霊魂と天の花婿との間にかわされる歌、第一の歌

霊魂と天の花婿との間にかわされる歌

(花嫁)
1、どこにお隠れになったのですか?
愛するかたよ、私をとり残して、嘆くにまかせて…
私を傷つけておいて、鹿のように、
あなたは逃げてしまわれました。
叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
でも、あなたは、もう、いらっしゃらなかった。
2、牧場を通って、かなたの丘へと
行く牧者たちよ、もしも運よく、
私がこよなく愛するおかたに会うならば、
どうか、彼に言ってください。
私は病んでいます、苦しんでいます、死にます、と。
3、私の愛をさがしながら、私は行こう。
あの山々を越え、かの岸辺を通って。
花もつむまい、野獣も恐れまい。
強い敵も、国境を越えて行こう。

(被造物に問う)
4、ああ愛するあの方の手で
植えられた森よ、あつい茂みよ!
おお花をちりばめた緑の草原よ、
いってください、もしあのかたが
あなたがたの間を通られなかったかを

(被造物の答)
5、無数の美をまき散らしながら
これらの林をいそいで過ぎてゆかれたのです。
そして、通りすがりにごらんになったのです。
かれはみ顔を向けられただけで、かれらに美をまとわせ
あとに残してゆかれたのです。

(花嫁)
6、ああ、だれが私をいやそうか!
どうか、もう真にあますところなく
あなたをお渡しください
もうきょうからは私に使者を送らないでください。
私がのぞむことを告げないあの人たちを
7、さまようすべての人々は、あなたについて
語ろうとする、百千の美を。
けれど、かれらはますます私を傷つけるばかり。
そして私も息も絶えるほどにすること、
それは、私の知らぬ何かしらかれらの口ごもること。
8、どうして生きながらえていられるのか
おお、私の生命よ、おまえの命ある
ところに生きていないで。
おまえに放たれた矢は、おまえを死なすはずだった。
おまえにいだかせた 愛するかたについての思いによって
9、なぜこの心を癒してくださらない?
これを傷つけたのはあなたですのに。
あなたはこれを盗み去られたのに、
なぜこのように捨てておかれるのです?
なぜあなたは、盗んだものを、もってゆかれないにです?
10、どうか私のいら立ちを消してください。
だれも、それを晴らし得ないのですから。
ああ、どうか私の目はあなたを見るように。
あなたこそ、その光なのですから。
私は、あなたのためにだけ、私の目をとっておきたい。
11、あなたの姿を私に現わしてください。
あなたの美しさを見て、私は息絶えますように。
あなたは知っていれれます、
愛の病気は、愛人の姿と
その顔を見る他に
癒す すべのないことを。
12、おお水晶のような泉よ
あなたの白銀の水面に
熱く求めているあの目を
私が胸のむちに、おぼろに描いていだく
あの瞳を
にわかに、現わしてくれるなら!
13、愛するかたよ、あなたの目を、背けてください。
私は飛んでいってしまう‥‥

(花婿)
13、お帰り、鳩よ
傷ついた鹿は丘の上に姿をのぞかせ、
お前の飛翔のそよ風に涼んでいるから。
14、私の愛するかたは山々
木々の生い茂る人毛のない谷
不思議な島々
響き高く流れる川
愛のそよ風のささやき
15、あの方は、また、あけぼのが
立ち染めるころの静かな夜
沈黙の音楽
響きわたる孤独
愛に酔わす、楽しい夕食
16、私たちのために狐どもを捕えて下さい。
私たちのぶどう園は、もう花盛りなのですから。
ばらの花で松かさを、いっしょに作りましょう。
どうか、丘の上には、だれも姿を現しませんように。
17、留まれ、死の北風よ
吹け、愛を目覚ます南風よ
私の庭を通して吹いて、 おまえの芳香をただよわせよ
そうすれば愛するかたは花の間で
饗宴をなさるでしょう。
18、おお、ユデアの女精よ
花とばらの木との間で
りゅうぜん香が芳香をはなつとき、
郊外にとどまっていてください。
そして、私のしきいに触れようとしてはなりません。
19、いとしい友よ、お隠れなさい。
顔を山々に向けて、お眺めなさい。
ものを言おうとなさいますな。
むしろ、不思議な島々に行く彼女の
伴侶たちをお眺めください。

