは当然の酬いです。 

エヴォディウス:そのことに同意します。

13、善い意志のもつ徳について

アウグスティヌス:さて思慮とは、求めるべきものと避けるべきものとについての知識であるといってよいでしょうか。

エヴォディウス:そう言っていいと思います。

アウグスティヌス:では、勇敢とは、どんな不幸にもとらわれず、また私たちが善い意志が求めないものが失われても、それを卑しむことのできる魂の状態と考えていいでしょうか。 

エヴォディウス:私もそう考えます。 

アウグスティヌス:また節制とは、求めることが恥ずかしいものへの欲求を抑える魂の状態である、と言えるでしょうか。

エヴォディウス:はい、私はあなたが言われたと同じように考えます。 

アウグスティヌス:それでは、正義についてはなんと言うべきでしょうか。正義とは、各人に各人のものを与える徳ではないでしょうか。 

エヴォディウス:正義の概念はたしかにそれ以外ではありません。 

アウグスティヌス:私たちは、善い意志がいかにすぐれたものであるかを長い間語ってきました。さて、人がこの善い意志をもつならば、どんな時でもそれ以上に善いものをもつことはなく、この一つのものを愛し、それを喜び、ついに心から享受し、歓喜し、それを見つめて、いかに大いなるものかを知り、意図せずに奪われたり盗まれたりすることのないことを知ります。このような人が、この唯一の善に敵となる一切のものに抵抗することは、疑うことはできないでしょう。 

エヴォディウス:彼は必ずそれに抵抗するでしょう。 

アウグスティヌス:この善いものを追求し、それと敵対すると思えるものを避けるべきことを知っている人が、思慮を欠いていると考えられるだろうか。 

エヴォディウス:思慮なしには、だれもそれを知ることはできないと思います。 

アウグスティヌス:その通りです。彼はまた非常に勇敢な人に違いありません。なぜなら、彼は、善い意志が必要としないものを愛したり尊重したりすることはないからです。そのようなものを愛するのは、悪い意志のなすことです。しかし、彼が悪い意志に抵抗することは、自分の親友である善のために敵に抵抗するのと同じく必然です。彼はそういうものを愛しないから、失われても悲しまず、むしろそれをまったく卑しめます。これが勇敢の働きであることはすでに言われています。 

エヴォディウス:たしかに、彼は勇敢な人でしょう。実際、獲得し、保持することが私たちの権能の内にないもののために心を動かさず、穏やかな心を持ち、それなしにもすませる人以上に、真に勇敢と呼ばれる人はいません。彼が必ずこのような態度をもつことは明らかです。 

アウグスティヌス:ところで節制とは欲情を抑える徳であるならば、彼から節制を除くことができるかどうかを考えてみなさい。およそ欲情ほど、善い意志に敵対するものはありません。したがって、自分の善い意志を愛する人は、あらゆる手段を講じて欲情に抵抗し、それと戦い、その結果、彼は正当に自らを律する人と呼ばれます。あなたはこれを十分に理解できるでしょう。 

エヴォディウス:先に進んでください。私はそれに同意します。

アウグスティヌス:まだ正義が残っています。善い意志をもつ人に正義がないならば、その理由はまったくわかりません。実際、善い意志を持ち、それを愛し、それに敵対するものに抵抗する人は、だれに対しても悪を願うことはできません。したがってまた、だれに対しても不正を働くことはできません。不正を働くとは、各人に各人のものを与えないことです。私がこれが正義の本質に属すると言いましたが、あなたがそれを同意したことは覚えているでしょう。 

エヴォディウス:たしかに覚えています。そして私は次のことを認めます。すなわち、人が善い意志を尊び。それを愛するとき、あなたが今言われ、私が同意した四つの基徳がことごとく彼の中に見出されます。

アウグスティヌス:このような人の生が、賞賛に値すると認めることを拒む理由があるだろうか。 

エヴォディウス:全然ありません。むしろすべての論証が賞賛することをすすめ、強制すらします。 

アウグスティヌス:では、どうでしょうか。悲惨な生を避けるべきであるという判断を、あなたは多少ともためらいますか。 

エヴォディウス:いいえ、絶対に避けるべきであると判断します。 

アウグスティヌス:賞賛に価する生は避けるべきでないと、あなたはもちろん考えるでしょう。

エヴォディウス:もちろん、それは激しく求めるべきものです。 

アウグスティヌス:それゆえ、賞賛に価する生は悲惨ではありません。

エヴォディウス:そのように結論されます 。

アウグスティヌス:悲惨ではない生が幸福な生であると認めることについて、あなたに困難な問題は残っていないと思います。

エヴォディウス:残っていません。

アウグスティヌス:それゆえ、自分の善い精神を愛し、かつそれと比べて善いといわれる他の一切のもの—-たとえ持ち続ける意志があっても偶然に失われることのあり得るもの—-を卑しむ人は幸福です。あなたはこれに同意するでしょう。 

エヴォディウス:その結論はすでに承認したことから必然的に導かれたものです。どうして同意しないことがあるでしょう。 

アウグスティヌス:あなたの理解は正しい。しかし、これに答えてください。自分の善い意志を愛し、かつ、すでに言ったように、それに大きな価値をおくことは、それ自体善い意志ではないでしょうか。 

エヴォディウス:おっしゃるとおりです。 

アウグスティヌス:彼を幸福と判断するのが正しいならば、これと反対の意志を持つ人を悲惨と判断しても正しいです。 

エヴォディウス:まったく正しい判断です。 

アウグスティヌス:それゆえ、私たちが以前、知者でなかったとしても、賞賛に値する幸福な生を受けて一生をすごすかどうかも意志によってであることを、疑う理由がありますか。

エヴォディウス:私は今、確実で否定できない結論に達したと認めます。 

アウグスティヌス:もう一つ考えてほしい。善い意志についての私たちの定義を覚えていると思います。すなわち、正しくかつ有徳に生きることを求める意志であると言ったと思います。 

エヴォディウス:覚えています。 

アウグスティヌス:それゆえ、私たちがこの善い意志を同じく善い意志で愛し、また、欲しても保持することのできない一切よりも大切にするならば、その結果、私たちの魂の中に諸徳が住むようになります。この諸徳をもつことは、正しくかつ有徳に生きることに他なりません。したがって、こう結論されます。正しく、かつ有徳に生きることを欲する人は、過ぎ行く一切の善にまさって自ら欲する善い意志を求めるとき、かくも大きなものを、かくも容易に手に入れるでしょう。なぜなら、欲したものをもつためには、欲するということの他何もいらないからです。

エヴォディウス:それほど大きな、それほど容易にもつことのできる善が突如私の前に現れたので、私は喜びの叫びをあげるところでした。 

アウグスティヌス:その喜びは、この善の所有から生まれるものであり、これが静かに穏やかに、たえず精神を力づけるとき、そこに至福の生と呼ばれるものがあります。あなたは、幸福に生きるとは、真にして確実で善なるものを喜ぶことに他なりません、と考えると思います。

エヴォディウス:そのように考えます。

14、だれもが幸福を求めるが、だれでも幸福になるのではない

アウグスティヌス:いいでしょう。だが、あらゆる手段を講じて、幸福な生に至ろうと願わない人がいると考えられるでしょうか。 

エヴォディウス:間違いなく、すべての人は幸福を欲しています。 

アウグスティヌス:しかし、だれもが幸福を手に入れることができないのはなぜでしょう。私たちは、人間が意志によって幸福な生を報われ、また意志によって悲惨な生を報われ、こうして生の報いを受けるということを今述べて、互いに同意しました。しかし、ここに、私にはわからない矛盾が生じます。それを詳しく論じなければ、これまでやってきた論証も混乱してしまうでしょう。というのは、だれ一人として悲惨な生を欲していないのに、ある人は意志によってそれをこうむるのはなぜでしょうか。また、実に多くの人が悲惨であって、それゆえ、だれも幸福になろうと欲しているのに、ある人だけ意志によって幸福な生に至るのはなぜでしょうか。このことが起こるのは、善を欲したり悪を欲したりすること自体は、善い意志や悪い意志によってそれぞれの生が報いられることと別だからなのか。というのは、幸福な人は同時に正しい人でなければならないが、彼が幸福であるのは、幸福に生きるのを欲したからでなく—-悪人さえそれを欲する—-、むしろ正しく生きることを欲したからであって、これは悪人が欲しないことです。それゆえ、悲惨な人が、その欲する幸福な生を手にいれないことは、何ら怪しいことではありません。なぜなら、幸福な生は正しく生きることに伴いますが、悪人はそれを欲せず、そして欲しないならだれも幸福な生に価しないし、手に入れることもないからです。私たちは今、永遠の法の考察へと戻らないといけません。永遠の法は、幸福と悲惨を受けるに値する資格が意志の中にあり、前者は報酬、後者は罰であることを、不変不動のことであることを定めたのです。したがって、人は意志によって悲惨になると私たちが言うのは、彼が悲惨を欲したからではなく、むしろその意志は、意図せずにも悲惨を伴うのが必然である、という意味です。それゆえ、すべての人が幸福を欲してもそれに達し得ないということは、先の論証と矛盾しません。なぜなら、幸福な生は正しく生きることを欲する意志だけに与えられますが、だれもが正しく生きることを欲していないからです。何か反論がありますか。 

エヴォディウス:なにもありません。

15、二つの法と意志の働き

エヴォディウス:しかし以上のことは、二つの法について出された問題とどう関係するのか、考えてみなければなりません。 

アウグスティヌス:そうしましょう、まず答えてください。正しく生きることを愛し楽しみ、その結果、その生が正しいだけでなく甘美であり喜びでもあることを発見する人は、永遠の法を真に親しいものとして愛し所有するのではないだろうか。なぜなら、彼は善い意志には幸福な生が、悪い意志には悲惨な生が報いられるのは、この法によってであることを知っているからです。 

エヴォディウス:むろん、彼はそれを強く愛します。彼はそれに従って正しく生きているのですから。 

アウグスティヌス:ではどうか。彼はそれを愛するとき、可変的・時間的なものを愛するのか、それとも不動で永遠なものを愛するのか。 

エヴォディウス:もちろん、永遠かつ不変的なものを愛します。 

アウグスティヌス:悪い意志に固執しながら、幸福を求める人はどうでしょうか。彼は自分に悲惨を報いるその法を愛することができるだろうか。

エヴォディウス:決して愛さないでしょう。 

アウグスティヌス:ほかに何も愛さないですか。

エヴォディウス:いいえ、実に多くのものを愛します。それは、悪い意志が手にして離さないで、それに固執しようとするものです。 

アウグスティヌス:あなたが言うのは、富や名誉や快楽や肉体の美や、その他欲しても手に入れることのできないすべてのもの、あるいは意図せずに失うことのあるすべてのもののことでしょう。 

エヴォディウス:たしかにそれらのものです。 

アウグスティヌス:その通りです。あなたは、それらのものが時間の渦に巻き込まれていることを知っているので、それらを永遠のものとは考えないでしょう。 

エヴォディウス:どんなに気が変でも、そのように考えません。 

アウグスティヌス:そこで、永遠のものと時間的なものを愛するを愛する二種の人がいることは明らかであり、また永遠の法と時間的な法との二種の法があることも認められます。もしあなたに公平の感覚があるならば、彼らのうちどちらが永遠の法に従い、どちらが時間的な法に従う人であるかを区別してみなさい。 

エヴォディウス:それにはすぐ答えられます。永遠のものを愛する故に幸福な人は永遠の法の下で生き、他方、時間的な法は悲惨な人に課せられます。 

アウグスティヌス:時間的な法に仕える奴隷は、永遠の法の下にいる自由人ではありえないと、理性はすでに明らかにしましたが、この判断は正しい。しかし、正しい法律、あるいは正しく変えられる法律はすべて永遠の法を表現しています、と私たちは言いました。それゆえ、善い意志をもって永遠の法にしっかりと結ばれているなら、人は時間的な法を必要とはしません。これは確かにあなたがよく理解していることです。 

エヴォディウス:いまの話しを心にとどめておきます。

アウグスティヌス:ですから、永遠の法は、私たちが時間的なものへの愛から離れ、永遠なものへと向かうことを命じるのです。

エヴォディウス:確かにそのことを命じます。

アウグスティヌス:次に、時間的な法は、人が一時的に自分のものと言えるものに愛情をもって固執するとき、それが人間社会の平和に仕える限りでそれの所有を認める権限はないのでしょうか。それは次のものを指しています。第一に、身体および身体のもつ善と呼ばれるもので、良好な健康状態、鋭敏な五官、四肢の力、美、その他よく生きるために必要なものです。その多くは必要で価値はありますが、中には、つまらないものもあります。第二に自由です。真の自由は永遠の法に固着する人のもつ自由でありますが、私がここに挙げるのは、人を主人とすることのない者が自分を自由人だと思うときの自由、あるいは支配する人々からの解放を願っている者の欲する自由です。第三に、両親・兄弟・妻・子・親戚・隣人・下僕、その他何らかの必然のきずなで結ばれた人々です。第四に、親のいた場所という意味での祖国です。名誉・境遇その他国民の誉れと呼ばれるものも、これに加えられます。最後に、金銭ですが、私たちの正当な所有物としての売却・譲渡の現れをもつとみなされるものもみな、その中に含まれます。時間的な法がこれらすべてを、どのようにして各人に各人のものとして分配するか、を説明するのは困難であるし、長くもなります。しかも、私たちが提出した問題にとって必要でないことは明らかです。というのも、その法は人を罰するにあたって、これらの全部か一部を剥奪し没収する権限しかもっていないことがわかれば、それで十分だからです。法律はそれの執行によって、悲惨な人々—-彼らの統治のためにこれが制定された—-の魂を恐れさせて矯正し、法律のねらう目的へと向かわせ、連れ戻すのです。実際、彼らはこれらのものが失われることを恐れ、これらのものを用いる時は、かかる人々から構成された国家のきずなにかなう制約を守るのです。彼らの罪が罰せられるのは、彼らがこれらのものを愛したからでなく、むしろ他人から不法に奪い取るからです。こうして、あなたに際限ないと思われた問題も、ついに解決されたではないでしょうか。私たちは、地上の国民と国家を統治する法律が、どの程度処罰の現れをもつかを問うことを決めたのです。 

エヴォディウス:もう解決できました。 

アウグスティヌス:それゆえ、人が意図せずに取り去られるようなものを愛することがなければ、不正なやり方か不当な判決によって罰せられることはありません。このことも理解できるでしょう。 

エヴォディウス:それも理解します。

アウグスティヌス:そういうものを用いる場合、ある人は悪く用い、ある人は善く用います。悪く用いる人は、それらを愛し執着し、それらの中に巻き込まれ、元々彼に従うべきはずのものに、かえって自分が従わされる。彼はそれら善きものを秩序づけ、よく扱うことによって彼自身よきものとなり、またそうならなばならないのに、かえってそれらを自分の主人にします。しかし、それらを正しく用いる人は、それらを善きものと示すときでも、自分の主人であるとは考えません。なぜなら、それらが彼を善くし、一層善くするのではなく、逆にそれらが彼によって善きものとなるからです。それゆえ、彼は愛によってそれらに固着し、それらを魂の一部と見なすことはありません。もし見なすならば、彼はそれらを愛するあまり、それらが奪われるときが来ると、喪失の苦痛によって辱められることを恐れるからです。しかし、彼はまったくそれらの上にたつ主人であり、必要ならばそれらを所有し支配する心構えを持ち、またそれらを失っても無しですませる心構えを一層強く持っています。そうだとすると、貪欲な者のゆえに金銀が、大食のゆえに食物が、酔っ払いのゆえにぶどう酒が、放蕩者や色事師のために婦人の美が、同様に他のさまざまのものが責められるべきだと、あなたは思わないだろう。医療が火を善く用い、毒殺者がパンを悪く用いることは、あなたがよく知っていることです。 

エヴォディウス:非難されるべきものはそれら自体にはなく、それを悪く用いる人であることは、まったく本当です。

16、結論-悪をなすのは意志の自由な決定による

アウグスティヌス:ところで、私たちは永遠の法がもつ力について考察を始め、そして時間的な法の及ぶ罰の範囲を明らかにしたいと思います。さらに、永遠的なものとの二種が区別され、かつ一方では永遠的なものを、他方では時間的なものを追求し愛する二種の人がいることがはっきりと区別されました。そして人が何を選ぶかは、各人の意志の中にあることが確認されました。すなわち、精神は自らの意志によらなければ、支配の砦からも正しい秩序からも引き降ろされることはありません。さらに、人がものを悪く用いるとき、非難されるのはそのものではなくて、それを悪く用いる人であることが明らかにされました。そこで、よければ、私たちは対話の最初に出された問題にもう一度戻って、それが解決されたかどうかを考えてみましょう。私たちは、悪を行うとはどういうことかを論じることを決めましたが、その問題をめぐって、これまで議論をしてきました。そこで今、次のことに注意し、考察しないといけません。精神は自らによって永遠のものを喜び、自らによってそれを享受し、それを愛して、失うことはありません。しかし悪をなすとは、このような永遠のものを捨てて、人間のもっとも卑しい部分である肉体が知覚し、しかも決して確実でない時間的なものを、あたかも偉大で驚嘆すべきものであるかのように思って追い回すことにほかなりません。悪い行いはすべて罪ですが、それらはこのただ一つの在り方の中に含まれています。しかし、あなたの考えはどうか、それを教えてください。 

エヴォディウス:あなたの言われているとおりです。悪をなす人は、神的で真に永続するものから離れて、可変的で不確実なものに向かうのですが、すべての罪はこの一つの在り方のなかに含まれていることに、私は同意します。この可変的で不確実なものも、自らの秩序の中に正しく位置づけられ、自らの美を実現しています。しかし、魂がそのあとを追い、それに服従することは、転倒して秩序を失った魂のなすことです。なぜなら、魂はむしろ、神的秩序と権限とによってその上に立ち、自ら命じるままにそれを支配すべきだからです。私たちはまた、悪をなすとはいかなることかの問いに続いて、どこから悪をなすかを問うことに決めましたが、これも同時に解決され明かになったと思います。私に間違いがなければ、これまでの論証が示す通り、私たちは意志の自由な決定によって悪をなすのです。しかし、私たちが自由な決定によって罪を犯す能力をもつことは疑われないとしても、それが創造者から与えられる必要があったかどうかの問題を、私は尋ねたいのです。なぜなら、私たちはそれをもたないなら罪を犯すには至らなかったと思われるからです。また、それは与えられなばならなかったと考えるとき、神は私たちの悪い行いの創造者であるという恐ろしいことを考えるからだろうからです。 

アウグスティヌス:それもしっかり論証します。しかし、これらについてのさらに詳しい探求は、他の機会にします。今この対話を区切って終わりにしたいと思います。ただ、この重大な秘密の事柄を探求するために、いわば戸が叩かれたのだと信じてほしい。私たちは、神に導かれてこの問題を論じるとき、これまでの議論とこれからの議論とではどんなに大きな隔たりがあるか、また、これからの議論は、探求も鋭さにおいてだけではなく、内容の大きさと真理の輝きにおいても、これまでの議論にいかにまさるかを、あなたは十分に知るでしょう。私たちは、ただ敬虔を保つならば、この企てた道を歩み続け、終わりに至ることが神の摂理によって許されるでしょう。 

エヴォディウス:あなたの欲する通りにしましょう。私は心から喜んで、あなたの考えに従います。

2巻 「神の存在を証明し、自由意志を含めてすべての善きものは神からくることをあきらかにする 」

 

1、神はなぜ人間に自由意志を与えたのか

エヴォディウス:それでは、できれば、自由な意志の決定を神が人間に与えた理由を教えてください。人はそれを受け取りさえしなければ、罪を犯すことがなかったからです。 

アウグスティヌス:すると、あなたは、それが与えられる必要はなかったが、神がそれを人間に与えたことについてはすでに確実に知っているのですね。 

エヴォディウス:前巻で理解したと思うことは、私たちが実際に自由な意志をもっており、それらによらなければ罪を犯すことはない、ということです。 

アウグスティヌス:私も、それはすでに明らかになったことを覚えています。しかし、今たずねたのは、私たちが持っていて、かつそれによって罪を犯すことが明白であるようなものを神が私たちに与えたということを、あなたは知っているかどうか、です。 

エヴォディウス:他のだれかがそれを与えたとは思いません。私たちは、神によって存在するからです。また、私たちが罪を犯すか、あるいは正しく行うかに応じて、神からの賞罰が与えられるからです。 

アウグスティヌス:もう一つ聞きます。あなたは、そのことをはっきりと知っているか。それとも、まだ理解していないが、権威にもとづいて素直に信じているのか。 

エヴォディウス:もちろん、最初は権威にもとづいてそれを信じ始めました。しかし、すべての善が神に由来し、すべての正しいものは善であり、罪人には正しい罰があり、正しく行う者には、正しい報いがある、ということ以上に真理があるでしょうか。そこで、こう結論されます。罪を犯す者に悲惨が、正しく行う者に幸福が与えられるのは、神によってです。 

アウグスティヌス:それには反対しません。しかし、私が尋ねたのはそうではなく、むしろ、私たちが神によって存在していることを、あなたはどう理解しているか、です。あなたは今これを説明しないで、ただ、私たちは神から賞罰が報いられるとだけ言っています。

エヴォディウス:そのことも、今同意したように、神が罪を罰することからだけ明らかにされると思います。たしかに、正義はすべて神に由来します。人間においては、外国人を助けることは何らかの善意の現れですが、法律の異なる外国人を罰することは、必ずしも同じように正義の現れであるとは言えません。しかし、神は私たちを助ける時にだけもっとも憐みがあるのではなく、罪を罰するときにももっとも正しいのですから、私たちが神に属するのは明らかです。さらにまた、すべての善は神に由来すると述べて、あなたが同意したことからしても、人間が神に由来していることが理解されます。人間は人間である限り、自らなんらかの善ですから。というのも、人は正しく欲するならば、正しく生きることができるからです。 

アウグスティヌス:その通りです。あなたが聞いた問題はすでに解決しました。すなわち、人間が何らか善きものであり、かつ欲することなしには正しく生きることができないために自由意志を持たないといけません、それなしには、人は正しく行うことができないからです。なるほど、人は自由意志によって罪を犯します。しかし、そのために神がこれを人間に与えたのだと信じてはいけません。ですから、自由意志が与えられるべきであった大きな理由は、人はそれなしには正しく生きることができないからです。けれども、正しく生きることができるために自由意志が与えられたということは、それを罪を犯すために用いるとき神からの罰がくだされるということからも理解されます。もちろん、与えられた意志が正しく生きるためだけでなく、罪を犯すためにも自由であったならば、その罰は不当でしょう。実際、ある目的のために意志が与えられて、そのために人がそれを用いることで罰せられるとしたら、これは不当でしょう。しかし、神が罪人を罰するとき、神はこう言うでしょう。「私は、あなたが正しい行いをするために自由意志をあなたに与えたのに、あなたはなぜそのために用いることをしなかったのか」と。さらにまた、罪を罰し、正しい行いをほめることにおいて正義そのものを現わすその善は、人が自由な意志の決定を欠くとき、どうして善でありえようか。意志によらずになしたことは罪でもなく、正しい行いでもありません。それゆえ、人が自由意志をもつのでなければ、賞罰は正しくありません。しかし、罰においても報いにおいても正義がなければいけませんでした。正義は神に由来する善の一つですから。それゆえ、神は人間に自由意志を与える必要があったのです。 

 

2、神の存在を知解(知識の力で悟ること)するための信仰の準備

エヴォディウス:たしかに、神は自由意志を与えました。しかし、これが正しい行いのために与えられたのであれば、罪を犯すほうへこれを転じることはできないはずだ、とあなたは考えるでしょう。私はこのことについて尋ねます。正義についても同じで、正義は人がよく生きることができるように与えられたのですから、その与えられた正義に従って悪く生きることはできません。それゆえ、正しく行うために意志が与えられたのであれば、だれもそれによって罪を犯すことはできないでしょう。 

アウグスティヌス:私があなたに答えることができるように、いやむしろあなた自身がすべての人の最大の教師である真理によって、内的に教えられ、自分に答えることができるように、神の助けを求めます。私がたずねたこと、すなわち、神が私たちに自由意志を与えられたことは確実であり明白であるとあなたが思うならば、この自由意志が与えられるべきではなかったと言ってよいのか。私たちは、神がそれを与えたと告白します。しかし、神が与えたかどうかまだ確実でないならば、私たちにそれが与えられたのがよかったかどうかを考えるといいでしょう。そして、与えられたのがよかったとわかれば、人間にすべての善きものを与えた方が与えたということもわかります。その方を非難することは許されないからです。他方、神が与えたことが確実であれば、どんな仕方で与えられたにせよ、与えられた方がよかったというべきで、与えられるべきではなかったとか、現にあるのと異なる仕方で与えられるべきであった、などと言ってはいけません。神が与えたのであり、この方のわざを非難することは正しくはできないのです。 

エヴォディウス:私は、そのことを信仰によって堅く持っていますが、まだ、思考によって保持していませんから、私たちはそのすべてが不確実だとして探求することを望みます。さて、自由意志によって罪を犯すことができるとすれば、正しく行うためにそれが与えられたかどうか不確実です。すると、与えられるべきであったかどうかも不確実になります。なぜなら、正しく行うために与えられたことが不確実であれば、神から与えられたことも不確実だからです。むろん、神は与えるべきでないものを与えたと信じることは許されません。 

アウグスティヌス:少なくとも、神が存在することはあなたにとって確実でしょうね。 

エヴォディウス:そのことも、私は見ることではなくて、信仰によって堅持しています。 

アウグスティヌス:愚者について「愚かな者は心の中で神はないといった」(詩編14・1)と書いてますが、そういう人があなたに向かってこんなことを言い、あなたと共に信じようとしないで、かえってあなたの信仰が正しいかどうかを探ろうとしたらどうか。あなたは、その人をそのままにしておくか、それとも、あなたの堅持することを何とかして説得する必要があると思うか。とくに、彼が頑強に争うのではなく、むしろ熱心にそれを知ろうとする場合です。 

エヴォディウス:あなたが今最後に述べたことで、彼にどう答えるべきかわかりました。彼がいくら理性のない者だとしても、次のことは必ず同意するでしょう。つまり、何でもそうですが、特にこういう重大な問題を、悪意あるある強情な者と一緒に論じるべきでない、ということです。彼がこれに同意するなら、彼は自分がまじめに探求しており、それに関して強情や悪意を隠していないとのことを私に信じさせようと、まず努めるでしょう。そこで次に、だれにも一番易しいと思われることを彼に教えてやります—-あなたは自分だけ知っている本当の気持ちを、それを知らない他人に信じてもらおうと言うならば、あなた自身もかの偉大な人が書いた書物(聖書)を通して、神の存在を信じるのがもっともよいのです。その人々はその書物の中で、神の子と共に生きたことを証言し、それを文字に残しました。また、神が存在しなければ起こりえないことを目撃したと書いてある、と。—-彼は、自分を信じてほしいと願っている者ですが、その彼が、私がこの聖書を書いた人々を信じているといって私を非難するのは、なんとも愚かです。彼自身正当に非難できないことを私が模倣するのはいけないのは、十分な理由がありません。 

アウグスティヌス:するとあなたは、神の存在については、その偉大な人々を通じて信じるのが思慮あるやり方だ、と考えるだけで十分であると考えています。もしそうならば、私たちがあたかも不確実で明らかに知られていないかのように問おうと企てた事柄についてもまた、偉大な人々の権威に従って信じるのがよいとは考えず、むしろいっそう骨折って探求しようとしているのはなぜだろうか。 

エヴォディウス:私たちは、信じることを認識し知解したからです。 

アウグスティヌス:あなたは先の討論の始めに述べたことをよく覚えています。それを否定してはいけません。すなわち、信じることと知解することとは同じではなく、また私たちが知解を欲する重大な神に関する問題については、まず信じるべきです。そうでなければ、「信じることがなければ知解することはない」(イザヤ7・9。70人訳)と言った預言者の言葉はむなしくなるでしょう。主自ら、言葉とわざとをもって、救いに召した者たちに向かって、まず信じなさいと勧めました。しかし、その後、信じる者たちに与えるべき賜物について話したとき、「信じることが永遠の生命である」とはいわず、むしろ「唯一の真なる神であるあなたと、あなたの遣わしたイエス・キリストとを知ることが永遠の生命である」(ヨハネ17・3)と言われたのです。彼はまた、すでに信じた者に向かって、「求めよ、そうすれば見い出すだろう」(マタイ7・7)と言われました。しかし主は、人が知らないでただ信じただけのものが見出される、と言うことはできませんでした。しかし、また人は後になって知るものをまず信じるのでなければ、神を見るのにふさわしい者とはなりません。それゆえ、主の戒めに従って熱心に求めましょう。私たちが主に従ってたずね求めるものは、同じ主の教えによって見出されます。もちろん、それは地上の生の中にある私たち人間が見出しうる限りでありますが、しかし主はこう教えました。その求めるものを明らかに見て所有することは、特別すぐれた人にはこの世の間でもできますが、善良で敬虔な人はみな、この世の生の後に必ず可能になると信じないといけません。—-そこで、私たちもそうなることを望み、地上のものや人間に属するものを卑しんで、このような神的なものを、すべての力を尽くして求め、愛するべきです。 

3、存在・生命・知解の三段階、および外的感覚の働き

アウグスティヌス:それでは、よければ、次の順序で聞いて行きます。第一に、神の存在はどのようにして明らかとなるか。第二に、すべての善は神に由来するか。第三に、自由意志は善いものとして数えることができるかどうか。以上が解決されれば、自由意志が人間に与えられることが正しかったかどうかも十分明らかになると思います。私たちはもっと明らかなことから始めましょう。そのためまず、あなた自身が存在するかどうかを、あなたに問います。これを問われて、あなたは誤ることを恐れるかもしれません。しかし、あなたが存在しないなら、あなたは誤ることもありません。 

エヴォディウス:むしろ、次の問題にすすんでください。

アウグスティヌス:あなたが存在することは明らかです。またそのことは、あなたが生きていない限り明かではないのだから、あなたが生きていることも明かです。この二つがまったくの真実であることを、あなたは知解(知識でもって悟ること)するだろう。

エヴォディウス:すぐに知解します。

アウグスティヌス:すると、この第三のことも明らかです。それは、あなたが知解するということです。

エヴォディウス:明かです。

アウグスティヌス:これら三つのうち、どれがもっともすぐれていると思いますか。

エヴォディウス:知解することです。

アウグスティヌス:なぜ、そう思いますか。

エヴォディウス:その三つとは、存在する、生きる、知解するの三つですが、石が存在し、動物が生きていても、石が生きているとか、動物が知解するとは思えません。しかし、知解する者が存在し、かつ生きていることはまったく確実です。したがって、これら三つを全部含むものは、その中の二つまたは一つを欠くものよりいっそうすぐれていると、私は疑いなく判断します。実際生きているものは必ず存在しますが、知解するとは限りません。動物の生活はそうだと思います。また、存在するものが必ず生命や知解をもつとは限りません。石は存在すると言えても、生きているとはだれも言わないでしょうから。そして、生きていないものはもちろん知解できません。

アウグスティヌス:すると、その石にはその三つのうち二つが欠け、動物には一つが欠けているが、人間にはどれも欠けていない。これらのことを私たちは認めましょう。

エヴォディウス:ええ、認めます。

アウグスティヌス:また、人間が他の二つと同時にもつもの、すなわち知解は、その三つの中でもっともすぐれていることも認めます。人間は知解をもつのだから、存在と生命をもちます。

