そよ風は吹き
やさしい小夜鳴きどリの声がきこえます
森とそのうるわしさ
澄みわたった静かな夜に
焼きつくしてしかも苦しませない
ほのほが燃えて……。
解 説
2 この歌のなかで霊魂は。至福的変化において花むこが与えてくださるはずの”あのもの” を述べ、かつ説明する。そのために彼女は、五つのいい方を用いる。第一に、それは神から霊魂に働き、また霊魂から神にゆく聖霊の息吹(直訳は、吸引)であるという。第二に、神を楽しみつつ神に向ける歓喜。第三に、被造物と被造物相互間にある秩序の知識。第四に、神の本質の純粋で明らかな観想。第五に、神の無比な愛における完全な変化。そこで次の句をいう。
そよ風は吹き(直訳=風の吸引)
3 この風の吸引は、霊魂の一つの能力であって、霊魂は、神がそれをかしこで、聖霊の交わりにおいて、自分に与えてくださるだろうといっている。聖霊はこの神的吸引によって、霊魂をきわめて高く引き上げ、これを形成し、御父が御子において、御子が御父において生じられる愛の吸引、聖霊にほかならない吸引を生じることの可能なものにしてくださる。この変化において、この神的霊は、霊魂を御父と御子とのうちに吸引なさって、ご自分と一致おさせになる。事実、もしも霊魂が、あからさまに、明らかに、至聖三位一体の三つのペルソナに変化しないなら、霊魂の変化は真実でも完全でもない。霊魂におけるこの聖霊の吸引は、―それによって神が霊魂をご自身に変化なさるものであるが―霊魂にとってあまりにも崇高な、デリケートな深い愉悦であって、それは、人のことばをもっていうすべもなく、人知をもっては、そのいくぶんなりとも理解することはできないほどのものである。地上での この変化において神と霊魂との間におこなわれる交流についてさえ、語ることは不可能であるから。事実、神に一致し、神に化された霊魂は、神自身において神を吸引する。それは、神が、ご自身に変化した霊魂をご自身において吸引なさる場合と同一の神的吸引である。
4 この世で霊魂が体験するこの変化において、神から霊魂へ、霊魂から神へと移る吸引は、来世におけるような明らかな様式ではないにしろ、霊魂に愛のもっとも崇高な愉悦を味わわせつつ、きわめてひんぱんに行なわれる。聖パウロは、次のことばによってこのことをいおうとしているのである。「あなたたちは神の子であるからこそ、神は父よと叫ぶ子の霊をあなたたちの心におくられたのである」(ガラチア4・6)。これは、来世における福者たちのうちに、またこの世で完全な霊魂たちのうちに、前述の様式で実現する。神が霊魂において吸引なさるように、霊魂も参与の様式で神において吸引するというほどの崇高なわざが行われるようになることを不可能だとみなす理由は少しもない。神は、霊魂を三位一体に一致おさせになり、この一致において、霊魂は神化され、参与によって神となったのであるから、霊魂もまた理解と知識と愛とのわざを行うことが、どうして信じられないことなのだろうか?けれどもそれは、交流と参与の様式で行われ、霊魂内にそれを行うのは神である。これがすなわち、神の三つのペルソナ、権能、上知、愛に変化されることである。この点では霊魂は神に似ているのであり、かつ、ここに至らせるためにこそ、神は霊魂をご自分に似たものとしてお造りになったのである。
5、それがどういうことであるかは、知ることも言い表すこともできない。ただ、どのように神の御子が、われらをこの高い段階に上げてくださり、聖ヨハネがいっているように、神の子となり得るという、この崇高なほまれを我らのためにかちえてくださったかを述べることができるのみである。そして主ご自身、この同じ聖ヨハネ福音書にあるように、御父に向かってこの願いをしてくださるのである。「父よ、あなたがお与えくださった人々が、私のいる所に私とともにいることをのぞみます。それは、あなたが私にお与えくださった光栄を彼らが見るためであります」(ヨハネ17・24)と。これは、私が本性上行うこと、つまり聖霊の吸引を、かれらだわれらにおいて、参与によって行うようにとの意である。主はまた仰せられる。「また彼らのためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のために祈ります。父よ、あなたが私のうちにおいでになり、私があなたのうちにあるように、みなが完全に一つになるように。そして、彼らも、われわれにおいて一つになるように、私は、あなたがお与えくださった光栄を彼らに与えました。われわれが一つであるように、かれらも一つであるように。そして、あなたが私をつかわし、私を愛してくださるように、彼らをも愛しておいでになることをこの世が知るためであります」(17・20-23)。すなわち、あなたは、かれらに、あなたの御子に対するのと同じ愛を交流おさせになった。これはかれらの本性上の権利によることではないが、愛の一致と変化によることである。また同じく神の御子は、聖人がたが、御父と御子とのように本質上、また本性上一つであるようにとではなく、御父と御子とが 愛の一性において一であるように、愛の一致によって一であるようにと順われるのである。