(花婿)
20、軽やかな鳥よ
獅子よ、鹿よ、はねる野鹿よ
山よ、谷よ、岸よ、
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
21、調べも美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
お前たちの怒りをとどめよ。
壁に触れてはならない。
花嫁が、もっと安らかに眠れるように。
22、花嫁は言った
憧れの楽しい園のなかに。
そして心のままに憩っている
愛する者のやさしい腕に
うなじを傾けて。
23、かのリンゴの木の陰で
あなたは私に許嫁けられた
あなたは癒された。
あなたの母が傷つけられたその所で。

(花嫁)
24、花に飾られた私たちの床は
獅子の岩穴に囲まれています。
緋色の布が張られ
千の黄金の盾をいただいています。
25、あなたのみ跡を慕って
乙女らは軽やかに道を行きます
火花に触れられ
香よいぶどう酒に酔って
神の香油を吐きながら。
26、奥の酒蔵に入って
愛するあの方から私は飲みました
そして、そこから出た時
広い野原、見渡すかぎり
私はもう何も知りませんでした
追っていた群れも失いました
27、そこで、彼は私に
ご自分の心をくださいました。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました。
そして私は余すところなく
自分を彼に与えました
私は彼に、浄配となることを約しました。
28、私の魂はそのすべてをあげて
彼にお仕えしています
私はもはや群れを守りません。
もう他の務めはありません。
ただ愛することだけが私のすること。
29、もしも今日からは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
私は失われたのだとお言いなさい。
私は愛に燃えて歩みながら
自分を失うことにを欲しました。
でも結局自分を設けたのです。
30、さわやかな朝に選んだ
花とエメラルドで
私たちは花環を造りましょう。
あなたの愛に開いた花を
私の神の一筋であみ合わせて。
31、私のうなじにゆらぐ 一筋の髪の毛、
あなたはそれをお眺めになりました。
私のうなじの上に それを眺めて
あなたの心は捕らわれました。
そして私の一つのまなこは
あなたを傷つけました。
32、あなたが私を眺めていられたとき
あなたの目は私の上に
あなたの美しさを刻みました
これがためにこそ、あなたは私を熱愛され
それによって私の目は
あなたのうちに見たものを
拝する恵みにふさわしくなりました。
33、私をおさげすみになりませんように。
私の色は浅黒かったとしても、
今はもうあなたは私をよくお眺めになれるのですから。
そして愛らしさと美しさとを
私のうちにお残しになりましたから

(花婿)
34、白い小鳩はえだをたずさえて
箱舟に戻って来た。
そしてはや山鳩は憧れの伴侶を
緑の岸辺に見出した
35、孤独のうちに彼女は生きていた
孤独のうちにもはや巣を置いた。
そして孤独のうちに彼女を導くのは
彼女が愛しているかの人だだ一人
彼もまた孤独のうちに愛の傷について。

(花嫁)
36、ともに楽しみましょう、愛するかたよ、
行きましょう、あなたの美のなかで
お互いに見るために。
清い水の湧き出る山へ、丘へ
またあつい繁みのなかに
もっと深く入りましょう。
37、それから行きましょう
あの岩の高い洞穴に
あのよく隠れている洞穴に。
そこに私たちは入りましょう
そしてざくろの果酒を味わいましょう。
38、そこであなたは見せてくださるでしょう。
私の魂が切に願うあのものを。
そこであなたは直ちに賜わうでしょう。
おお私の命よ
他の火に私にすでにくださったあのものを。
39、そよ風は吹き
やさいしい小夜鳴き鳥の声が聞こえます。
森とそのうるわしき
澄んだ静かな夜に
焼き尽くして、しかも苦しませない
炎が燃えて…
40、だれも、それを見ませんでした。
アミダブも姿を見せません。
包囲はとけました。
騎士たちは水を見て
降りてゆきました。

 

概要

1、これらの歌は一つの霊魂が神に仕え始めてから完徳の絶頂、すなわち霊的婚姻に達するまでの道程を述べているのである。それで、完徳の状態に導く霊的生活の三つの状態、または三つの道、すなわち浄化の道、照明の道、一致の道を扱い、かつ、これらの道の特性と効果のいくつかを説明するものである。
2、初めのいくつかの歌は初心者すなわち浄化の道を歩む人々に関するものである。それに続くいくつかの歌は、進歩しつつある人々を扱い、この時期に霊的婚約が、かわされるのであるが、これが照明の道である。終わりのいくつかの歌は一致に関するもので、それは霊的婚姻の行われる完全な人々の道である。この一致の道または完全な人々の道は、進歩しつつある人々の道と言われる照明の道に続くものである。最後の歌は完全な状態に達した霊魂の唯一の渇望のまとである至福の状態を語っている。