エヴォディウス:そのとおりです。

アウグスティヌス:では次に、普通に知られている身体の感覚として、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を、あなたが持つことを、あなたが知っているかどうか言ってください。

エヴォディウス:知っています。

アウグスティヌス:視覚には何が関係するだろうか。つまり、見ることによって何を感じるのか。

エヴォディウス:すべての物体的なものです。

アウグスティヌス:私たちは堅いものや軟らかいものを見て感じるだろうか。

エヴォディウス:いいえ。

アウグスティヌス:だから特に目にだけ関係するもの、つまり目によって感じるものは何ですか。

エヴォディウス:色です。

アウグスティヌス:耳には何が。

エヴォディウス:音です。

アウグスティヌス:嗅覚には何が。

エヴォディウス:匂いです。

アウグスティヌス:味覚には何が。

エヴォディウス:味です。

アウグスティヌス:触覚には何が。

エヴォディウス:軟らかさと堅さ、滑らかさと粗さ、その他こうした類の多くのものです、

アウグスティヌス:ではどうか。物体の形状、大小、四角、円などについて、私たちは触れたり見たりして感じるものではないか。したがって、これらは特に視覚だけ、あるいは触覚だけに属するのではなく、むしろその両方に属するとはいえないだろうか。

エヴォディウス:そのように解します。

アウグスティヌス:そこで、ある対象は一つの感覚だけ固有に関係し、その感覚によって伝えられるが、ある対象はいくつかの感覚に共通しています。

エヴォディウス:そのことも理解しています。

アウグスティヌス:では、それぞれの感覚に別々に関係する対象がなんであり、またそれらの感覚の全部もしくは若干に共通に関係する対象はなんであるか、私たちはそれを、この身体の感覚のどれかによって識別できるだろうか。

エヴォディウス:決してできません。しかしある内的な感覚によって識別されます。

アウグスティヌス:それはきっと動物には欠けている理性ではないのか。というのも、私たちは理性によってそうした対象をとらえ、それらをこういうものだと認知するからだと思う。

エヴォディウス:いや、私の考えでは、私たちは内的感覚が存在することを理性によってとらえるのです。そして、ふつう知られている五感によって感覚されたものはすべて、そこから内的感覚へと送りこまれます。実際、動物において見る働きと、見てとらえたものを避けたり求めたりする働きとは異なっています。前者は目の中に、後者は内的に魂の中にあります。そして動物は、見たもの・聞いたもの・その他身体の感覚でとらえたものを、好ましければ求めて自分のものとし、不快であれば退け避けるのですが、こうした働きはすべてこの内的感覚によってなされます。ところで、この感覚は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という名で呼ぶことはできません。なんと呼ぶべきか知りませんが、とにかくそれ以外のものであり、すべてを共通に支配するものです。今言ったように、私たちはそれを理性によって知りますが、しかし理性と呼ぶことはできません。それは明らかに動物の中にもあるのですから。

アウグスティヌス:ええ、それを認めます。私たちに内的感覚があるのは確かです。しかし、身体の感覚をとおして伝えられたものをも超えて行かなければ、知識に達することはできません。実際、私たちが知るものは、理性によってとらえ保持するのです。たとえば、色は聴覚によって、音は視覚によって、感じられないことは私たちも知っていますが、このことを知るのは目や耳によってではなく、また動物にも欠けていない内的感覚によってではありません。なぜなら、光が耳によって、音が目によって感じられないことを、動物が知っているとは思えないからです。私たちは理性的な注視と思考によらなければ、その区別をすることはできません。

エヴォディウス:私は今言ったことがよくわかりません。というのも、動物がその内的感覚をもつことをあなたは認めましたが、色が聴覚によって、音が視覚によって感じられないことを、動物もそれによって判断するとしたらどうでしょうか。

アウグスティヌス:見ている色、まぶしい、暗いなどの目の感覚、魂のもつ内的感覚、さらにこれらを個々に判断し、考える理性という四つを区別することが、動物にできると、あなたは思いますか。

エヴォディウス:できるとは決して思いません。

アウグスティヌス:それでは、色はまず目の感覚を通じて、次にこれが目の感覚を支配している内的感覚を通じて、さらに内的感覚は自分自身を通じて—-内的感覚と理性との間には何も置かれないとすれば—-理性へ運ばれるという以外の仕方で、理性はその四つを区別できるだろうか。

エヴォディウス:それ以外の仕方では区別できないと思います。

アウグスティヌス:それでは、色は目の感覚によって感じられますが、その感覚が同じ感覚によって感じられないことは、あなたはわかりますか。あなたは視覚によって色を見分けるとしても、同じ視覚によって見ること自体を見るのではありません。

エヴォディウス:その通りです

アウグスティヌス:この二つを明らかに区別して欲しい。実際、色と色を見ることとは同じではありません。また、色がいつも視覚の前にいなくても、そこにあるかのように見ることのできる感覚をもつことは、この二つとも異なります。あなたは、これを否定しないでしょう。

エヴォディウス:そのように区別します。そして、それらが互いに異なることを認めます。

アウグスティヌス:それらの三つの中で、目で見ることのできないものは色だけだろう。

エヴォディウス:そうです。

アウグスティヌス:では、色以外の二つを何によって見るかをいってもらいたい。というのも、見ることによらなければ、あなたはその二つを区別できないのだから。

エヴォディウス:目以外のなんであるか知りません。それが何かであると知っても、それ以上はわかりません。

アウグスティヌス:すると、それがすでに理性なのか。それとも、身体の感覚にまさる内的感覚と私たちが呼んだ生命作用なのか。それともまた他の何なのか、あなたは知っていますか。

エヴォディウス:知りません。

アウグスティヌス:しかし、それは理性によらなければ定義できません。しかし理性は、検討のために自分の許に運ばれたものについてしか、そうしえません。あなたはこのことがわかるだろう。

エヴォディウス:たしかにそうです。

アウグスティヌス:それゆえ、私たちの知るすべてのものを感じることができる別の能力とは、理性の召し使いです。感覚に達したものは何でもこれによって理性の許に運ばれ、報告されます。その結果、それらは各領域に分けられ、たんに感覚によってだけでなく知性によってもとらえられることになります。

エヴォディウス:そのとおりです。

アウグスティヌス:それでは、どうか。理性は自分の召し使いと、召し使いが運んできたものとを区別し、さらに召し使いと自分自身を区別することを知っていて、自分は彼らの支配者であると宣言します。そこで理性は、自らを自らによって、すなわち理性によってとらえるのでなければ、何によってとらえるだろうか。それとも、あなたは自分が理性を持つことを、理性以外のものによってとらえることができるだろうか。

エヴォディウス:まったく、理性以外のものによってではありません。

アウグスティヌス:それゆえ、色を見る時、その見ることが同じ視覚によって見られるのではありません。音を聞く時、聞くことが聞かれるのではありません。バラの匂いをかいで、嗅覚自体が匂いを放つのではありません。何かを味わって、味覚自体が口中に味を出すのではありません。何かに触れて、触覚自体に触れることはできません。したがって、これらの感覚によって物体的なものが知覚されるにせよ、五官が五官の中のどれかによって感じられるのではないことは明らかです。

エヴォディウス:それは明らかです。

 

4、内的感覚の働き

アウグスティヌス:次のことも明らかです。その内的感覚は、身体の五官から受け取ったものを感じるだけでなく、それらの感覚作用を感じます。たしかに、動物は自分の感覚作用を感じなければ、何かを求めたり避けたりして動くことはありません。しかし動物の場合、その意識は知識に至ることはなく—-それは理性の働きである—-、ただ身体を動かすためのものです。もちろん、動物もこれを五官の中のどれかによって意識するのではありません。このことがまだ不明瞭であれば、何でもよいが例えば視覚をとって考えてみたらいいです。動物は見ようと欲したものを見るために目を開き、それに目を向けます。だがこの運動は、ものを見るためには目を閉じてはならず、目を動かさねばならないことを知らなければ起こりません、動物は、見ていない時に、その見ていないものを意識するとしたら、当然のこと、見ているときには見ていることを意識するだろう。そして、見ようとする欲求が起こると、現に見ていれば目を動かさないが、現に見ていなければ目を動かします。ここから、動物は自分が見ているか見ていないかを意識することがわかります。この生命原理が物体的対象に向かう感覚作用を自ら意識することは明らかだとしても、しかし、そのように自分自身をも意識するかどうかは明らかではありません。むろん、人は内に問うてみれば、生きているものはすべて死を避けるということを知るだろう。死は生の反対であるから、生きているものが自分と反対のものを避けるとき、当然自分自身をも意識しているのです。しかし、このことはまだ明白でないので、今は省くことにします。私たちは確実で明らかな論証でなければ、望むところに達することはできないからです。今明らかなことはこうです。物体的対象は身体の感覚によって感じられること。しかしこの感覚は同じ感覚によって意識されないこと。そして、身体の感覚によって感じることのできた物体的対象とその感覚作用自体が、共に内的感覚によって意識されること。だがこれらすべてが理性によって知られ、理性自らも理性によって知られ、かつ知識として保持されること—-以上はあなたにも明らかでしょう。

エヴォディウス:まったく明らかです。

アウグスティヌス:先に進みます。しかしもう一度、問題がどこから生じたかを言ってほしい。私たちはそれの解決を求めて、これらのことを話しています。

5、前章の続き

エヴォディウス:先ほど討論の順序をきめ、三つの問題を立てたことを覚えています。今最初の問題をあつかっています。それは、神の存在はかたく信じるべきですが、これはいかにして明らかに認識されるのか、ということです。

アウグスティヌス:その通りです。では、あのこともよく覚えてほしい。あなたは、あなたが存在することを知っているかと問われたとき、それ以外にも二つのことを知っているとこたえました。

エヴォディウス:それも覚えています。

アウグスティヌス:では考えましょう。身体の感覚に達するものはその三つのどれに属するとあなたは思いますか?つまり、目やその他の感覚によって知られるものは、三つの中のどれと見たらよいのか。たんに存在するものか。それとも、さらに生きているものか。それとも、さらに知解するものか。

エヴォディウス:たんに存在するものです。

アウグスティヌス:それでは、感覚自体は三つの中のどれに属すると、あなたは思いますか

エヴォディウス:生きているものに属します。

アウグスティヌス:では、その二つのうち、どちらがよりすぐれていると判断しますか。感覚自体か、それとも感覚される対象ですか。

エヴォディウス:もちろん感覚のほうです。

アウグスティヌス:なぜですか。

エヴォディウス:たんに存在するだけのものより、さらに生きているもののほうがすぐれているからです。

アウグスティヌス:しかしどうでしょう。私たちはこれまでの討論で、内的感覚が理性に従属すること、またそれは私たちが動物と共通に持つことを明らかにしましたが、あなたはこの内的感覚が、物体に達する身体の感覚よりもすぐれていると見ることに躊躇するのではないだろうか。むろんあなたはすでに、身体の感覚は物体自体よりもすぐれていると言ったのだけれども。

エヴォディウス:いいえ、躊躇しません。

アウグスティヌス:それなら、躊躇しない理由を聞きたい。というのも、あなたはこの内的感覚を、かの三つの類の中で知解の働きをもつ類の中に置くべきではなくて、むしろ、存在し生きているが理性を欠いている類の中に置くべきであると主張するからです。たしかに、この感覚は理性を持たない動物の中にもあります。それでは、内的感覚と身体の感覚は共に生命をもつものの中にあるとすると、あなたはどうして内的感覚を身体の感覚に優先させるのかを、私はたずねたい。あなたは、物体が存在しか持たないのに対して、感覚は生命をもつものの中にあるので、物体をとらえる感覚は物体よりもすぐれているとみなしました。そして、生命をもつものの中にはかの内的感覚も見出されると言います。それではなぜ、これがいっそうすぐれているかを、私に言ってほしい。しかし、これに答えて、内的感覚は身体の感覚をも意識するからだというならば、あなたはかの法則を見出したとは思えません。私たちはその法則に従って、感覚の働きは感覚のどんな対象よりもすぐれていると明言できたのであるが。ただし、ここからして、知解の働きは知解されるどんな対象よりもよいとの結論が生じるのではありません。それは誤りです。なぜなら、人間は知恵を知解しますが、人間のほうが知恵自身よりもすぐれているのではないからです。それゆえ、内的感覚は物体をとらえる外的感覚よりもすぐれているとあなたが考える理由を示してほしい。

エヴォディウス:内的感覚は外的感覚の管理人であり裁判官であると、私は思います。これがその仕事を果さないなら、先ほど論じられたように、管理人は使用人にいわば借金を要求するでしょう。すなわち、視覚は自分が見ているか見ていないかを見ることはなく、また自分にとってなにが不足でなにが十分であるかを判断することはできません。それを判断するのは内的知覚です。動物の魂もこれに教えられて、閉じていた目を開いたり、足りないものを獲ようとして感覚を働かせたりします。したがって、判断するものが判断されるものにまさることは、だれも疑いません。

アウグスティヌス:しかし、身体の感覚も物体について何らかの判断をくだすことをあなたは知っているでしょう。痛いか痛くないかは、物体に強く触れたか静かに触れたかによります。内的感覚は視覚が感じるものと感じないものとを判断するように、視覚自身も色を見て、そこに何色があり何色がないかを判断します。聴覚についても、同様に、内的感覚は聴覚に達するものが何かを判断し、そして聴覚自身は音を聞いて、どれが静かに流れ、どれが強くひびくかを判断します。身体の感覚についてこれ以上調べる必要はありません。あなたが私が何を言いたいのかに気づいていると思います。内的感覚は身体の感覚について判断し、それの正しい働きを示し、仕事への忠実を要求します。同じく、身体の感覚は物体について判断し、穏やかに感じられるものを受け取り、反対のものを退けます。

エヴォディウス:よくわかります。本当にその通りであると同意します。

6、理性は内的感覚について判断するが、この理性の上に神がある

アウグスティヌス:それでは、理性がこの内的感覚についても判断することについて考えてほしい。理性が内的感覚よりもすぐれていることをあなたが疑っているかどうかは、もうたずねません。あなたは躊躇せずにそう判断したからです。理性が内的感覚について判断するかどうかについては、もう聞く必要はないでしょう。なぜなら、理性に劣るものども、すなわち物体や身体の感覚や内的感覚のうち、一方が他方にすぐれており、かつ理性はそれらすべてよりもすぐれていることを知らせるものは、ただ理性だけだからです。しかしこのことは、理性自身がそれらについて判断するのでなければ、決してできないことであります。

エヴォディウス:その通りです。

アウグスティヌス:石のようにただ存在するだけで、生きておらず知解もしないものよりは、動物の魂のように知解はしないが存在し生きているもののほうがすぐれています。しかし、人間のもつ理性的精神のように、同時に存在し・生き・知解するもののほうが、これよりもすぐれています。それでは、私たちにおいては、すなわち私たちの本性たらしめる諸要素のなかで、以上三つのものの第三のものがもっともすぐれていると、あなたは考えるであろう。なぜなら、私たちは明らかに身体を持ち、生命によってその身体は生き、成長します。この二つは動物にもあると認められます。しかし、私たちはさらに第三のものを持っています。それは魂の頭であり目であり、もっと適切に言えば理性や知性であって、これは動物の本性にはありません。人間の本性の中で理性よりもすぐれたものが見出されるかどうか、よく考えてもらいたい。

エヴォディウス:それ以上に善いものはありません。

アウグスティヌス:いいでしょう。それでは、存在することが疑われないだけでなく、私たちの理性よりもすぐれているあるものが見出されたとしたら、どうでしょう。それが何であれ、あなたはそれを神と呼ぶことに躊躇するだろうか。

エヴォディウス:私の本性の中の最上なものよりも善いものが見出されたとしても、私はそれをただちに神であるとは言いません。なぜなら、神は「私の理性よりすぐれたもの」と呼ぶよりも「それ以上にすぐれたものは何もないもの」と呼ぶのがふさわしいと思えるからです。

アウグスティヌス:たしかにそうです。神自身があなたの心に、神についての敬虔で正しい思いを与えたのです。しかし、私たちの理性の上には、永遠かつ不変のもの以外に何も見出されないとすれば、あなたはなぜそれを直ちに神と呼ばないのでしょうか。あなたは物体が可変的であることを知っています。また、身体を生かす生命自身も、そのさまざまの現れのゆえに、明らかに可変性を欠いていません。また理性自身ですら、真理に至る努力をある場合にはし、ある場合にはしないで、あるいは、あるときは真理に達し、あるときは達しないということで、可変的であることを十分に示しています。しかし理性は、触覚・味覚・嗅覚・聴覚・視覚などの理性に劣る感覚によらずに、自らある永遠かつ不変のものを察知するならば、理性は自分はかかるものよりも劣っており、かかるものは自分の神でなければならないと告白するのです。

エヴォディウス:「それ以上にすぐれたものは何もないもの」とすべての人が認めるものを、私は確かに神であると告白します。

アウグスティヌス:それでいいです。実際、あなたが神であると告白し、またそれ以上の何かであってもそれは神自身であろと認めるであろうもの—-かかるものの存在を私が示すことができれば、それで十分です。それゆえ、すでに約束したように、理性の上にあるものが存在することを証明できたならば、それが神であることは明らかです。

エヴォディウス:では、あなたの約束したことを証明してください。

7、感覚の働きの中に見る私的なものと公共のもの

アウグスティヌス:そうしましょう。しかし、まず、あなたに聞きます。私の身体の感覚は、あなたの感覚と同じであるか、それとも私のものは私だけのもの、あなたのものはあなただけのものか。後者であるなら、あなたの見るものは私の目によっては見られないことになります。

エヴォディウス:こうだと思います。私たちは同じ種類の感覚をもっていますが、各人が別々に視覚、聴覚、その他の感覚を持っています。なぜなら、ある人が見たり聞いたりするものを他人も見たり聞いたりできるからです。また、ある人がある感覚によって感じないものを、他人は感じることができます。したがって、あなたの感覚はあなただけのもの、私の感覚は私だけのものであることは明らかです。

アウグスティヌス:そのことは内的感覚についても同じであると、あなたは答えることができますか。それとも何か違いがあるだろうか。

エヴォディウス:もちろん、違いはありません。というのも、私の内的感覚は私の感覚の働きを知り、あなたのそれはあなたの感覚の働きを知るからです。そこで私はしばしば「あなたが見るものを私も見るだろうか」と問われます。なぜなら、私が見ているか見ていないかを意識するのは私であって、そのように問う人ではないからです。

アウグスティヌス:ではどうでしょう。私たちは各自の理性を持つのではないのでしょうか。なぜなら、私は自分が存在することを知解しても、あなたは知解せず、また私は自分が知解しているかどうかを知っても、あなたはそれを知ることができない、とのことがありうるからです。

エヴォディウス:明らかに、一人一人違う理性的精神をもちます。

アウグスティヌス:しかし、見る対象についてはどうでしょう。私たちは各自の見る太陽をもつとは、まさか言えないでしょう。月でも、星でも、その他なんでもみなそうです。もちろん、自分に固有の感覚でそれらを見るのですが。

エヴォディウス:そんなことは決して言えません。

アウグスティヌス:それゆえ、私たちが各自の感覚をもつとき、ある一つの対象を同時に多くの人が見ることができます。つまり、同時に見た一つのものが、すべての人の感覚に知られるのです。したがって、私の感覚とあなたの感覚は同じではありませんが、実際に見る対象は私にとって、あなたにとっても異ならず、一つの対象が二人に存在し、二人によって同時に見られることが可能です。

エヴォディウス:まったくその通りです。

アウグスティヌス:私たちはまた、同時に一つの声を聞くことができます。したがって、私の聴覚とあなたの聴覚は同じではありませんが、同時に聞く音は、私にとってもあなたにとっても同じです。また、私の聴覚とあなたの聴覚は別の音の別々の部分をとらえるのではなく、どの響きも同時に一つの全体として二人の前に現れ、聞かれるのです。

エヴォディウス:そのことも明らかです。

アウグスティヌス:では、あなたは、その他の身体の感覚についてこれから言うことに注意してほしい。私たちは今のことで、目と耳の二つの感覚に関することが他の感覚に関してもまったく同じだとも、まったく別だとも言いません。その理由は、私もあなたも同じ空気を吸い、匂いでその状態を感じることができます。同じように、二人が同じ蜜をなめ、あるいは他の食べ物や飲み物を摂り、味でその状態を感じることができます。この場合、空気や食べ物は同一物でありますが、私たちは各自の感覚を持ち、あなたはあなたの、私には私のそれがあります。二人は同じ匂いや味を感じますが、あなたは私の感覚によって、私はあなたの感覚によって、それを感じるのではありません。また、二人が共通に持つことのできる、ある一つの感覚によるのではありません。二人は同じ匂いや味を感じるにしても、私の感覚はまったく私のもの、あなたの感覚はまったくあなたのものです。それゆえ、これらの感覚も目や耳の感覚に似た特徴を持つことがわかります。しかし今のことでは次の点で異なっています。私たち二人は鼻で同じ空気を吸い、舌で同じ食べ物を味わうとしても、私とあなたとは空気の同じ部分を吸うのではなく、食べ物の同じ部分を摂るのではありません。私とあなたとは別々の部分を摂ります。したがって、私が呼吸するとき、私は空気全体の中から自分に十分な部分を吸い、あなたもあなたに十分な部分を吸うのです。二人が同じ食べ物の全部をたいらげるにしても、私が全部をたいらげ、あなたが全部をたいらげることはできません。このことは、音声の全部を私とあなたが同時に聞き、また私の見た形姿をあなたも同時に見る場合とは異なっています。食べ物や飲み物の場合は、必ず私がその一部を、あなたが残りを摂るのであります。以上のことは、あなたにはあまり理解できないことでしょうか。

エヴォディウス:いいえ、はっきりと理解できます。

アウグスティヌス:今論じたことに関して、触覚は視覚や聴覚に比べられると、あなたは考えないだろうか。そのわけはこうです。私たちは二人が同じ物体に触れて感じることができるだけでなく、さらに、私が触れたのと同じ部分にあなたも触れることができます。したがって、同じ物体だけでなく、同じ部分にも一緒に触れて感じることができます。もちろん、運ばれた食物を一緒に食べるとき、私が全部を食べ、あなたも全部を食べることはできません。しかし物体に触れる時はそうではありません。私が触れたのと同じものの全部にあなたは触れることができ、したがって、二人が触れるとき各人が別の部分ではなく、全部に触れることができます。

エヴォディウス:その点で、触覚は先の二つの感覚によく似ていると思います。しかし、次の点で似ていないことが明らかです。二人は一緒に、同時に同じものを見たり聞いたりすることはできますが、同時に二人があるものの全部に触れるにしても、それは異なる部分に触れるのです。同じ部分に触れるのは異なる時点においてだけ可能です。なぜなら、あなたの手を離さなければ、あなたの触れる部分にあなたは触れることはできないからです。

アウグスティヌス:とても注意深く答えてくれました。しかし、次のことも知っておくべきです。すべて私たちが感覚するものの中には、二人が一緒に感覚するものと、別々の感覚するものとがあります。たとえば、私たちの感覚自体については、各自それを認識します。私はあなたのそれを意識せず、あなたは私のそれを意識しません。ところで、身体の感覚に知られた物体的なものの中、二人によって一緒に感じられず、むしろ別々に感じられるものは、私たちの中に入って変化し、私たちのものとなります。食べ物や飲み物がそうです。私が摂取したのと同じ部分をあなたもまた摂取することはできません。乳母は食べ物を噛んで幼児に与えますが、味わっている中に食べてしまい、それが自分の血や肉に変わったとしたら、それを戻して幼児の食べ物にすることはできません。たしかに、舌が美味を感じて、喉が自分に欲求したならば、どんなにわずかな部分でも元に戻すことはできません。これは身体の本性にしたがって起こったことです。そうでなければ、食べ物を噛んで吐き出したあと、口中に味が残ることはまったくないでしょう。鼻で吸い込む空気の部分についても同じことが言えるでしょう。私が吐いた空気の一部をあなたが吸うことができるが、私の養分となったものをあなたが吸うことはできません。このような部分はもちろん吐き出すことはできません。医者は私たちが鼻からも身体の養分を摂取することができると考えています。私はそれを、自分で吸って感じることができるが、吐いたものをもとに戻すことはできません。だから、あなたはそれを吸っても養分だと感じることはないのです。他方、私たちの感覚する他の諸対象の中、それを感じることによって分かれ、身体の中に入って変化することのないものについては、二人が同時に、あるいは別のときに感じることができます。そして私が感じる一部、あるいは全部をあなたも感じることができます。そのような対象は、光、音、その他の私たちが触れても変化することのない物体です。

エヴォディウス:わかります。

アウグスティヌス:したがって、私たちが身体の感覚によって感じても、私たちの身体に変わることのないものは、明らかに各人の感覚に別々に関係するのではなく、むしろ私たちに対して共通に存在します。なぜなら、それらは別のものになったり変化したりして私たち自身のもの、いわば私有物になるのではないからです。

エヴォディウス:たしかにそうです。

アウグスティヌス:「私たち自身のもの、いわば私有物」とは、私たち各自のもの、自分だけが感じるもの、自分の本性に固有に属するもの、と解すべきです。しかし「共通のもの、いわば公共物」とは、感覚を働かすすべての人によって、何の破壊も変化も受けずに感じられるもの、と解すべきであります。

エヴォディウス:そのとおりです。

8、数の法則について

アウグスティヌス:先に進みます。注意して答えて欲しい。考える人はみな、各自の理性と精神とをもって共通に知ることができる、そういうものを見出すことができるだろうか。もし見出されるなら、それはすべての人の前にあって知られるものであり、それを用いたために食べ物や飲み物のように変化することはないものです。また人が見ていても見ていないでも、不滅で完全な存在であり続けます。それとも、そのようなものはないとあなたは考えるだろうか。

エヴォディウス:いいえ、そのようなものが多数あることを私は知っています。その一つを挙げれば十分でしょう。数の法則と真理は、考えるすべての人の前にあります。計算する人はみなそれを自分の理性と知性によってとらえようと努めます。このことはある人には容易ですが、ある人には難しく、またある人には全然できません。しかし法則自体は、それをとらえる能力のあるすべての人の前に等しく置かれています。それは人に知られても、養分のように摂取する人の中に入って変化することなく、また誤った時でも、法則自体に欠陥はなく、真かつ完全なものとしてあり続け、したがって、それを知らなければ知らないだけ誤ります。

アウグスティヌス:まったくその通りです。あなたはその方面で教養があり、言うべきことをすぐに言ったと思います。しかし、その数は、自らの本性ではなく、身体の感覚によって知られたものから魂に刻印され、可視的なもののいわば似姿としてそこに置かれます、という人がいたならばあなたはどう答えますか。あなたもそのように考えますか。

エヴォディウス:もちろんそう考えません。私は数を身体の感覚でとらえたとしても、数の加減乗除の法則をもそれによってとらえることはできません。なぜなら、加減計算で間違って答えを出す時に、私は精神の光によって訂正するからです。さらに、身体の感覚で触れたもの、例えば、この天と地とその中のすべての知覚される物体が今後どれだけ続くかを私は知りませんが、しかし7プラス3は10で、現在だけでなく常にそうであり、かつて10でなかったことや今後10でなくなることも決してありません。それゆえ、この数の不滅の真理は、私に対しても、考えるすべての人に対しても共通であると、私は先に述べたのです。

アウグスティヌス:あなたの答はまったく正しい。ただし、数自体も、身体の感覚によって知られたものではありません。このことは、数の名称がみな、「1」を何回もつかによって決まることを考えてみれば、わかるでしょう。たとえば、1を2回もつ数は2、3回もつ数は3、10回もつ数は10と呼ばれます。そして、すべての数は1を何回もつかによって名称と数値が示されます。ところがよく考えると「1」は身体の感覚によって知ることができないことがわかります。身体の感覚に知ることができるものはみな「1」ではなく「多」であります。それは物体であり、物体は無数の部分を持っています。あまりに微小で判然としない部分を除けば、どんな小さな物体も必ず左右、上下、遠近、中心と端を持っています。これらの小さな部分はどんな小さい物体の中にもあります。しかし、その「1」を認識しないなら、物体のもつ多くの部分を分け、数えることはできません。私は物体の中に「1」を求めましたが、それは確かに見出されませんでした。しかしそこに何を求め、何を見出さなかったかを私は知っています。また何を見出すことができず、いやそこには何がないかを私は知っています。それゆえ、物体が「1」でないことを知るとき、私は「1」が何であることを知っています。というのも、それが何であるかを知らなかったならば、物体の持つ「多」を数えることはできなかったからです。しかし「1」を知るのは身体の感覚によってではありません。なぜなら、身体の感覚によっては物体しか知られず、すでに見たように物体は真の純粋な「1」ではないからです。さらに「1」が身体の感覚によって知られないとしたら、どの数も身体の感覚によって知られません。少なくとも理性によって知られる限りの数はそうです。なぜなら、数はすべて「1」を含む回数によって名づけられ、この「1」の観念は身体の感覚によって知られないからです。実際、どんなに小さい半分も、さらに小さい二つの半分によって全体をなし、これもまたその半分をもっています。したがって、物体のもつ二つの部分は、それ自体単純な分割不能の2ではありません。それが2と呼ばれるのは、単純な「1」を2回もつからです。しかし、この二つの半分の単純な「1」自体が、再びその半分や三分の一などの部分をもつことはできません。それは単純な真の「1」だからです。

アウグスティヌス:さて、数の系列をとってみると、1の次に2があり、この数は1にくらべ二倍であることがわかります。2の二倍はしかし2に直結していないが、3を中間において、2の二倍の4がそれに続きます。この関係は、確実で不変の法則にもとづいて、他のすべての数に適用されます。そこで1の次に、すなわちすべての数の最初の数の次に、この1自身を除いて一番目にくる数は、1の二倍の数、すなわち2です。この第二の数である2の次に、2自身を除いて二番目にくるのは、2の二倍の数です。2の次の一番目は3、二番目は4で、この4は第二の数の二倍であるから。第三の数である3の次に、3自身を除いて三番目にくるのは、もとの数の二倍です。第三の数である3の次の一番目は4、二番目は5、三番目は6で、これは第三の数の二倍であるから。同様にして第四の数のあとの四番目は、その第四の数自身を除くと、4の二倍です。第四の数の次の一番目は5、二番目は6、三番目は7、四番目は8で、これは第四の数の二倍であるから。また同様にして、他のすべての数においても、数の最初の一体である1と2の間にある関係が示されます。すなわち、この法則にしたがって、ある数のあとにその数を数えていくと、全体はもとの数の二倍となります。こうして私たちは、すべての数についてこの法則が不変、確実、不滅であると知っていますが、この認識はどこからくるのか。だれも数の全部を身体の感覚によって知ることはありません。それは数えきれません。それでは、この法則がすべての数にわたって成立することを、私たちはどこから知るのか。ある種の表象や想像心象を介して、無限の数にわたって信頼できる、かくも確実な数の真理が生じるのだろうか。私たちはむしろ、それを内なる光によって知るのですが、この光は身体の感覚によって知られないものです。

