第八の歌

生きながらえていられるのか
おお私の生命よおまえの命のあるころに生きてないで
おまえに、放たれた矢はおまえを死なすはずだった。
おまえにいだかせた、愛するかたにつての概念によって (最後の行の直訳-愛人より、おまえのうちに受胎したものによって)

2 霊魂は、上述のように、自分が愛で死ぬばかりなのを見、しかも自由に愛を楽しむことが できるように死ぬこともないので自分にとって霊の生命が遅れる原因となっている肉体の生命の長々しさをかこつそれで霊魂はこの歌において、自分の苦悩の原因となっている自の生命に向かって話しかける歌の意味は次のとおりである
私の魂の生命よどうしておまえは、この肉体の生命のなかに堪えつづけてゆかれるのか?
この肉体の生命は、おまえにとっては、神における霊のの生命の死であり欠如であるのに、神においてこそ、おまえは本質と愛と望みとによっておまえの肉体におけるより、いっそう実に生きているのではないか?そしてたとえ、このことが、すでに、おまえの神の生命を生き、かつ、楽しむためにこの死の肉からおまえを脱出させ、解放させる原因とならなかったとしても、どうしてこんなにもろい肉のなかにまだ生きつづけていられるのか? なぜならこのことを除外しても、愛人について伝え知らされる偉大なことによって負わされる愛の傷手だけでもこの生命を絶ち切るに十分なのであるから事実これらの偉大なことがらはおまえを激しく愛に傷つけてゆくつまりかれについて、おまえが感じること理解することのすべては、おまえの命を奪うに十分なほど激しい愛の接触であり、傷手なのであるそこで次の句は

どうして生きながらえていられるのか
私の生命よ、おまえの命のある所に生きていないで

3 この句を理解するためには霊魂は、自分が生かせている肉体のうちにおいてよりも、いうそう多く愛の対象であるもののうちに生きているということを知らねばならないそれ は、霊魂は肉から生命をえているのではなく、かえって肉に生命を与えているのであり、そして霊魂自身は、愛によって自分の愛するもののうちに生きているからである。とはいえ、神を愛する霊魂を、その愛の対象なる神のうちに生かせているこの愛の生命のほかに、魂は、また、他のすべての被造物と同様に、自分の基本的かつ自然的生命を神からえている。すなわち、聖パウロが「私たちは神のうちに生き、動き、存在する。」(使徒行17・28)といっているとおりである。これは神のうちに、われらは生命と動きと存在とをもっているという意味である。また聖ヨネも「かれはすべて存在するものの生命であった」(ヨ14)といっている。霊魂は神のうちに行する自分の存在をじて、自分は自然的生命を神のうちにもっていることを見、また自分が神を愛しているその愛を通じて、霊的生命を神のうちにもっていることをも見る。それで、この死すべき肉体の生命というような、これほどもろい生命が自然性と愛とによって神のうちにいとなんでいる、あれほど強く、真実甘味な生命を楽しむことを妨げ得るのを、嘆き悲しむのである。このような状態にあって、霊魂がいることばは、きわめて激しい。なぜなら、霊魂は、ここで、肉における自然的生命と神における霊的生命という二つの相反のなかで、どれほど自分が悲しんでいるかを、わからせようとするのだから。事実、この二つの生命は相互に反抗し、それ自身相反するものである。そして霊魂はこの両者のなかで生きなければならないので、必然的に激しいしみを忍ばねばならない。苦悩にみちた一方の生命が、甘味にあふれる他方の生命を妨害する。そのため、自然的生命は霊魂にとって、一種の死のようなものになる。なぜなら自然的生命ゆえに、霊の生命が失われるのだから。ところで霊の生命のうちにこそ、霊魂は、その本性をじて自分の全存在、全生命を有し愛を通じては自分の働きと愛情のすべてをもっている。そこで、霊魂はこのもろい生命が いかに苛酷であるかを よりよくわからせようとして ただちに こういう。

おまえに放たれた矢は
おまえを死なすはずだった。

4 この意味は、すなわち、前にいったことは別としてもどうしておまえは肉のうちに生きつづけていられるのか?愛人がおまえの心に行なった愛の接触(これを矢ということばで示 している)だけでも、おまえの命を奪うに十分ではないか?この種の接触は、霊魂と心とのうちに神の知解と愛とのたねをまいてゆくので、次の句で言っているように、神によって受胎すると真に言うことができる。すなわち、

おまえに、いだかせた、愛するかたについての概念によって。(直訳=愛人より、おまえのうちに受胎したものによって)

5 この意味はかれについて、おまえが悟る偉大さ、美しさ、上知、恵み、徳によってある。

次の歌についての注
1鹿は一度、毒草に傷つけられると、もう一瞬開もじっとしていない。自分の傷をいやすすべを、あちらこちらとさかし求め、こちらの水に浸ったり、あちらの水にはいったりする。しかし、どんな方法をこうじても、どんな薬をいても、毒の作用は増すばかりで、ついには心臓を冒し、命を奪うに至る。ここで扱っている愛の毒草に傷ついた魂も様で、自分の悩に処する薬をさがし求めることを決してやめない。しかし、それを見出さないばかりか、考えること、いうこと、することのすべては、かえって悩を増すに役立つばかりである。霊魂は、自分の努力がこのようにむなしいのを見、自分を傷つけた御者のに、自分をすっかり渡以外に薬はないことを認める。そこで愛の力によって、自分の生命を断ち切って悩より解放してもらおうと、これらすべてのしみの原因である花むこのもとに戻って来る。そしてかれに次の歌をう。