 

花嫁と花婿キリストとの間の愛の歌の説明のはじまり
注解
1、霊魂は自分がどういうことをしなければならないかを悟り、同時に「人生は短く」「永遠の生命に至る道は狭く」「義人もかろうじて救われ」「この世の財宝はむなしく、かつ、あざむくもの」であり、すべては終わり、流れる水のように消え失せてゆき、時は不確実で、審判は厳しく、身を亡ぼすことは、きわめて容易で、救われることは、きわめて難しいことを見て取る。また他面、この霊魂は、神に対して自分が負っている大きな負債を認識する。すわわち神はご自分のためにだけ、彼をおつくりになったのであり、したがって彼は全生涯を神の御奉仕にささげる義務がある。神はご自分だけで、彼をお贖いなったのであり、したがって、彼は、これからの生活のすべてを神に捧げ、おのが意志の愛を尽くして神に答えなければならない。また彼は、生きる前から、すでに無数の恩恵を神に負っていたのであるところで、彼の生涯の大部分はむなしく消え去ってしまった。「神が燃える灯火を手にしてエルサレムをさぐりにおいでになるとき」(ソフォニア1・12)、神は、彼に受けた恩恵をその一番小さいものに至るまで、ことごとく清算することを要求なさるであろう。時はもうおそい、たぶん「最終の時」(マタイ5・26)かもしれない。これほどの不幸、損失をなんとかして償わなければならない。それに、彼は被造物の中で、故意に神を忘れたがために、神が、自分から、ひどくお遠ざかりになり、御身をお隠しになるよう感じるので、なおさらのこと、みずから陥ったこれほど大きな破滅と危険の状態について、心の奥底で恐怖におののき悲しみに打ち砕かれ、一日一刻も猶予せず、すべてのものを捨て去り、あらゆる事業を手放し、すでに神の愛に傷つけられて、衷心から焦燥と悲嘆に満たされて、愛人を呼び始めて、言う。

第一の歌

1、どこにお隠れになったのですか?
愛する方よ、私をとり残して、嘆くにまかせて…
私を傷つけておいて、鹿のように、
あなたは逃げてしまわれました。
叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
でも、あなたは、もう、いらっしゃらなかった。

解説

この第一の歌において霊魂は自分の花婿、神の御子なるみ言葉への愛に燃え、彼の神的御本質を明らかに見ることによって、彼に一致したいと熱望し、おのが愛の焦燥を述べ、彼の不在をとがめる。しかも、彼はその愛によってこの霊魂を傷つけ深傷を負わせたので、霊魂はすべての被造物と、自分自身から出たのに、なおその愛人の不在を苦しまねばならない。まだ彼は霊魂をその朽ちるべき肉体から解放して、永遠の光栄のうちに彼を楽しむことができるようにしておやりにならない。それで霊魂は言う。

どこにお隠れになったのですか?…

それはちょうどこう言っているかのようである。“おお聖言葉よ、私の花婿よ、あなたの隠れ場を私に示してください!”これは、彼の神的御本体の顕現を願うに等しい。なぜなら神の御子が隠れていられる所とは、聖ヨハネが言っているように、「御父のふところ」(ヨハネ1・18)、言葉を変えて言えば神の本体である。それはすべての人間の目には見えず、すべての人間の知性からは隠されている。そのため、イザヤは神に向かって話す時「まことにあなたは隠れた神である」(イザヤ45・13)という。ゆえに、注意すべきことは、この世において霊魂がどんなに素晴らしい神との交わりや神の現存を体験しても、どれほど崇高な認識を神について抱いているにしても、このように霊魂が感知するものは神の本質ではなく、それとはなんのかかわりもないものである。なぜなら実に、神はわれらの霊魂にとって常に隠されたものであるから。したがって、霊魂は自分に示されていることがどんなに偉大であろうとも、いつも神を隠れたものと見なし、“どこにお隠れになったのですか?”と言いながら、その隠れ場に彼を探しもとめねばならない。事実、神との崇高な交わりも、神の可感的現存も、神が霊魂内に無償の恵みによって住んでいられる確実なしるしにはならない。それは無味乾燥やこの種の(可感的)恵みの欠如が神の不在のしるしとはならないのと同じである。それで預言者ヨブは言っている「かれが私のもとに来られても、私はかれを見ないだろう、遠ざけられても、私はそれが分からないだろう」(ヨブ9・11)と。 ここで理解すべきことは、たとえ、霊魂が、神との崇高な交わりや霊的知解や感動を経験したとしても、それがために、自分は神を所有しているとか、神を明らかに本質的に見ているとか思ってはならない。そして、こういう可感的な霊的交わりがすべて欠如し、霊魂は無味乾燥と暗黒のうちに捨てられた状態のうちに残されているとしても、それがために神を所有していないと思うべきではない。第一の場合が、神の恵みのうちにあることを確実に知る保証となりえないと同様、第二の場合も、神の恵みを有していないことを知るすべとはならない。それで賢者は、「神の御前にあって、だれも自分が愛に値するのか憎しみに値するのかを知らない」(集会9・1)と言っている。したがって、この句において、霊魂が目指す主な目的は、やさしい感情的な信心を求めることだけではない。そのようなものはこの世で、天の花婿を所有していることを明らかにもしないから。それで、その上に、そしてまず第一に天の花婿の本体の明らかな現存と直観を求めているのであって、これを来世において確実な様式で楽しみたいのである。