アウグスティヌス:論証の才を神から受け、心の雲を払いのけた人は、以上の論証やその他多くの論証からして、こう言わざるをえません。数の法則や真理は身体の感覚に関係なく、曲げられず混じりけのないものとして成立し、考える人の目に共通に見られます、と。それゆえ、考える人の前に共通に、いわば公に現れ、それを見る一人ひとりの精神と理性に知られながら、自らは犯されず変化することなくあり続ける真理は、他にも多く認められます。しかしあなたが、私の問いに答えようとしたとき、数の法則と真理が力づよくあなたの心に浮かんだことは、私にはうれしいことです。実際、聖書において数が知恵と結びついていることは決して無意味ではありません。「私は心をめぐらして知恵と数とを知り、これをたずね、考えた」(伝7・25)

 

9、知恵と真理について

アウグスティヌ:しかし、あなたに聞きます。あなたの意見では、私たちは知恵そのものについてどう考えたらいいか。各人が自分の知恵を持つと考えますか。それとも本当は、一つの知恵が共通にすべての人の前にあり、各人はそれに与れば与るだけ知者となる、とあなたは考えますか。

エヴォディウス:知恵という言葉であなたが何を意味しているか、私はまだ存じません。というのも、なにが知恵のある行為・言葉であるか、人によって様々に考えられているからです。兵士は自分の仕事が知恵あることだと思っています。しかし、兵役をいやしめ、農耕に配慮と労働をささげる人は、このほうを尊び、これを知恵に帰するのです。金儲けを考えうまく行う人は、自分は知者と考えています。しかし、これらに類するこの世的なことをみな軽蔑して退け、あらゆる努力を真理の探究に捧げ、それによって神と自分を知ろうとする人は、これこそが知恵ある重要な務めだと考えています。一方、真理の探求と観想に時を捧げようと望まないで、むしろ人々の利益のために大いに苦労して、世間事と公事にたずさわり、正義をもって人間の事柄をととのえ治めることに従事する人は、自分は知者であると考えています。あるいは、今いった二つにたずさわり、一方真理の観想に生きるとともに、他方人間社会に必要とされることの実践に生きる人は、自分こそ勝利の誉れとして知恵をもっていると考えます。その他無数のグループについては省きますが、いずれも、自分の仲間を他にまさるものとし、自分たちだけが知者であろうと望まない者はありません。私たちは今、信じていることを答えるだけでなく、それを観想し、理性によって明確に知るのでないと、あなたの問いに答えることはできません。

アウグスティヌス:知恵とは真理であり、そこにおいて最高善がはっきりとなり、かつ保持されるものに他ならないと、あなたは考えなないだろうか。あなたが上げた様々な目的を追っている人々は皆善をもとめ、悪をさけているが、各人各様のものを善だと考えて、その目的を追っているのです。それゆえ、求めるべきでないものを求める人は、自分にとって善と思われること以外を求めていないとしても誤っています。しかし、何も求めない人、あるいは求めるべきものを求める人は、誤ることはありません。そこで人はみな、幸福な生を求めるかぎり誤ることはありません。しかし、自分は幸福に達する以外のことを求めないと宣言しながら、幸福に導く生の道を歩まないならば、彼は誤っています。実際、私たちの望むところへ導かない道を行くなら、私たちは誤るのです。人はまた、生の道で誤れば誤るほど、ますます知恵を欠くことになります。そのとき彼は、最高善を認識する真理からそれだけ遠いのです。ところで、人は最高善を求め、それを手にするとき幸福です。私たちはみなそれを欲していることについて、議論の余地はありません。したがって、私たちは幸福を望んでいることは明らかであるように、私たちが知者であることを欲していることも明らかです。知恵なしには、だれも幸福ではないからです。実際、私たちが知恵と呼ぶ真理において認識される最高善なしには、だれも幸福でありません。そこで、幸福になる前に、幸福の観念が私たちの精神に刻印されていて、私たちはこれによって、自分が幸福を欲していることを確実に知り、疑うことなしにそう語るのです。同じように、私たちは知者となる前に、精神の中に刻印された知恵の観念をもちますが、これによって「あなたは知者であることを欲するか」と問われたとき、何ら疑いもなしに、私はそれを欲すると答えたのです。

アウグスティヌス:それで、知恵とはなにかについては、私たちの意見は一致したと思います。あなたはそれを言葉でもって説明することができないかもしれませんが、それを魂の中に見ることがないならば、自分が知者であろうと欲することも、またそう欲するべきこともまったく知ることができないのです。あなたはこのことを否定しないだろうと思います。ではあなたは、知恵は数の法則や真理と同じように、思考するすべて人の人の前に共通なものとして現れると思うか、どうかについてを私に言ってほしい。それとも、人の数だけ、人の精神があり、私はあなたの精神については何も知らず、あなたは私の精神について何も知らないのだから、知者の数だけ知恵があるとあなたは考えますか。

エヴォディウス:最高善がすべての人に対して一つであるならば、知恵すなわち、最高善をそこにおいて認識し、堅持する真理も、すべての人にとって唯一の、共通のものでなければなりません。

アウグスティヌス:しかし、最高善が何であるかはともかく、それがすべての人に対して一つだけであることを、あなたは疑っていませんか。

エヴォディウス:たしかに疑っています。なぜなら、人は各人格様のものを自分の最高善として楽しんでいることを、私は知っているからです。

アウグスティヌス:最高善は何であれ、それを持たなければ幸福でありえないことを誰も疑っていないように、最高善の本性についても疑わないことを私は望んでいます。しかし、これは大きな問題で、多分長い討論が必要だから、まずその仮定をあげます。それは、様々な人によって求められた数だけの最高善がある、ということです。しかしここからして、人が知恵をもって選ぶ善はたくさんあるので、知恵自体もすべての人にとって共通なものではありません、との結論にはならないと思います。もし、あなたがそう考えるなら、太陽の光の中で私たちが識別するものは多様であるから、この光についても一つであるかを疑うことができる、ということになります。人はその多くののなかから、思いのままに目で見て楽しいものを選びます。ある人は好んで山を見て、その眺めを喜びます。ある人は広々とした平野を、ある人は曲がりくねった谷を、ある人は緑深い森を、ある人は海の荒波を、またある人はこうした美しいもの全部ないし、その一部を、見て喜ぶために選びます。こうして、人が太陽の光の中で見て喜び、喜ぶものはいろいろありますが、しかし光それ自体は一つであり、各人はその光の中で、自分が見て楽しむものを眺め、記憶するのです。同じように、多様な善があって、人はその中から欲するものを選び、見て記憶し、楽しみ、その結果、それを自分にとって正しい真の最高善とします。けれども、それらの善は知恵の光そのものの中で見られ記憶され、そしてこの光そのものはすべての知者にたいして唯一の共通のものでなければなりません。

エヴォディウス:そうでなければなりません。また、最高善が多様だとしても、知恵がすべての人に対して、唯一で共通であることを妨げるものは何もないことを私は認めます。しかし、本当にそうであるかを、私は知りたいのです。なぜなら、そうあるべきだと同意しても、そこからただちにそうだと同意することはできませんから。

アウグスティヌス:さしあたって、知恵があるとのことを私たちは知っています。しかし、それがすべての人に対して唯一で共通のものであるのか、それとも各人が自分の魂や精神をもつように、各人が知恵をもつのか、この点がまだわかっていません。

エヴォディウス:そのとおりです。

10、幸福は知恵の観想の中にあります。

アウグスティヌス:それでは、私たちは知恵が存在すること、あるいは知者が存在することを認め、またすべての人が幸福を欲していることを認めましたが、これらのことは、どこから知ることができますか。私は、あなたがそれを知っていること、かつそれが真であることを少しも疑っていません。しかし、あなたはその真理を知っているとしても、あなたの考えていることは、あなたが教えてくれなければ、私にはまったくわからないだろうか。それとも、私に言ってくれなくても、あなたの理解するとおりに、私もそれが真理であると知ることができるのであろうか。

エヴォディウス:もちろん、私には関係なく、あなたによっても知られることを、私は疑いません。

アウグスティヌス:では、私たち二人が、各自の精神によって一つの真理を見るのだから、それは私たち二人にたいして共通の真理である、ということですか。

エヴォディウス:明らかにそうです。

アウグスティヌス:人は熱心に知恵を求めるべきであることについても、あなたは否定しないでしょう。そしてあなたはこのことを真だと認めるでしょう。

エヴォディウス:もちろん認めます。

アウグスティヌス:さらに、この真理が一つであり、それを認めるすべての人に共通に見られることも否定できないでしょう。もちろん人は、私の精神や、あなたの精神や、その他の誰の精神を見るのではなく、自分の精神によって見ますが、それが見られるとき、見ているすべての人に共通に現前します。

エヴォディウス:決して否定しません。

アウグスティヌス:さらにまた、人が正しく生き、劣っているものがすぐれたものに従い、似たものを似たものと一つにし、各人が各人のものを返すべきであることはまったく真であるが、これらの真理は私にもあなたにも、それを見るすべての人に共通に存在することを、あなたは同意しますか。

エヴォディウス:同意します。

アウグスティヌス:朽ちないものは朽ちるものよりまさり、永遠のものは時間的なものにまさり、侵されないものは侵されるものにまさることを、あなたは否定できますか。

エヴォディウス:だれも否定できないでしょう。

アウグスティヌス:この真理は、それを観想する能力のある人にとって、すべての人に不変のものとして現前し、眺められるのであれば、だれがそれを自分の持ち物だと主張することができますか。

エヴォディウス:その真理はすべての人にたいして真であるだけでなく、一つであり共通であるので、それを自分だけのものと主張することは正しくありません。

アウグスティヌス:ではまた、魂を朽ちるものから引き離して朽ちないものに向けるべきこと、言い換えれば、朽ちるものではなく朽ちないものを愛すべきことを、だれが否定するだろうか。あるいは、このことを真と認めても、それが不変であることを知解しないで、しかもそれが、見る能力のあるすべての精神に共通に現前することを知らない人がいるだろうか。

エヴォディウス:おっしゃるとおりです。

アウグスティヌス:ではどうですか。どんなに不幸にあっても、堅固で有徳な道からそれることのない生活は、一時の困難のために、すぐに壊されたり、覆わされたりする生活にまさることを、だれが疑うだろうか。

エヴォディウス:だれも疑いません。

アウグスティヌス:これらのことについては、もうたずねないことにします。なぜなら、これらの法則や徳の光は真であり、不変であり、それを自らの理性と精神によって見ることのできる人には、その一つ一つ、あるいは全部が現前することを、あなたも私と同じく知り、かつまったく確実であると同意してくれるならば、それで十分だからです。しかしあなたに聞いておきます。これらの法則と光は知恵に属するとあなたは考えるかどうか。というのも、知恵を得た人は知者であることをあなたは知っていると思うからです。

エヴォディウス:まったくそのように考えます。

アウグスティヌス:ではどうでしょう。正しく生きる人が劣れるものをすぐれたものに従わせ、等しいものを等しいものに結合し、各人のものを各人のものに返すとしても、それが何であるかを知らないなら、彼は正しく生きることができるであろうか+。

エヴォディウス:できないでしょう。

アウグスティヌス:では、これらのことを知恵をもって知る人は、知恵をもって知るということを、あなたは否定しますか?

エヴォディウス:否定しません。

アウグスティヌス:ではどうですか。思慮深く生きる人は、朽ちないものを選び、これらを朽ちるものにまさるとすべきだと判断するだろうか?

エヴォディウス:明らかにそう判断します。

アウグスティヌス:したがって、選ぶべきことについてだれも疑わないものを彼が選び、それに心を向けるとき、彼が知恵をもってそれを選んだということを否定できないだろう。

エヴォディウス:決して否定できません。

アウグスティヌス:したがって、彼が知恵をもって選んだものに心を向けるとき、たしかにまた知恵をもって心を向けるのです。

エヴォディウス:たしかにそうです。

アウグスティヌス:また、知恵をもって選んだものに知恵をもって心を向け、どんな恐怖や罰によってでも、そこから離れることがないならば、その人は疑いなく知恵ある行いをしたのです。

エヴォディウス:疑いなくそうです。

アウグスティヌス:ですから、私たちが法則、徳の光と呼んだものがすべて知恵に属することは、まったく明らかです。実際、人は生きるためにそれを用い、またそれに従って生きれば生きるだけ、いっそう知恵をもって生き、働くのです。そして、知恵をもって行ったことが、すべて知恵から離れて行われたというのは正しくありません。

エヴォディウス:その通りです。

アウグスティヌス:それゆえ、あなたは、数の法則が真かつ不変であり、その定理と真理はそれを識別するすべての人に不変かつ共通に現前すると述べましたが、同様に、知恵の法則もまた真かつ不変です。あなたはその若干について一つずつたずねられたとき、それが真かつ明瞭で、またそれを見ることができるすべての人に共通に現前し、眺められるということはあなたは認めたのです。

11、知恵と数は同類のものである

エヴォディウス:その点は疑うことはできません。しかしその二つのもの、すなわち知恵と数がある一つの類の中に含まれるかどうかを知りたいのです。というのも、あなたが指摘したように、その二つは聖書では一緒にならんで言われているからです。しかし一方が他方から導かれ、あるいは知恵の中に含まれているというように。しかし私は、知恵が数から導かれ、あるいは数の中に含まれているとは、あえて言いません。なぜなら、多くの数学者や計算家、その他どう呼ぶにせよ、不思議なくらい上手に計算できる人々がいますが、これに反して知者はまったく少数であり、むしろいないくらいです。そこで、理由はわかりませんが、知恵は数よりもずっと尊いと、思います。

アウグスティヌス:私がいつも不思議に思っていることを、あなたは言ってくれました。実際、私が数の不変の法則を、私の中で眺め、考察するとき、私は物体からはるかに遠くに引き離されます。そして、ある思考的なものを見出しますが、それを十分表現できる言葉を見出すことがきません。それを言おうとしても疲れ果て、再び私たちの目の前にあるこの数にもどり、それを普通の呼び名で呼ぶのです。知恵についてできるかぎり努力し、めざめて注意深く考察するときも同じです。そして、知恵の数の両方がまったく隠れた確実な真理の中にあるとすると、先に挙げた、それらを一緒にならべている聖書の箇所も加わって、私にはまったく不思議に思われてきます。不思議に思われるというのは、多くの人が数を卑しく、知恵を尊ぶことについてです。もちろん、この二つが同じものだということについて驚いてはいけません。とはいえ、聖書は知恵についてこう言っています。「知恵は端より端まで力づよく及び、すべてのものを美しく整える」(知恵8・1)。このように「端より端まで力づよく及び」というとき、その力は恐らく数をさしています。だが、「すべてのものを美しく整える」というとき、それはもっぱら知恵をさしています。そして、これらは、どれも同じ知恵のもつ働きなのです。

アウグスティヌス:知恵はすべてのものに—-最小のものにも最下のものにも—–数を与えました。実際、すべての物体は最下の存在であっても、自らの数(的構成)を持っています。しかし、知恵を持つことは、物体にもすべての魂にも与えられず、ただ理性的な魂にだけ与えられたのです。それは、知恵がその中にいわば座席をおき、そこからしてすべてのものを—-数の与えられた最小のものも—-秩序づけるためであります。そこで、私たちは、物体を私たちの下にあるものとして見て、これについて容易に判断し、また、その上に刻印されていた数をも私たちの下にあると考えて、数を卑しむのです。ところが、私たちが上に向かって登り始めると、数は私たちの精神をも越え、真理そのものの中に不変的にあることが知られるのです。また知者と言える人は少数であるが、計算は愚かな者にもできるので、人は知恵に驚嘆し、数を卑しむことになります。しかし学識をもつ勤勉な人は、地上の汚れから離れれば離れるほど、真理そのものの中に、数と知恵とを見て、この両方を尊びます。金銀その他、人々の争うものは、この真理と比べて価値のないものであり、争う人自身もまた価値のないものとされます。

アウグスティヌス:数の計算は知恵をもつよりも容易なので、人は数を卑しみ、知恵を尊びますが、あなたはそのことで驚いてはいけません。あなたも知るように、人はランプの光よりも金銀を尊びますが、たしかに金はそれと比べられないだろう。しかし、金をもつ者は少数ですが、ランプは乞食でも灯すので、はるかに卑しいものがかえって尊ばれるのです。だが、知恵が数と比べて劣るとは言えません。知恵は数と同じです。ただ、知恵はそれを見ることができる目を必要とすします。一つの火から出る光と熱は、同じ実体のように思われ、相互に分離されません。ただし、熱は火に近づくものに達しますが、光は遠く広く分散します。そのように、知恵の中に住む知解の力は、理性的な魂のように近くにあるものを熱しますが、物体のように遠くにあるものには知恵の力は届きません。物体にはむしろ数の光が注がれています。あなたは、このことをよく理解できないかもしれません。というのも、私たちは誰でもわかるように、見えるものの比喩を見えないものに適用することはできないからです。しかし、あなたは、私たちに出した問題にとって十分で、また私たちの卑しい精神にとって明らかなことだけに注目してほしい。すなわち、数は知恵の一部であるか、あるいはそれの派生物であるか、逆に知恵が数の派生物であるか、数の一部であるか、それとも、また、同じものについてこの名が言われているのか、といったことを私たちに明らかにすることができませんが、しかし知恵も数も共に真であり、不変的に真であることは明らかです。

12、理性は真理について判断するのではありません

アウグスティヌス:それゆえ、不変的に真なるこれらすべてを含む不変の真理があることを、あなたは決して否定しないだろう。そして不変の真理を、自分のものとかあなたのものとか、または、だれかのものであると言うことはできないだろう。それはむしろ、不変的で真なるものを識別するすべての人に対して、驚くべき隠れた、しかも公共の光のように共通に現前し、かつ自らを分け与える、というべきです。理性と知性をもつすべての人に現前するものが、ある人の私有物であると、だれが言うことができるだろうか。さきほど、身体の感覚について論じたことを、あなたは覚えているはずです。目や耳の感覚によって共通に触れるものは、私とあなたが同時に見て、同時に聞く色や音のように、私たちの目や耳の性質に属するのではなく、むしろ、私たち二人の共通のものとして知られるのであります。同じように、私とあなたのそれぞれが持つ精神によって共通に見られるものが、二人の中のいずれかの精神のもつ性質に属するとは、あなたは決して言わないだろう。なぜなら、二人の目が同時に見るものは、この人の目やあの人の目に属するのではなくて、二人のまなざしが一緒に向かう第三のものだと言わなければならないからであります。

エヴォディウス:そのことはまったく明らかで、まったく真実です。

アウグスティヌス:私たちは、この真実について長い間語り、この一つのものの中に多くの真なるものを認めてきたのであるが、あなたはそれを私たちの精神よりもすぐれていると思うか。それとも等しいとか劣っていると思うだろうか。しかし、真理が私たちよりも劣っているとすれば、私たちは真理に従って判断するのではなく、むしろ真理について判断することになります。ちょうど、物体は私たちよりも劣っているので、私たちはそれについて判断し、それがこうだとか、こうでないとか言い、さらにこうあるべきだとか、こうあるべきでないと、しばしば言うようなものであります。魂についてもまた、私たちはこうだと知っているだけでなく、しばしば、こうあるべきだということも知っています。実際、私たちは物体についてそのように判断し、あるべきほどに白くないとか、四角でないとか、その他そうしてことをいろいろと言います。魂については、あるべきほどには有能でないとか、穏やかでないとか、熱心でないとかと、私たちの道徳的規準に照らして言います。私たちはこうした判断を、共通に知られている内的規則にもとづいて下しますが、その規則自体について判断するのではありません。なぜなら、永遠のものが時間的なものにまさり、7プラス3が10であるというとき、そうあるべきだということではなく、ただそうだと認めるのです。つまり、人は検察官として訂正するのではなく、ただ発見者として喜ぶのです。ところで、真理が私たちの精神と等しいのであれば、真理自体も可変的であるだろう。なぜなら、私たちの精神は、ある時は真理をよく見ますが、ある時は殆どみないのであって、その点で自らが可変的であることを示しているからです。しかし、真理は自らの中にとどまるゆえ、私たちによってよく見られたために増大したり、少ししか見られなかったために減少したりしないで、完全であって朽ちることがないのです。そして、自分に向かう者に光によって喜ばせ、自分に背く者を盲目にして罰します。それゆえ、私たちはこの真理に従って、私たちの精神そのものを判断しますが、真理そのものについて判断することは決してできません。私たちは、精神が知解すべきことをほとんど知解していないとか、よく知解しているとか言います。しかし、精神は不変の真理に近づき、それに固着することができるなら、いっそうよく知解することができます。それゆえ、真理が私たちの精神以下でなく、等しくもないならば、それよりも高く、すぐれていることになるであろう。

13、真理は幸福と自由の源である。

アウグスティヌス:あなたが覚えているように、私は、私たちの精神と理性よりも高いあるものが存在することを、あなたに示そうと約束しました。見なさい、あなたの前に真理自体があります。できれば、それを抱擁し、楽しみ、「主にあって喜べ、そうすれば主は、あなたの心の欲するものをあなたに与えるうであろう」(詩編37・4)。あなたは幸福であること以上に何を求めるだろうか。そして、不変不動でもっとすぐれた真理を楽しむ以上に、どんな幸福があるだろうか。人は強い欲望を感じて妻や娼婦の身体を抱く時、自分は幸福だと叫ぶ。しかし、私たちは、真理の抱擁において幸福であることを疑うであろうか。炎熱に喉の渇いた人がたくさん湧き出る泉にたどり着いたとき、あるいは、飢えた人がおいしく豊かな食事に与ったとき、私は幸福だと叫ぶ。しかし私たちは、真理が私たちをうるおし養うときに、幸福であることをだれが否定するだろうか。人々がバラやその他の花の中で憩い、かぐわしい香りを楽しんで、私は幸福だと叫んでいる声を私たちはよく耳にします。しかし、真理の息吹にまさって香り高く、快いものが何かあるだろうか。私たちは真理を呼吸して、幸福だということをためらうだろうか。多くの人は歌声や演奏などの音のなかに幸福な生をおき、それらのものが現になければ不幸だと思い、現にあれば有頂天になって喜びます。しかし、私たちは、真理の朗々と響きわたるいわば静けさが、音もなく精神の中にしのび込んでくるとき、それ以外に幸福を求め、このように確実で現前する真理を楽しまないだろうか。人々は金銀宝石の輝きや、その他光彩あるものの輝きを喜び、また地上の火や日月星から来る可視的な光の輝きと快さとを喜びます。そして、どんな苦痛や欠乏もその喜びを奪わないことを知ると、自分は幸福だと思い、常にそのようなもののために生きることを欲します。では私たちは、幸福な生を真理の光の中に置くことを恐れるでしょうか。

アウグスティヌス:いやむしろ、最高善は真理のなかに隠され、とらえられます。そしてこの真理は知恵であります。それゆえ、私たちは知恵の中に最高善を見て、それをとらえて楽しみましょう。最高善を楽しむ人こそ、本当に幸福な人なのです。実際、最高善は、その真かつ善なるすべてのものを私たちに示します。そして、人々は自分の能力に応じてそれを知解し、その中から一つまたは多くを選んで享受の対象とします。人々は進んで見、見て喜ぼうとするものを太陽の光の中で選びます。彼らの中には、太陽ほど見て喜ばしいものはないというほど頑強な目をそなえた人もいるだろうが、しかし、太陽は、もっと弱い目の喜ぶ他のものを照らすのです。これと同じく、精神の強く鋭いまなざしは、確実な理性をもって多くの真なる不変の真理を見るとき、すべてのものを照らす真理そのものへ自らを向けるのです。そして、真理そのものに固着して、他の一切を忘れるほどになるとき、真理の中ですべてのものを同時に楽しむのです。というのも、他の諸真理において喜ばしいものは、当然真理そのものにおいて喜ばしいからです。

アウグスティヌス:この真理に服するとき、そこに私たちの自由があります。そして、真理は、私たちを死から、すなわち罪のさまから解放する神ご自身であります。真理自ら人となられて人に語り、彼を信じる者に向かって言いました。「あなたたちは、私の言葉の中にとどまるならば、本当に私の弟子となり、真理を知り、真理があなたたちを解放するであろう」(ヨハネ8・31-32)。実際、私たちの魂は平安の中に自由を楽しむのでなければ、何ものをも自由の中に楽しむことはないのです。

14、真理は私有物ではありません

アウグスティヌス:意図せずに失うことができる多くの善の中にあっては、人は平安ではありません。しかし真理と知恵は、意図しないで失われるものではありません。人は真理から場所的に引き離されるのではないからです。真理と知恵からの分離とはむしろ、劣ったものを愛する転倒した意志のことです。しかし、人は欲しないのに何かを欲することはありません。それゆえ、私たちがみな等しく共通に楽しむものは真理の中にあります。そこにはどんな狭さも不足もありません。それは、真理を愛するすべての人を互いに妬みを起こさせることなく受け入れ、すべての人に共通であり、また各人にとっての貞潔であります。だれも他人に向かって、「私が近づくから君はどいてくれ」とか、「私が抱くから君は手を離せ」などと言いません。すべての人がそれに固着し、それに触れます。それは食い尽くされることのない食べ物であります。あなたがその中から取り出したものを、私もまた取り出すことができるように、完全なままで残っています。あなたが吸い込んだものを私も吸い込むために、あなたが吐き出すのを待つといったことはない。なぜなら、それのどの部分も、ある時ある一人、あるいは数人によって私有されることはなく、同時に全体が、すべての人に対して共通だからであります。

アウグスティヌス:それゆえ、私たちが触れたり味わったり嗅いだりするものは、かの真理とほとんど似ておらず、むしろ聞いたり見たりするもののほうが似ているのです。というのも、言葉はそれを聞くすべての人に全体として聞かれるだけでなく、同時に各人にとっても全体として聞かれ、また、目に見える形姿は、一人の目に見られたのと同じものが、同時に他の人の目にも見られるからです。しかしこの類似にもかかわらず、これも真理とは非常に異なっています。すなわち、音声は全部が同時に聞こえるのではなく、時間の中に分散し広がって、一部は先に、一部は後に聞かれます。また、見える形姿はすべて、それを見る場所によって様子が変わり、どこでも全体として見られることはありません。したがって、音声や形姿は、たしかに意図せずに取り去ることができるものであって、私たちはそれを楽しもうとしても多くの困難に妨げられます。たとえば、ある人の美しい歌声が聞こえ、愛好者が競ってこれを聞きにきたとします。彼らは多数であればあるだけ、歌手に近づこうとして押し合い、場所を争うだろう。しかもそれを聞いても、自分の中にとどめて置くことはできず、ただ過ぎ去る声に接するだけであります。あるいは雲に隠れ、その他多くのものにさえぎられるとき、私は意に反してそれを見る快を失うのです。最後に、光を見、音を聞く者にいつも甘美さがあったとしても、それは私にも動物にも共通であるから、私にとってどれだけの益になるだろうか。けれども、真理と知識の美は、それを楽しむ永続的な意志さえあれば、たくさんの聴衆におくれてきた者をも、追い返しません。また、時間と共に消滅したり、聞く場所によって違ったり、夜途絶えたり、影によって隠されたり、あるいは身体の感覚に服することもありません。それを愛して世界の隅々からやってくるすべての人に最も近くにあり、永遠にあり、どんな場所にも縛られず、その響きが伝わってこない場所はありません。それは外から戒めを与え、内から教えます。そして、それを見るすべての人をいっそう善きものに変え、しかも自らは劣るものに変わることはありません。人はそれについて判断しませんが、それなしには正しく判断することはできません。それゆえ、知恵が私たちの精神よりはるかに力強いことは疑いもなく明らかです。私たちは精神はそれぞれがこの一つの知恵によって知恵を得、それについて判断するのではなく、むしろそれによって他の一切について判断するのです。

15、これまでの討論の結び

アウグスティヌス:ところで、あなたは次のことを承認しました。すなわち、私たちの精神の上にあるものを私が示すならば、さらにそれより上のものがない限り、あなたはそれを神であると告白しよう、ということであります。そこで私はあなたの承認を受け入れ、それから、精神の上にあるものを示せばそれで十分でると述べました。なぜなら、もしそれ以上すぐれたものがあるならば、それは神に他ならず、もしないとすれば、真理それ自身がすでに神だからです。それゆえ、そのようなものがあるにせよないにせよ、神が存在することを、あなたは否定できないのです。以上が、私たちの討論と探求のために提出された問題でした。私たちはキリストの聖なる教えに従って、知恵の父があることを信じ受け入れていますが、もしこのことで疑問が生じるとしたならば、私たちは、永遠の父から生まれた知恵は父と等しいことを信じ受け入れていることを想い出してほしい。しかし、これについては、今は探求するよりも堅く信じて保持すべきです。神は存在し、しかも真かつ最高に存在します。私たちは信仰によって疑うことのできないものとして保持しているだけではなく、たとえまだ弱いとしても認識の確かな形式によって触れています。今出された問題と、それに関係する種々の問題を解明するためには、これで十分でしょう。あなたは反対はないと思います。

エヴォディウス:まったく信じられないような、また言葉では言えないほどの喜びをもって、そのことを受け入れ、まったく確実なことであるとはっきりと言うことができます。その叫びは、内なる声から出たもので、そえが真理に届き、そして真理に固着することを望みます。この真理は単に善であるのでなく、最高善であり、人を幸福にすると私は認めます。

アウグスティヌス:その通りです。私も非常にうれしい。しかし、あなたに尋ねますが、私たちはすでに知者であり幸福であるだろうか。それとも、それが私たちに近づいてくれるようにと、そこへ向かっている途上にあるのだろうか。

エヴォディウス:そこに向かって歩いているのだと思います。

アウグスティヌス:あなたは先ほど、確実な諸真理を喜ぶと叫び、それが知恵に属することを認めましたが、それを一体どこで知ったのでしょうか。愚かな者でも、知恵を知ることができるでしょうか。

エヴォディウス:愚かであれば知ることはできないでしょう。

アウグスティヌス:それでは、あなたは既に知者であります。それとも、まだ知恵を知りませんか。

エヴォディウス:私はまだ知者ではありませんが、すでに何ほどか知恵を知っている限り、自分を愚かな者とは言えません。実際、私が知るものは確実なものであり、それが知恵に属していることは否定できません。

アウグスティヌス:これについてどうか言ってほしい。正しくない者は不正であり、思慮ない者は粗暴であり、節制のないものは放埓であると、あなたは言わないだろうか。これについて何か疑問があるでしょうか。☆放埓(ほうらつ):勝手気ままでしまりのないこと、身持ちの悪いこと。酒色にふけること。また、そのさま。

エヴォディウス:正しくない者は不正であると私は言います。思慮と節制についても同様に答えるでしょう。

アウグスティヌス:すると、知者ではないが愚かでもないといったことが、そもそも存在するだろうか。

エヴォディウス:そんなことはありません。知者がなければ愚かですから。

アウグスティヌス:では、あなたは、そのどちらですか。

エヴォディウス:あなたが私をどう呼んだとしても、私はまだ知者だとは決して言いません。私が今認めたことからして、自分を愚かと呼ぶことにためらってはいけないとの結論が出ると思います。

アウグスティヌス:そうだからこそ、愚かな者も知恵を知っているのです。なぜなら、今言ったように、人が知者になろうと欲していること、またなるべきであることは、知恵の観念がその人の中にとどまっているのでなければ、決して確実ではないからです。そのことは知者に属する諸徳についても同様で、あなたはそれについて問われたとき一つずつ答え、それを認識して喜んだのです。

