なぜ、この心を、いやしてくださらない?
これを傷つけたのは、あなたですのに。
あなたは、これを盗み去られたのに
なぜこのように捨てておかれるのてす?
なぜ、あなたは盗んだものを
もってゆかれないのです?
解説
2 この歌のなかで、霊魂はふたたび、愛人に語りかけ、自分の悩みをかれにかこつ。なぜならここで、この霊魂が示しているような性急な愛は休むことも、とどまることも欲しない、薬 を見出すまでは自分の焦慮を、あらゆる形で述べたてる。この霊魂は傷ついている。そして孤独である。彼女は、自分を傷つけた愛人の他には、自分をいやしてくれるものは何もないのを見る。そこで愛人に向かって、愛の知識によって、彼女の心を傷つけておきながら、なぜ、姿をあらわに見せて彼女をいやしてくれないのかという。また、彼女の心を愛に燃えたたせ、この愛によって、その心を盗み、もはや彼女のものでなくしておきながら、なぜ、このようにそれを捨ておくのかと問う。彼女は、もはや、自分の心を所有していない。なぜなら、だれかを愛する者は、もはや、おのが心の所有者ではない。愛人に、それを渡してしまったのだから。それなら、なぜ愛人は、この心を、ご自分の心のなかに真実に入れてはくれないのか、なぜ、光栄において愛による完全な変化のうちに、これをご自分のものとしてくれないのかとせまる。
なぜ、この心を、いやしてくださらない?
これを傷つけたのは、あなたですのに。
3 霊魂は、自分が傷つけられたことを嘆いてはいない。事実、愛している者は、愛の傷手が 深ければ深いほど、いっそうよく報いられたのである。彼女はただ、愛人が心を傷つけておきながら、死を与えてこれをいやしてくれないことを嘆くのである。なぜなら、愛の傷手は、あまりにもこころよく、甘味なので、これによって死に至らしめられなければ、霊魂は満足することができないから。これらの傷は霊魂にとって、あまりにも甘味なので、彼女は、生命を奪われるまでに、ひどく傷つけられることを熱望し、そのため次のようにいう。”なぜ、この心をいやしてくださらない?これを傷つけたのはあなたですのに”。つまり、あなたは深傷を負わせるほどひどく私の心を傷つけたのに、なぜ、愛の激しさで死なせて、これをいやしてはくださらない?愛の病気のこの深傷の原因は、あなたなのだから、どうか愛の死で私の健康の原因になってください。そうすれば、あなたの不在の苦しみに深傷を負った私の心は、あなたの甘味な現存の愉悦と光栄によっていやされるでしょうと。そして次のようにいいそえる。
あなたは、これを盗み去られたのに
なぜ、このように、捨てておかれるのです
4 盗むとは、所有主からその所有物を奪い取って、自分のものにすることである。霊魂は愛人に向かって、かれは、愛によって彼女の心を盗み、それをもはや、彼女の所有でもなく、彼女の力の及ぶものでもなくしてしまったのに、なぜ、この心をご自分のために取って、真にご自分のものとはしないのか?盗人は普通盗んだものを、もち去ってゆくのに、なぜこれをこのように、ほっておくのか? と嘆いていう。
5 それで愛している者は、その心を、その愛の対象によって盗まれた、あるいは奪われたと言うことができる。なぜなら、その心は、もはや自分のうちにはなく、愛の対象のうちにあるから。それで、もはや、その心を、自分のためにもっているのではなく、その愛の対象のためにのみもっているのである。これによって霊魂は自分が純粋に神を愛しているか否かをよく知ることができるであろう。もしも純粋に神を愛しているなら、その心はもはや自分のものではない。それは、自分の楽しみや利益をかえりみず、ただ神のほまれと光栄とのみを求め、ひたすら神を喜ばせようとする。なぜなら、心は自分のことを思わなくなればなるほど、いっそう神のことを思うものだから。
6 心が、ほんとうに神に盗まれたかどうかは、次の二つのしるしのいずれかによって知る。すなわち、霊魂がここで示しているように、心が悩ましいまでに神への憧れをいだいていること、神以外のものを楽しもうとしないことである。そのわけは、心というものは何かを所有するのでなければ、平和も休息も味わえない。そして、非常に強く愛しているときは、前述のように、自分自身をも、また他の何ものも所有していない。他方、もしも自分の愛の対象を完全に所有していないなら、その苦しみの大きさは、自分に欠けているものに必然的に比例し、かつ、完全な所有よって、完全に満足させられるまでつづく。それまでこの霊魂は、みたされるのを待つ空の器、食物を切望する飢えた人、健康を待ちわびてうめく病人、どこにも支え所なしに宙にぶらさがっている人にもたとえることができよう。愛に燃える心の状態は実に、このようなもので、ここで、霊魂はこれを経験によって感じながらいうのである”なぜ、このように捨てておかれるのです?”と。すなわち、なぜ、このように空虚で、飢えて、孤独で愛に傷つき、病み、支えもなしに空中にぶらさがっているのを、そのまま、ほっておくのかというのである。
なぜ、あなたの盗んだものを
もってゆかれないのです ?