これがまた神的雅歌のなかで花嫁が言おうとしたことである。彼女はその花婿なる聖言葉の御神聖に一致したいと望み、それを御父にこい求めて「どうぞ教えてください。あなたはどこで食し、昼の間、どこでお休みになるかを」(雅歌1・7)と言っている。御父にどこで食事をとられるかと尋ねるのは、その御子、聖言葉の御本体を示してくださるよう願うことに他ならない。なぜなら御父は、ご自分の光栄である御独り子以外のもので養われることはないからである。御父に、どこで休みをとられるかを尋ねるのは、同じ願いを繰り返すことである。なぜなら御子だけが御父の楽しみであり、御父は御子のうちにおいてのみ憩い、御子のうちにのみ包含されていられるからである。御父はご自分の本体の全部を昼の間、御子に伝達なさりつつ、ことごとく御子のうちに憩われる。昼の間―つまり永遠に渡って。そしてそこにおいて御父は絶え間なく御子を生み、かつ、生み出された御子をお抱きになる。それで霊魂の花婿なる聖言葉は御父が永遠の光栄のうちに食される糧である。それは御父が愛の限りない愉悦のうちに、すべての人の目に、すべての被造物に深く隠れて憩われる、花で飾られた床であって、花嫁なる霊魂は“どこにお隠れになったのですか?”と言う時、これを示されることを願うのである。

さて、それではこの飢え乾いている霊魂がその天の花婿を見出し、この地上で可能な限りの愛の一致によって彼と結合し、彼について、この地上で味わいうる味わいの一滴をもってその渇きを癒すために、彼に代わって、この霊魂の手をとり、彼が隠れていられる正確な場所を示しながら、その質問に答えてやるのはよいことであろう。この霊魂はちょうどそれを花婿に願っているのであるから。こうして、この地上で可能な限り完全に、また甘美を味わいながら、確実に花婿を見出し得るようにさせよう。そうすれば、霊魂は他の人々のあとについていって、むなしくさまようようなことはないであろう。ここで注意すべきことは、神の御子なる聖言葉は、御父と聖霊とともに霊魂の一番奥深くに、本質により、現存により隠れ住んでいられるということである。それゆえ彼を見出そうとする霊魂は、愛情と意志に関して、すべてのものから出て、一切のものをまるで存在しないかのように思いながら自分のうちに入って、深く潜心していなければならない。聖アウグスチヌスはその独語録のなかで神と語りあった、「主よ、私は自分の外にあなたを見出さなかった。あなたは内部においでになったのに私は誤って外部にあなたを探し求めたからだ」と。それで、神は霊魂のうちに隠れておいでになるのだから、よき観想者は、愛を込めてそこに神を探さなければならない、“どこにお隠れになったのですか?”と言いながら。

おお被造物の中でもっとも美しい魂よ、あなたは愛する御者を探して、彼と一致するために、彼のいられる場所をあれほど熱心に知りたがっている。ところで今、こうあなたに言われているのである。「あなた自身が、彼がすんでいられる住み家なのだ、彼が隠れていられる小さい部屋、隠れ家なのだ」と。あなたのすべての宝、すべての望みの的なる御者がこんなにもあなたの近くにまします、あなたのうちにまします、というよりむしろ、彼なしにあなたは存在しえないことを知るのはあなたにとって、なんという満足、なんという喜びであろう。天の花婿は「神の国は、実にあなたがたのうちにあるのだ」(ルカ17・21)と言われる。また彼の僕なる使徒聖パウロも「あなたがたは神の神殿である」(コリント後6・16)と言っている。