エヴォディウス:おっしゃる通りです。

 

16、知性界への登高と知恵の賛美

アウグスティヌス:私たちが知者にあろうと努めるとき、全力をつくして、魂の全能力を、精神で触れたものにいわば集め、そこに置き、固く合わせるのではないか。こうして私たちの魂は、過ぎ行くものに魂を縛りつける私有物を喜ばず、時間空間に属するものへの愛着を断って、常に同一なるものを捉えるのではないか。実際、魂は身体の全生命であるかのように、神は魂の至福の生命です。しかし、私たちがこのように努力するとしても、それが続いているかぎりまだ途上にあります。私たちはあの真なる確実なる諸善を許されていても、雲に覆われた道にあっては、それはなお一瞬の稲妻にすぎません。このことは、知恵の書物で言っているように、知恵を愛する者が知恵の許に行って尋ねたときの答えではないだろうか。すなわち、こう言われました。「知恵は途上でやさしく現れ、あらゆる摂理をもって彼らに出会う」(知恵6・17)。実際あなたがどの方向を向くにせよ、知恵は自らの作品に刻印した痕跡を通じてあなたに語りかけ、あなたが外のものに落ちて行った時には、その外のものの形を通じて知恵の内側に呼び戻すのです。その結果、身体の感覚に訴えてあなたを誘い、あなたを喜ばせた物体は、みな数(的構成)を持つことを知るでしょう。その構成がどこから来たと尋ねるならば、あなたはあなた自身に帰り、美のなんらかの法則をそこに持ち、外に知られた美をこれに関係させるのではないなら、身体感覚が得たものを判断して美しいとか美しくないとか言うことはできない、と知るに至るであろう。

アウグスティヌス:天と地と海と、その中にあるもの、その上に輝くもの、その下に這うもの、飛ぶもの、泳ぐものを見なさい。これらはみな数をもつために、みな形をもっています。数を取り去れば、もう何も残りません。それは数の創造者によらなければ、何によって存在するであろうか。それは大きな数をもてばもつほど、それだけ大きな存在をもちます。工芸家は、物体の全形態の数(的構成)を技術としてもち、作品にその数を合わせてつくります。彼は自分の外につくるものが内なる数の光に照らされてできるだけ完全なものとなり、さらに、上にある数(イデア数)を眺めている内なる判定者が、感覚の知らせを受けて作品に満足するまで、手と道具をもって制作に従事します。では次に工芸家の手を動かしているのはだれかとたずねてみなさい。それは数であろう。なぜなら、彼の手も数に従って働くからです。あなたが彼の手から作品を奪い、彼の魂からの制作の意志を奪って、その体を娯楽のために働かせるならば、彼は舞踏を始めることになります。それでは、舞踏のとき何が彼を喜ばせるかと問いてみなさい。数があなたにこう答えます、「見なさい、私がそれだ」と。形ある物体の美に注目しなさい。それは空間の中に含まれる数であります。動く物体の美に注目しなさい。それは時間の中に広がる数です。これらの数がそこに由来する技術の中に入っていき、そこに時間と空間があるかとたずねてみなさい。しかしそこにはどんな時間も、空間もないだろう。だがそこには数が生きています。数の家は空間領域ではなく、日々の連続でもありません。しかし、工芸家になろうとする人々は、技術の習得に心がけ、身体を時間空間の中で動かし、魂を時間の中だけで動かし、こうして時の経つと共にいっそう巧みになるのであります。あなたは工芸家の魂を越えて、永遠の数を見なさい。そのとき、知恵は内なる座から、真理の聖所から、あなたの上に光を放つであろう。その光があなたの目をくらませるなら、知恵が自らやさしく現れた道に、あなたの心を向けなさい。そして、やがて強くなって再び求める時のために、今はそれを見るのを延期したとのことを、よく覚えておくように。

アウグスティヌス:浄められし精神のいと甘美な光である知恵よ。あなたを導き手とするのをこばみ、あなたの足跡の中で迷い、あなたに代わってあなたの徴を愛し、あなたの合図を忘れる者は禍です。なぜなら、あなたはあなたが何者であり、いかに偉大であるかを、たえず私たちに合図しているからです。あなたの徴は、あなたのつくった全てのものの飾りです。いったい、工芸家はその作品を鑑賞する者に、作品の美を通じて何らかの仕方で徴を示し、これによって鑑賞する者は作品だけ心を奪われず、むしろつくられたものの形を目で追いつつ、感動を受けて制作者のことを想い出すのです。しかし、あなたの代わりにあなたのつくったものを愛する人は、ちょうど雄弁な知者の弁論を聞いて、声の快さや巧みにならぶ語句に耳を傾けても、話の中心を理解しない人に似ています。その巧みな言葉は、いわば記号として響いたにすぎないのです。あなたの光に背き、自らの闇にとどまることを楽しむ者は禍です。彼らは、あなたに背を向け、自分の影である肉的なわざに落ちています。だが、彼らがそこで喜んでいるものは、実は、あなたの光の溢出によって得ているのです。しかし彼らが影を愛する限り、精神の目は一層弱くなり、あなたを見続ける力を失います。そこで人は、自分の弱い目に耐えられる限りで受け入れたものに耽るのを喜んで、いっそう暗くなるのです。その結果、彼らは最高存在が見えなくなり始め、また、彼らを欺いて盲目にし欠乏に陥り、彼らをとらえて苦しめるものが悪であることがわからなくなり始めます。だが、この悪をこうむるのは彼らの逆転の報いであります。正しいものは悪でありえないのです。

アウグスティヌス:身体の感覚や精神の思考によって、見ることのできる可変的なものをとらえることができたならば、それは可変的なものが、何らかの数の形相によって保持されているからにほかなりません。これが取り去られるならば、可変的なものは無に帰すであろう。しかし、あなたは、永遠不変の形相があることを疑ってはなりません。可変的なものはこれによって中断を免れ、測定される運動のなかで形相のさまざまの相違を持ちつつ、いわば時間のあぜ道を最後まで歩み通すのです。その永遠の形相は、場所の中に置かれていわば分散されず、また時間と一緒に伸びたり変化したりもしません。しかし、すべての可変的なものはこれによって形づくられることができ、それぞれの類に従って一定の分量の時間的空間を満たして占拠することができるのです。

 

17、善きものはすべて神から来ます。

アウグスティヌス:可変的なものはみな、必ず形をもつことができるものです。私たちは変化することのできるものを「変化を受け入れることができるもの(可変的なもの)」と呼ぶように、形づくられることができるものを「形をもつことができるもの」と呼びます。しかし、どんなものの自分自身で形を与えることはできません。ですから、今言ったように、何ものも自分で形づくることはできません。魂と身体の可変性についてこれ以上言うべきことがあるでしょうか。私たちはもう十分に述べました。そこで、魂も身体も、ある不変で常にあり続ける形相によって形づくられる、と結論されます。この不変の形相についてこう言われています。「あなたはそれらのものを変え、それらのものは変えられる。しかしあなたは常に同じであり、あなたの年はつきることはありません」(詩編10・27-28)。預言者は「つきることはない」という言葉でもって永遠を示しています。そして、その形相についてまた、「それは常に自らの中にとどまりつつ、万物を新たにする」(知恵7・27)と言われています。ここからしてまた、すべてのものが摂理の支配下にあることが理解されます。なぜなら、存在するすべてのものは形がすっかり取り去られれば無になりますが、不変の形相そのものはそれらのものの摂理であり、すべての可変的なものはこれによってであり、与えられた形相の数で満たされ、動かされるのです。たしかに、この不変の形相なしには可変的なものは存在することはできません。それゆえ、知恵をめざして進む者は、全世界を眺めて思いめぐらすなら、知恵が途中でやさしく現れて、あらゆる摂理をもって自らを示すことを知ります。そして、この道が知恵によって美しければ美しいほど、彼はそこに至ろうと心が燃え、ますます力を得て踏破しようと努めるのです。

アウグスティヌス:存在するが生きていない者、存在し生きているが理性のないもの、存在し生き理性のあるもの—-これら三つのほかにも被造物の種類があると考えるなら、あなたは、神に由来しない善いものがあると、あえていうことになろう。これら三つの類を、身体と生命の二つの名によって示すことができます。というのも、動物のように生きているだけで理性を持たない生命も、人間のように理性をもつ生命も、共に生命と呼んでいいからです。もちろん、この二つの類—身体と生命—-は被造物に関してであります。(創造者自身の生命は最高の生命である)。そこで、二つの被造物としての身体と生命は、先に述べたことで明らかなように、形をもつことができるものであり、逆にそれを失うならば無に帰すのだから、常に同じ姿で存在するかの形相によって存在することをはっきり示しています。すべて善いものは、大きい善も小さい善も神によらず存在することはできません。被造物の中では、理性をもつ生命より大きいものはなく、身体よりも小さいものはありません。しかし、それがどんなに欠けたものとなり、そのため非存在に傾くとしても、何らかの形がその中に残る限り、何らかの仕方で存在するだろう。この欠けたものの中に残る形は、欠けることのないかの形相に由来し、諸物の増加減少の運動を数の法則に従わせます。それゆえ、諸物の本性の中に見られる賞賛すべきものはみな、それが小さな賞賛に、あるいは大きな賞賛に価すると判定されるにせよ、創造者の高く言い表しがたい賛美に向けられねばなりません。あなたはこれについて何か言うことがあるだろうか。

 

18、自由意志もまた神から来る

エヴォディウス:十分納得できたと言わねばなりません。神が存在し、かつすべての善きものは神から来ることが、私たちの地上の生にあって可能な限り、また私たちのような者の間で可能な限り明らかにされました。理性をもち生き存在するもの、たんに生き存在するもの、たんに存在するだけのもの—-これらの存在するものはみな、神によって存在するのです。それでは、第三の問題を考えましょう。それは、自由意志を善きものの中に数えることが証明できるかどうかです。これが論証されたなら、神が私たちに自由意志を与えたこと、かつ与えねばならなかったことが直ちに承認できるでしょう。

アウグスティヌス:あなたは先に提出した問題をよく覚えています。また、第二の問題がすでに解決されていることをすばやく観取しました。しかし、あなたは、第三の問題もすでに解決されていることを知らないといけません。なぜなら、あなたはこう言いました。人は自由な意志の決定において罪を犯したのだから、それは与えられるべきではなかったと思われる、と。私はその意見に反対して、同じ意志の自由な決定によるのでなければ、人は正しい行いをなしえないと述べ、かつ正しい行いをなすためにこそ神はそれを人間に与えたのだ、と断言しました。そのとき、あなたは、私たちは正義を正しく用いること以外にはできないのであるが、その正義が与えられたと同じ仕方で自由意志も与えられるべきだった、と答えました。私たちの討論は、この答のおかげで大変な回り道をさせられたけれども、しかしそれによって、大きな善も小さな善もみな神から来ることを証明できました。実際、心の中に「神はない」(詩編14・1)という愚かな者の不敬虔な考えを最初に退けておかなかったら、あのように明らかな結論を出すことはできなかったでしょう。というのも、この危険な旅の中で、神の助けをえてある答えに達したとしても、私たちが理性をもって始めることは、こうした大問題に対しては貧しい手段でしかないからです。ところでこの二つ、神が存在すること、すべて善いものは神から来ることは、以前から固く信じていることですが、なおそれを論じたのは、自由意志を善いものの中に数えられるべきだとの第三の問題を真に明瞭にするためなのでした。

アウグスティヌス:身体の本性は位階上、精神の本性に劣り、それゆえ精神は身体よりも大きな善であることを先の討論が証明し、お互いこれに同意しました。そこで、私たちは、善い身体の中に、人が不正に用いるものを見出すとしても、そのため、それは与えられるべきではなかったと言いません。それは善いものだと、私たちは言っているのだから。すると、不正に用いられるにも関わらず、精神の中に善いものがあるとしても、驚いてはいけません。それらは善いのであり、あらゆる善の源である、かの善によらないでは与えられなかったのです。手のない身体がいかに善を欠くか、あなたは知っています。しかし手があったとしても、それによって残酷卑劣なことをする人は、手を悪く用いるのです。あなたは、足のない人を見て、その身体は不完全で大きな善を欠いていると言うだろう。しかし足があっても、人を傷つけたり、自分を汚すために用いるならば、足を悪く用いていることを、あなたは否定しないでしょう。私たちは見える光を目で見て、物体の様々な形を識別します。目は身体の中でもっとも尊く、そのため名誉席である頂上(頭)に置かれています。そして目の使用は、生命の安全を守るために役立ち、その他多くの利益を生命にもたらします。しかし、多くの人は目を用いて、恥ずべきことを行い、目を自分の欲情に仕えさせます。あなたは、目のない顔がいかに善を欠くかを知っています。しかし目が備わっているならば、それはすべて善いものの贈り主である神が与えたものにほかなりません。だから、あなたは身体に属するこれらの部分を認め、それを悪く用いる人を見ないで、むしろこの善いものを与えた方を讃えるのと同じように、自由意志をも讃えるべきです。たしかに、人は自由意志なしには正しく生きることはできません。それは善いものであり、神から与えられるべきものでした。そして、与えるべきでないものを与えたといって、与えた方を非難するのはやめて、むしろその善いものを悪く用いる人こそ非難すべきです。

エヴォディウス:まず第一に、自由意志が何らかの善であることを証明してください。そうすれば、すべての善が神からくることを私は認めているので、それが神から与えられたことを認めることができます。

アウグスティヌス:要するに、私は先の討論で、その点をあれほど苦労して証明したではありませんか。あなたはその時、身体の一切の美と形は万物の最高の形相である真理によって成ることを認め、またそれらが善であることに同意しました。「私たちの髪の毛までも数えられる」と、真理自ら福音書の中で言っています(マタイ10・30)。あなたは、数の高貴さと、端から端にかで及ぶ神の力について述べたことを忘れましたか?私たちの髪の毛はまったく小さく卑しいものでありますが、それを善いものの中に数え、そしてそれをすべての善の創造者である神以外のどんな製作者にも帰さないことが、本当に正しいのです。なぜなら、大きな善も小さな善も、すべての善の創造者である神によって存在するからです。自由意志もこのことを疑ってはいけません。もっとも悪く生きる人も、それなしには正しく生きることができないことを認めているのです。さて次の問いに答えてほしい。私たちの中にあるもので、それなしでも正しく生きられるものと、それなしには正しく生きられないものとでは、どちらが善いと思いますか。

エヴォディウス:もう許してください。自分の盲目を恥じています。それなしには正しく生きられないもののほうがずっと善いことを、だれが疑うでしょうか。

アウグスティヌス:するとあなたは、片目でも人は正しく生きることができることを否定しますか?

エヴォディウス:それを否定するほど、ばかではありません。

アウグスティヌス:あなたが認めるように、身体の目は善いものですが、それがなくても、正しく生きることに妨げにはなりません。すると、だれも、それないには正しく生きることができない自由意志が善でないと、あなたは思うだろうか。

アウグスティヌス:正義については、だれもそれを悪く用いないことをあなたは知っています。正義は人間のもつ善の最高のものです。また、正しく有徳な生をもたらす精神のすべての徳もそうです。まただれも思慮や勇敢や節制を悪く用いません。あなたの挙げた正義と同様、これらすべての徳にあって正しい理性が支配し、これなしには徳は、徳であることができません。そして、だれもこの正しい理性を悪く用いることはできないのです。

 

19、神からくる諸善の中での自由意志の位置

アウグスティヌス:それゆえ、これらの徳は大きな善です。しかし大きな善だけでなく、どんな小さな善でも、すべての善の源である神によるのでなければ、ありえないことを、あなたは忘れてはなりません。これは先の討論の結論であり、あなたはいつも喜んで同意しました。したがって、人がそれによって正しく生きる徳は大きな善でありますが、身体の美は、それなしにも正しく生きられるものであるから、もっとも小さな善であります。他方、精神の諸能力は、人はそれなしには正しく生きることができないので中間の善です。人は徳を悪く用いることはありませんが、他の中間の善と最小の善は、善く用いるだけでなく悪く用いることもできます。徳を悪く用いないのは、悪く用いるものを善く用いることが、徳の働きだからです。人は、善く用いながら悪く用いるということはありません。それゆえ、神は溢れ出る大きな恵み(善性)によって、大きい善ではなく、中間の善も最小の善も、私たちのために用意したのです。神の恵みは、中間の善よりは大きな善において、最小の善よりは中間の善において、いっそうたたえられるべきでしょう。しかし、神がすべてのものに等しく善を分け与えなかったとしても、すべてのものにおいて、神の恵みをいっそうたたえなければなりません。

エヴォディウス:同意します。しかし、自由意志に関する困難な問題が、私をまだ苦しめています。ご存じのように、自由意志は自分以外のものを、善く用いたり、悪く用いたりしますが、それ自身もまた私たちの用いるものの中に数えられるのは、なぜでしょうか。

アウグスティヌス:知識の対象として認識されるものはみな理性によって認識されますが、理性自身また、理性によって認識されるものの中に数えられます。それとも、私たちが理性によって認識されるものを探したとき、あなたは理性もまた理性によって認識されると告白したことを忘れましたか。そこで、私たちは自由意志によって自由意志以外のものを用い、また自由意志においては、自らによって自らを用いることができることに、驚いてはいけません。それゆえ、他のものを用いる意志自身、自分をも用いるということは、理性が理性以外のものを知ると共に自らをも知ることと同じです。記憶もまた、それが記憶する他のものをとらえるだけではありません。私たちは自分が覚えていることを忘れないのだから、私たちの内に、何らかの仕方で自分をも記憶するのです。記憶は他だけではなく自分をも記憶します。あるいは、私たちは記憶によって、他のものと記憶自身とを記憶する、と言うことができます。

アウグスティヌス:それゆえ、意志は中間の善です。この意志が、すべての人に共通でだれの私有でもない不変の善に固着するとき—その不変の善はかの真理のようであります。私たちは真理についてすでに多くを語りましたが、なおふさわしいことを何も語っていません—、人は至福の生を持ちます。そして、至福の生そのものが、すなわち、不動の善に固着する精神の状態が、人間に固有の第一の善なのです。もちろん、悪く用いることのできないすべての徳も人間の中にありますが、それらは人間のもつものの中で第一の大きな善であるにしても、なお各人に固有のもので、共通の善ではありません。この点は充分に理解されたはずです。真理と知恵は万人に共通です。それに固着するなら人はみな知者となり、幸福な者となります。人は他人の幸福によって幸福になるのではありません。なぜなら、他人を模倣して幸福になることを求めても、その他人は、かの不変の共通の真理によって幸福になったのでと知れば、彼自身もその真理によって幸福になろうとするからです。また他人の思慮によって思慮ある者となるのではなく、他人の勇敢によって勇敢な者となるのではなく、他人の節制によって節制な者となるのではなく、他人の正義によって正義ある者となるのではありません。むしろ、万人に共通な真理と知恵の中に不滅に生きる不変的な規範と徳の光に自らの精神を合わせるとき、人はそのような者となります。彼が模倣しようとした有徳で至福な人も、これに自らの精神を合わせ結んだのです。

アウグスティヌス:それゆえ、意志は中間の善でありますが、それが共通かつ不変の善に固着するなら、人間の第一の大きな善を完成にもたらします。しかし、不変かつ共通の善に背いて、自分だけの善や外側の善や劣る善に向かうとき、意志は罪を犯します。意志は、自分で自分を支配しようとするとき自分だけの善に向かい、他人のものや自分に属さないものを知ろうとして夢中になるとき外側の善に向かい、また肉体の快を愛するとき劣っている善に向かいます。こうして人は高慢となり、好奇心にみち、淫らになり、すぐれた生に比べて死にほかならない異なる生に捉えられます。しかし、そういう生でも、神の摂理によって支配され管理されています。この摂理は、それぞれのものにふさわしい場所を定め、それぞれの功績に応じたものをそれぞれに配分します。それゆえ、罪人の求めるこれらの善は決して悪いものではなく、また自由意志自身もそうであります。自由意志が中間の善であることは、すでに確かめられました。しかし、不変の善に背いて可変の善に向かうことが悪であります。そして、この背きと逆転は強制によるのではなくて意志的なものであるため、そこに当然の正しい罰としての悲惨が伴うのです。

アウグスティヌス:しかし、あなたはこう尋ねるかもしれません。意志は不変の善に背いて、可変的な善に向かう時、動かされるのです。すると、その運動はどこから意志に来るのか。人は自由意志なしには正しく生きることができないため、それは善いものと数えられるべきですが、しかしこのような運動は確かに悪です。そして主なる神からの意志の背きであるこの運動が疑いなく罪であれば、私たちは神を悪の創造者ということはできません。だから、その運動は神から来るのではありません。では、それはどこから来るのか、と。あなたのこの問いに対し、知らないと答えるなら、私はあなたをもっと嘆かせることになります。しかし、これが本当の答えなのです。なぜなら、人はないものを知ることができないからです。とにかく、あなたはかたく敬虔を保ち、神に由来しない善が、あなたの感覚や理性やその他何らかの仕方での思考に現れることのないようにすべきです。実際、神に由来しないものがそこに現れてくることはありません。あなたは、限度と数と秩序をもつものを見たなら、躊躇せずに、それらすべてを制作者である神に帰さねばなりません。しかしそうせずに、限度と数と秩序だけをそこから取り除こうとすると、そこには何にも残りません。何らかの形相の何らかの発端は残るでしょう。しかしそこには、限度も数も秩序も見出すことはできません。これらのあるところに完全な形相があるからです。それでは、形相の発端をも取り除いてみたらいいです。これは制作者が仕事をするために用いる素材のようなものであります。そして、形相の実現が善であるならば、形相の発端も、すでに何らかの善であります。そこで、あらゆる善を取り除くとき、まだ何かが残っているのではなく、もはや何も残りません。しかし、すべての善は神に由来します。それゆえ、神によらないで存在するものは何もありません。こういうわけで、私たちが罪であると告白したあの背反の運動は、「欠け」を持つ運動です。すべての欠けは無から来ます。そこで、その運動が何に属するか考えてみなさい。あなたは、それが神に属さないことを決して疑わないでしょう。しかしこの欠けは、意志の欠けであって、私たちの権能の中に置かれています。したがって、あなたがそれを恐れるなら、それを欲しさえしなければいいです。欲しなければ、生じることはないだろうから。そして、あなたの欲しないものが、あなたに出会うことのない生の中にあることほど、安全なことはありません。けれども、人が進んで倒れた時は、それと同じように進んで立ちあがることはできません。それゆえ、神は右の手を上からさし伸べられました。すなわち、私たちの主イエス・キリストです。私たちはかたく信仰をもって彼を保ち、希望をもって待ち、熱心に求めようではありませんか。罪の起源についてなお熱心にたずねるべきことがあるとあなたは考えるであろうが—-私はもうないと思います—-、それは別の日の討論で行います。

エヴォディウス:あなたの意志に従って、今起こる疑問は他の機会にゆずることにします。あなたはその問題が十分解決されたと思うかもしれませんが、私はまだ同意しかねています。

第3巻:たとえ自由意志が罪を犯しうるものであるにせよ、それが宇宙の秩序に参加している限りは、神はこの秩序ゆえにたたえられるべきです。

 

1、神に離反する意志の責めるべき運動は、ただ自由な決定から生じる

エヴォディウス:自由意志は善いものの一つと数えるべきであり、しかも決して小さな善ではないことが、私によくわかりました。それゆえ、私たちはまた、自由意志が神から与えられたものであり、与えられることはよいことであった、と告白しないといけません。しかし、今ちょうどよい時だとあなたが思うのであれば、どうかこのことを私に教えてください。意志が共通で不変の善から離れて、自分だけの善や価値の低い善などに個々の善に向かい、こうして可変の善に向かうあの運動は、どこから起こるのでしょうか。 

アウグスティヌス:なぜそれを知る必要がありますか? 

エヴォディウス:というのも、私たちに与えられた意志の運動が自然本性なものであれば、それが可変の善に向かうことは必然的であるし、こうして自然本性と必然性とが支配するところでは、どんな責めも見出されないからです。 

アウグスティヌス:そのような運動はあなたには好ましいものであるか、それとも好ましくないものであるか。 

エヴォディウス:好ましいものではありません。 

アウグスティヌス:では、あなたはそれを非難するだろう。 

エヴォディウス:とうぜん、非難します。 

アウグスティヌス:すると、あなたは、魂の責のない運動を非難していることになります。 

エヴォディウス:私は、魂の責めのない運動を非難しません。しかし、魂が不変な善を捨てて可変の善に向かうとき、それが責めるべきものであるかどうか、私は知らないのです。 

アウグスティヌス:すると、あなたは、自分の知っていないことについて非難しているのです。 

エヴォディウス:言葉でいじめないでください。「それが責めるべきものかどうか知らない」と言ったのは、実はそれが疑いようもなく責めるべきものであることを知解したいと思ったからです。つまり、「知らない」というその言葉をもって、自分が明白な事柄に関して疑問を抱いていたことを、大いに嘲ってみたのです

アウグスティヌス:何がもっとも確実な真理であるかを考えて見なさい。あなたがたった今口にした言葉をたちまち忘れてしまったのは、真理があなたを駆り立てているからです。実際、あの運動が自然本性や必然性によって起こるとすれば、それは決して責めるべきものではありません。ところがあなたは、それが責めるべきものだと強く思い込み、その結果として、これほど確実なことを疑うことは嘲るに価すると思うようになったのです。それでは、あなたはなぜ、自ら明らかに間違いであると確信することを肯定し、あるいはせめて躊躇しながら語るのがよいと思ったのか。あなたはこう言ったではありませんか。「私たちに与えられた自由意志の運動が自然本性のものであれば、それが可変善に向かうことは必然的であるし、こうして自然本性と必然性とが支配するところでは、どんな責めも見出されない」と。しかし、あなたは、可変善に向かう意志の運動が責めるべきものであることを疑っていないのであるから、そのような運動は意志の自然本性によるものでないことを、疑ってはいけないのです。 

エヴォディウス:私は、その運動自体が責めるべきものであると言い、それゆえまた、それは私に好ましいものではなく、非難に価すること、と言いました。けれども、魂の自然本性が必然性によって動かされるのであれば、これによって不変の善を離れて可変の善に向かうとしても、この魂が責めるべきものであるとは言えない、と私は思います。

アウグスティヌス:あなたは、その運動が間違いなく責めるべきものであると認めていますが、しかし、それは一体何に属する運動であろうか。 

エヴォディウス:私は、それが魂の内にあることを知っています。しかし、何に属するかを知りません。

アウグスティヌス:魂がその運動によって動かされることを、あなたは否定しないだろう。 

エヴォディウス:否定しません。

アウグスティヌス:では、石がある運動によって動かされるとき、その運動が石に属していることをあなたは否定するだろうか。たとえば石が空中に投げ上げられる時のように、私たち、あるいは、他の何かの力によって動かされる時の運動ではなくて、石が自分の重さによって地面に落ちる時の運動です。 

エヴォディウス:私は、あなたの言う傾いて落ちる運動が石に属していることを承知します。しかしそれは自然本性的な運動です。そして、魂もこれと同じ仕方で動くのだとすれば、たしかに自然本性的な運動であって、自然本性的に動かされることで魂を非難することは、正当には許されません。なぜなら、魂が滅びに向かって動かされるとしても、それも自然本性の持つ必然性によって強制されたものだからです。とはいえ、私たちはその運動が責めるべきものであることを疑っていないのですから、これは絶対に自然本性的ではあるとは言えません。したがって、これは、石が自然本性的に動く時の運動とは似ていません。 

アウグスティヌス:以前の討論で確認したことがありますね。

エヴォディウス:たしかにあります。 

アウグスティヌス:では思いだすと思いますが、最初の討論では、精神は自分の意志以外のものによって欲情の奴隷となることはない、とのことが十分確かめられました。すなわち、精神は自分以上のものによっても、自分に等しいものによっても、この恥ずべき行為へと追い立てられることはありえません。なぜなら、それは正義に反するからです。また自分以下のものによってでもありません。なぜなら、それは不可能だからであります。そこで、残るのは、精神の持つ固有の運動によってであり、精神はそれによって意志を創造者から離れさせ、被造物を楽しむほうへと向かわせるのです。この運動が責めるべきものと認められるのであれば、それは確かに自然本性的な運動ではなくて意志的な運動であります。石の落下運動が石に属しているように、それが魂に属しているという点では、石の固有な運動に似ているでしょう。けれども、石自らは落下運動を止める力を持ちませんが、魂は欲しさえしなければ、自分よりもすぐれたものを捨てて劣るものを選ぶように動かされることはないという点で、石の運動とは似ていません。その運動は、石にとって自然本性的でありますが、魂にとってたしかに意志的であります。それゆえ、石は自分の重さによって下へと向かうことで罪を犯す、という人がいたならば、彼は石よりも愚かだと言わないまでも、まったく気が変であると断じるでしょう。しかし、魂が自分の快のためにすぐれたものを捨てて、劣るものを選ぶことが起こるとき、私たちは、その魂に罪を宣告するのです。そこで私たちは、不変の善から離れて可変の善へ向かう意志の運動がただ魂にのみ属し、かつこれは意志的な行為であり、従って責めるべきものである、と言いましょう。そして、このことに関するすべての有益な教えは、私たちがそのような運動を退け抑制することにより、私たちの意志を時間的な諸物への転落から引き離して、永遠の善へと向けることに役立ちます。そうであれば、そのような運動がどこから起こると問う必要が何かあるだろうか。 

エヴォディウス:わかりました。あなたの言われたことは真理です。私はいわば手でもってそれに触れ、それをつかみました。実際、私が意志を持ち、かつ意志によってあるものを楽しむことができるように動かされるということほど、心から確実と思われることはありません。もし欲したり欲しなかったりする意志が私のものでないとしたならば、それ以外に私のものと言えるものは何もないでしょう。それゆえ、私が意志をもって悪をなすとき、それは私以外のものに帰せられるべきではありません。もちろん、善い神が私をつくり、かつ私の意志によらないならば、どんな善もすることができないならば、意志は善を行うべく善い神から与えられたとのことは、まったく明瞭だからです。もし意志をあれこれの方向へ向ける運動が意志的なものではなく、私たちの権能の中に置かれていないとしたならば、いわば意志の軸木をいっそうすぐれたものに向けても賞賛される必要はなく、また劣れるものに向けても責められる必要はないでしょう。さらにまた、時間的なものを捨てて永遠的なものを得ようと願い、悪い生ではなく善い生を願うようにと人々に勧めることも、まったく不必要になるでしょう。しかし、人間はそういう勧めを受ける必要は元々ないのだと考える人がいたとすれば、その人を人間のなかに数えないようにしないといけません。 

 

2、神の予知と人間の罪について。問題の提出。

エヴォディウス:そのとおりだとしても、私を言いようもなく苦しめる問題があります。神は未来一切の出来事を予知し、しかも私たちがどんな必然性によらずに罪を犯すということが、どのようにしえありうるのでしょうか。もちろん、神が以前予知したのと別のことが生じると主張する人がいるとすれば、その人はこの上なき愚かと不敬虔によって、神の予知をむなしくしようと企てる者です。ですから、最初につくられた人間がやがて罪を犯すであろうと神が予知し—-神は未来一切の出来事を予知することを認める人は、私のこの考えに同意するはずです—-、そして実際にその通りになったとしても、私は、神が人間をつくるべきでなかったとは言いません。神は人間を善きものとしてつくったからです。また善きものとしてつくったのであれば、人間の罪が神のわざを妨げることはできないでしょう。いいえ、神は人間をつくることによって自らの恵みを示し、罰することで正義を示し、解放することによって憐みを示したのです。だから、私は、神は人間をつくるべきではなかったとは言いません。しかし、こう言います。最初の人間が罪を犯すであろうと神は予知したゆえ、神が将来起こるであろうと予知したことは必ず起こるべきであった、と。すると、かくも不可避の必然性が明らかな場合、自由意志はどのようにして起こるのでしょうか。 

