ともに楽しみましょう 愛するかたよ
行きましょう。あなたの美のなかで
お互に見るために。
清い水の湧き山る 山へ 丘へ
また、あつい繁みのなかに
もっと深くはいリましょう。
解説
3 すでに、霊魂と神とのあいだの完全な愛の一致が成就したので、霊魂は、愛の有する特質に身をまかせ。そのなかで働きたいとのぞむ。それで、この歌のなかで花むこと話すのは霊魂で、愛の特質である三つのことをかれに願っている。第一は愛の楽しみと風味を受けることで、それを”愛するかたよ、ともに楽しみましょう”という句で願う。第二は愛する者に似ることを渇望することで、それを、”あなたの美のなかで、お互に見るために行きましょう”という句で願う。第三は愛する者自身の事柄や秘密を研究し、知ることで、それを、”あつい繁みのなかに、もっと深くはいりましょう”という句で願っている。
ともに楽しみましょう。愛するかたよ。
4 これはすなわち、互に愛の甘味の交流のうちに楽しもう。しかも、ただ、ふたりの常住の一致から来る甘さだけでなく、意志をもって熱心な愛の内的行為をするとか、または愛する者への奉仕に関する外的なわざを行なうかして有効的現行的に愛を実行することから来る甘さのうちに楽しもうというのである。愛の特徴は、前述のように、ひとたび、ある対象に固定すると、愛から来る喜び、愉悦を絶え間なく味わおうとする。いいかえれば、内的に、外的に、絶えず愛を実行することを欲する。そして、そういうことはすべて、愛人に似たものになるためである。
行きましょう、あなたの美のなかで
互に見るために。
5 すなわち、上述の愛の実行によって、永遠の生命において、あなたの美のうちに相見ることができるようにしようというのである。これをまたいいかえると、私が、あなたの美において、あまりにも変化されて、美において、あなたに似たものとなり、私たちは互にあなたの美のうちに自分を見るように、私はすでに、あなた御みずからの美を所有しているのだから。私はあなたの美のなかにすっかり吸収されて、一方の美も、他方の美も、ただ一つ、あなたの美のみとなり、私たちのひとりが、他方を見るとき、おのおのは相手のうちに自分の美を見るように、それで、私はあなたを、あなたの美のうちに、そしてあなたは私をあなたの美のうちに見るだろう。また私は私自身をあなたの美において、あなたのうちに見、あなたは、あなた自身を、あなたの美において、私のうちに見るだろう。それで私は、あなたの美において、あなたのように見え、あなたはあなたの美において私のように見えるだろう。私の美はあなたの美、あなたの美は、私の美であるように。そうすれば私は、あなたの美においてあなたであり、あなたはあなたの美において私であるだろう。なぜなら、あなた自身の美は、私の美であろうから。かくて私たちは、互にあなたの美において相見ることになる。これが、すなわち、神の養子となることで、かれらは聖ヨハネが記しているように、御子ご自身が永遠の御父に向かっていわれたことを、そのままいうであろう。「私のものは、ことごとくあなたのもの、あなたのものは私のもの」(17・10)と。御子はそのご本休により、本性的に神の卵子であり、そして、私たちは参与によって養子である。キリストは、教会の頭であるご自分のためだけに、こうおっしゃったのではなく、教会というご自分の神秘体全体のためにおっしゃったのである。教会はその勝利の日、つまり、神を、顔と顔とを合わせてみる時、花婿の美しさにあずかるであろう。それでこの霊魂は、ここで、自分と、花婿が、花婿のこの美のうちに相見るために行くことを、こい願っている。
山へ 丘ヘ
6 これは、神の聖言葉のうちにくみとられる神の「朝」の、そして本質的知解を意味する。聖言葉はその崇高さのゆえに、イザヤが言っているように(2・3)、ここで山という語で象徴されている。イザヤは神の御子を知るように人々を励まして「さあ、われらは主の山に上ろう(2・6)という。また「主の家の山は(山々の頂に)備わるだろう」(2・2)ともいう。丘へとは神の夕の認識。すなわち、被造物や神のみわざや、その感嘆すべき秩序における神の上知のことである。この上知は朝の上知よりも低いものであるから。ここで丘という語で象徴されている。しかし霊魂は、次の句にあるように夕の上知を、朝の上知と同様に願っている。すなわち”山へ、丘へ”
7 霊魂が花むこに向かって、”あなたの美のなかでお互に見るために山へ行きましょう”というのは、神的上知の美に私を変化させ似させてほしいということで、この上知は、前述の通り神の御子なる聖言葉である。また丘へというのは、被造物や、神秘的な神のみわざのうちにあるもう一つの、より低い上知の美においても、形づくられることを願っているのである。これもやはり神の御子の美であって、霊魂は、それにも照らされることを渇望している。
8 霊魂は神の上知において変化されなければ、神の美のうちに相見ることはできない。実に神の上知においてこそ、霊魂は高いものも低いものも所有するに至るのである。この山にこの丘に至ることを望んで、雅歌の花よめは「私は没薬の山、乳香の丘に行こう」(4・6)といったのである。没薬の山とは神の明らかな直観を意味し、乳香の丘とは被造物のもたらす神の知識を意味する。山の没薬は丘の乳香より、いっそう崇高である。
清い水の湧き出るところへ
