第五の歌

(被造物の答)
無数の美をまき散らしながら
これらの林をいそいで過ぎてゆかれたのです。
そして通リすがリにごらんになったのです。

かれはみ顔を向けただけで、
れらに美をまどわせ、あとに残してゆかれたのです。

解説

こののなかで被造物は霊魂に答えている。この答とは、考えながら質問している霊魂に向かって神の偉大さや卓越 性について、被造物が、みずからにおいて与える証明であるこの歌のなかに含まれていることを要約すると神は万物をきわめて容易に、かつ短時間でお造りになりそれらのなかにご自分がどういうものであるかの、薄い反映をお残しになった神は被造物をただ無からお引き出しになったばかりでなく、それらを数えきれない美と長所とをもってお飾りになりそれら相互の簡単すべき秩序と、不可欠の相互依存とを定めて美化なさったそしてそれはみな、ご自分の上知のわざなのであり、上知とはすなわち、万物がそれによって造られたかれの御独子、聖言葉であるこでいう

無数の美をまきちらしながら

こで、まきちらしながらゆくといっている無数の美とは、無数の被造物を意味し、その数のおびただしいことをわからせるために無数という最上級の数がいられているのであり、美と呼ぶわけは、被造物に与えられたあまたの美のためであり、まきちらしながらとは、これらのものを世界のいたるところにお住まわせになったとの意である。

いそいでこれらの林を過ぎてゆかれたのです

林をり過ぎてゆくとは要素(土火、空気)を創造することでここではこれらの諸要素をさして林と呼んでいるそして無数の美をまきちらしながらそれらを通り過ぎていった優雅な被造物でそれらをお飾りになったからであるなおその上、それらにすべての被造物の殖と保存とに協力することができる力を賦与なさったのであるそして、”通り過ぎてゆかれた”といっているのは被造物は神の足跡のようなものであるからで、かれらは神の偉大さ能力上知、その他の神的完徳の何かしらを反映しているからまた、いそいで”通り過ぎてゆかれたといっているのは、被造物は神の小さい作であり、ちょっと通りすがりにお造りになったようなものであるから神が御みずからをいっそうよくあらわされいっそう注意深くなさったみわざとは聖言のご託身やその他のキリスト教の信仰上の奥義であるこれらに比べては、のすべてのことは通りすがりに、いそいでお行ないになったようなものである

そして通りすがりにごらんになったのです。
かれはみ顔を向けただけで
かれらに美をまとわせ、あとに残してゆかれました

神は、ただその御子のみをもってのみ、すべての被造物をお眺めになったすなわち神はこれによって、かれらに自然的有と多くの自然的美とのたまものを与えられかれらを仕上げて、完全なものになさったのである創世記に、「神はご自身が造ったすべてのものを見られたそれははなはだよかった」(創世記1・31)といわれているとおりである。これらをはなはだよかったと見るとはこれらをその御子、聖言葉においてはなはだよいものとしてお造りになることであるそして、かれらをごらんになることによってかれらに自然的有と、美とをお与えになったばかりでなく、さらに、ただ御子のみ顔を向けただけで、かれらに、美をまとわせて、あとに残してゆかれた。すなわち、聖言葉のご託身に際してかれらに然的有を賦与なさったのである。このとき、神は人間を神的美にまでお高めになり、また、人間において、すべての被造物をお高めになったなぜなら神は人間において、すべての被造物の自然性に一致なさったからであるそれで神の御子は御みずから、「私が上から上げられるとき、すべてを私に引きよせるであろう」(ヨネ12・32)とおおせられたのであるそこで御子のご託身とそのご肉体の復活の崇高な奥義によって、御父は被造物に部分的なをお与えになったばかりでなくさらにあますところなく完全に、尊厳とをかれらにおまとわせになった、ということができるであろう

次の歌についての注

さて今、われわれは観想的感覚と情感とにしたがって語っているのだが、霊魂はこのように被造物を観想するとき、そこから汲み出す生き生きした認識によって、かれらのうちに神のたまものであるあまりにもかな魅力と完全さと美とを発見するそれがため、これらの被造物は、神のみ顔の超自然的無限の美から由来する自然的美と、完全さとをせられているように見えるのである神が、ごらんになるとき、全地上はおろか、全天国は美と歓喜で包まれるのであるダヴィドも「あなたはみ手を開いてあらゆる生物を祝福でみたされる」(詩篇144・16)といっているではないか?被造物のうちに発見する愛人の美の足跡によって、愛に傷つけられた霊魂は可見的美が生ぜしめた不可見的美を見ようとの望みにかられて次の歌を述ベる