アウグスティヌス:あなたは激しく戸を叩きました。神が憐れみをもって近づき、叩く者に戸を開けてくださるように。しかし私の信じるところでは、大抵の人がこの問題に苦しむのは、敬虔にたずね求めることをしないからであって、ほかの理由はありません。彼らは自分の罪を告白するよりは、それを弁解するのに急であります。実際ある人々は、神の摂理は人間の事柄を支配しないと勝手に想定し、魂と身体を偶然の運命にゆだね、欲望に身を渡して、それが引き回し引き裂くのにまかせて、神の裁きを否定し、人間の裁きをごまかし、自分を訴える者を運命の女神の保護によって退けることができると思っています。しかし彼らは、彫刻や絵画において、その女神の目をつぶしたり塗りかくしたりするのが常です。そうするのは、彼らは自分たちの支配者と思う女神よりもまさっているからであり、それともまた、自分たちも同じ盲目ゆえにこんなことを考えていると告白するためです。実際、彼らの行いは、すべて偶然によるものと認められても、少しも不思議ではありません。彼らはその行いによって堕落するからです。しかしこの愚かで狂った、誤謬に満ちた見解については、私たちはすでに第二の討論で十分論じたと思います。またある人々は、神の摂理が人間の一生を支配することをあえて否定しませんが、しかし、罪を告白して敬虔に赦免を求めようとはしないで、かえって摂理が無力で不正で悪いものだと信じるような、赦しがたい誤謬に陥ることを望んでいます。これらの者がみな、心を開いて教えを受け、もっと善く、もっと正しいく、もっと強い方のことを考え、神の善と正義と力は、思考のとらえる何ものにもまさってはるかに偉大で、はるかにすぐれていると信じたとしよう。また彼らが、自分自身をかえりみて、たとえ神が今あるよりか卑しい存在を私に与えるのを欲したとしても、なお神に感謝すべきであることを、悟ったとします。そして彼らが心から、「私はいった、主よ、私を憐れみ、私の魂を癒してください。私はあなたに向かって罪を犯したからです」(詩編41・4)と大声で叫んだとします。そうすれば彼らは、神の憐れみの確かな道を通って知恵に導かれるであろう。そうすれば、彼らは、見出したものによって高ぶらず、見出しなかったものによって心を乱されず、知によって真理をさらによく見る者となり、無知によって忍耐強く探求する者となるだろう。ところで、あなたは以上のことをすでに学んでいると私は信じて疑いません。そこで、まずあなたが、私の若干の質問に答えてくれるならば、あの大きな問題に私が容易に答えることがわかるだろう。 

3、神の予知は人間の自由意志を不必要としない。

アウグスティヌス:神は未来一切の出来事を予知し、しかも私たちは必ず必然性によらず意志によって罪を犯すということが、どうして矛盾撞着しないのか。—-たしかに、あなたはこの問題に苦しみ、不思議に思っています。あなたは言いました。神は人間が罪を犯すであろうことを予知しているのであれば、人間は必然的に罪を犯します。そして必然的であれば、罪を犯すとき意志の自由な決定はなく、むしろ不可避で確定的な必然性があるのだ、と。こういう推論の結果、神が未来一切の出来事を予知することを不敬虔にも否定し、あるいはそれが否定できないにしても、罪を犯すのは意志によらないで、必然性によってであると主張するに至ることを、あなたは恐れています。あなたが苦しんでいる問題は他にありますか。 

エヴォディウス:今はそれ以外にありません。 

アウグスティヌス:すると、あなたは、神が予知しているすべてのことが、意志によってではなく、必然性によって起こると考えていますね。 

エヴォディウス:まったくそのように考えています。 

アウグスティヌス:それでは、目を覚まし、しばらくの間あなた自身に目を向けて、できるなら次の問いに答えて欲しい。あなたは明日どういう意志を持つか。罪を犯そうとする意志か、それとも正しいことをなそうとする意志であるか。 

エヴォディウス:私は知りません。 

アウグスティヌス:おや、するとあなたは、神もそれを知らないと思いますか。 

エヴォディウス:決してそうは思いません。 

アウグスティヌス:それでは、こうです。神はあなたの明日の意志を知り、また今と後に来るすべての人の未来の意志を予見しています。そうであれば、神は正しい者と不敬虔な者についてなそうとしていることを、はるかによく予見しているのです。 

エヴォディウス:そうです。神は私の行為を予知しています。そしてそう言えるのであれば、神は自らわざを予知し、やがて起こるであろうことをきわめて確実に予見していると、いっそう安んじて言うことができます。 

アウグスティヌス:それゆえ、次のようにいう者には警戒すべきではないか。神の予知する一切が意志によらず必然性によって起こるとすれば、神が将来なすであろうことも、意志によらず必然性によってなすであろう、と。

エヴォディウス:私は、神の予知した未来一切が必然性によって起こると言ったとしても、神の被造物の中に起こるであろうことだけを考えているのであって、神自身の中に起こるであろうことを考えているのではありません。なぜなら、神自身においては、それは起こるのではなく、永遠にあるはずだからです。 

アウグスティヌス:すると、神は自らの被造物の中で働くものは何もないことになります。 

エヴォディウス:神は、自らつくった宇宙の秩序を一度限り定めたのです。なぜなら、神は何らかの新しい意志によって支配することはしないからです。 

アウグスティヌス:いったい、神はだれをも幸福にすることはしないのか? 

エヴォディウス:いいえ、幸福にします。 

アウグスティヌス:人間が幸福になるとき、いうまでもなく神がそうするのです。 

エヴォディウス:そのとおりです。

アウグスティヌス:だから、例えばあなたが来年幸福になるとすれば、それは、神が来年君を幸福にすることであります。 

エヴォディウス:そうです。 

アウグスティヌス:それゆえ、神は来年なすであろうことを、すでに今日予知しているのです。

エヴォディウス:神はつねにそれを予知しています。神はそれを予知しているということを、今一度同意します、もしそれがその通りに起こるのであれば。 

アウグスティヌス:どうか言ってほしい。あなたは神の被造物ではないのか。それとも、あなたの幸福があなたの中に起こることはないと言うのでしょうか。 

エヴォディウス:たしかに私は神の被造物であり、私が幸福になることは私の中に起こるでしょう。 

アウグスティヌス:それでは、あなたの幸福が神の働きによってあなたの中に起こるのであれば、それは意志によらず必然性によるのである 

エヴォディウス:神の意志が私にとって必然性です。 

アウグスティヌス:すると、あなたは意図しないで、幸福になるのですね。

エヴォディウス:幸福になるための権能が私の中にあれば、私はすでに幸福になっているでしょう。しかし、私が今幸福を欲しても、私は幸福になりません。私を幸福にするのは神であるからです。 

アウグスティヌス:すばらしい。真理があなたの口から叫んでいます。「私たちの権能の中にある」とは「私たちが欲するときそれをなす」という意味に他ならない、とあなたは考えています。それゆえ、意志それ自身ほど私たちの権能の中にあるものは、他にありません。なぜなら、私たちが欲するなら、間髪を入れず、意志がただちにそこに現前しているからです。そこで、私たちはこう言って間違いありません。私たちが年老いるのは意志によってではなく必然性によってである、と。他にもそう言うことができるであろう。しかし、私たちが意志によらず欲するとは、どんな狂人でも言わないであろう。それゆえ、神は私たちが未来に何を欲するか予知していますが、だからと言って、私たちが意志によらずに何かを欲するという結論は出てきません。あなたは、あなた自身によって幸福は生じないと言いましたが、私は幸福の実現それ自体を否定しているのではありません。それゆえ、神があなたの未来の幸福を予知し、また神の予知によらないで何かが起こることはないが—-これを否定するのはおよそ予知を否定するのであります—-、だからと言って、あなたは、欲しないでも幸福になるだろうと考えるよう強制されるのではありません。そう考えるのは、真理から遠く離れた、まったくの誤謬です。あなたが幸福になり始めるとき、神の予知は、あなたの幸福への意志をあなたから奪いとるのではありません。神の予知は、あなたの未来の幸福を今日確実に知っている。同様にまた、責めに価する意志があなたの中に起こるとすれば、神はそれが起こるであろうと予知したのであるが、しかしそのためにあなたの意志がなくなることはないのです。

アウグスティヌス:どうか注意してほしい。次のように言うのは何たる迷妄だろう。すなわち、神が私の意志を予知したとすれば、神の予知によらずには何事も起こりえないのであるから、神の予知したとおりに私が欲するのは必然です。だが、それが必然であれば、私はもはや意志によってではなく必然性によって欲すると言わねばならない、と。ああ、何と奇異で愚かな話だろう。神が未来の意志を予知したならば、たとえ意志がなくなっても、神の予知したのと別のことは起こり得ない、という理屈がどうして成り立つのか。また同じ人が、「神の予知したことを私が欲するのは必然である」と言っているのを今述べましたが、この同様に奇異な言説について論じることはやめましょう。彼は必然性を前提として意志を除去することに夢中になっています。しかし、「欲する」ことが必然であれば、意志は存在しないことになるため、その「欲する」ことはどこから出てくるのだろうか。彼のいう意味はそうではなく、むしろ、欲することが必然であれば、人は意志自体を自分の権能の中に持つことはない、と言ったのかもしれない。そうだとすれば、あなた自身が先に示した結論がそこから生じます。すなわち、あなたは将来意図せずに幸福になるかどうかと私がたずねたとき、あなたは、もし権能が自分の中にあればすでに幸福になっているはずですと答えました。つまり、自分は幸福を欲しますが、それがまだ実現できないと答えたのです。そこで私はただちに、真理があなたの口から叫んでいる、とつけ加えました。実際、欲することが私たちの中にあるのでなければ、私たちは権能をもつことができないと言わなばならず、また欲するとき、意志そのものが私たちの中にないならば、私たちは決して欲することをしないのです。しかし、欲しているのに欲していないということはありえないため、欲する人には意志は確かにそこにあります。「私たちの権能の中にあるもの」とは、欲している人に現在しているものに他なりません。それゆえ、意志が私たちの権能の中にないとすれば、それはもはや私たちの意志ではないでしょう。しかし、意志は権能の中にあるため、それは私たちの自由な意志です。実際、私たちの権能に持たないもの、持つことができないものは、私たちにとって自由ではありません。そこで私たちは、神が未来一切の出来事を予知し、しかも、私たちが欲するのは私たち自ら欲することを否定しないのです。神は私たちの意志を予知しているのだから、神の予知した私たちの意志自体が起こるであろう。しかし意志は、私たちの権能の中になければ起こりえない。それゆえ、神は私たちの権能をも予知しているのです。しかしこれにより、神の予知のために私の権能が除去されることはありません。神の予知は誤りがないため、私がやがて権能を持つであろうことを神が予知したそのことによって、権能はいっそう確実に私にあるであろう。

エヴォディウス:たしかに、自由な意志がいつも私たちにあり、それはまた私たちの権能の中にあるという仕方で、神の予知した一切が必ず実現します。神はまた私たちの権能の中にあるという仕方で、神の予知した一切が必ず実現するのです。神はまた私たちの罪を予知しています。私はこれらのことを否定しません。 

4、神の予知と自由意志との関係

アウグスティヌス:それでは、あなたは何のことで苦しんでいますか。おそらく、あなたは最初の討論の結果を忘れたのではないでしょうか。私たちが罪を犯すのは、すぐれたものであれ、劣ったものであれ、等しいものであれ、自分以外のものによって強制されてではなく、ただ自分の意志によってであることを、あなたは否定するだろうか。 

エヴォディウス:私は、そのことをあえて否定しません。しかし率直に言うと、あの二つ、すなわち私たちの罪についての神の予知と、罪を犯す時の私たちの自由意志とが、なぜお互いに矛盾しないのか、まだわかりません。私たちは、神は正しく、かつすべてを予知しているのは必然であると告白しなければなりません。しかし、このことを知りたいのです。神は必ず起こるであろう罪を罰するとすれば、それはいかなる正義によるのでしょうか。また、神が起こるであろうと予知した罪が、なぜ必ず起こるのではないのでしょうか。さらに、また被造物において必ず起こるであろう罪を、なぜ創造者にきしてはならないのでしょうか。 

アウグスティヌス:君はどういう理由で、私たちの自由な決定が神の予知に矛盾すると考えているのか。それが予知だからか、それとも神の予知だからか。 

エヴォディウス:むしろ神の予知だからです。

アウグスティヌス:なぜそうなるのか。ある人が罪を犯すであろうとあなたが予知したとすると、彼は必ず罪を犯すのであろうか。 

エヴォディウス:たしかに、彼は罪を犯すでしょう。なぜなら、私が確実なことを予知するのでなければ、私の予知ではありませんから。 

アウグスティヌス:すると、予知したことが必ず起こるのは、それが神の予知であるからでなく、むしろ端的に予知であるからだ。確実なことをあらかじめ知っているのでなければ、それはまったく予知ではありません。 

エヴォディウス:その通りです。しかし何のためにそれを言われたのですか。 

アウグスティヌス:それはこうです。私に間違いがないとすれば、ある人が罪を犯すであろうとあなたが予知しても、そのためあなたは彼に罪を犯せと強制するのではありません。またあなたの予知自体が、彼に罪を犯せと強制するものでもありません。たとえ彼が罪を犯しであろうことは疑われないとしてもです。(そうでなければ、彼が罪を犯すであろうと予知したことにはならない)。それゆえ、ある人が自らの意志によって罪を犯すであろうことと、あなたがそれを予知によって知っていることとは互いに矛盾しません。同様に、神は誰にも罪を犯せと強制しませんが、人がめいめいの意志によって罪を犯すであろうことを予見しているのです。 

アウグスティヌス:それゆえ、正しい神は罪を予知してもそれをなせと強制するのではないから、どうして罪を罰しないことがあろうか。実際、あなたは想起によって過去の出来事がなされなければならなかったと強制するのではありません。そのように、神は予知によって未来の出来事がなされるべきだと強制するのではありません。さらにまた、あなたは自分のなしたことを想起しますが、想起するすべてをあなたがなしたのではありません。そのように、万物の創造者たる神は、すべてを予知したとしても、予知したすべてのものの創造者なのではありません。神はそれらすべてのものの悪しき創造者ではなく、正しく報いる方であります。ここからして、神はどれほど大きな正義をもって罪を罰するか想像してほしい。神は起こるであろう罪を知ったとしても、罪をおかさせたのではありません。もし神は罪を犯すであろう人を予見したのだから罪人に罰を与えてはいけないとするならば、将来正しくなすであろう者を予見したゆえにそれに報いを与えてはいけないことになります。私たちはむしろこう告白しましょう。未来の出来事の一つも神の前に隠されていないということは、神の予知に属します。また、罪は予知によって強制されて起こるのではなく意志的に起こるゆえに、それが神の裁きと罰なしには起こらないとのことは、神の正義に属するのです。 

5、神はすべての出来事の原因ではありません。神賛美の規則。

アウグスティヌス:あなたに第三に提出した問いは、被造物の中に起こる出来事の原因をすべて創造者に帰してならないのはなぜか、ということでありました。しかし、記憶すべき信仰あるあの基準は、私たちが創造者に感謝すべきことを明らかに示しています。たとえ神が私たちをずっと低い段階の被造物としてつくったとしても、創造者の溢れる恵みを讃えることは、きわめて義にかなっています。なぜなら、私たちの魂は存在しなかったほうがよかったと心の中で言ってもいけません。人は、魂が犯そうと欲しなかった時の状態がどんなであったかを考え、それと比べて魂の今の状態を非難します。しかし、神は罪を犯した魂を正しく秩序づけるだけでなく、さらに罪によって汚れた魂をも、その偉大さにおいて物体的な光に劣らないものとして—-むろんその光のゆえに神を讃えることは正しい—-つくったのであります。それゆえ、人は力の限り、魂の創造者たる神をいと高らかに讃えるべきであります。 

アウグスティヌス:あなたは決して、魂は存在しなかったほうがよかったと言わないでしょうが、よりよくつくられるべきであったと言わないよう、注意しておきます。真の理性によってあなたにもっとも善いと思われるものは、すべて善きもののみの創造者である神がつくったと知るべきです。神はもっと善いものをつくるべきであったと考え、それより劣ったものがつくられることを欲しないとしたら、それは真の理性ではなく卑しい妬みのすることです。たとえると、それは天を眺めて、地がつくられることを欲しないようなものであり、とんでもない間違いです。もしあなたが、天を見ないでつくられた地だけを見るとしたら、その地があなたに考えられる天のようにつくられるべきであったと非難しても、その非難は正当でしょう。しかし、天の姿にまで高められることを地に求め、これがつくられたのを見たとしたら、それは地ではなく天と呼ばれるのです。そこで私は、こう信じます。ある劣ったものが生じてそれが地となるとき、あなたは、よりすぐれたものが奪われたのではないから、地を妬んではならないのです。さらに、地の各部分は多くの相違がありますが、地の美に属するものの中で、万物の創造者である神が大地の塊全体の中につくらなかったものは、私たちの目に現れないのです。あなたは、もっとも肥沃で快適な土地から出発し、もっとも不毛な土地へと順次中間を経て行くことができますが、しかしその中のどんな土地をも非難してはいけません。ただ、よりよい土地とより劣った土地を比べてのみ、非難できます。また、すべての価値あるものの階段を通って上昇し、最高の類の地を見出したとしても、あなたはそれだけ存在することを欲しないだろう。ところで、地の全体と天の間には、どれほどの距離があるだろうか。その間には湿った流動物(空気)があります。また、存在するものの多様な種類と形は、火、水、空気、土の四元素から成りますが、私たちはそれを数えつくすことはできません。しかし神はその一つ一つを数えるのです。それゆえ、宇宙の中には、あなたの理性に及ばないものがあります。しかし、あなたが真の理性でもって考えたものが存在しないことはありえません。なぜなら、あなたは、被造物の中に制作者の手によらない善いものが他にあると考えることはできないからです。人間の魂はたしかに神的理性と自然本性的に結ばれ、それに依存しています。したがって、これはあれよりも善いと言う時、それが真理を述べ、またその意味を知っているとすれば、魂は自分がそれに結ばれている神的理性において知るのです。だから、神がつくったことを信じないといけません。なぜなら、肉眼で天を見ることができないでも、そのようなもののつくられるべきことが真の理性において知られたとすれば、それがつくられたことを、目に見ないでも信じるべきだからです。実際、魂が理性によってそれがつくられるべきであったと知るのは、万物をつくった、神の神的理性においてだけであります。しかし神的理性の中にないものは、真の理性によっても知られず、真に存在してもいないのです。

アウグスティヌス:多くの人はさまざまの善きものを精神でもって認めても、それを精神の目でもってあるべきところに見出そうとしない限り、過ちを犯します。例えば、完全な円を理性では知っていますが、それがそっくりクルミに見られないといって腹を立てるようなものです。彼らはクルミ以外に円形のものがあるのに、それを見なかったのです。これと同様に、自由意志を持ちつつも常に神に固着して決して罪を犯さない善い被造物があることを、彼らはまったく真なる理性によって認めていても、人間の罪を見ると、罪を犯すのをやめさせようとはしないで、かえって人間がつくられたことを嘆いて言います。「神は、私たちが決して罪を犯そうと欲しないで、常に不変的な神の真理を楽しむものとしてつくってくれなかったのだ」と。しかし、そのように嘆いたり立腹したりしてはいけません。なぜなら、神は人間をつくり、罪を犯すか犯さないかのいずれかを選ぶ権能をこれに与えたとしても、それによって神は人間に罪を犯せと強制したのではないからです。実際、かつて罪を犯さないで、今後も犯さない天使たちがいます。それゆえ、この上なく堅い意志をもって罪を犯さない被造物をあなたが喜ぶのであれば、あなたは疑いもなく正しい理性によって、その被造物を罪を犯す被造物にまさるのです。あなたは思考においてそうしますが、創造者である神は秩序に従って天使をすぐれたものとするのです。このような被造物がはるか上の至高の天に座していることをあなたは信じないといけません。なぜなら、創造者は、罪を犯すことを予見した被造物の創造に際しても恵みを示そうとしたのであれば、罪を犯さないことを予知した被造物の創造に際して恵みを示さないことは、決してないからです。

アウグスティヌス:このすぐれた被造物である天使は創造者を絶え間なく楽しみ、それによって自身の終わることのない至福を持っています。彼らは正義を保持しようとする絶え間ない意志によって、至福と価するものになりました。次にくるものとして、罪を犯すことのできる被造物である人間があります。彼らは罪を犯して至福を失いましたが、それを再び獲得する能力まで放棄したのではありません。人間は、絶え間なく罪を犯そうとする意志をもつ悪魔よりは確かにすぐれ、常に正義を欲する第一位の被造物である天使との中間に置かれます。このいわば中間性は、人間が謙虚に悔い改めるならば、自己の本来の尊さを受け取るということを意味します。神は、人間が将来罪を犯すであろうことを予知しただけでなく、罪を犯す意志の中にとどまることをも予知したのです。けれども、彼らに対して恵みの溢出をやめて、それを創造しないようにしたのではありません。道に迷う馬は、自らの運動と感覚を持たないために迷うことのない石よりもよい。同様に、自由意志によって罪を犯す被造物は、自由意志を持たないために罪を犯すことのない被造物よりもよい。あるいはまた、私は上等の酒をほめるが、酔っ払いを非難します。しかし酔っ払って非難される人のほうが酔わせる酒—-それがほめられようと—-にまさると、私は考えます。このように、物体的被造物はそれぞれの段階において正しくほめられるべきであり、他方、それをふさわしく用いないために真理の認識から落ちる人が非難されるべきです。しかし、この堕落した人や酔っ払いであっても、物的被造物—-それは人間のむさぼりのため虚しくなりましたが、それ自体は価値をもつ—-にまさります。むろん、これは人間の悪徳のゆえではなく、その本性の中になお残る品性のためです。

アウグスティヌス:それゆえ、どの魂もどの物体よりもはるかにすぐれています。そして、魂は罪を犯してどれほど深く落ちたとしても、変化して物体になることはなく、また魂である本質が奪われて、物体にまさる性質を失うことは決してありません。物体の中では光が第一位にあります。それゆえ、もっとも低い魂であっても第一位の物体にまさっています。もちろん、物体の中で、魂と結合した物体(身体)にまさるものがあったとしても、魂それ自身にまさることは決してありません。それゆえ、どうして神が讃えられないことがあるでしょうか。言い難い賛美でもって讃えられないことがあるでしょうか。神は、正義の法の中に留まる魂をつくり、さらにまた、罪を犯すであろうことを予見した魂と、罪の中に固執するであろうことを予見した魂とをつくりました。これら罪を犯す魂ではあっても、意志の理性的で自由な決定を持たないために罪を犯すことのできない魂にまさっています。しかしこの動物の魂ですら、どんなに強く輝く物体的な光にもまさっています。ある人々は、その光を最高の神の実体そのものとして拝しますが、彼らははなはだしい誤謬を犯しています。物体的被造物の秩序によれば、星の合唱に始まって私たちの毛髪の数に至るまで、すべて善きものの美が続いています。したがって「これは何か、これは何のためにあるか」と問うのは、まったく愚かな問いです。なぜなら、すべてのものがそれぞれの秩序に従ってつくられたからです。また、どの魂についても、その美がどれだけ減少し欠けたかと問うのは、いっそう愚かです。およそ魂である限り、どの物体の品位よりも常にまさっていることは、まったく疑うことはできません。

アウグスティヌス:理性の判断と使用(効用)の判断とでは基準が異なっています。理性は真理の光によって判断するとき正しい判断をなし、劣ったものをすぐれたものの下に置きます。しかし、使用は大抵は習慣に基く有効性に従い、そのため真理が劣っていると教えたものに、しばしば高い価値を置くことになります。理性は、天体が地上の諸物にまさっていると考えます。しかし肉的な人は、自分の畠の一本の灌木や、群れの中の一匹の子牛が失われるよりか、天の多くの星がなくなったほうがましだと考えます。大人は、子どもの判断をまったく無視するか、是正しようとして忍耐強く待っています。しかし子供は、自分の飼っている小鳥が死ぬよりは、自分を可愛がったり喜ばせたりしない人が死んだ方がましだと思い、ことにその人はこわいが、小鳥は美しくよく歌うときなど、いっそうそうです。同様に、物事を正しく判断しない人は、身体の感覚に快く思われた卑しい被造物において神をたたえても、すぐれた被造物や善き被造物においては神をたたえません。あるいはわずかしかたたえません。しかも、ある人々は神を非難したり矯正したりしようと企てます。またある人々は、神がこえらのものの創造者であることを信じません。それゆえ、精神を高めて知恵に至った人は、彼らのこうした思いを知り、それが是正されないのを見て、まったく軽蔑するだろう。あるいは是正されるまで、広い心で耐えるのを常とします。

 

6、悲惨に生きることよりも死を欲する人々がいます

アウグスティヌス:彼らはそのような思いによって真理から遠のき、神の予知した未来のことは必ず起こるのだから、被造物の罪は神に帰さないといけない、と考えるようになります。あなたが、被造物の中に必ず起こることをすべて創造者に帰してはならない理由がわからないといったのは彼らと同じです。私はこれに反対します。私は、被造物の中に必ず起こることのすべてを神に帰すべき理由を見出すことはできません。またそのようなものは存在しないと確信しています。したがって、罪は、罪を犯す者の意志によって起こるのです。そこで、ある人がこう言ったとしましょう。「私は、悲惨であるよりはむしろ死んだほうがましです」。私は答えます。あなたの言うのは嘘です。あなたは今悲惨ですが、生きることを欲しないならば、死を欲することもありません。ですから、悲惨であるのを欲しないのは、存在を欲していることです。だから、あなたが欲しない悲惨な存在が除かれるためには、あなたが存在を欲するそのことのために神に感謝すべきです。あなたが存在するのは意志によってであり、悲惨であるのは意志に反してであるから。しかし、あなたは、あなたが存在を欲するそのことにおいて神に感謝しないならば、あなたの欲しない悲惨な存在に追いやられるのは正当です。そこで私は、あなたが感謝しないまでも、自ら欲する存在を持つことのゆえに、創造者の恵みを讃えましょう。また、あなたが感謝しないために、自分の欲しないもので苦しんでいるそのことのゆえに、私は秩序を与える方の正義を讃えましょう。

アウグスティヌス:彼はまたこう言ったとしよう。「私が死を欲しないのは、まったく存在しなくなるよりは悲惨でいたほうがよいからではなく、むしろ死んだのちにもっと悲惨になることを恐れるからです」。私はこう答えます。死んだのちにもっと悲惨になることが不正であれば、あなたはもっと悲惨になることはありません。しかし、これが正しいのであれば、そうするのは神の法によるのであるから、私たちはこの法を与えた神を讃えましょう。また、こう言ったとします。「もしそれが不正であれば、私がもっと悲惨になることがないとは、どこから想定されるのか」。私はこう答えます。その訳はこうです。あなたが自分の権能において存在するのであれば、あなたは悲惨になりません。しかしあなたは、自分自身を不正に支配することによって正当に悲惨になるかもしれません。だがまた、自分を正しく支配しようと欲してもできない場合、自分の権能の中にあるのではありません。この場合、あなたはだれの権能の中にもないか、だれかの権能の中にあるかのいずれかです。そこで、だれの権能にもよらず存在するとすれば、あなたは意図しないで、それとも欲しているかのいずれかです。しかし、あなたはある力に支配されるのでなければ、意図せずに存在することはできません。しかし、だれの権能にもよらずに存在する者は、どんな力によっても支配されることはできません。そこで、だれの権能にもよらず存在することをあなたが欲したとすれば、理性のおもむくところ、あなたは自らの権能の中にあることになります。そこであなたは、自分自身を不正な仕方で支配したために正当に悲惨になるか、それとも自ら欲するとおりの状態になるかのいずれかであす。いずれにせよ、あなたはあなたの創造者の恵みに感謝すべき理由があります。さて、あなたがあなたの権能の中にあるのでないとすれば、あなたより強いものがあなたを支配するか、あなたより弱い者が支配するかのいずれかであす。もし弱い者が支配するとすれば、そのことはあなたの負い目であり、あなたの悲惨は正当です。なぜなら、あなたは欲しさえすれば弱い者に克つことができたからです。しかし、強い者があなたを支配してあなたを弱くするならば、それは正しい秩序であり、あなたがそれを不正と見なすのは正当ではありません。それゆえ、次のように言うのが真に正しい。あなたが悲惨であることが不正だとすれば、あなたは決して悲惨にはなりません。しかしそれが正しいとすれば、私たちは、法に従ってあなたをそのようにした神を讃えましょう。

 

7、悲惨な生活を避けるためには神に生きなければならない

アウグスティヌス:彼がこう言ったとしましょう。「私はすでに存在しているのだから、まったく存在しないよりはむしろ、悲惨であっても存在するのを欲します。しかし、私は、存在する以前に何を欲するかと相談されたならば、悲惨であるよりはむしろ、悲惨であっても存在するのを欲します。しかし私は、存在する以前に何を欲するかと相談されたならば、悲惨であるよりむしろ、存在しないほうを選んだであろう。なぜなら、現に悲惨でありながら、なお存在しなくなるのを恐れるのは、私の悲惨そのもののためであり、また欲すべきことを欲しないのも、この悲惨のゆえであります。私は、悲惨であろうかと欲するよりかむしろ、存在しないほうを欲すべきです。—-しかし今言うが、存在しないよりか悲惨であるほうがましだ。だが、悲惨であればあるだけ、ますます愚かにも悲惨を欲します。だがまた、悲惨を欲すべきではないことを本当に知れば知るほど、ますます悲惨になります」。私はこう答えます。あなたは真理を見たと思うその時こそ、むしろ誤謬に陥らないように注意すべきです。あなたが幸福であれば、たしかにあなたは存在しないよりも存在するほうを欲します。だがあなたは、今悲惨であるから、悲惨であることを欲しなしのは当然であるのに、まったく存在しないよりか、悲惨であっても存在することを欲するのです。それゆえ、幸福な人も悲惨な人も共に欲する存在そのものがいかに大きな善であるかを、あなたは考えることができる限り考えて見なさい。あなたがそれをよく考えたならば、人が最高存在者から遠くあればあるだけ、ますま悲惨であることがわかるだろう。また、最高存在者を知らなければ知らないだけ、人はますます生きるよりも存在しないほうがましだと考えるようになります。しかし、あなたはその最高存在者によって存在しているゆえに、存在することを欲するのです。

