もしもきょうからは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
私は失われたのだとおいいなさい。
私は愛に燃えて、歩みながら
自分を失うことを望みました。
でも結局自分をもうけたのです。
解説
5 この歌のなかで、霊魂は、世俗の人々の暗黙の非難に答えている。事実、世俗の人々は通常、神に真実に身をささげる人々を悪くいう。かれらは、神に身をささげる人々は、あまりにも風変りで、その遁世や、行動は行き過ぎだ、そしてもっとも重要なことのために無益な者となり、世間が、尊重し、高く評価しているすべてのことのために失われた者になるという霊魂は、このような非難に、きわめて見事にいい返す。霊魂はこのようなことをはじめ、世間が自分に向かってなげかけ得るすべての反対に勇敢に立ち向かう。神的愛のもっともはつらつとした段階に達しているので、他のことはすべて軽視しているのである。それだけではない。この霊魂はさらに、この歌のなかで、あからさまに宣言しているように、このような生活をするようになったこと、愛人ゆえに世間と自分のために失われた者となったことを高らかに誇る。さて霊魂は、次のように世俗の人々に答える。もしも世間において、かつてしていた交際とか、娯楽とかのうちに もはや彼女の姿が見えないならば、彼女はかれらから失われた者、離れ去った者だというべきであり、信ずべきである。彼女は愛人への愛に燃え、この愛人をさがし求めるためにみずから進んでしたこの損失を幸福とみなしていることをかれらは認めるように、そしてこの損失は利得であって、暗愚でも誤謬でもないことを示すために、彼女はこの損失によって、自分をふたたび見出したこと、またそれがためにこそ、みずから進んで自分を失ったのだということを断言する。
もしもきょうからは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
6 広場とは普通、村の共有の場所をいう。ここに人々が集って、話に興じたり、休息したりするのであるが、ここで牧者たちが、その家畜に草をはませることもある。それで霊魂はここで広場という名のもとに世俗を指しているのであり、世間の人々はそこで、気晴らしをしたり、交際したり、かれらの欲求という家畜にかてを与えたりする。さて霊魂は世俗の人々に向かって、自分が、まったく神のものとなる以前のようにそこに見えず、見出されないならば、自分はこのようなつまらないことのためには失われたものだと見なしてもらいたい、またそういってもらいたいといっている。なぜなら霊魂は人々がそういうことを望んで、それを喜んでいるのであるから。
私は失われたのだとおいいなさい。
7 神を愛する者は神のために行なうわざを、世間の前に恥じることなく、たとえ世間のことごとくが、それを非難しようとも、恥じて、それを隠すようなことはしない。なぜなら、そのわざをやめて、神の御子を人のまえで、宣言することを恥じる者は、神の御子ご自身もまた聖ルカ(9・26)を通じておおせられているように、かれを父の前で宣言することを恥じたもうからである。それで、愛の与える勇気にみちている霊魂は、自分がこのようなことを愛人のために果し、世俗のすべてのことに対して自分を失われたものと見なすことが、愛人の光栄のために、すべての人から知られることを名誉と思っている。それで”私は失われたのだとおいいなさい”というのである。
8 何かをなすにあたって、これほどの大胆さと決意とをもっている霊的な人々は数少ない。なぜなら、ある人々は霊的なことに身をゆだね、その道に大きな進歩をしたとさえ思っているが、世間とか、天性とかのなんらかの満足を徹底的に捨てきらぬため、人がなんというか、自分がどんなに見えるかなどということを気にせず、純粋にイエズス・キリストのための完全なわざを果すに至らないのである。それゆえかれらは、”私は失われたのだといいなさい”とは決していうことができないであろう。事実かれらは、そのわざにおいて、自分自身にとって失われたものではないのである。かれらは、いろいろなことについて人の思惑を恐れて、そのわざを通じて人々の前にキリストを宣言することを恥じるのである。かれらは真実にキリス卜において生きている者ではない。