神が決して自分を離れることがないと知るのは霊魂にとって大きな慰めである。大罪の状態にあってさえそうなら、恵みの状態にあるときは、なおさらのことである。おお霊魂よ、この上、何を望むのか?外に何を探すのか?あなたは自分自身のうちに、あなたの富、楽しみ、満足、そしてあなたの国、つまり、あなたが憧れ求めている愛する御者を所有しているのだ。喜べ、あなたの内部に彼とともに沈潜して喜び踊れ。あなたはこんなにも近く彼を所有しているのだから。あなたのなかで彼を望め、彼を礼拝せよ、そしてあなたの外に彼を探し求めに行くな。それは、ただ気を散らせるばかり、疲らせるばかりであって、あなたの内部における以上に、より確実に、より迅速に、より近くに彼を見出し、彼を楽しみうるところはどこにもないからである。ただ一つ問題となること、それは、あなたの中に住んではいられても、彼はそこに隠れていられるということである。とはいえ確実に彼を探し求めるために、彼の隠れていられる所を知るのは大いなることである。そして、魂よ。あなたが、愛の熱情を込めて、“どこにお隠れになったのですか”というとき、あなたはまたこの知識を嘆願したのである。

しかしあなたはまだ言うかもしれない。“私の愛する御者は私のうちに住んでおられるのに、どうして私は彼を見出しもせず感じもしないのであろうか?”と。その訳はこうである。彼はそこに隠れていられるのに、あなたは彼を見出し、彼を感じるために隠れない。隠れたものを見出したい人は、そのものが隠れている奥深いところまで入って行かなければならない。そしてそれを見出したときには、彼もそれと同じように隠れてしまうのである。あなたの愛する天の花婿はあなたの心の畠の中に隠されている宝、それを買うためには賢い商人が自分のもつすべてのものを与えた(マタイ13・44)あの宝である。それゆえ、彼を見出すためには、あなたは自分に属することを忘れ、すべての被造物から遠ざかり、内心の庵に隠れ戸を背後に閉めて(すなわち意志をもって一切のものを捨てて)隠れてましますあなたの父に祈ることが必要なのである(マタイ6・6)。このように、彼とともに隠れて留まるならば、あなたは密かに彼を感じるであろう。そしてひそやかに彼を愛し、喜び、ひそかに、つまり、あらゆる言葉、感情を越える様式で彼と共に楽しむであろう。

それで、美しい魂よ、勇気を持て。あなたは今、あなたの憧れ求める愛人があなたの胸の中に隠れ住んでいることを知っているのだから、彼と共によく隠れるように努めよ。そして自分の胸の中で彼を感じ、彼を抱擁するがよい。彼が預言者イザヤの声によって、あなたをこの隠れ家に呼んでいられるのを聞け、「さあ、行って、あなたの庵に入り、後ろの戸を閉めよ(すなわち、すべての被造物に対して、あなたの諸能力を閉ざせ)。しばしの間―すなわち現世というこの短い瞬間―少し隠れよ」(イザヤ26・20)。おお魂よ、もしもあなたが、この世の短い生命の間、賢者が言うように、あなたの心を警戒を尽くして守るならば(箴言4・23)疑いもなく神は、やはりイザヤによって言われたものをあなたに与えられるであろう。「私はあなたに隠れた宝を与えよう。あなたに秘密の実体と神秘とを明かそう」(イザヤ45・3)。この秘密の実体とは神ご自身である。なぜなら神は信仰の実体、対象であり、信仰は秘密であり、神秘であるから。しかし信仰がわれわれに対して覆い隠しているもの、すなわち聖パウロのいう「神における完全なものが」(コリント前13・10)明らかに示されるとき、神的秘密の実体と神秘が霊魂に現わされるのである。しかし、この朽ちるべき生命にある間は、霊魂はいくら隠れても、来世におけるほど深く、この秘密に入ることはできない。とはいえ、もし霊魂がモーゼのように、石の洞窟に隠れるならば(出エジプト33・22)―それは、つまり、自分の花婿である神の御子の完全な御生活の忠実な模倣である―主の御右手に守られ、主の御背を示していただけるにふさわしくなるであろう。言いかえれば、この地上の生命にあって、すでに非常に高い完全さに達し、天の花婿なる神の御子と一致し、愛によって、彼に変化させるほどとなるであろう。そのとき、霊魂は自分がきわめて緊密に彼に一致し、彼のすべての奥義を非常によく教えられ、体得していることを意識するであろう。そして、地上において神について持ち得る知識に関する限り、もはや、“あなたはどこにお隠れになったのですか?”と尋ねる必要を持たないであろう。