アウグスティヌス:それゆえ、あなたが悲惨から逃れようと思うならば、存在を欲すること自体を、あなた自身の中で愛さないといけません。あなたが存在を欲すれば欲するだけ、最高存在者に近くにいるだろう。あなたは今、あなたが存在することゆえに神に感謝すべきです。あなたは幸福な人々に劣るにせよ、幸福への意志すらなきものにまさっています。もっとも、悲惨な人はそういう多くのものを賞賛しているのですが。しかし、すべてのものは存在すること自体において賞賛されるのが正しい。なぜなら、すべてのものは存在すること自体において善きものだからです。あなたは、存在を愛すれば愛するだけますます永遠の生を希求し、かつて時間的なものへの愛のために焼き付けられ刻み込まれた情念が、存在への愛によって形成されて、時間的なものでなくなることを期待するに至るでしょう。それら時間的なものは、現に存在する以前には存在していませんでした。そして存在し始めると同時に逃げ去り、逃げ去ると同時にもはや存在しないものになります。未来においてあるならば今はまだなく、過去においてあったならば今はもはやありません。私たちは、どうしたらそれらのものを抑え、とどめておくことができるであろうか。なぜなら、それらのものにとっては、存在し始めることは非存在へと移り行くことであるから。しかし存在を愛する人は、それらのものを存在する限り承認し、永遠に存在するものを愛します。彼は時間的なものへの愛によって変えられるとしても、永遠に存在するものへの愛の中に守られます。また、過ぎ行くものへの愛によって流されるとしても、永続するものへの愛の中に固くされます。そしてかたく立って、存在そのものを手に入れるでしょう。その存在そのものは、彼が存在しなくなることを恐れつつも、過ぎ行くものへの愛に惑わされてかたく立ちえなかった時でさえ、なお欲していたものなのです。あなたは存在しなくなれば悲惨であることもありません。しかしあなたは、それよりかむしろ、悲惨であって存在するほうを選びます。これはあなたにとって不快ではなく、むしろ大いに好ましいのです。すなわち、あなたは存在することを欲することに始まり、しだいに大きな存在となり、最高存在に向かって登攀し、ついにそこに自らを置き、こうして一切の転落から身を守ることができるでしょう。最下種のものはその転落によって非存在に移り、またこれを愛する人の力もいっしょに終わるのです。それゆえ、人が悲惨を恐れるあまり存在しないほうを選ぶとしても、自分が存在しないことはできないのだから、いつまでも悲惨なままでいなければならないことになります。しかし悲惨であることを憎むよりか存在を強く愛する人は、その愛を愛の対象に結ぶことによって、その憎むものを除くであろう。彼は自らの本性の全きあり方において存在し始めるとき、もはや悲惨ではないでしょう。

 

8、自殺について

アウグスティヌス:次の言い方がいかに不条理で矛盾しているかを考えなさい。「私は悲惨であるよりはむしろ存在しないほうを選びます」。というのも、あれよりかこれを選ぶという人は、あるものを選ぶのですが、しかし存在しないものは「あるもの」ではなくて「無」なのです。だから、あなたが選ぶものが存在しないのであれば、実は全然選ぶことができないのです。しかし、あなたは悲惨であるとき、本当は存在を欲しているのに、存在を欲していなかったと言っているのです。それでは、あなたは何を欲すべきであったか。むしろ存在しないことを、とあなたは言います。もし存在しないことを欲すべきであったとすれば、そのほうがよいからなのでしょう。しかし、存在しないものがよりよくあることはできません。だから、あなたはそれを欲すべきではありませんでした。そして、存在しないことを欲しないという感情は、存在しないことを欲すべきであったと思うことよりも、ずっと真実です。さらに、人が本来求めるべきものを正しく選ぶならば、それを手に入れた時は必ずよりよくなるのです。しかし、存在しないものがよりよくなることはありません。それゆえ、存在しないことを選ぶのは、だれも本当にはできないのです。私たちは、悲惨をきらって自殺した人々の思いに心を動かされてはいけません。彼らが今よりよい場所に逃げたのであれば、どういう仕方でそう考えたにせよ、私たちの理性に反しない。しかし、自分たちの未来がまったく存在しないと信じたのであれば、そのような無を選ぶ人々の誤った選択によって心が動かされてはならないのです。何を選んだかとたずねられて、何も選ばなかったと答える人に、どうして従うことができようか。実際、存在しないことを選ぶ人は、そう答えたくないにせよ、何物も選んだのではないことはまったく確実です。

アウグスティヌス:できればこのこと全体について、私の考えを述べます。自殺その他なんらかの手段によって死を願うとき、自分は死後存在しなくなるであろうと思う人は一人もいません、と考えられます。彼はそれを一時の想念として持つかもしれません。しかし、思考しあるいは信じる人のもつ見解には、真なるものと誤ったものとがあります。他方、感情は習慣もしくは自然本性の働きです。そして、見解が示すものと感情が示すものとでは異なることがありえます。ここからして、なすべきだと信じても感情はそれ以外のことをなすのを喜ぶという、通常見られる事実が容易に理解できるでしょう。さて、見解が誤謬に由来し、感情が自然本性に由来する場合、感情のほうが見解よりも正しいのです。例えば、病人が冷水を飲むのは有害だと教えられても、多くの場合それを飲んで気分がよくなり楽になります。だがあるときは、見解が感情よりも正しい。例えば、冷水が有害なことを医術によって信じ、かつ実際に有害であるのにそれを飲む場合です。だがあるときは、見解も感情も共に真です。たとえば、有益なものが有益だと信じられるのではなく、それが喜びでもあるような場合であります。最後に、あるときは両方とも誤謬です。例えば、有害なものが有益と信じられ、かつ喜びにも欠いていない場合です。しかし、普通正しい見解は誤った習慣を正し、誤った見解は正しい本性を悪くするものです。理性の支配と指導には、そのような偉大な力が備わっています。そこで人は、死後存在しないだろうと信じても、耐え難い苦痛に圧迫されて死を心から願い、死を決意して飛び込むとき、彼は見解においては自己の完全な破滅という過ちを犯しますが、感情においては平静への自然の願望をもっています。その平静は無ではなく、かえって不安よりも大きな存在をもちます。なぜなら、不安は情念をさまざまに変え、一つの情念が他の情念を滅するようにさせるが、平静は恒常性をもつからです。私たちが存在と呼んでいるものは、その恒常性を最大の特徴とする、と知解されます。したがって、死を願うあの欲求は、死後存在しなくなるであろうと信じるのは誤謬であり、むしろ平静の中に存在することを求め、いっそうよく存在することを求めるのが自然本性的です。以上からして、あるものが存在しないのを喜ぶことがまったく不可能であると同様、自分が存在していることゆえに創造者の恵みに感謝しないことは断じてあってはならないのです。

9、宇宙の秩序の完全さ。意志の秩序と罰の秩序。

アウグスティヌス:人がこう言ったとします。「全能の神にとっては、創造したすべてのものにそれぞれの秩序を与え、どの被造物も悲惨に至らないようにすることは、困難でもなく骨の折れる仕事でもなかった。神は全能者であるゆえ、それをなしえないことはなく、また善き者であるから嫉みをもっていない」。私はこう答えるでしょう。被造物の秩序は最高のものから最低のものに至るまで正しい順序で結ばれているため、このものは存在すべきでないといい、別の仕方で存在すべきだというのは、嫉みをもつ者だけが言うことです。なぜなら、これはもっとすぐれた存在であったと欲したとしても、それはすでに存在していて、何かを加える必要のないほど完全だからです。それゆえ、これはこうあるべきだという人は、完全ですぐれたものに更に何かを加えようと欲するのであり、その思いによって彼は節度ない不正な者となるだろう。あるいはそれを滅ぼそうとして、悪い者となり、嫉む者となるのです。また、これは存在すべきではないという人もやはり悪い者であり、嫉む者です。しかし、彼はそれの存在を欲しないまでも、それより劣るものを賞賛せざるをえないのです。例えば、月は存在すべきでないと言ったとします。しかし、月よりはるかに劣るランプですら、それ自体は美しく、暗い地面を照らし、夜用いれば有効であって、これらすべてのゆえに低い程度においても確かに賞賛されることを、彼もまた認めざるをえません。これを拒む者はまったく愚かで、頑なであろう。それゆえ、ランプは存在すべきではないというと嘲笑されることを知っている人が、どうして被造物の中に月がないほうがいいと言えるであろうか。しかし、月は存在すべきでないと言わないにしても、太陽を見て、月が太陽のようにあるべきだと言うなら、それは、「月は存在すべきでなく、二つの太陽が存在すべきだ」というのにほかなりません。だが彼はこれに気づきません。そして二重の過ちを犯しています。すなわち、一方では、諸物の完全さに何かを加えようと欲してもう一つの太陽を求め、他方では、諸物の完全さから何かを減じようとして月が除かれることを欲する過ちです。

アウグスティヌス:これについて彼はこう答えるであろう。「私は月について不平を言っていない。なぜなら、月はその光が弱いために悲惨なのではないから。しかし私は、もろもろの魂を、その暗さゆえではなく、悲惨さゆえに悲しむ」。彼は注意深く考えるべきです。月の光が悲惨であったり、太陽の光が幸福であったりすることはありません。これらのものは天体ですが、身体の目で知覚できる光に属しています。身体は幸福な被造物のそれ、悲惨な被造物のそれでありえますが、それ自身は幸福でも悲惨でもありえないのです。これら天体の比喩は次のことを教えます。諸天体の違いを見て、一つのものが他のものよりも明るいのを知ったとき、他方の暗く見えるものを取り除いたり、明るいものと等しくしようと願うことは正しくありません。それらすべてを宇宙の完全さに関わらせるならば、明るさの大小があればあるだけ、全体としての存在をあなたはますますよく認識するでしょう。宇宙には大きなものがあると共に、小さなものにも欠けていません。そのことがなければ、完全な宇宙はあなたに現れないのです。もろもろの魂の相違についても同様に考えるべきです。そうすれば、その相違において次のことを発見するであろう。すなわち、あなたを嘆かせる悲惨は宇宙の完全さに役立っており、したがって、罪を犯す者となろうと欲したために悲惨にならざるをえなかった魂であっても、宇宙の完全さのためには欠けていないことをあなたは認識するであろう。それゆえ、神がそのように悲惨な魂をつくるべきでなかったと言ってはいけません。むしろ、悲惨な魂にも劣る他の被造物をつくったゆえに、神をたたえるべきです。

アウグスティヌス:しかし、彼は今述べたことをほとんど理解しないで、なおも反対するに違いありません。彼はこう言います。「私たちの悲惨もまた宇宙の完全さを満たすなら、私たちが常に幸福であれば、その完全さに何か欠けていることになる。したがって、魂は罪を犯すことによってのみ悲惨に至るとすれば、私たちの罪も神が創造した全宇宙の感性には必要である。だから、私たちの罪がなければ神の被造物は満ちず、完成されないとすれば、神が私たちの罪を罰することがどうして正しいであろうか」。答えはこうです。罪自体、悲惨自体は宇宙の完全さにとって必要ではなく、ただ魂としての魂が必要なのです。魂は欲して罪を犯し、罪を犯して悲惨になります。しかし、罪が取り除かれても悲惨が残り、あるいは悲惨が罪に先行することがあれば、宇宙の秩序と配置がそこなわれるといっても間違いありません。他方、罪を犯しても悲惨にならないとすれば、こんどは不義が秩序を汚すであろう。だが、罪を犯さない者が至福であるならば、宇宙は完全です。また、罪を犯す者が悲惨であるとすれば、やはり宇宙は完全です。こうして、罪を犯した魂に悲惨が、正しく行った魂に幸福がともなうという仕方で魂がある限り、宇宙はことごとく自然実体をもって常に満たされていて完全です。実際、罪と罪の罰とはいかなる自然実体でもなく、それのもつ状態であり、前者は欲してなすもの(意志的なもの)、後者は強制(法)によるものであります。しかし、罪の中に現れる意志的な状態は恥ずべき状態です。そのため、強制(法)による罰が加えられることによって、それは秩序の中に取り入れられます。その時には、恥ずべき状態にあることがもはや恥ではなく、宇宙の美にふさわしいものとして合わされ、こうして罪の罰が罪のみにくさを修繕するのです。

アウグスティヌス:それゆえ、すぐれた被造物が罪を犯すと、自分よりも劣る被造物から罰を受けることになります。すなわち、劣る被造物は、醜い魂によってすら美しくされるほど低いのでありますが、このようにして宇宙の美に合わせることができるのです。家においては、人間がもっと貴く、汚水がもっとも卑しく下等です。しかし、悪事を働いたため汚水掃除に回された奴隷は、自分の恥によってそれを清めることになります。そこで、この二つ、奴隷の恥と汚水掃除とは結合し、それなりに一種の統一を得て家の片付けに役立ち、参加します。こうして、この二つは家全体の最も秩序ある美のために協力することになります。しかし、奴隷が悪事を働こうと欲しなかった場合でも、家の仕事は別の仕方でなされ、必要な掃除が行われるでしょう。被造物の中では地上の身体ほど低いものは他にありません。しかし、罪を犯す魂ですらこの朽ちる身体を飾り、それにふさわしくなくなったが、罰を受けるべく地上の家に住むことがふさわしいことになりました。そこで魂はいずれを選ぶにせよ、神は宇宙の創造者であり管理者であるから、宇宙はもっとよく飾られた諸部分でもって秩序づけられ、常に美しくあるであろう。つまり、最上の魂が最下の被造物の中に住む時、自分の持たない悲惨によってそれを美しくするのではなく、よく用いることによって美しくするのです。しかし、罪を犯す魂が最高の場所に住むことが許されたならば、それは秩序に反するであろう。なぜなら、その魂はその場所をよく用いることができず、どんな飾りをも与えることがないので、そこにはふさわしくないからです。

アウグスティヌス:この大地圏は可滅的なものに割り当てられた場所ですが、それにもかかわらず、すぐれたものの映像をできるだけ保存し、その模範としるしを私たちに示すのをやめません。私たちは偉大な人物が名誉と義務にうながされて肉体を火に渡すのを見るとき、それは罪の罰ではなく、むしろ勇気と忍耐の証明であろと言います。そして、恐るべき壊滅が彼の体を奪う時、私たちは彼を、そのような苦しみを受けない時よりも一層強く愛するのです。むろん、その魂の本性が肉体の可能性によって変えられないことに驚きます。しかし、残酷な盗賊の体がそのような刑によって奪われるのを見た場合、私たちは法の秩序を正しいと認めます。したがって、二人共そのような責め苦でもって世界を飾るとしても、前者は徳によってなし、後者は罪によってなすのです。そのもっともすぐれた人が火あぶりにされたのち—-あるいはそれ以前から—-天上の家に住むためにふさわしく変えられ、星の世界にあげられるのを見て、大いに喜びます。しかし、あの悪辣な盗賊が、処刑される前であれ後であれ、邪悪な意志を持ったまま天に上げられ、永遠のほまれの座につくのを見たとしたら、だれが怒りを発しないであろうか。それゆえ、二人とも劣る被造物(地上の世界)を飾ることができたとしても、すぐれた被造物(天上の世界)を飾ることができたのは、その中で一人だけであります。ここからして、私たちは、次のことに注意するように促されます。最初につくられた人間は罪にふさわしい罰を受けることによって可死的な身体を飾ったが、私たちの主は憐れみをもって私たちを罪から解放し、これによってそれを飾ったのです。さて、義人は可死的な身体を持ちつつも義そのものの中に留まることができたが、不義の人は不義のまま聖徒の不死性にまで、すなわち天使の高い不死性にまで至ることはできません。その不死性は、「わたしたちは天使さえも審くことができることをあなたたちは知らないのか」(1コリント6・3)と使徒が述べたときの天使のそれではなく、「彼らは神の使いに等しかった」(ルカ20・36)と主が語った時の天使のそれであります。天使と等しくあることを自分のむなしい栄光のために望むものは、自分が天使に等しくなろうと欲するのではなく、むしろ天使が自分に等しくなることを欲するのです。このような思いに固執する者は、かえって不従順な天使たち、すなわち、全能の神を愛するよりも自分の権能を愛する天使たちが受ける同じ罰を受けるのです。彼らは、主イエス・キリストが自らにおいて示した謙虚な門を通って神を崇めることをしないで、人に情けを施さないで、高慢に生きているのだから、神の左手に置かれます。彼らに向かってこう言われます。「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火の中に入れ」(マタイ25・41)

10、悪魔の誘惑

アウグスティヌス:罪の起源は二つあります。一つは自分の思いによるもので、一つは他の誘惑によるものです。「主よ、私の隠れた罪から私を清めてください。あなたのしもべを他人の罪から守ってください」(詩編19・12~13)と預言者が言ったのは、この二つを指していると思われます。この二つはいずれもたしかに意志的な罪です。すなわち、自分の思いによる場合、意図なしに罪を犯すのではなく、他方、悪い誘惑者に同意した場合、意志によらないで同意することは決してありません。しかし、どちらの罪が重いといえば、他人の誘惑に負けて罪を犯すよりは、誘惑によらずただ自分の思いによって罪を犯し、しかもその上、嫉みと策略をもって他人に罪を犯させようとそそのかすほうです。主の正義は、その両方の罪を罰することによって保持されます。したがって、悪い誘惑者に身を任せた人が悪魔の権能のもとにおくことは拒否されなかったのであります。それは公平の秤によってはかられたことです。なぜなら、人をつかまえても支配しないのは公平ででないであろうから。至高にして真なる神の完全な正義は、どんな所にも及び、罪人の破滅を見てこれを秩序づけないでおくことは決してありえません。実際、人間は悪魔ほどの大きな罪を犯したのではないから、被造物の中の可死的で低い部分であるこの世の首領にして罪人のかしら、死の先駆である者によって、肉の可死性にまで連れていかれたこと自体、人間にとっては救いと回復を早めることになったのです。というのも、人は可死性によっておそれおののき、低い卑しい動物やまったく小さな動物からさえ苦痛と死を受け入れることを恐れ、未来について不確実となるが、実はこれらによって人は不法な快楽を抑え、とくに高慢を退けるように習慣づけられるのです。人は高慢の誘惑に負け、この唯一の悪のために憐れみと癒しが遠ざけられるに至りました。しかし、悲惨ほど憐れみを必要とするものがほかにあるだろうか。また、悲惨な高慢ほど憐れみに価しないものがほかにあるだろうか。

アウグスティヌス:それゆえ、神の言葉は—-それによって万物はつくられ、またそれを楽しむことが天使の至福であった—-その憐れみを私たちの悲惨まで差し伸べ、そして言葉は肉となって私たちの中に住んだ(ヨハネ1・3、14)ということが起こったのです。こうして人は、天使のパンを食べることができるようになりました。もちろん、天使のパンが人間と等しいと認められたとしても、人間はまだ天使と等しいのではありません。このパンは、私たち人間の許におりてくるとき天使を見捨てるのではありません。パンはまったく天使のそれであると同時に、まったく人間のそれであります。そのパンは、神であることによって天使を内的に養い、私たち人間であることによって、私たちを外的に教えます。かくてパンは、私たちを信仰によって、天使と等しく顔と顔とを合わせて食べるのにふさわしい者となすのです。理性的被造物は神の言葉をいわば最上の食物として、それによって養われます。人間の魂は理性的ですが、罪の罰によって可死的なくびきにつながれ、やがて消え行くさまにまで引きずられて行きました。その結果、人は見えるものから、見えないものを推測して理解するように努めなければならなくなりました。理性的被造物の食物はそのために見えるものとなったのです。しかし、これは本性が変化したのではなく、私たち人間にかなう外見をとったのであり、これによって見えるものを追求する者を見えないものへと呼び戻すのです。魂は先に内なる高慢によって彼を捨てましたが、今は自分の外に彼の卑しい姿を見出し、その見える謙虚を模倣して、再び見えない高いところに戻ろうとするのです。

アウグスティヌス:神のひとり子なる神の言葉は、常に悪魔を自らの法の下に置き、また置くであろう。このひとり子は人間の姿をとって、悪魔を人間のもとに服させた。神の子は暴力によって悪魔の支配を剥ぎ取ったのではなく、正義の法によってこれに勝利した。悪魔は女をあざむき、女を用いて男を罪に投げ込み、こうして最初の人間の子孫をみな、いわば犯罪者として死の法に引き渡しました。悪魔がそうしたのは、たしかに害を加えようとの悪い欲望からでしたが、しかしそれはまったく公正な権利によるものでした。だが、悪魔が権能を奮ったのは、かの義人を殺すまでであった。その義人は、罪失くして殺されたのみならず、情欲によらず生まれたのであるから、悪魔は彼の中に死に価する何ものも示すことができませんでした。しかし、悪魔はその捕虜たちを情欲の奴隷とし、情欲から生まれた者たちをいわば彼の木の実として所有しようとしました。その所有は、悪魔の不正なむさぼりによるのであるが、必ずしも不正でない所有権によるのであった。それゆえ悪魔は、自ら最大の不義でもって殺した義人を信じる者たちを解放するために、最大の正義によって強制されたのです。信じる者たちが時間的な死をこうむるのは負債を返すためであり、また永遠の生を受けるのは、自らは負ってはいけない負債を、信じる者たちのために返した方の中に生きるためであります。しかし、不信仰の中にとどまるように説き伏せられた者は、悪魔と共に永遠の罰を受けるのが当然です。それゆえ、悪魔は暴力によってではなく説得によって人間を捕らえたのであるから、人間は暴力によって解放されるのではない。そこで人が、悪に同意して悪魔に仕えるよう低くされたことが正しいとすれば、彼がその善に同意したかの義人によって解放されることも正しいのです。なぜなら、悪魔は悪い誘いをかけることによって罪を犯したが、人はそれに同意したことで罪を犯したのであり、後者は前者よりも罪が軽いからである。

11、罪を犯さない被造物がある

アウグスティヌス:神はすべての自然実体を創造しました。すなわち、徳と正義の中にとどまるものだけでなく、やがて罪を犯すであろうものも創造した。だが後者がつくられたのは、罪を犯すためでなく、罪を犯すことを欲するにせよ欲しないにせよ、宇宙の飾りとなるためである。さて、被造界の秩序の頂点には、罪を犯すことのない魂が座している。それがもし罪を犯そうと欲したならば、宇宙は破壊され、崩れ行くであろう。かかる魂を欠くとき、被造界はある重大なものを欠くことになる。すなわち、それが失われると、諸物の安定性と合致(調和)が乱されるのです。かかる魂は、最善の、聖なる、高貴な被造物であって、天にある、あるいは上なる天にある権能を持ち、全世界を治める神のみが彼らの支配者であるります。そして、このすぐれた魂の正しく完全な奉仕なしには、宇宙はありえません。同様に、ある被造物は罪を犯しても犯さないでも、宇宙の秩序を少しも損なわないが、それがないと宇宙はきわめて大きな部分を欠くことになります。それは理性的な魂であって、その務めはかのもっともすぐれた魂と同じではないが、本性においては同じです。さらに、多くの劣れる被造物がこの魂の下にあるが、それらは最高の神によってつくられたものの一段階としてたたえられるべきです。

アウグスティヌス:すぐれた被造物の本性は、その務めにおいて大いなるものがあります。もしそれが存在せず、あるいは存在しても罪を犯したとすれば、宇宙の秩序は損なわれます。しかし劣る被造物は、罪を犯した時でなく存在しない時にだけ宇宙に欠けが生じるのであって、かかる被造物の務めはすぐれた被造物のそれに劣っています。すぐれたものには万物を保持する力が固有の働きとして与えられ、その働きは諸物の秩序に欠けてはなりまえん。この被造物が善い意志にとどまり続けるのは、意志がその働きを受け取ったからではなく、むしろ善い意志の中にとどまることが、彼らにその働きを与えた神によって予見されたがゆえにそれを受け取ったからであります。また、この被造物が万物を保持するのは自らの尊厳さによらず、むしろ神の尊厳さに固着し、その命令に従うことによります。万物は神から、神によって、神の中につくられたのです。劣る被造物には、罪を犯さないならば、万物を保持するきわめて大きな務めが与えられていますが、その務めはこれに固有のものではなく、先のすぐれた被造物と共同して働くのです。この劣る被造物が罪を犯すであろうことはすでに予知されていたからです。ところで、霊的被造物は他のものとの結合によって力を増したり、分離によって力を減じることはありません。すぐれた被造物が劣る被造物と結合したとしても、その助けによって活動が容易になることはなく、また、劣る被造物が罪を犯して自分の働きを失ったとしても、そのために活動が困難になることもありません。なぜなら、霊的被造物は各自の身体を持つが、その結合と分離は身体の位置や大きさによるのではなく、性質が似ているか似ていないかによって起こるからです。

アウグスティヌス:魂は罪を犯したのち、劣れる可死的な身体の中に置かれ、その身体を支配します。しかし、完全に思い通りではなく、宇宙の法の許す範囲で支配するのであります。とはいえ、魂はこれによって天体に劣るのではありません。もちろん、地上の身体は天体の下に服しています。だが、罰を受けた奴隷の衣服は、主人に仕える名誉ある忠実な奴隷の衣服にずっと劣るとしても、罰を受けた奴隷自身は人間である限りどんな高価な衣服にもまさっています。それゆえ、かのすぐれた被造物は神に固着し、天体の中に住み、天使的権能を持ち、いいがたい仕方で神の合図に注目しつつ、その命令に従って地上の身体をも飾りかつ支配します。他方、可死的な体を運ぶ被造物は、自らを圧迫する肉たちをかろうじて内的に支配し、ともかくできるだけ飾るのであります。この被造物を外から囲む他の物体は、外から働きかけることができるとしても、その働きにはまったく弱いものです。

12、罪にも関らず宇宙の秩序は保持される

アウグスティヌス:そこで次のように結論されます。下位の魂が罪を犯すことを欲しなかったとしても、最下の物的被造物にもっともふさわしい美が欠けることはなかったであろう。そのわけは、全体を支配することのできる者は部分をも支配するが、わずかの部分しか支配できない者は必ずしも多くの部分を支配できるのではない、ということです。万能の医師は皮膚病も十分に治療するが、皮膚病の専門医は必ずしも人間のあらゆる病気を治療できるのではありません。さて、かつて罪を犯さず、今後も犯さないであろう被造物が存在すべきことは明らかだと、理性によって確実に知られるならば、その理性は、かかる被造物が自由意志によって罪を退け、強制ではなくて自発的に罪を犯さないであろうことも教えてくれるでしょう。かかる被造物が罪を犯さないであろうことは神の予知したことであり、事実犯さなかったのであるが、仮に犯すとしても、神のいいがたい力と権能はこの宇宙を支配する十分な力を備えています。すなわち、神はすべてのものにそれぞれにふさわしい調和した本性を与え、神の支配の全領域に、恥ずべき醜いものの存在を許さないのです。そこで、すべての天使的被造物が神の戒めにそむいて罪を犯したとしても、神は宇宙の支配のためにつくったこれらの権能には頼らず、自らの主権をもって万物をもっと巧みに、もっともよく支配するのです。この場合、神は霊的被造物の存在を妬んだのではありません。神は、罪を犯す霊的被造物にもはるかに劣る物体的被造物に対しても、恵みの限りない溢出を示したのです。それゆえ、神が万物の製作者であることを信じないで、神が言い表しがたく讃えられるべきことを告白しない者は、天と地とすべての見える被造物がおのおのの類に従って限度を与えられ、形づくられ秩序づけられていることを理性的に眺めることはないでしょう。また、天使の能力がすぐれた本性と善い意志とをもって宇宙を管理することが、諸物の秩序にとってもっともよいのです。だが、すべての天使が罪を犯したとしても、それによって創造者がみ国の支配に必要な天使を欠くことはありません。なぜなら、神の恵みがいわば疲労によって減じ、その全能が困難にあって減じたために他の天使をつくることができない、といったことはないからです。神は新たに天使をつくり、罪を犯してその座を捨てた者にかわってこれを置くのです。あるいはまた、どんな多数の霊的被造物が罪の罰を受けるにしても、罰せられるべきすべてのものをそれにふさわしい仕方で迎える秩序を乱すことはできないのです。こうして、私たちの考察が以上の三つのどれに向かうとしても、存在するすべてのもののもっともよい創造者であり、もっとも正しい支配者である神は、言い表しがたく讃えられるべきことを知るのです。

アウグスティヌス:最後に、かかる諸物の美を観想することは、神の賜物によって見ることの許された人々の目にゆだねましょう。私たちは、それを見ることのできる人々を、ただの言葉によってこのいい表しがたいものを見るように導くことはやめよう。しかし、多弁な者や弱い者や人をあざむく者がいるので、これらの者のためにこの大切な問題を、できるだけ手短に整理しておくことにします。

13、罪ゆえに被造物本性を非難してはならない

アウグスティヌス:善の現象がありうる自然本性はすべて善いものである。すべての自然本性は破壊されてその善が減少します。あるものはこれによっても損なわれません。それは破壊されないのです。しかしあるものは破壊され、それによって害な損なわれる。そして損なわれれば、その本性の善は何ほどか減少し、より小さな善となります。ところで破壊が本性の善をほとんど取り去るとき、その本性の中になお残るものはもはや破壊することはできないだろう。なぜなら、破壊によって取り去られてもなお害なわれることのできるような善は、その本性の中には少しもないであろうから。破壊が損ないえない本性は、破壊されません。そして破壊されない本性は不滅です。ただし、破壊されることによって本性が不滅のものになるだろうとは、まったくの虚妄です。むしろ、次のように言うのが一番正しい。すべての存在者は本性的なものである限り善いものです。なぜなら、本性が不滅であれば、可滅的なものよりいっそう善であるが、しかし本性が可滅的で、破壊によって善が減少するものであっても、疑いもなく善だからです。すべての本性は、不滅的か可滅的かのどちらかです。それゆえ、すべての本性は善です。ここで私が「本性」と呼ぶのは、普通「実体」の名で呼ばれています。すると、すべての実体は神であるが、神によるものであるか、である。なぜなら、すべての善は神であるか、神によるものであるか、なのだから。

アウグスティヌス:私たちは論証を始めるにあたって、以上のことを確実で揺るぎないこととして提示しました。そこで次に述べることに注意してほしい。すべての理性的存在者には意志の自由な決定が与えられていて、最高の不変の善を享受し続けるなら、それは疑いもなく讃えられるべきです。またその享受の持続を求める者もみな、讃えられるべきです。しかしその持続がなく、また持続させようと欲しない者はみな、その享受の中におらず、そしてその中にいようとしない限り非難されなくてはならない。すると、このつくられた理性的存在者が讃えられるとすれば、その存在者が讃えられるべきことを疑う人はいなません。また、この被造物が非難されるとすれば、その非難が創造者への賛美なしにはないことを疑う人もいなません。すなわち、この被造物を非難するのは、それが最高の不変的な善である創造者を享受しようとしないからですが、しかし私たちはそのとき、疑いもなくその創造者を讃えるのである。では、万物の相続者たる神はいかに大きな善であり、あらゆる言葉とあらゆる思想をもってしても言い表しがたいほど褒めたたえられ、尊ばれることであろうか。もし神への賛美がなければ、私たちは褒められることも非難されることもありえません。私たちが非難されるのは、神の中にとどまることが私たちの最大・最高・第一の善であるにもかかわらず、それをしないからにほかならないのです。しかし、神の中にとどまることがこれほどの善であるのは、神が言い表し難いほどの善にあるからに他ならないではないか。それゆえ、神を非難すべきどんな理由がわれわれの中に見出されるのか。神が讃えられることがなければ、私たちの罪が非難されることもないのです。