愛に燃えて歩みながら
9、これはすなわち神の愛に燃えたって、徳を実行しながら、
自分を失うことを望みました
でも結局もうけたのです。
10 霊魂は、福音書における花むこのみことば、すなわち、「人はふたりの主人に仕えるわけにはゆかない。そうすれば.ひとりをおろそかにしなければならない」(マテオ6・24)ことを知っているので、ここで、神をおろそかにしないために、神以外のすべてのもの、つまり、すべてのものと自分自身とを軽視し、神の愛のために、こういうものをみな放棄したといっている。真に愛に燃えている者は、愛の対象において、よりよく自分を見出すために、他のいっさいを放棄する。それがため、霊魂はここで、自分を失うことを欲したといっているが それはすなわち、みずから欲して自分を失ったということである。そしてそれは二つの様式においてである。第一は自分自身に対してで、愛人のみを目指すために、いかなることについても自分を全然問題にせず、なんらの利益をも求めず、何のむくいをもさがさず、自分を愛人に引き渡し、自分のためには何一つ獲得しようとは思わず、自分に対して自分を失われたものとする。第二はすべてのことに対しでで、愛人に関することのほかは、いかなることをも問題にしない。これこそ、真実に自分を失うことであり、”愛人に”獲得されることを熱望することである。
11、神の愛に熱中した霊魂とは、こういうものである。このような霊魂はいかなる利得も褒賞も望まず、ただ神の愛のため、意志において、すべてのものと自分自身を失うことのみを求め、それを自分の利得だと考える。まさにその意味において聖パウロは、「キリストのために死ぬことは、自分自身とすべての事物に関して私の利得であると考える」(フィリピ1・21)と言っている。それがため霊魂は、”自分を、もうけたのです”というのである。事実、自分を失うことを知らぬ者は自分をもうけない。かれは福音書における聖主の次の みことばのとおり、自分を失う。「自分の生命を救おうと思う人はそれを失い。私のために生命を失う人はそれを受けるであろう。」(マタイ16・25)この句を、より霊的な、かつ、この問題に いっそう迫応した意味において解しようとするなら、次のとおりである。ある霊魂が、その霊的の道において、神との交わりに自然的な行き方や、やり方を離れ、考察とか、想像とか、感じとか、その他、感覚や被造物から来るなんらかの方法を通じて神を求めることをやめ、そうしたものすべてを超越し、自分としての方法や様式をすべてさしおいて、ただ信仰と愛とによって、神と交わり、神を楽しむようになれば、この霊魂は真実に神を見出したのだといい得る。それは、この霊魂が、神でないすべてと自分自身に対して真実に自分を失われたものとなしたからである。
次の歌についての注
1 このように霊魂が自分をもうけると、霊魂がするすべては利得となる。それは、霊魂の諸能力の力の全部が愛人とのきわめて甘味な、内的な愛の霊的交わりに変っているからである。この愛のうちに、神と霊魂との間に行なわれる交わりは、人の舌をもっては表現できず、人の知恵をもっては理解できぬほど、きわめてデリケートで、崇高で、こころよいものである。花よめはその婚約の日には、祝宴のこと、愛の楽しみのこと、また花むこを喜ばせ、楽しませるために、ありたけの宝石を出し、自分の美しさをできるかぎり発揮することしか考えない。一方花むこのほうも、これにまさるとも劣らず、自分の富や優秀性を示して、花よめを喜ばせ、楽しませようとする。霊的婚約においても同様である。霊魂は雅歌の花よめがいっていること、すなわち、「私は愛する者のため、私の愛する者は私のため」(6・10)ということを真実に感じている。このときこそ、花よめなる霊魂の徳と美しさとが、神の御子なる花むこの偉大さと美しさとともに、神的婚約の式が挙行されるために明るみに出され、婚宴の皿にのせられる。花むこと花よめとは、その富と喜びとを相互に通じ合い、聖霊において甘い愛のぶどう酒に酔う。霊魂はこれを示そうとして花むこに語りかけて次の歌をいう。