9 すなわち、神の知識や上知が知性に与えられるところ。この神的知識をここでは清い水といっているが、それはこの知識が、偶有的なものや、映像からきよめられ、赤裸となり、無知 の霧もなく明瞭だからである。霊魂は神的真理を明瞭に純粋に理解したい望みを常にいだいている。そして霊魂は愛すれば愛するほど、これらの真理のうちに、ますます深くはいりたいと望み、そのために第三のことを願っている。
あつい繁みのなかに
もっと深くはいりましょう
10 すなわち、あなたのくすしいみわざと深い判定の繁みのなかにはいりましょう、との意で ある。神のみわざや判定は。きわめて数多く、かつ種々さまざまであるので”あつい繁み″と呼ぶことができるのである。そこには、あふれるばかりの上知があり、さまざまの奥義にみちみちているので、”あつい繁み”と呼び得るばかりでなく、「神の山は肥えた山、凝固った山である」(詩篇67・16)とのダヴィドのことばにしたがって「凝固った繁み」と呼ぶことができる。この神の上知と知識のあつい繁みは、あまりにも深く、かつ広大無辺であるため、霊魂は、それについて、いくら知るところがあっても、なおもっと深くそのなかにはいってゆくことができる。神の上知と知識はあまりにも偉大で、その富は不可解だから。聖パウロも叫んでいっている「ああ、神の富と上知と知識の高大なことよ。その判定は、はかりえず、その道はきわめがたい!」と。(ローマ11・33)
11 しかしながら霊魂は神の判定と道とのきわめがたい繁みのなかにはいってゆこうとする。霊魂はこの知識のうちに、もっと深くはいりたい望みで死ぬばかりであるから。それというの も、それらのことを知るのは、あらゆる感覚を越えた実にえもいわれぬ愉悦だからである。そのためにこそダヴィドは、それらのもつ風味を語って次のようにいっている。「主の判定は真であって、本来、義と認められ、黄金よりも、貴重な宝石よりも慕わしく、蜜よりも、生蜜よりも甘い。それゆえ、あなたの僕は、これを愛し、これを守る」(詩篇18・10-12)それがため霊魂はこれらの判定のうちに沈み、それらを、より深く洞察することを大いに望む。この幸を得るためには、この世のあらゆる悩み、労苦も大いなる慰めと喜びとをもってくぐるであろう。またこの宝をかち得るために手段となるものはすべて、どんなにむずかしくても、辛くても喜んで受けるだろう。さらに、神のうちにより深くはいるために必要ならば、死の苦悶や危険すらおかすであろう。
12 したがって、霊魂がはいりたいと望む、この”あつい繁み”は、霊魂が耐え忍ぶことを渇望している無数の悩みや迫害のことと解するのもきわめて適切である。苦しみは、この霊魂にとって非常にこころよく、かつ有益であるから。実に苦しみこそ、神のこころよい上知の深みに深くはいるための条件である。苦しみが、純粋であればあるほど、それからもたらされる知識は、いっそう純粋で、いっそう内密であり、したがって、楽しみは、いっそう純粋で崇高である。それはきわめて内密な知識であるから。この霊魂はなんらかの苦しみでは満足せず”あつい茂みのなかに、もっと深くはいりましょう”という。すなわち、私は神を見るためには、死の苦悶をも忍ぶ覚悟だという。預言者ヨブは神を見る恵みをかち得るために、やはりこの苦しみに憧れて叫んだ。「私の願うところが、かなえられ、私が待ち望んでいるものを神から私に賜わるようにさせるのはだれだろう。どうか始めたもうた者が私をくだき、み手を拡げて私を絶ってくださるように。そして私は苦しみをもって私をさいなむ者が、私を容赦なさらないことをもって慰めとするように。」(6・8)
13 ああ、もしも人が、あらゆる様式の苦しみのあつい繁みのなかにはいらなければ-そしてそこにおのが慰めと望みをおくのでなければ―無限に変化に富む神の上知と富との深い繁みのなかにはいれないことを、完全に悟ったなら! おお、神の上知に真に渇く霊魂は、まず、どれほど苦しみに渇くことだろう。それによって十字架の繁みのなかにはいるために! それがためにこそ、聖パウロはエフェソ人たちに、艱難にあって落胆しないようにいましめ、雄々しい人となり、愛のうちに根をおろすようすすめた。そして、それは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと高さと深さを理解するため、いっさいの知識にこえるキリストの愛を知り、みちみちる神によって、みたされるためであるといった(3・18)。上知のこれらの富のなかにはいるための門は十字架であり、この門はせまい。そしてこの門からはいろうとする人は少ない。しかるにこの門から来る愉悦に憧れる人は数多い。
次の歌についての注
1、この霊魂が、解き放たれて、キリストとともにあることを望むおもな理由の一つは、そこで顔と顔とを合わせてキリストを見、そのご託身のはかり知れぬ深い道や、永遠の奥義を根底から知るためであって、この知識は至福の最小部分ではない。聖ヨハネ福音書のなかで、キリストが御父に向かっておおせられているように「永遠の生命とは唯一のまことの神であるあなたと、あなたがおつかわしになったイエズス・キリストを知ることである」(17・3)から。ある人が遠方から着いて、最初にすることは.愛する者の顔を見、これと語り合うことである。同様に、神を見るに至った霊魂が第一にしたいことは、聖言葉のご託身の深い奥義の秘密、またはそれに関連する神の古来からの道を知り、かつ、楽しむことである。それで霊魂は、神の美のうちに相見る望みをいい表わしてのち、ただちに次の歌をいう