アウグスティヌス:さらに、ある者が非難されるとき、その非難の対象は、それらの中にある欠陥以外のものではありません。ある本性が持つ欠陥が非難されるとき、本性自体は賞賛されます。ところで、あなたの非難するものが本性にかなうものであれば、それは欠陥ではありません。あなたは、あなたが間違って非難した当のものよりはむしろ、あなた自身が是正されるべきを知って、正しく非難することを学ぶがよい。しかし、正しく非難されるものがあるとすれば、それは欠陥であり、それは必ず本性に反するものです。たしかに、すべての欠陥は、欠陥であること自体が本性に反しています。もしこれが本性を害なうことがなければ、欠陥ではありません。しかし本性を損なうゆえに欠陥であるなら、それは本性に反しているからこそ、そうなのです。だが、ある存在者が自らの欠陥にはよらず、他のものの欠陥によって破壊されるとき、前者を非難するのは不当です。そこで、後者が自らの欠陥をもって前者を破壊したとすると、それによって後者は自分自身をも破壊するかどうかを問うべきであろう。だが、欠陥によって破壊されるとは、損傷を受けることに他なりません。損傷を受けることのない本性は欠陥をもたないのです。しかし一方の本性が他のものの欠陥によって破壊されるなら、後者は確かに欠陥を持ち、その本性は害を加え得るものであります。そして自己の欠陥によって破壊を受けると共に、他の本性をも破壊することができるのです。そこで次のように結論できます。すべての欠陥は本性に反し、かつ欠陥をもつ存在者の本性にも反します。それゆえ、どの存在者においても、非難されるのは欠陥だけです。また欠陥は、欠陥あるものの本性に反するからこそ欠陥なのであるから、そのものの本性が賞賛されなければ、欠陥も正しくは非難されません。この欠陥があなたにとって好ましくないのは、それが本性においてあなたを喜ばせるものを害するからにほかなりません。

14、非難すべきは本性ではなく、むしろ本性における欠陥である。

アウグスティヌス:次のことも注意すべきである。ある存在者は自らの欠陥は持たないが、他の存在者の欠陥によって破壊されるとの主張は正しいであろうか。しかし実は、一方が自らの欠陥を持ちつつ他方に近づき、それを破壊しようとするときでも、他のものの中に何か破壊される何かがなければ、それを破壊することはできません。強者は自ら破壊を受けようと欲しない限り、弱者によって破壊されることはありません。しかし自ら欲したとしても、強者が弱者の欠陥によって破壊されるというよりむしろ、その前に自らの欠陥によって破壊を始めるのである。また、同等のものが同等のものによって破壊されることは、いずれか一方が欲しない限り起こりえません。かつ実際は、欠陥をもつ一方が、欠陥をもたない他方の存在者に近づくとき、この近づくという事実において、すでに同等のものとしてではなく、自らの欠陥のゆえに弱い者として近づくのです。強者が弱者を破壊するとき、その破壊は両者の欠陥によるか、また強者の欠陥によるいずれかです。先の場合は、両者の悪い欲望から生じ、後の場合は、後者の本性がいちじるしく優越し、かつ破壊的に優越して、弱者を破壊することになります。例えば、人が大地の果実をよく用いず、自らの欠陥ゆえにこれを破壊し、贅沢のために濫用したとしても、そのことで大地の果実を非難することは不当です。なぜなら、人間の本性がたとえ欠陥をもつにしても、欠陥のないすべての果実にまさり、かつ強いことを疑うことは愚かだからです。

アウグスティヌス:しかしまた、強い存在者が弱い存在者を破壊し、しかしこれがいずれかの側の欠陥によって生じたのではない、とのこともありえます。ここでわれわれが「欠陥」と呼ぶのは、「非難に価するもの」という意味においてだけです。例えば、収穫する人が、果実のうち栄養となるものだけを集めたとしても、あえて彼を非難する人はいません。また、その収穫物が人間の食料に提供されるからと言って、あえてこれを非難する者もいないだろう。これらのことは普通破壊とは言いません。破壊とは、とくに欠陥をさす言葉だからです。またこのことも、普通容易に気づかれています。強い存在者は、一般に自分の欠乏を補うのために、弱い者を用いずにただ破壊することをしません。弱い者を破壊するのは、秩序に罪則ってを罰するためか—-その法則に従って使徒は、「神の宮を破壊する者は、神はその者を破壊するだろう」(1コリント3・17)と語ったのです。—-、あるいは可変的な諸物の秩序に則って破壊するかです。この秩序は、可変的な諸物が、宇宙全体と各部分の活動のために与えれられたもっとも調和ある秩序に従う、相互の従属関係です。例えば、本性の弱さ故に光を凝視できない目を太陽の輝きが破壊したとしても、それは、太陽が自らの光の欠乏を補うために人間の目を変化させたと考えてはならないし、また太陽の欠陥のためにそうなったと考えてもいけません。あるいはまた、主人の命令に従って目を光のほうに向けたからと言って目自身を非難したり、さらに、目が光に負けて破壊されたからと言って、目自身を非難してもいけないのです。それゆえ、あるゆる種類の破壊のうち、害を及ぼす破壊だけが正当に非難されます。その他のものは、破壊と呼ばれるべきではなく、また実際悪いものでないから、非難に価するものでありえません。たしかに、この非難という語は、悪しき欠陥にだけ用意されたもの、すなわちふさわしく、それに価するというところから来た、と信じられています。

アウグスティヌス:最初に述べておいたように、欠陥は、それに伴うものの本性に反する限り悪であります。そこで明らかに、欠陥は非難されても、本質は賞賛されるのです。したがって、欠陥を非難することは、その非難がなされる本性を賞賛することにほかならない、と告白すべきです。たしかに、欠陥は本性に反するために、欠陥の有する悪性が増せば増すほど、本性の有する無欠性が減少する。それゆえ、あなたがあるものの欠陥を非難する時、あなたは確かにそのものの無欠性を望んで、それを賞賛するのではないだろうか。そして、あるものの無欠性を賞賛するとき、その本性の無欠性を賞賛するのである。実際、完全な本性はどんな非難をも受けないだけでなく、それぞれの類にふさわしい賞賛を受けます。それゆえ、あなたがある本性を吟味して、そこに完全性がなお欠けているのを見出し、その欠けを欠陥と呼ぶとき、その本性があなたを喜ばせていることを十分に証明しているのです。なぜなら、あなたはその不完全さを非難することで、その本性の完全を望んでいるからです。

 

15、過ぎ行くものにおける美の実現の仕方

アウグスティヌス:それゆえ、欠陥そのものを非難することが同時に、それをともなう本性の美と品位とを表明することであるならば、すべての創造者である神は、それらのもつ欠陥においてすら限りなく讃えられるべきである。また、本性をして本性たらしめるのは神である。そして、本性は神の術知によってつくられたのであるから、この神的術知から落ちれば落ちるほど、ますます欠陥を持つことになる。そこで本性を非難する人は、本性をつくった神の術知を知り、その術知の中に見られないものが本性の中にあると言って非難するならば、正しく非難したことになろう。万物を創造した神の術知は、まさに神の最高不変の知恵であり、それは真にかつ最高に存在する。だから、神の知恵から落ちるものがあれば、それがどこに向かって行くかをあなたはよく考えて欲しい。しかしこのような堕落も、意志的なものでないならば非難に価しない。実際、あるべきものがあるようにあるということで非難するのが正しいかどうか、考えて欲しい。私はそう思いません。むしろ、それがあるべきようにないから、正しく非難できるのである。さて、だれも受け取らなかったものを負債として負うことはありません。あるものを負債として負うのは、人がそれを返却する義務を伴って受け取った場合である。したがって、遺産贈与によって渡された財産を、再び贈与者に返すとか、あるいは債権者の法律上の相談人に支払われたものが再びその債権者に渡されることがあるが、こうした場合いずれも返却とは言わず、むしろ譲渡とか恵与とか、その他そうした名で呼ばないといけない。それゆえ、こう主張するのはまったくの愚言である。すべての時間的諸物は宇宙のこの秩序の中に置かれている限り、欠け行くことなしには未来のものが過去のものに続くことができず、ゆえに時間全体の美があらゆる時に実現するためには、欠け行くことがあってはならないのだ、と。いうのも、それぞれのものは自分の受け取った分だけを実現し、またあるだけのものを自らの存在の源である神に返すのだからである。そこで、時間的な諸物の消滅を嘆く人がいるとしたら、その人は自分の言った言葉に注意し、その嘆き自体が正しくかつ思慮をもって口からでたのかどうかを考えてみなければならない。人がもし、話の音声のある部分をときに好み、そのためにその部分に席をゆずることを欲しないとしたら、彼はまったくの愚か者とみなされるに違いない。なぜなら、音声が順次消滅し継起していくこtで、話全体が構成されるからである。それゆえ、時間的な諸物がより先にある存在を受け取らなかったために消滅したとしても、その時々に全部が実現されているものであれば、かかるものの中に欠陥を見て非難するのは正しくない。実際、受けた限度をこえて行くことのできないのものに向かって、存続すべきだと言うことのできる人はだれもいないのである。さて宇宙の美は、理性的被造物の中にもっとも調和ある仕方で完成される。その中には罪を犯す者も、犯さない者もある。しかし全く罪がないというのは決して正しくはない。罪がないと言いながら実際は罪があるかのように非難する人がいるとしたら、彼は明らかに罪を犯しています。あるいは、罪はあるが非難する必要がないというのも、やはり正しくありません。なぜなら、そのように言う時、不正の行為の賛歌が始まり、人間精神の目的がまったく乱され、生命すらくつがえされるからです。あるいはまた、理性的被造物がなすべきことをなしたとき、その行為を非難するのは呪うべき狂気なので、穏やかに言っても、まったく惨めな誤謬を生むことになります。しかし、真の理性が現になしているように説得し、罪を非難するようにさせ、あるべきようにないのを非難するのが正しいやり方だと教えるならば、どうか。罪を犯すことができる本性が何をなすべきか考えてみよ。それは正しい行為だ、とあなたは答えるだろう。なぜなら、そのような本性は、欲するならば正しくなる力を神から受け、また正しくなさないならば悲惨になり、正しくなすならば幸福になる力を神から受けているからです。

アウグスティヌス:全能の創造者の法を超え出る者はだれもいません。それゆえ、魂は自分のもっているものを返さずにすまされません。すなわち、魂は受け取ったものをよく用いることで返すか、あるいはよく用いることを欲しなければ、失うことで返すかであります。したがって、魂は正義を行うことによって返すのでなければ、悲惨を受けることによって返すのである。こうして「負っているもの」(負債)という言葉がいずれの場合にも響いている。というのも、この言葉は次のようにも言われたからです。すなわち、魂はなすべきもの(なすべく負っているもの)をなすことで返すのでなければ、受けるべきもの(受けるべく負っているもの)を受けることで返すのである。この二つは時間上のへだたりによって分けられるのではない。もし分けられるとしたら、魂はある時はなすべきことをなし、ある時は受けるべきものを受けることになるからである。そしてこの場合、宇宙の美は一時的には汚されるかもしれない。すなわち、宇宙の美が罰という飾りなしに罪の醜さをもつであろう。しかし、今はまったく隠れた方法で罰せられていることも、いつかその悲惨が明るみに出て強く感じることができるようにと、最後の審判までとっておかれるのです。目覚めていない人は眠っています。同様に、なすべきことをなさない人は、間髪入れずに受けるべきことを受けるのである。なぜなら、正義の幸福はきわめて大きく、そこから離れるなら、人は必ず悲惨に落ちざるをえないからです。それゆえ、すべての欠けたもののうち、あるものは自分に欠けている先の存在を受け取らないために消滅するが、それによって罰せられるのではない。かかるものはまた、現に現存する限り、より大きな存在を受け取らないとしてもやはり罰せられない。だがあるものは、欲するならばよりよい存在を受け取ることができるのに、それを欲しない。そこで欲しないなら、この存在が善であるゆえに罰せられるのです。

 

16、被造物が神に負っているもの

アウグスティヌス:しかし、神は何の負債も負っていなし。神はすべてを無償で与えるからである。神も何かを私の功績に負っていると主張する人がいるかもしれないが、神が自らの存在をその人の功績に負っているのではないことは確かです。なぜなら、神が自らの存在をそれに負う、そういうものはかつて存在しなかったからであります。それでは、あなたは神から存在を受けているのに、この神によっていっそう善くなろうと、あなたの存在の源である神に向き変わるとき、そこに何かの功績が生じるとでも言うのか。あなたは返還を要求できるものを、以前神に貸したことがあるのか、あなたが向き変ることを欲しない時、神にとって失われたものは何もないが、あなたにとっては神自身を失うのであります。そしてあなたは神なしには無であり、神によって何らかの存在をもつのだから、あなたは神に向き変ることにより、神から受け取ったあなたの存在を神に返すのです。そうしないと、あなたは無にならないとしても悲惨になるだろう。したがって、すべての被造物は、第一に自然本性的存在である限りでの存在を神に負い、第二に意志を受け取っている者は、欲するならばなりうるところのより善い存在を神に負い、こうしてあるべき一切の存在を神に負っているのです。それゆえ、誰も受け取らなかったものについては罰せられないが、なすべきことをしないことについては正当に罰せられる。人は自由意志と、それを動かすきわめて十分な能力とを受け取っている限り、これを十分働かせなければならないのです。

アウグスティヌス:こうして人がなすべきことをしないとしても、創造者に罪はない。むしろ人は受けるべきもの(悲惨)を受けるのであるから、創造者は讃えられるべきであり、また人がなすべきことをしないために非難されるという正にその点で、彼になすべきことを命じた創造者が讃えられるのです。なぜなら、あなたはなすべきことを知っているだけで人に賞賛されるのであれば、あなたは不変の真理である神においてだけ知ったのだから、神はいかほど高く讃えられるだろう。神は人に欲することを命じ、かつその力を与えたのであるから、欲しない者を罰せずに放置することはないだろう。人は受け取ったものを返すべきであり、しかも必然的に罪を犯すようにつくられたとすると、罪を犯すのが当然だということになります。それゆえ、罪を犯したとき、彼はなすべきことをなしたのであります。—-しかしこう主張するのは冒涜であります。だれも自らの本性によって罪を犯すよう強制はされません。また他のものの本性によって強制されるのでもない。なぜなら、人は欲しないことを受けるにしても、それで罪を犯すのではないから。実際、人は意図せずに罰を受けることで罪を犯すのではなく、自ら欲してなしたことで罪を犯すのであり、このとき正当に罰を受けるのです。すなわち、その結果、自分の欲しなかったものを法に基づいて受けます。人は罰を不当に受けるとしたら、どうして罪を犯すことになろうか。罪とは不当に受けることではなく、不当に行うことであります。それゆえ、人は自他の本性によって罪を犯すように強制されていないとすれば、自分の意志によってだけ罪を犯すことになります。もしあなたが、罪を創造者に帰することを欲するならば、罪人は創造者の定めに反して行わないことになるから、あなたは罪人を放免するであろう。そして彼が正当に弁護されたなら、彼は罪を犯したのではないのであります。そうすると、あなたが創造者に帰したものは罪ではないことになります。それゆえ、罪人が弁護されるなら、彼は罪人でなりから創造者を讃えるべきだし、また弁護されることができないなら、彼は創造者に背く限り罪人なのだから、創造者を讃えるべきです。したがって、私たちの罪を私たちの創造者に帰すべき理由はまったく見出されません。また見出すことはできないし、絶対にありえないと私は確信します。しかし同時に、罪そのものにおいてすら神が讃えられることを私は見出すのであります。なぜなら、神は罪を罰するからであり、また人が罪を犯すのは、神の真理から離れることによるからです。

エヴォディウス:あなたの言われたことを本当に喜んで聞き、認めます。また、私たちの罪を創造者に帰すことは決して正当にはできないということが、まったく真理であると同意します。

 

17、むさぼりの罪

エヴォディウス:しかし、できれば次のことを知りたいのです。罪を犯さないであろうと神が予知した被造物が罪を犯さず、罪を犯すであろうと予見した被造物が罪を犯さないのは、なぜでしょうか。私は今では、神の予知自体が後者には罪を犯すように強制し、前者には犯さないよう強制するとは考えていません。しかし原因のないところでは、理性的被造物が分けられて、あるものは決して罪を犯さないが、あるものは犯し続け、またあるものはその中間のように、ある時は犯し、ある時は正しい行為に向かう、といったことはありえません。いったいどんな原因が、理性的被造物をこの三つの群れに分けるのですか。しかし私としては、「それは意志だ」と答えてもらいたくありません。意志そのものの原因を私はたずねているのです。実際、みな同じ類の被造物ですから、原因なしには、あるものは決して罪を犯そうと欲せず、あるものは常に犯そうと欲し、またあるものは犯そうと欲したり欲しなかったりする、ということにはならないでしょう。私が明らかだと思う唯一のことは、理性的被造物の意志は原因によらなければこの三つの郡に分けられない、ということです。しかしその原因がないか、私は知りません。

アウグスティヌス:意志が罪の原因であるが、しかしあなたは意志そのものの原因を求めるので、私がそれを見出しても、その見出された原因の原因をたずねようとします。その質問には限りがありません。追求と討論の終わりは何であろうか。しかし、あなたは、根をこえて何かをたずねる必要はありません。「あらゆる悪の根はむさぼりである」(1テモテ6・10)との言葉以上に真理を語ることができると思ってはいけません。むさぼりとは、十分以上のものを求めることです。十分とは、それぞれの本性が自らを保つに必要な限度であります。むさぼりはギリシア語ではphilargyria(銀を愛すること)と呼ばれますが、これはたんに銀や貨幣のことを言うのではありません。(もっとも、むさぼりという名はそこから導出された。昔の人々は貨幣をしばしば銀や銀の合金でつくった) むしろむさぼりは、限度以上に欲求されたすべてのことについて理解されねばならない。人が十分以上に欲するところに必ずむさぼりがあります。しかしこの意味でのむさぼりは欲望であり、欲望は不正な意志です。それゆえ、不正な意志がすべての悪の原因です。しかし、もしそれが本性に従うものであれば、たしかに本性を保ち、本性を害なうことなく、不正ではないことになります。それゆえ、すべての悪の根は本性に従うものではないという結論が生じます。このことは、自然本性を非難しようとするすべての人にたいし十分な答えです。しかし、あなたがその根の原因をたずねたとき、なぜそれがすべての悪の根なのであろうか。そうした根の原因があって、あなたがそれを見出したとしても、今述べたように、あなたはさらにその原因をたずね、こうしてあなたの探求には限度がないことになるでしょう。

アウグスティヌス:だが、意志に先行して意志の原因となりうるものは、一体何であるか。それもまた意志に他ならず、意志の根から断たれていないか、それとも意志ではなく、罪のないものであるか、のいずれかです。したがって、意志そのものが罪の最初の原因でありますが、それとも罪でないものがそうなのか、のいずれかであります。正しければ、人がそれに従ったために罪を犯すことはありません。だが正しくなければ、人はそれに従わず、従うことで罪を犯すことはないであろう。

アウグスティヌス:ことによるとその原因は暴力で、これが人を意に反して強制するのであろうか。しかし、私たちは同じことを何度もくり返す必要はあるまい。罪と自由意志について先に述べた多くのことを想い出してほしい。もしそのすべてを記憶にとめることが難しいなら、次の要点を覚えていてほしい。意志の原因は何であれ、人がそれに抵抗できないとすれば、それに敗れて罪を犯すのではない。しかし抵抗できるなら、それに敗れることなく、したがって罪を犯すこともありません。それとも、警戒を怠って欺かれることがあるかもしれません。だから、欺かれないよう警戒すべきです。あるいは、まったく警戒できないほど欺きが大きかったとしたら、どうか。その場合罪はないだろう。どうしても警戒できないものによって罪を犯すことはないからです。しかし事実罪が犯されたのである。だから人は警戒することができるのです。

アウグスティヌス:しかし聖書によれば、無知からなされた行為といえども是認されず、矯正されねばならないと考えられます。すなわち使徒は言います。「私は知らないで行ったので、あわれみを受けました」(1テモテ1・13)。また預言者も言っています。「主よ、私の若い日の過ちと無知とを想い出させないでください」(詩編25・7)。さらに、人が正しく行おうと欲しても行うことができない時、それは必然の力によるのであるが、これも是認されていません。「私は欲する善を行わないで、欲しない悪を行います」(ローマ7・18-19)、あるいは「肉は霊に反して求め、霊は肉に反して求める。両者は相反し、あなたたちは自分の欲することを行いません」(ガラ5・17)などの言葉が、それを指しています。しかしかかることはみな、かの死の罰をもつ人間に属しています。もし死が人間にとって罰ではなくて自然本性であるならば、それは罪ではありません。なぜなら、人間がつくられた自然の様から離れず、しかもその状態がより善くなりうるものでないとしたら、その本性の中にとどまることは、なすべきことをなしたにすぎないからです。しかし、人間がそれと異なるとしたら、彼は善くなっているはずですが、現実には罪の状態にあって善くなく、また善くなる権能も有していません。これは、人間がいかにあるかを知らないで、あるいは知ってもなしえないことによるのです。かかる状態が罰であることを、だれが疑うことができるだろうか。ところで、正しい罰はみな罪の罰であって、これは「処罰」と呼ばれます。もしこれが不正のものであれば、たしかに罰であっても、不正な支配者が人に負わせたものであります。しかし、神の全能と正義を疑うのは愚かであり、神の罰は正しく、それは何らかの罪に対して下されるものと認めねばなりません。実際、不正な支配者といえども、神に隠れてひそかに人間を神から奪うことはできず、また神は自分より弱いかのように、神の意志に反して人間を神から遠ざけることもできません。すなわち、不正な罰でもって人間を苦しめてやろうと神を脅したり、神と争ったりすることはできません。それゆえ、この正しい罰は、人間に対する神の罰から来た、と結論されます。

アウグスティヌス:正しく行うべきことを選択する意志の自由な決定を、人が無知のゆえに持たないとしても、おどろくにあたりません。また正しい行為を知り、それを行おうと欲しても、生殖行為の中で抑制されないままほとんど自然的なものに成長するに至った肉の習慣が妨げるために、それをなしえないとしても、おどろくにあたりません。なぜなら、これらは、あの罪に対するきわめて正しい罰だからです。すなわち、人は意志の自由な決定を用いようと欲すれば、困難なく用いることができたのに、善く用いることを欲しなかったため、それを失ったのです。言い換えれば、人は知っても正しく行わないなら、何が正しいかを知る力を失い、また、できるのに正しく行おうと欲しないならば、欲したときになしうる力を失うのです。すべて罪を犯す魂には、実に無知と困難という二つの罰があります。無知からは誤謬と恥が生じ、困難からは苦しみと疲れが生じます。しかし、誤謬を真理と取り違えて、不本意にもさ迷い、肉のくびきの苦しみが抵抗し苦悶させるために情欲のわざを断ち切れないのは、神につくられた人間の本性ではなくて、罰せられた人間の罪なのです。私たちは正しい行為に向かうための自由意志について語るとき、それは人間のつくられた時の意志について語るのです。

 

19、無知による罪は原罪に対する罰の結果である

アウグスティヌス:ここであの問題が起こってきます。すなわち、罪を犯しても決して自分だけは責めようとしない連中が、互いにつぶやきながらわめくのを常とする問題です。彼らは言います。私たちは無知と盲目、困難と苦しみを負って生まれ、第一に何をなすべきか知らないで迷い、第二に正義の戒めが初めて啓示されたとき、それを守ろうとはしたが、何かわからない肉の情欲の必然性によって妨げられ、守ることができません。しかし、この状態に陥ったのは、アダムとエバが罪を犯したからだとしても、この悲惨な私たちが何をしたからだと言うのか、と。私は、彼らが沈黙し、神に向かってつぶやくのをやめるよう、手短に答えます。誤謬と情欲に打ち勝った者が人間の中に一人もいなかったなら、彼らの嘆息は多分正しいであろう。しかし、神はあまねく現在し、神を主として仕える被造物を通じて、多くの仕方で背いた者に呼びかけ、信じる者を数え、望む者をなぐさめ、愛する者をはげまし、努力する者を助け、祈る者に聞くのです。だから、あなたが不本意にも知らないことはあなたの咎と見なされませんが、知らないものの探求を怠ることは咎と見なされるのです。またあなたが、傷ついた肢体の手当てをしないことは非難されないが、癒そうと欲する人を蔑視することは非難されます。そうしたことがあなたの罪です。なぜなら、知らずに無益と思っていたものを、有益なことがわかって知ろうと求めることは、だれにも拒否されていないからです。またその際、自分の弱さを謙虚に告白することも、だれにも拒否されていません。このように求め、告白する者は神は助けます。そしてこの助けを与えるとき、神は誤ることも疲れることもないのです。

アウグスティヌス:人が無知ゆえに正しく行わなかったことや、正しく欲しても行うことができなかったことが罪と呼ばれるのは、それらが、自由意志の犯した罪に由来するからです。すなわち、かの罪が前提となり、その当然の報いとしてそれが生じたのです。私たちは、語る時に口の中で動かす部分を舌(lingua)と呼ぶだけではなく、その運動から生じた様々の語の形態や連鎖も言葉(lingua)と呼び、その種類によってラテン語(lingua latina)とギリシア語( lingua graeca)とが区別されます。同様に、私たちが自由意志によって知りつつ犯した行為が本来罪と呼ばれますが、それだけでなく、これに対する罰から必然的に結果したものも罪と呼ばれます。さらに、自然本性についていうと、最初の人間がその類において罪なきものとしてつくられた状態を本来的に自然本性と呼びますが、他方、かの罰された者の罰によって、可死的な者、無知の者、肉の奴隷として生まれた私たちの自然本性があります。使徒が言うのは後者を指しています、「私たちは他の人々と同じく、生まれながらに怒りの子であった」(エフェソ2・3) 

20、無知と困難からの解放

アウグスティヌス:かの最初の結婚から生まれた私たちは、生まれながらに無知と困難と可死性とをたずさえています。なぜなら、かの二人は罪を犯して、誤謬と苦しみと死の中に投げ出されたからです。しかし原初以来、人間の誕生において神の罰の正義が現れ、成長において解放者である神の憐れみが現れることは、万物の統治者である至高の神にもっとも正しくかなったことです。最初の人間は罰を受けて幸福が除かれましたが、生殖まで除かれたのではありません。実際、その子孫は肉的で可死的ですが、自らふさわしい仕方で大地の美となり飾りとなることができました。とはいえ、最初の人間が自分よりすぐれた子孫を生むことは公正ではありませんでした。そこで私たちは、神に向き変るとき、祖先が神の背反の結果報いられた罰を克服するのです。それを意志することは私たちに妨げられていませんが、さらにこの意志は助けを受ける必要がありました。実際、万物の創造者は助けを与え、これによって最初の人間の子孫は生まれた時の状態をこえることができました。こうして、最初の人間は、欲しさえすれば容易に、そのつくられた時の状態を保持することができたことが明らかにされたのです。 

アウグスティヌス:次に神はただ一つの魂をつくり、誕生したすべての人の魂はそこから生じたのであれば、最初の人間は罪を犯したが、私たち自身は罪を犯さないと、だれが言うことができるであろうか。しかし、各自が誕生のたびに魂がつくられるとしても、先人の悪い功績が後の人間の本性となり、後の人の善い功績が先人の失われた本性を回復するということは理に反しないで、むしろきわめてふさわしい、きわめて秩序にかなうことだと思われます。そして創造者は、一方の魂が転落した段階から他方の魂が出発するという仕方で、魂の品位は物体的被造物のそれにまさることを示そうとしたのであれば、今述べたことは決して不当ではないでしょう。というのも、魂が罪を犯して無知と困難とに陥るとき、それが正当に罰と呼ばれるのは、魂は罰を受ける前はもっと善かったからです。それゆえ、魂は罪を犯す前だけでなく、生まれる前にも、他の魂が悪い生をすごしたあとに帰るべき存在をすでに始めていたとすると、魂は少なからず善を持つわけで、そのことで自らの創造者に感謝すべきである。なぜなら、魂は出生と起源においてどんな完全な被造物にもまさるからです。さらに、本性上すべての物体にまさることだけが魂の本質ではありません。むしろそれ以上に、魂は創造者の助けによって、自らを教化する能力を持ち、敬虔な努力でもってあらゆる徳を獲得し所有することができるのであり、このようなことは決して小さな善ではありません。そして魂は徳によって、魂を苦しめる困難と、盲目ならしめる無知とから解放されるのです。そうだとすると、無知と困難は、誕生した魂にとって罪の罰ではなく、むしろ向上へのすすめであり、完成の始めであります。なぜなら、魂はあらゆる善きわざの功績に先立って自然本性的に判断力を受け取り、これによって誤謬よりも知恵を、困難よりも平静を選び、こうして生まれつきによらず、努力によってこれに達することができるからです。これは決して小さな善でありません。しかし努力を欲しなければ、魂はその受け取った能力を善く用いない罪によって正当に罰せられます。実際、魂が無知と困難の中に生まれたにせよ、その生まれた状態にとどまれと強制するような必然性が他にあるのではありません。この魂を創造した者は、全能の神の他にはいません。神は、魂によって愛せられるに先立ってこれを創造し、自らの愛においてこれを回復させ、これに愛せられることにおいて自らのわざを完成したのです。全能の神は存在しないものに存在を与え、全能の神によって存在するものがこの神を愛するとき、これを至福の者となすのです。

アウグスティヌス:ところで、神の中の隠れたところに先在した魂が、誕生した各々の身体に生命を吹き込み、これを支配することができるように遣わされたのであれば、それは確かに次の仕事のためです。すなわち、最初の人間の罪の罰である可死性をもとに生まれた身体をよく治め、徳をもって制御し、もっとも秩序ある法にかなう服従のもとにおくことで、この身体自身にも、ふさわしい時と順序において天上の不滅の場所を備える、という仕事です。かかる魂がこの世の生に来て、可死的な肢体の管理を引き受けるとき、以前の生活を忘れて、現在の生活の消耗を引き受けるのは必然です。その結果、かの無知と困難が生じますが、これらは最初の人間において死の罰となり、それによって彼の魂は悲惨を味わったのでした。しかし、神から遣わされた魂にあっては、その無知と困難は、肉体を不滅のものとする魂の仕事の戸口です。私たちが無知と困難をも罪と呼ぶのは、かの罪人の子から生じた肉が、そこに近づく魂にこれらをもたらすからです。しかし、これらゆえに創造者をも、その魂をも非難してはいけません。実際、創造者は、彼らが困難な仕事にあたってもよく働く能力を与え、忘却と盲目の中でも信仰の道を与えましたが、とくにその判断力を与えたのです。こうしてすべての魂は、以前無知ゆえに無益と思ったものをたずね求めるべきこと、正しく行為する際の困難に打ち克つためには苦しい仕事のなかでも忍耐づよく努力すべきこと、また努力する者を助けてくださるよう創造者に祈り求めるべきことを知るのです。創造者は外からの律法により、内では心の奥に直接語りかけることによって、この努力を命じました。また、あの呪うべき誘惑によって最初の人間を征服し、かの悲惨の中に陥れた悪魔に勝った者のために、限りなき至福の国の栄光を用意したのです。彼らがその悲惨を引き受けたのは、すぐれた信仰によって悪魔に勝つためでした。悪魔は人間を征服し、これを悲惨の罰のもとに置くことで誇りましたが、人間がその同じ罰を引き受けて、悪魔との戦いに勝ったことは決して小さな栄光ではありません。しかし、この世の生への愛に縛られてこの戦いを怠る者が、戦争放棄の不名誉を王の命令に帰することはまったく正当ではありえません。そういう者はむしろ、万軍の主によって悪魔の軍隊の中に編入されるでしょう。彼は愚かにもその軍隊の給料を求めて、自分の人知を見捨てたのです。