7 この意味はすなわち、愛によって、あなたが盗んだこの心を取って、みたし、飽かせ、あなたとともにあらせ、いやし、あなたにおいて、完全な安住と休息をこれに与えるために、なぜ もっておゆきにならないのです?愛に燃える霊魂は、いかに愛人の心と一つになっていようとも、自分の愛の正当な報酬を望まずにはいられない。彼女は、この報いのゆえに愛人に奉仕しているのである。もしそうでなければ、真の愛ではないであろう。なぜなら愛の報酬は愛以外のものではなく、霊魂は愛の完全さに達するまでは、愛の増大以外のことをのぞむことができないから。愛はただ愛によってのみ支払われる。預言者ヨプもこの霊魂と同様の焦慮と渇望にから「僕が夕暮を待ちわび、雇われ人が、作業の終わりを待ち望むように、私はむなしい月を過ごし憂いの夜を数えた。私は臥せれば、いつ夜が明けて、起き出るかという。そして開ければ、また再び、ただちに夕べを待ち望み、夜の闇に至るまで、苦悩に満たされていた」(ヨブ7・2)。このように神の愛に激しく燃え立つ霊魂は、完全な清涼を得るために、この愛の感性を渇望する。それは、ちょうど夏の日に疲れた僕が、涼しい陰を望むのと同様である。また、雇われ人が、作業の終わりを望むように、この霊魂も、自分のわざの終りを待ち望む。ここで注意すべきは、預言者ヨブは、雇われ人が自分の労苦の終りを待ち望むとはいわず、その作業の終りを望むといっていることで、それは、われわれが述べていることを示すためであって、すなわち、愛する霊魂は、その労苦の終りではなく、そのわざの終るのを待つということである。なぜなら、霊魂のわざは、愛することである。そして、彼女は、この愛するというわざの終結と完成を、つまり自分のうちに神の愛が完成されることを待ち望んでいるのである。そして、それが果たされるまでは、前述の引用句において、ヨブがえがき出しているような霊魂の状態にとどまっている。来る日も、来る月も、彼女にとっては空虚に感じられ、夜は夜で、いつも長々しく悩ましい。以上のことによれば、神を愛する霊魂は、おのが奉仕の報いとして、神を完全に愛すること以外の何ものも、求めても期待してもならないことが明らかである。
次の歌についての注
1 愛のこの境地に達した霊魂は、ちょうど疲れ果てた病人のようである。こういう病人は味覚も、食欲も失い、どんな食物にも、みな嫌気を感じ、すべてことが、かれには、うるさく、いらだたしく思える。考えに浮ぶことすべて、目にはいることすべてにおいて、かれはただ一つの欲求、ただ一つの願望しかもっていない。つまり自分の健康のことで、それに関係のないことはかれにとってうるさくて、重苦しい。それで、この霊魂も、神の愛の病気にかかったがたために、次の三つの特性をもっている。すなわち、どんな出来事に出会っても、どんなことを扱っても、彼女はいつも、とりもどしたいと切望する健康のこと、つまり自分の愛人を思う。それで、彼女は、やむなくそれらのことにかかわり合っているとはいえ、その心は、いつも愛人のうちにある。そこから第二の特性が生じる。すなわち、彼女は何も味わえない。さらにまた第三の特性もこれにつづく。すなわち、すべてのことが彼女にとって、うるさく、どんな交際も重荷で、いらだたしい。
2 この理由はみな、前述のことから引き出される。すなわち、この霊魂の意志の味覚は、神の愛といううまし食物に触れ、かつ、それを味わったので、その結果、どんな事に出会おうと、どんなことに関わろうと、そのうちにただひたすら愛人をさがし求め、これを楽しもうとし、他のいかなる楽しみも利益も顧みない。それは、ちょうど愛に燃えて聖主を園に探したときのマリア・マグダレナに見られることで、彼女は主を見た時に、園丁だと思い、別に何の考慮もせず「あなたが、あの方を移したなら、どこに置いたか言ってください。私が引き取りますから」と叫んだ。この霊魂も同様な焦慮にかられ、すべてのことのうちに愛人をさがし求める。しかし、望むようにただちにかれを見出さず、むしろ、その正反対なことになる。そこで、もうどんなものにも味わいを見出さぬばかりか、すべては彼女にとって苦しみとなり、しかも、ときとして、きわめて激しい苦しみとなる。事実こういう霊魂は人と交わることや、その他の用務にたずさわることを、きわめてつらく感じる。なぜなら、それらは自分の望みの実現を助けるどころか妨害するからである。
3 雅歌の花よめは、愛人をさがし求めるにあたって、上の三つの特性をもっていることを明らかに示している。「私はかれをさがし求めたが見つけなかった。町を見廻る番兵に私は出会った。かれらは私を傷つけた。とりでを守る人々は私のマントをはぎとった。」(5・6-7)町を見廻る番兵とは、世間との交渉を意味する。神をさがし求める霊魂が、それらに出会うと、悲しみ、悩み、嫌気の傷をたくさんに負わされる。なぜなら、それらのうちに愛する者を見出さぬのみか、むしろ、そのために妨害となるから。とりでを守る人々は、悪魔や世間的事務を象徴し、それらは観想のとりでを見張っていて、霊魂が、そこにはいるのを妨害する。そして愛にみちた観想の平和と静けさのマントをとりあげる。愛に燃える霊魂は、このような、すべてのことのために数知れぬ不快と、いらだちをおぼえる。そこで、霊魂は、神を見ずにこの地上にとどまっているかぎり。このようなことから逃れるすべのまったくないことを見て、愛人に向かって哀願をつづけ次の歌をいう。