おお霊魂よ、あなたの心の隠れ家に花婿を見出すためにとるべき方法については、すでに述べた。しかし、もしもなお聞きたいと望むなら、人知の近づきがたい真理に満ちた、意義深い一つの言葉を聞け。何事においても、あなたの満足を求めず、何ごとも味わわず、あなたの知らなければならないこと以上に知ろうとせず、信仰と愛をもってあなたの花婿を探せ。この信仰と愛は盲人の手引きであって。あなたをあなたの知らない道から神が隠れておいでになる所まで導くであろう。深奥すなわち我々が語ったあの秘密―は霊魂が神に行くために用いる足である。愛は霊魂に道を示す導き手である。そして霊魂が、信仰の奥義と秘密とを観想し、これらと親しむにつれて、信仰のうちに含まれているもの、すなわち憧れ求める天の花婿を愛によって発見するという恵みに値するようになるであろう。この花婿は、この地上では、前にも言ったように、神との一致の特別の恵みによって示され、来世においては本質的光栄によって、少しも覆い隠されることなく、顔と顔を見合わせる喜びのうちに示されるであろう。それまでは、霊魂がこの一致(しかもこの地上で達し得るかぎりの高い状態)に達したとしても、それでもやはり花婿は、前にも述べたように、この霊魂にとっては、御父の御ふところに隠れていられるのである。それで、霊魂は、来世で彼を完全に享有することを渇望して、いつも繰り返して“どこにお隠れになったのですか?”と言うのである。

愛する方よ、私をとり残して、嘆くにまかせて…と。

霊魂は神を“愛するかたよ”と呼んでその御心をより多く動かし、自分の願いをお聞き入れになるようにその聖心を傾けようとする。なぜなら、神は、お愛しになるとき、ご自分を愛する者の願いを非常に容易くお聞き入れになるから。そして神は御自ら聖ヨハネを通じて「あなたがたが私にとどまっているなら、望みのままにすべてを願え。そうすれば、かなえられるだろう」(ヨハネ15・7)と仰せられている。それで霊魂が自分の全存在をあげて、神と共におり、その心を神以外の何ものにも愛着させず、したがって、その思いは常に神に向けられているならば、その霊魂は真実に、神を、“愛するかた”と呼ぶことができる。このような条件が欠けていたからこそ、ダリラはサムソンに向かって「あなたの魂は私にないのに、どうして私を愛すると言えるのですか?」(士師16・15)と言ったのである。この魂とは思念と愛情を意味する。ある人々は天の花婿を愛人と呼ぶが、実は真の愛人ではないのである。それは、その心の全部を彼に与えていないから。それで、彼らの祈りは神の前に大した価値はない。神は彼らの願いをただちに聞き入れる代わりに、祈りを続けることによって、彼らの魂が、もっと絶え間なく神と共にあり、その心が愛によって、もっと完全に神のものになるのをお待ちになるのである。なぜなら、愛によらないでは、人は何ものも神から獲得することができないから。

霊魂は次に“私をとり残して、嘆くにまかせて…”と言うが、愛人の不在は、愛している者にとって、絶え間ない嘆きの種であることは確かである。彼の他に、何ものも愛さないから、どこにも休息や慰めを見出し得ないのである。それで、もしも神以外の何ものにも満足することができないなら、それによって神を真に愛している人であることが知られる。しかし、私はなぜ満足などと言うのだろう?愛している霊魂は、たとえ他のすべての財宝を所有したとしても、満足できないばかりか、所有すればするほど、その不満はつのる一方である。なぜなら、心の満足は、いろいろのものを所有することにあるのではなく、むしろ、これらすべてのものよりの脱却と精神の貧しさにあるのだから。愛の感性はこの脱却のうちにある。そして特別の恵みによる極めて緊密な一致のうちに神を所有するものも、そこにおいてなので、この状態に達した霊魂は、この世においても、ある種の満足を覚えるものである。とはいえそれは飽き足りるというところまではゆかない。それで、あれほど聖徳に達していたダビデさえ、完全に飽かされるためには、ただ天国をのみ所有して「あなたの栄光が現れるとき、私は飽かされるであろう」(詩編16・25)と言っていた。それで、霊魂が、この世で味わい得る心の平安、静けさ、満足は決して完全なものではありえないので、まだ自分に欠けているものを希望しながら、心のうちに嘆かずにはいられないのである。なぜなら、嘆きは希望につきものであるから(もっとも、この嘆きは平静で決して苦悩ではない)。使徒聖パウロも自分についてまた他の信者たちについて―彼らは完全な人々であったにもかかわらず―これを証して「霊の初穂を持つ我々も、心からの嘆きをもって、自分が養子とせられ、自分の体が贖われることを期待している」(ローマ8・23)と言っている。ここで、霊魂がその愛に燃える心の内に、抱いているのは、まさにこの嘆きなのである。愛が痛手を負わせたところには、愛人の不在を悲しんで叫び続ける傷を受けた魂の嘆きがあるが、特に、天の花婿が甘く味良い交わりをいくらか経験させたのちに、霊魂を突然、孤独と乾燥のうちに残して、遠ざかられるとき、この嘆きは一層激しい。それで、霊魂は直ちに言う。
鹿のように、あなたは逃げてしまわれました