アウグスティヌス:しかし魂がどこか別のところでつくられ、主なる神から遣わされたのではなく、自分勝手に身体の中に住みつくとしたら、無知と困難から出たものはみな彼ら自身の意志の結果なのです。これによって創造者が非難されないことは、もう容易に理解できるでしょう。なぜなら、創造者自ら彼らを遣わしたのであれば、無知と困難の中でも、懇願し、探求し、努力する自由意志を取り去ることはないからです。創造者は、懇願する者に与え、探求する者に示し、叩く者に戸を開くであろうゆえ、決して非難されることはありません。そして、善い意志を持ち、努力する魂には、この無知と困難に克って栄光の冠を受けるべき力を備えます。しかし、怠慢で、自分の弱さゆえに罪を弁護しようと欲する魂にたいしては、その無知と困難をとがめないとしても、正しい罰をもって審くでしょう。というのも、彼らは、熱心に求め、学び、謙虚に告白し、祈って真理と、容易になしうる力をうるよりはむしろ、無知と困難の中にとどまり続けようと欲したからです。 

 

21、魂の起源について

アウグスティヌス:魂の起源について四つの見解があります。魂は生殖によって生じる。あるいは、誕生した各人に新しい魂がつくられる。あるいは、すでに他のどこかにあって、誕生した身体の中に神から遣わされる。あるいは、進んでその中におりて行く。以上四つの見解はどれも無思慮に肯定されてはいけません。この問題は、カトリック教会の聖書解釈者によっては、問題の難解さと複雑さが要求するほどには論ぜられ解明されていません。解明されたとしても、そのような書物は私たちの手元にはまだありません。私たちはただ、創造者の実体について誤った見解や、ふさわしくない見解を立てることのないだけの信仰を持つべきです。私たちは敬虔の道を通って、創造者の認識へと進みます。もし創造者について真実と異なる見解を持ったならば、私たちの努力は私たちを幸福ではなくて虚妄に導くでしょう。だが被造物については、私たちが真実と異なる見解を持つとしても、それを確実な知識や考えと見なさない限り危険はありません。というのも、私たちは幸福になるためには、被造物ではなく創造者に向かうよう命じられているからです。それゆえ、創造者について、ふさわしくない見解や真実でない見解によって説得されるとき、非常に危険な誤謬によって欺かれることになります。実際、実在しないものや、実在しても人を幸福にしないものに向けて進むなら、だれも幸福な生に至ることはできないのです。

アウグスティヌス:けれども、真理の永遠性を観想し、享受し、固着することができるために、時間的なものから出発する道がわれわれに備えられています。そこで私たちは、永遠のものをさして歩む旅人にとって必要な限りで、過去のものと未来のものとを信じましょう。信仰の教えは、すぐれた権威を示すべく、神の憐れみによって導かれています。ところで、現在のものは、それが被造物に属する限りでは、物体と魂の運動変化を通じて過ぎ行くものとして知覚されます。これらの中で、私たちが経験しないものは、どんな思考によってもとらえることができません。およそ被造物については、過去のものであれ未来のものであれ、神の権威に従って信じるべきことが言われています。たしかにその一部は、私たちの感覚がとらえる前に過ぎ去っており、一部はまだ私たちの感覚に届いていません。しかしそれらは私たちの希望を強め、愛を勧めるのに大きな力を持っています。というのは、それらは、神はいかに私たちの解放を怠らないかを、時のもっとも秩序ある継起を通して想い起させるからです。それゆえ、それらを何の疑いもはさまずに信じなければなりません。ところで、神的権威の仮面をかぶった誤謬はすべて、次のようにきわめて理性的に退けられます。その誤謬とは、神の被造物以外に何らかの美が—-可変的な美であっても—-あること、あるいは、神の実体の中に何らかの可変的な美があることを信じ肯定せよと説得し、また神の実体を三位よりも多いとか少ないとかと主張するものではないでしょうか。キリスト教的覚醒は、この三位を敬虔に冷静に認識することを怠らないし、またこの覚醒の進歩は、すべて三位についての認識に向かっています。三位の統一性と等しさ、三位における各位格の固有性について論じることは今の課題ではありません。私たちは今、万物の創造者、形成者、統治者である主なる神についての真理を想起しないといけません。これはきわめて確かな救いに至る信仰の事柄であり、そして乳を呑んで、地から天へ登り始めた者にとっては、有効な支えとして用いられます。その真理を想起することはまったく容易だし、すでに多くの人々がなしています。しかしこの問題を論じつくし、十分に展開して、すべての人知をこの世で与えられた限りの明瞭な理性に結びつけることは、わたしたちであろうとだれであろうと、弁舌や思考によっても容易でなく、また容易に企てることができることでありません。そこで神が助け、許す限りで、ここに提出した問題を追って行きましょう。被造物につき、過去のこととして私たちに語られ、未来のこととして予告されたものは、およそ神と隣人への真実な愛へ私たちを励まして健全な宗教を勧めるものであれば、疑うことなく信じるべきです。そして信じない者に対して、十分に弁護しなければいけません。すなわち、彼らの不信仰が権威の重さによってつぶれれ、まずそれらを信じるのは愚かでなく、次に信じないのは愚かであることを、できるだけ彼らに示さないといけません。しかし私たちは、過去と未来についてではなく、現在のことについても、とりわけ不変的なものに関する誤った論説を論駁し、私たちのできる限り明瞭な論証でもって退けるべきです。 

アウグスティヌス:もちろん、一連の時間的なものの中では、過去の探求よりも未来への希望のほうを先行させるべきです。聖書においても、過去の事件についての物語は、未来の事件の予示、約束、保証となっているからです。また人は事実、地上の生に属する幸不幸についても、すでに過ぎ去ったものはあまり気にしませんが、待望する未来のことは、みなきわめて熱心な配慮を払っています。実際、何かわからないが、内的な自然的な感情からして、私たちに起こったことが過ぎてしまえば何も起こらなかったように思われ、ただの幸福のとき、あるいは不幸な時であったと思われるだけです。それゆえ、私は自分が存在していることを知り、未来も存在するであろうことに絶望していないなら、私がいつ存在し始めたかを知らなくても、それは私にとって何の妨げにもならないでしょう。過去を実際あったのと異なるものと考えるのは、大きな危険として恐れないといけません。しかし私は、創造者の憐れみに導かれて、未来の存在に向けて歩み出します。それゆえ、私の未来の存在について、また私がやがてその前に立つ神について、実際の真理と異なることを信じたり考えたりするとしたら、その誤謬をきびしく警戒しないといけません。というのも、誤謬を真と思いなすことによって、私に必要なものを用意しなかったり、私が置いた目標に達し得なかったりすることを恐れるからです。こういうわけで、私が過ぎ去った冬を忘れても衣服を買うために少しも妨げになりませんが、未来の寒さの厳しいことを信じないなら妨げになるでしょう。同様に、私の魂がこうむったに違いないことを忘れたとしても、次に備えるように教えられたことを今注意深く見つめ、それを保持するならば、その忘却は私の魂にとって少しも妨げになりません。しかし、出帆した海岸を憶えていても、ローマの港について間違ったことを考え、座礁したとしたら、その記憶は何の役にも立たないだろう。同様に、私の一生がいつ始まったかを知らないとしても、私の憩うべき目的を知っていれば、私を妨げるものは何もありません。神は魂の活動の唯一の目的ですが、その神についてふさわしくないことを考えて、誤謬の暗礁に衝突したとしたら、私の一生の始めを記憶し、あるいは推測できたとしても、それは何の役にも立たないであろう。

アウグスティヌス:魂は魂から生まれるのか、それとも、身体を生かすためにそれぞれの魂が身体の中に生じるのか、それとも身体を生かし支配するために、他のどこかから神の合図によって遣わされるのか、それとも自分の意志によって身体の中に入ってくるのか。かかる問題について、人はできるだけ神からの霊感によって書かれた書物に従って探求すべきであり、そして私たちが今まで述べたことは、そういう仕方での探求を禁じていると考えてはいけません。実際、理性はある必要な問題を解決すべく、われわれがこれらのことを考察し討論することを要求するだろう。あるいは、さらに必要なことのために、これらの問題を提起し討論する暇を認めるだろう。これらのことについて、あまりにも人間的な懐疑のために人の意見に同意しない人がいたとしても、その者にたいし軽率に立腹しないよう、私は以上のことを述べたのです。あるいはまた、これらのことについて聖書から確実で明瞭な答えをえたとしても、他の人は自分が出て来た過去を記憶しないために未来への希望を失うかもしれない、と考えたりしないよう、以上のことを述べたのです。 

 

22、魂の創造者を讃えるべきである

アウグスティヌス:この問題をまったく不問に付するにせよ、あるいは今は延期して他日の考察にゆだねるにせよ、どう取り扱うにせよ、現在の討論から次の結論が出ることは妨げられていません。すなわち、魂が自分の罰をこうむるのは、もっとも完全でもっとも正しく、もっとも堅固で不変的な創造者の尊厳と実体によるのです。そして、私たちが長い間論じてきたように、その罪は魂の固有な意志以外のものに帰せてはならず、また罪のそれ以上の原因を求めてはいけないのです。 

アウグスティヌス:ところで、無知と困難が自然本性的なものだとしたら、魂はそこから前進を始めて知識と平静に進み、ついに自らの中に至福の生が完成されることになります。しかし、魂が自らの意志により、最大の熱心と敬虔とをもってそこに至るのをこばむならば、たとえそのために力は魂に拒まれていないにしても、魂はもっとひどい無知と困難に突き落とされます。それは罰則に従うものです。そして魂は、万物のもっとも調和ある、もっと適切な(神の)支配のもとで、いっそう劣れるものの中におかれることになります。というのも、魂の罰として教えられるものは、自然本性的な無知、自然本性的な無力ではなくて、知ろうと努めず、正しい行いのために具わった能力を十分に働かせなかったからです。実際、語る言葉を知らず、その力もないことは、幼児にとって自然的であります。語ることについてのその無知と困難は、文法教師の規則によっても非難されないし、むしろ人間の心情にとって快く楽しいものです。幼児は欠陥ゆえにその能力の習得を怠ったのではなく、習得したものを欠陥ゆえに失ったのでもありません。それゆえ、私たちの幸福が雄弁においてあるとしたら、人がその行為の中で罪を犯した時のように、発音が正しくなければ罰せられるだろうが、しかし幼少の頃に雄弁を学び始めたことで、その幼さが非難されることはありません。だが、自分の意志で邪悪さのゆえに幼少期にもどり、あるいはそこにとどまったままであれば、まったく正当に罰せられることになります。同様に、真理について無知や善を行うことの困難が人間にとってきわめて自然本性的であって、そこから始めて知恵と平静の至福にさし登るのだとしたら、その無知と困難が自然的端緒をなすとのことで、これを非難するのは正当ではありません。しかし人が前進を欲しないで、前進しても退却を欲するならば、彼が罰せられるのは正しいし、当然でもあります。 

アウグスティヌス:魂の創造者はいかなる時にも讃えられます。創造者は、このように端緒から出発して最高善に至る能力を魂の中に置き、その前進を助けるからです。また、前進する魂を支え、それを完成させるからです。しかし魂が罪を犯し、端緒から完成へと自らを高めることをこばみ、少し前進しても後退するなら、もっと正しい罰による当然の報いを魂に定めておくからです。魂は前進して完成に至る力を受け取りましたが、まだ完成していないということは、創造者が魂を悪くつくったということにはなりません。身体の完全さはすべて、始めから魂に劣っていますが、物事を正しく判断する人は、身体もその類において賞賛に価するものと判断します。それゆえ、魂がなすべきことについて無知であるのは、魂がまだ完成に達していないことによります。しかし、受け取った限りの完全さを善く用いるなら、さらに大きな完全さを受け取りるでしょう。魂は欲するならば、敬虔かつ熱心にたずね求めるための力を受け取っているのです。また、魂がなすべきことを知りつつ直ちになしえないのは、魂がなす力をまだ受け取っていないからです。というのも、魂の中になすべき善を認識するすぐれた部分が先立ってありますが、怠惰で肉的な他の部分が、そのすぐれた部分の決定に直ちに服従しないからです。魂はこの困難さのために、自らの完成を助けてくれる者—-それが自らの端緒の創造者と同じ方であることを魂は知っている—-に向かって懇願するよう、うながされます。こうして、魂は創造者といっそう親しくなります。魂が存在するのは自らの力によらず、創造者の恵みによるのであり、また魂が幸福であるのは、その憐みに支えられているからです。魂は自らの存在の源である創造者を愛すれば愛するほど、ますます安らかに創造者の中に憩い、ますます豊かにその永遠性を楽しむのです。若木の新芽はちょうどよい時期に実がなるまでは、何度かの夏を実をつけないまま過ごすか、われわれ実がならないといってその芽を決めつけるのは正しくありません。そうだとすると、魂の創造者をふさわしい敬虔でもって讃えないでよいだろうか。というのも、創造者は、努力し前進して知恵と正義の実を結ぶに至りうる端緒を魂に与え、また魂が欲して至福をめざすならば、そこに至る力を魂の中におくことにより、かくも偉大な品位を魂に与えたからです。 

 

23、幼児の死と苦しみは神にとっても人間にとっても無意味なものではない

アウグスティヌス:以上の議論にたいし、無知な人々は幼児の死と、しばしば見受けられる肉体の折檻の苦しみとをあげて、つまらない論争を起こして反対するのが常であります。彼らはこう言います。地上の生涯において何らかの功績を上げる前に死んだ人は、何のために生まれる必要があったか。その人は最後の審判のとき、どんな判決がくだされるのか。というのは、彼は善いわざをしていないから義人の座にすわらず、罪を犯していないから悪人の座にすわることもないから、と。この連中にたいする答はこうであります。宇宙全体、および時間空間における全被造物の秩序ある結合から見て、どんな人間も無駄につくられることはありえません。一枚の木の葉さえ、むだにはつくられていません。しかし、何の功績もなかった人の功績もなかった人の功績について、問うことはまことに無駄です。実際、人間の一生が正しい行いと罪との中間ではないかと恐れたり、審判者の判決が賞と罰の中間ではないかと恐れたりする必要はないのです。 

アウグスティヌス:これに関連して、人々はこうたずねるのが常です。幼児はキリストの洗礼のサクラメントを受けても、しばしばその意味を知る前に死ぬのだから、それが幼児にとって何の役に立つだろうか、と。この点については、人が子を神への捧げものとして差し出すとき、彼の信仰が子にとって有益であると信じることが、本当の敬虔であり信仰なのです。真に確実な救いを得させる教会の権威がこのことを教えています。これによって人は、自分の信仰が、また堅固な信仰をもたない他人にも善行として差し出されるとき、それがいかに自分にとっても益であるかを知るべきです。ナインのやもめの子が死んだとき、その子はまだ信仰をもたず死んだのだから、彼女の信仰が何か益をもったのであろうか。しかし、「母の信仰が子の復活に役立った」(ルカ7・12-15)のではないか。それゆえ、不信仰が幼児に帰せられることがないそのことにおいて、他人の信仰がいかに幼児を助けたかが明らかではないだろうか。 

アウグスティヌス:幼児はその年齢ではまだ罪がないのに、折檻によって肉体が苦しめられます。これについて、こんな問題があります。すなわち、幼児に生命を与えている魂は大人たちより先に存在を始めたのではないとして、大人が折檻された時よりも深い嘆息と同情を幼児に示しながら、こう言うのです。そういう苦痛を受けるのは、幼児がどんな悪いことをしたからなのか、と。だがこの言い方は、人が危害を加えることのできる年齢に達するまでは、まるで無害(無罪)という功績がありうるようである。しかし、かわいい幼児が折檻されて苦しんで死んだりしたとき、神は大人たちを矯正することで善いことをなすのです。だから、折檻していけないということはありません。折檻を受けた人にとっては、それは過ぎてしまえば何ごともなかったようである。しかし、折檻した人は、その過ぎ去る災いを通じて矯正され、より善い生活を選ぶならば、いっそう善くなるであろう。だが、この世の生の苦悩から永遠の生へと希望を向き変えようとしないならば、最後の審判にあたって罰にたいする弁明をすることはできません。ところで、幼児が受ける折檻の苦しみを通じて大人の頑迷さが打ち砕かれるとき、その大人の信仰が幼児に働き、憐みを示すことを、だれが知っているであろうか。また、神は審きの隠れた内側に、幼児のために善い償いを秘め置くことを、だれが知っているであろうか。幼児は善いわざをもたないにしても、罪を犯していない時にあのような折檻を受けたのです。ヘロデが主イエス・キリストを殺そうと探し回ったとき、巻き添えにあって殺された幼児たち(マタイ2・16)を、教会が殉教者として尊ぶべきことを命じたのは、決して意味のないことでありませんでした。 

アウグスティヌス:無益な議論にふけって、こうした重要な問題を熱心に検討せず、かえって饒舌をたくましくするかの詭弁家たちは、さらに動物の苦痛と苦役について、こんなことを言って無学な人々の信仰を動揺させるのが常です。すなわち、動物がこれほど多くの悲惨をこうむるのは、どんな悪いことをしたためか。またそのような悲惨に耐えているのは、どんな善を待望しているからか、と。彼らがこういったり考えたりするのは、事柄をまったく正しく見ていないからです。彼らは、最高善が何であり、どんなにすぐれているかを洞察することができず、むしろ自分たちが勝手に考えたものがすべて最高善であるようにと願っています。実際、彼らは殆ど消滅しない最高の天体以上には最高善を考えることはできません。あるいは、動物の身体はもっとも低く、よき天体にくらべて悪しきものであるが、それがまるで不死のものであるかのように、死も滅びもこうむらないと思って、まったく秩序に反することを求めています。しかし、動物の感じる苦痛は、その類においては驚嘆し賞賛すべき何らかの力がその魂の中にあることを示しています。実際、その苦痛の事実からして、動物の魂は身体を生かし支配すべく統一を強く求めていることが、まったく明らかです。なぜなら、苦痛とは、分裂や滅びに抵抗しようとする感情にほかならないからである。ゆえに、動物の魂が身体全体にいかに統一を熱望し固執するかは、昼の光よりも明らかです。この統一は、気まぐれや無関心ではなく、努力と抵抗して身体の苦痛の中に現れています。魂は、身体の統一と健康が動揺するのを不快として感じます。それゆえ、劣れる動物的被造物においても、統一の要求がいかに強いかは、動物の苦痛によらなければ示されません。そしてそれが示されたなら、創造者の最高の、崇高な、いい表しがたい統一によってすべてがつくられたことも、十分に知られなかっただろう。 

アウグスティヌス:敬虔かつ熱心に見るならば、被造物のあらゆる美と運動は人間の精神の考察の中に入ってきて、至るところで、そのさまなまな運動変化を通じて—-さまざまの言葉を通じてのように—-創造者を知れと叫び、ひびきを立てています。実際、苦痛や快を感じないものであっても、何らかの統一なしには自らの類にふさわしい美を保ち、少なくとも自らの本性の幾分かの恒常性を保つことはありません。同様に、苦痛の不快さや、快の心地よさを感じるものであれば、苦痛を避け快を求めることによって分裂を避け、統一を求めていることを告白しないものはありません。さらにまた、理性的な魂においても、本性の喜ぶ認識の欲求はみな、魂の見るすべてのものを統一し、誤謬におちた時のとらえがたいあいまいさによって乱されることを避けようとすること、にほかなりません。あいまいなものはみな不快であるが、それは確実な統一がないからです。こうして、すべてのものは反発したり反発されたり、愛したり愛されたりするとき、創造者のもつ統一性を暗示し、讃えていることが明らかです。しかし、無知と困難が—-この世の生はそこから始まらざるを得ない—-魂にとって自然本性的でないとしたら、どうか。これは務めとして引き受けたのか、それとも罰として課せられたのか。だが、これについては、もう十分に論じたと思います。 

24、神の戒め

アウグスティヌス:最初の人間がどういう状態でつくられたかを問うことは、その子孫がどういう仕方で生まれたかを問うよりも大切です。ところで、ある人々はこういって、非常に巧妙な問題を提出しいたと思っています。すなわち、最初の人間が知者としてつくられたのなら、なぜ誘惑されたのか。だがもし愚か者としてつくられたのなら、なざ神は悪の創造者ではないのか。愚かは最大の悪だから、と。彼らは、人間の本性が愚かと知恵以外の中間的な性質—-それは愚かとも知恵ともいえない—-を受け取らなかったと考えているようです。しかし、人間は愚かになり始めるとき、あるいは知恵をもち始めるとき、必ずそのどちらかの名で呼ばれるようになります。そして、人間は怠らないなら知恵をもつことができ、怠るならその意志には、悪しき愚かさという罪が帰せられるのです。幼児を愚かと呼ぶ馬鹿な人はいません。しかし知者と呼ぼうとする人はもっと馬鹿です。つまり、幼児はすでに人間であるが、愚かとも知恵があるとも言えないのです。したがって、本来愚かとも知恵があるとも呼ばれない、ある中間の性質を、人間の本性が受け取っていることは明らかです。同様に、怠惰のために知恵を欠く人々と同じ性質をもって生まれた者がいても、欠陥にそくしてでなく自然本性にそくして見るなら、あなたはその者を愚かとは呼ぶことはできないだろう。愚かとは、何を求め何を避けるべきかについての無知であるが、これはある種の無知ではなくて、悪い無知であります。理性的でない動物は知者たるべき能力を受け取っていないから、私たちはそれを愚かとは言いません。ただ、語の本来の意味ではなく、比喩的な意味でしばしばそう呼ぶのです。同様に、盲目は目の最大の欠陥であるが、生まれたての子犬にとってはそうではありません。それを本来の意味で盲目ということはできません。 

アウグスティヌス:それゆえ、人間はまだ知者ではなかったが、絶対に服従すべき戒めを受け入れることができるようにつくられたのであれば、人間が誘惑されたことは少しも不思議ではありません。また、人間が戒めに服従しないで罰せられたことも不当ではありません。そして、創造者は人間の悪しき欠陥をつくったのではありません。なぜなら、知恵をもたなかったことは、人間がそれをもつ力をまだ受け取っていなかった限り、人間の悪い欠陥ではないからです。しかし、人間はある手段をもっているので、それを善く用いようと欲したならば、以前もたなかった知恵へと登ることができたのです。というのも、理性的であることと知恵があることとは同じではありません。人は理性によって戒めを受け取りうるようにつくられたが、戒めの命じることを行うためには信仰がなければなりません。理性の本性は戒めを受け取り、戒めの遵守は知恵を受け取ります。本性が戒めを受け取り、意志が守るのです。理性的本性は戒めを受け取るためのいわば資格ですが、戒めの遵守は知恵を受け取るための視覚です。さて、人間は戒めを受け取るものとして始まったのであるから、この時から罪を犯すことができることが始まったのです。そこで、人間は知者になる前に二つの仕方で罪を犯すことになります。すなわち、戒めを受け取る用意がないか、あるいは受け取っても守らないか、です。だが知者となった時は、知恵にそむくことで罪を犯すのです。なぜなら、戒めは命じられた者からだけでなく命じた者からくるからであり、同様に、知恵も照明を受けた者からではなく、照明を与える者から来るからです。それゆえ、人間の創造者がたたえられないでよいことがあろうか。人間は善いものであり、戒めを受け取ることができる限り動物よりも善い。また、戒めを受け取ったのちは、それを受け取ることができただけの時よりも善いのです。だが罪は、戒めを受け取ってそれを守り、知恵の観想に固くとどまるのを怠ったときに生じる悪です。ここからして、最初の人間が知者としてつくられながら、なお誘惑することができたのかがわかります。その罪は自由意志をもってなされ、神の法にもとづく正しい罰がこれに続きます。そこで使徒パウロも「人は自ら知者と称して愚かになった」(ローマ1・22)といっています。なぜなら、高慢は知恵に背き、その背きの結果愚かが生じたからです。愚かとは確かに一種の盲目であって、使徒もそういっています。「彼らの愚かな心は暗くなった」(ローマ1・21)。暗くなるのは知恵の光のそむきによる以外ではありません。だがこれは、神が人間の善であり、神自らが善であるのに、人間が神のように、自らが自らの善であろうと欲したからに他なりません。それゆえこう言われます。「私の魂は自分自身を見て乱れた」(詩編42・6)。また、「木の実をたべてごらん。そうすれば、あなたたちは神のようになるだろう」(創世記3・5) 

アウグスティヌス:ところで、ある人々は、最初の人間は愚かによって神から離れたのか、それとも離れたために愚かになったのか、とたずねて、このことを考えている者たちを困らせます。最初の人間は愚かによって知恵から離れたのだとあなたが答えるなら、神から離れる以前に愚かであったと思われます。愚かが、彼を神から離した原因だからです。しかしあなたが、最初の人間は神から離れたために愚かになったのだと答えるなら、彼らはこうたずねてくるだろう。最初の人間は、その離れるという行為を愚かになしたのか、それとも知恵をもってなしたのか。もし後者であれば、彼は正しくなしたのだから罪を犯したのではない。だが前者であれば、彼の中にすでに愚かがあり、それによって神から離れたのです。いずれにせよ、愚かがなければ愚かなことはなしえなかったのだ、と。それゆえ明らかに、人はそこを通って愚かに移されるのであり、この状態にあってなされた行為は愚かとも知恵ともいえないのです。地上の生の中にある人間によっては、その行為は相反するもののいずれともいえない中間状態のあることが理解されます。そこで、最初の人間が知恵の扉から愚かに移って行ったとき、この意向は知恵でもなく愚かでもなかったのです。われわれはこれに類することを睡眠と目覚めに見出します。床につくことは睡眠と同じではなく、目をさますことは起きていることと同じではない。そこには一方から他方への移行があります。もちろん、この例と先の話しとでは次のような違いがあります。すなわち、眠ったり覚めたりするのは普通意志によらずになされるが、知恵や愚かは意志によらずには決して生じません。そのため、ここではきわめて正しい賞罰が報われることになるのです。 

 

25、最初の人間はどのようにして罪を犯したか

アウグスティヌス:しかし、すでに知られたものがなければ、意志を行為へと引き寄せることはありません。しかし人は、あるものを受け入れたり退けたりする権限を自らもつとしても、意志がそこへと動かされる対象を決定する力をもっているのではありません。それゆえ、こういうべきです。精神は自分よりすぐれたものにせよ劣るものにせよ、見られた対象によって動かされるが、理性的存在者であればどちらにせよ自分の欲するものを受け取るのであって、その受け取ったことの唯一の報いとして悲惨または幸福が結果するのです。こうして楽園では、すぐれた対象として知られたものに戒めがあり、劣れる対象として知られたものに蛇の誘惑がありました。たしかに、主が命じたことも、蛇がそそのかしたことも、人間の権能の中にあったのではありません。しかし、最初の人間が知恵の平安の中にとどまっていたならば、自分に劣るものを見てもその誘惑に屈しない自由があり、あらゆる困難のくびきからの解放がありました。この自由と解放がいかに大きいかは、知恵に移行しようとする人々が、たとえ愚かで、そのため悪しき習慣のもつ恐るべき快楽を失うとの苦痛をともなうとしても、ついにはその誘惑に勝つということからも理解されます。 

アウグスティヌス:ここで、こう問われるかもしれない。人間の前に両側から現れたもの、すなわち、一方では神の戒めから、他方では蛇のそそのかしから現れたものがあったとしても、悪魔自身は何にそそのかされて不敬な計画を欲するに至ったのか。これによって悪魔は高い所から転落したのであるが、悪魔は何か現れたものによって動かされたのでなければ、あのような行為を選ばなかっただろう。たしかに、何かが心の中に入りこんだのでなければ、その意図を禁止されたものに向けることはなかっただろう。だから、何かが心の中に入り込み、悪い企てを起こさせ、それによって善い天使から落ちて悪魔になったのであるが、いったいどこから、その何かが心の中に入りこんだのか。欲する者はたしかに何かを欲する。だがその何かは、身体の感覚をとおして外に知られ、あるいは見えない仕方で心の中にやって来たのでなければ、欲することはありえないからである、と。しかし私たちは、現れたものの種類を区別しなければならない。その一つは、誘惑者の意志から出るもので悪魔のものであり、人はこれに同意して罪を犯したのです。今一つは、精神の目や身体の感覚にうかんだものから来る。ただし、神の不変な三一性は精神の目にうかぶことはありません。それは精神の目の下にはなく、むしろこれを越えています。そこで、精神の目にうかぶものは、第一に精神それ自身です。私たちはここからして自分が生きていることを知ります。第二に、精神が支配する身体です。精神はその支配によって、必要な時に必要な肢体を動かします。だが、身体の感覚にうかぶものはすべて物体的なものであります。

アウグスティヌス:ところで、精神は可変的であるとしても、至高の知恵—それは不変であり、たしかに精神と同じではない—-を観想しつつ自分自身を見るとき、ある仕方で自分が自分の心の中に入って来ます。というのも、精神は神と異なるが、神に告いでわたしたちの喜ぶことのできるものだからです。しかし精神は、不変的な神を愛するゆえに自分を忘れ、あるいは神とくらべて自分をまったく卑しめるとき、さらに善いものとなります。しかし、自分を自分にいわば親しいものとして喜び、自分の権能を享受しようとして逆転した仕方で神をまねるなら、自分は偉大であろうと欲すれば欲するほど、ますます小さくなるだろう。「あらゆる罪の始まりは高慢である」(ベン・シラ10・15)。また「人間の高慢の始まりは神からの離反である」(同14)。ところで、この高慢に、悪魔の呪うべき嫉みが近づいたのである。それは、悪魔が自分の罰を知ったゆえんの高慢を人間に教えるためであった。これによって罰が人間を捕らえ、しかしそれは人間を殺すためでなく、むしろ矯正するためであった。悪魔は高慢を模倣させるために人間の前に現れたが、主は謙虚を模倣させることができるよう現れた。この主によって、人間に永遠の命が約束されたのである。そしてキリストの血は、言い表しがたい苦痛と苦難のうちに私たちに支払われたのだから、私たちは大きな愛でもって救い主に固着し、彼の偉大な輝きによって彼の中にとらえられねばならない。そのとき、私たちが見たものは何一つ、私たちの目をすぐれたものから引き離すことはない。たとえ、私たちの目が劣ったものへの欲望によって誘惑されるとしても、私たちは悪魔の受ける永遠の罰と苦悶を見て、呼び戻されるであろう。 

アウグスティヌス:ところで、正義の美はきわめて大きく、永遠の光である不変の真理と知恵の美しさはきわめて大きいので、ただ一日しかとどまることが許されないとしても、そのためには、喜びにみちたこの世の数えきれない年月も、すぎ行く善の豊かさも正当に蔑視されるだろう。「あなたの聖所における一日は千日にもまさる」(詩編84・10)と、感激をこめてうたわれた言葉は、実際間違っていない。もちろん、これは文字通りではなく、千日を時間の変化の中にあるものと解し、一日という名で永遠のもつ不変性をさすということができる。あなたの質問に対して、主の許す限りで答えたが、あるいは何か落ちたものがあるかもしれない。しかし、あなたにまだ質問があるとしても、この書物の分量は、わたしたちがここで終えて、しばらく討論を休むように求めている。