たれも それを見ませんでした。
アミナダブも 姿を見せません。
包囲はとけました。
騎士たちは 水を見て
降りてゆきました。
解説
1 花よめは、ここで、自分の意志の欲求が、すべてから解きはなたれ、きわめて緊密な愛で神に結ばれたことに気がつく。また霊魂の感覚的部分は、その能力、力、欲求とともに、霊と適合一致させられて、その反逆はすでに終った。各方面にわたる長期間の修行や霊的戦闘ののち、悪魔は敗北し、きわめて遠く追い払われた。霊魂は天的富とたまものとのさなかに神と一致し、神に化された。それで霊魂は、花むこによりかかって(雅歌8・5)愉悦にあふれて、死の荒野から、花むこの栄えある玉座までのぼるために必要な心がまえと、力とをもっている。そして花むこが、この仕事を終わらせてくださることを希望して、彼の心をそのほうに動かそうとして、これらすべてのことをこの最後の歌の中で、彼に示す。そのために霊魂は五つのことを述べる。第一に、今や霊魂はすべての被造物から離脱し、無関係になったこと。第二に、悪魔は敗北し追放されたこと。第三に、欲情はすでに屈服させられ、自然的欲求は抑制されたこと。第四と第五に霊魂の感覚的部分、あるいは下部は改革され、浄化され、霊的部分に適合一致させられて、もはや霊的宝を受けることを妨げないだけでなく、かえって、それらに順応すること。なぜなら霊魂はすでに自分に与えられた賜に、おのが力に応じて、与っているから。
たれもそれを見ませんでした。
2 これはちょうど、こういっていることになる。私は、高い、低いのいずれを問わず、あらゆる被造的事物から赤裸となり、離脱し、孤独となり、それらとは無関係なものとなって、あなたとともに、いとも深い内的潜心のうちに引き退いているので、いかなる被造物も、私が、あなたのうちに所有している内密な愉悦を見ることができない。つまりいかなる被造物も、そのこころよさをもって、私のうちに快感を生じさせることもなく、また、そのみじめさ、いやしさをもって、私を不快にしたり、悩ましたりすることもない。私の霊魂はそれらのものから、あまりにも遠ざかり、あまりにも深い絶え間ない愉悦のうちに沈んでいるので、いかなる被造物もそれを見ることがないのである。それだけではない。
アミナダブも姿を見せません。
3 アミナダブとは聖書のなかで悪魔の象徴であって、霊魂の敵を霊的に表現する。悪魔はその大砲の無数の弾薬で絶えず霊魂を攻撃し、混乱させ、霊魂が花むことともに内的潜心の城塞、隠れ家のなかに、はいれないようにしていたのである。しかし今、霊魂はすでにこの要塞のなかにおかれ、みずから所有する徳と、神の抱擁とのおかげで、非常に恵まれた強い者、勝利者となっているので、悪魔はあえて近づけないばかりでなく、ひどく恐れて、はるか遠く逃げ去り、姿を見せる勇気さえない。霊魂は徳の実行と、すでに達した完徳の状態によって、悪魔を完全に追い払い、克服してしまったから。悪魔はもう霊魂の前に出てこない。それでアミナダブも、霊魂が熱望する幸福を妨害するなんらかの権利をもって姿を見せるようなことはもうないのである。
包囲はとけました。
4 包囲とは、欲情と自然的欲求を意味する。それらは、克服されず、弱められていないかぎり、四方八方から霊魂をとりまき、攻撃するので、包囲と呼ばれるのである。包囲はとけたというのは、霊魂の欲特は理性に服せしめられ、その欲求は抑制されたことを意味する。このようなありさまであるから、霊魂は花むこに向かって、自分がかれに願う恵みの与えられぬはずがない。欲情の包囲は妨害するために、もうそこにないのだから、という。これはすなわち四つの欲情が、神に従って律せられ、欲求が抑制され浄化されるまでは、霊魂は神を見る資格がないということを意味する。
騎士たちは水を見て
降りてゆきました。
5 水というのは、ここでは、霊魂が、この段階において、自分の内奥で、神とともに楽しんでいる霊的宝や愉悦を意味する。騎士たちとは感覚的部分の内的および外的の肉体的感覚である。(注―)というのは、これらは、おのがうちに、その対象の幻想や、映像を有するからである。これらの感覚がこの段階において、霊的水を見て降りていったと花よめはいうのである。なぜなら、この霊的婚姻の段階にあっては、霊魂の感覚的な低い部分は浄化され、ある意味では霊化されているので、この部分もその感覚的能力や自然的力とともに、神が霊の内奥において霊魂に交流おさせになる霊的な偉大なことがらを、その分相応に楽しみ、かつ、それにあずかるために内部に集中しているからである。ダヴィドはこれを示すために、こういっている「私の心、私の肉は活ける神に向かって喜びおどる」(詩篇83・3)と。(訳者注1)霊の貿歌Aのほうには「騎士たちとは感覚的部分の内的また外的能力のことである」と書かれている。
6 ここで、花よめは騎士たちが水を飲みに降りていったとはいわず、水を見て降りていったといっていることに注意してほしい。それは、感覚的部分とその諸能力とは、この世においてのみならず、のちの世においても、霊的宝を本質的に、かつ、本当の意味で味わう資格がないからである。感覚的部分とその諸能力とは、霊からのある種のあふれによって、上記の霊的宝から喜び楽しみを感覚的に受けるのみである。この楽しみによって、肉体的感覚は内的集中―そのなかで霊魂は霊的宝の水を飲むのである―に引かれ、それが水を見て降りていったということで、水を飲んで、水それ自休を味わうことではない。霊魂は降りていったといって、進んでいったとかその他の言い方をしないのは、霊的部分と感覚的部分との交流において、前述の霊的水の飲みものが味わわれると、感覚的能力はその自然的働きをやめて、霊の内的集中のほうに降りてゆくからである。
7 花よめは、これらの完全な心の準備を神の御子なるその愛するかたの前に差し出す。それは、この地上で、戦いの教会のなかで、神が上げてくださった霊的婚姻から、勝利の教会の栄えある婚姻にまで、かれによって移していただくことを望むからである。どうか、忠実な霊魂たちの花むこである いともやさしいイエズスが、その み名を呼びたのむすべての人をそこに導いてくださるように! 父と聖霊とともに永巡に、かれにほまれと栄えがあるように。アーメン