ここで注意すべきは、雅歌のなかで、花嫁が花婿を、カモシカや小鹿に例えていることである。「私の愛するものはカモシカのよう、小鹿のようだ」(雅歌2・9)と。彼女がこう言ったのは、花婿が変わり者で、孤独が好きで、鹿のように伴侶を避けるからばかりではなく、姿を隠したり、現わしたりすることの迅速なものにもよる。実に天の花婿のなさりかたはこうなのだ。彼は忠実な霊魂たちを喜ばせ、力づけるために、彼を訪れるが、そのあとで、彼を試し、へりくだらせ、教えるために、冷淡に扱い、不在をお感じさせになる。それがために彼らは花婿の不在を、一層辛く感じるのであって、それを霊魂は次の言葉をもってここに述べられている。
私を傷つけておいて

それは、こう言っているかのようである。あなたの不在故に私が通常感じている苦しみ悩みで私にはなお足りなかったのだ。あなたはさらに矢をもって、一層激しく私を愛に傷つけ、あなたを見たいとの私の熱情と欲求をあふりたてたうえで、鹿のように軽やかに逃げてしまわれ、ちょっとでもあなたを捕らえることをお許しにならない。

この句の意味をよく理解するために、次のことを知らねばならない、すなわち神は霊魂を愛に傷つけ、愛においてより高くあげるために、色々の異なった様式で、これを訪れたもう。しかしこれとはまた別に、神は、ときとして、ある種のひそやかな愛の接触をなさることがある。それは、火の矢のように霊魂を傷つけ貫き、愛の火ですっかり焼灼してしまう。これがまさに、ここで霊魂が語っている愛の痛手と呼ばれるものである。これらの傷は意志と愛情とをあまりにも燃え立たせるので、霊魂は自分が愛の火焔のなかで灼熱し、この焔の中で焼き尽くされるかと思うほどで、これによって、霊魂は自分自身から出て、まったく新たせられ、あたかも新しい存在様式に移されたかのようである。それはちょうど、身を焼き尽くし、そして新しく再生する不死鳥と同様である。この再生についてダビデはこう言っている「私の心は燃え、私の腎は変えられたので、私は無きものとされて、無知な者となった」(詩編72・21、22)と。

預言者がここで腎と呼んでいる欲求や愛情は、心がこのように燃え立つとき、ゆり動かされ神的なものに変化する。そして霊魂は愛によって、無きものとせられ、愛の他には何も知らぬものとなる。このとき、この腎すなわち欲求と愛情との変化は非常な苦しみと同時に神を見たい渇望を伴って行われるので、霊魂は、愛が自分に対して耐え難い厳しさを用いているように思える。霊魂の空は自分が傷つけられたがためではない(いな、むしろこのような痛手は真の健康と見なしている)。それは、愛が霊魂をこのように苦しめておいて、しかも命を奪うほどに激しくは傷つけないということにある。命を奪わなければ、完全な愛の生活において神と一致し、神と共にあることができるであろう。それで霊魂はその苦痛がどれほど激しいものかわからせようとして言う。“私を傷つけておいて”と。

すなわち、あなたは私をこのように傷つけ、あなたに対する愛の痛手に死にそうになっている私を置き去りにして、鹿のように軽やかに隠れておしまいになった。この霊魂の苦しみは非常に激しい。それは、神が霊魂に負わせた愛の傷におされて、意志の愛情は、接触をお感じさせになった愛する御者を所有しようとして、急激な躍動を生じるからである。これと同じ急激さで、霊魂は愛する御者の不在と、この世では望むままに彼を所有することは不可能であることを感じる。また同時に、直ちに、このような不在ゆえの嘆きをも感じるのである。なぜなら、このような訪れは、神が霊魂を慰め、満足さえておやりになるための訪れとは違うから。こういう訪れは、癒すよりもむしろ傷つけ、喜ばせるより、むしろ悲しませることを目的とする。それは知解を活発にし、欲求を増大させる。したがって、霊魂の苦悩と神を見たいその渇きを激しくするのに役立つものである。それらは愛による霊的痛手と呼ばれ、霊魂にとって、きわめて快く、望ましいものである。それがため、霊魂はこのような槍傷によって千度でも死にたいと希求する。それは霊魂を自分自身から出して、神の中に入らせてくれるから。このことを霊魂は次の句の中でほのめかしているのである。

叫びながら、私はあなたを追って出て行きました。でもあなたはもういらっしゃらなかった。

愛の痛手の場合には傷つけた御者のほうからしか薬を得ることができない。それでこの傷ついた霊魂は、おのれを傷つけた火の力に押されて、癒してくださるようにと大声で哀願しながら、自分を傷つけた御者のあとを追って行くのである。ここで言われる「出る」ということを霊的に解釈すると、霊魂が神のあとを追って行く二つの様式を意味している。第一はすべてのものから離脱することで、それは、それらのものを憎悪し、軽蔑することによってなされる。第二は、自分自身を忘れることによって自分から離脱することで、それは神の愛によってなされる。なぜなら、この愛がここで述べられているように、真実に霊魂に触れるならば、それは霊魂を高く上げるので、霊魂は自己忘却によって自分自身から出るばかりではなく、その本質の素質や様式や傾向からも引き出されるほどであるから。それで霊魂は神に向かって叫びながら次のような意味のことを言う。“おお私の天の花婿よ、この接触によって、この愛の傷によって、あなたは私の魂を、すべての事物からばかりでなく、私自身からもお引き出しになった―そしてあなたは私をあなたのほうに高くお上げになった。それで、私はあなたに向かって叫びながら行き、あなたを捕らえようとして、すべてから脱却してしまった。ああ、しかし、あなたは行ってしまわれた。

それはこう言っているかのようである。“私があなたの現存を捕らえたいと思う時、私はもうあなたを見出さなかった。そして私は自分からは離れ、しかもあなたを捕らえることができず、愛の突風のさなかで、自分からの支えも、あなたからの支えもなく、一人悩んでいる”。霊魂が、ここで、愛する御者を求めて出てゆくと言っていることを、雅歌の花嫁は「起きる」と呼んでいる「さあ、私は起きよう、町を廻ろう、道で、広場で、私の心の愛する者を探そう。‥‥私は探した、だが見つけなかった。‥‥そして私は傷つけられた」(雅歌3・2)。花嫁である霊魂が、「起きよう」と言っているのは、霊的に言うと、低い所から高い所へ上ることを意味し、霊魂が、ここで、“出る”と言っているのと同じことである。つまり低劣な自分の行動様式や愛し方から、崇高な神の愛へと上ることである。雅歌の花嫁は、花婿を見出さなかったので傷つけられたという。同時に、ここでも霊魂は自分が愛の痛手を受けた、そして、そのまま放置されたと言っている。つまり、熱愛する魂は、愛する御者の不在のゆえに、絶えず悩みながら生きる。なぜなら、霊魂はすでに、愛する御者に自分自身を渡してしまい、この引き渡しが支払われること、つまり愛する御者がご自分を渡してくれることを期待しているのだが、彼は一向にご自分を与えてはくださらないから。霊魂は愛する御者のためにすべての事物と、そして自分自身をも失ったのに、その損失を埋め合わせる利得を何も見出さなかった。霊魂は、まだ、愛する御者を所有するに至らないのであるから。

完徳の状態に近づく人々においては、神の不在ゆえに引き起こされるこの苦しみ、この悩みは、こういう神的痛手を負わされるときあまりにも激しくなるので、もしも主が彼らをお支えにならなければ、彼らはそのために生命を失うことであろう。彼らの意志の味覚は健全で、霊は純粋で、神の御働きに対してよく用意さえており、また他面、先に述べた接触において、彼らが万事にこえて渇望する神の愛の甘美さの幾分かを味わうことが許されたがために、彼らはなんとも言いようのないほど苦しむ。彼らには無限の至宝がいわば垣間見せるれ、しかもそれが与えられないのである。それで、この名状しがたい苦しみ、悩みが生じるのである。