6 そこで、霊魂たちは、御子が本性上所有せられるのと同じ宝を、参与によって所有するようになるのである。これによってかれらは、参与によって真実に神であり、神と同等であり、神の伴侶である。それで聖ぺ卜ロはいう。「神および主イエズスを深く知ることによって、あなたたちの上にゆたかな恵みと平安。キリストの神としての力は、ご自分の光栄と勢力とをもってわれわれを召されたお方をわれわれに知らせることによって、生命と敬虔とを助けるすべてのものをくださり、また、それによって、われわれに尊い偉大な約束をお与えになった。それは、あなたたちを神の本性に与らせるためであった」(ペトロ後1・2-5)。聖ペトロのこの言葉は、霊魂が神ご自身ににあずかるものとなる。すなわち、霊魂と神との実体的一致の結果、至聖三位によって行なわれるわざを、前述の様式で、神において、神とともに行なうだろうということを、はっきりと悟らせる。この一致は、来世においてのみ、はじめて完全に実現するものではあるが、われわれが述べているような完徳の段階に達した霊魂は、地上においてすでに、その風味ゆたかな前味を楽しむのである。しかもこの楽しみは、前述のように、筆舌に表わせぬものである。
7 おお、このような偉大なことのために造られ、また、それに召されている霊魂たちよ。何をしているのか? 何をたわむれているのか? あなたがたの志望は卑賤であり、あなたがたの所有はみじめさにすぎない。あなたがたの霊魂のあわれむべき盲目よ、これほどの光に対して盲目であり、これほどの大きな声に対して耳しいであるとは。偉大さや光栄をさがし求めながら、あなたがたはみじめで卑賤であり、これほどの宝に対して、みずからを無知な者、ふさわしくないものとしていることに気づかないのだから。次は、霊魂が”あのもの”を説明しようとしていう第二のことである。
やさしい小夜鳴どりの歌
8 かのそよ風が霊魂内に生じるものは、愛するかたのやさしい声である。そして霊魂は、こころよい歓喜をもってそれにこたえる。この二重のメロディーを、霊魂は、”小夜鴫どりの歌”と呼ぶのである。小夜鳴どりとはうぐいすのことだが、この鳥は、寒さや雨、その他、冬の不純な天候が終わった春に、その歌声を聞かせる。この歌声は、耳に快く響き、精神をいこわせる。同様に、この世において、花嫁がすでに楽しんでいるこの愛の交流と愛の変化とのなさかで、彼女は、あらゆる混乱や現世的変転から庇護され、自由となり、感覚の面でも、霊の面でも不完全さや労苦や、こんとんとしたあいまいな状態から解放され、浄化され、霊の自由さ、ひろやかさ、喜びのうちに、新しい春を感じるのである。そのとき、彼女の甘美な小夜鴫どりである花むこのやさしい声をきく。この声によって、霊魂の実体は新たにされ、さわやかにされる。こうして、永遠の生命への道を行くためによく準備された霊魂を、花むこは、やさしく、甘美にお呼びになり、霊魂は、この甘美な声がこういつているのをきく。「私の友よ、私の鳩よ、私の美しい者よ、起って急いでおいで。冬はもう過ぎ去り。雨もやんでもう遠くに去った。いろいろの花が私たちの地にあらわれ、枝を切る時が来た。山鳩の声が私たちの地にきこえる」(雅歌2・10-13)
9 霊魂の内奥で語りかける花むこの声に、花よめは、すべてのわざわいの終りと、あらゆる善の始まりを予感する。そのさわやかさ、安けさ、こころよい感じのさなかに、彼女も、やさしい小夜鳴どりのようにその声をひびかせ、自分をそこに招かれる神とともに、歓喜にあふれる新しい歌をきかせる。花むこがその声を彼女にきかせるのは、彼女も、かれと声を合わせて、神に賛美の歌をささげるためである。事実、花むこは この霊魂がその霊的歓喜の声を神に向かってあげることを、あつく望まれる。雅歌のなかで、この同じ花むこは、霊魂にそれを願ってこうおおせられる。「起って、急いでおいで、私の友よ、岩のわれめに、石垣のくぼみにいる私の鳩よ、私におまえの顔をお見せ、私の耳におまえの声をおきかせ」(2・13~14)と。神の耳とは、霊魂が完全な喜びの声をご自分に向かってあげるのをお聞きになりたい神の御望みを象徴する。しかし、この声が完全であるために、花婿は、霊魂が、岩の洞穴、すなわち、前にのべた、キリストの奥義への変化において、それをひびかせるようにと願っている。この一致において霊魂は、愛についてさきにのべたぞつに、神ご自身とともに歓喜し、神を賛美するから、この賛美は非常に完全で、神にとってこころよい。というのも、このような完徳にある霊魂は、きわめて完全なわざを行なうものであるから。それで、この歓喜の声は、神にとっても、霊魂にとっても甘美である。だからこそ花婿は、「あなたの声は甘美だ」(雅歌2・14)と仰せられたのである。これはすなわち、あなたにとってだけではなく、私にとって甘美だ。あなたは、私と一つとなって、私のために、また私とともに、やさしい小夜鳴どりの声をひびかせるのだから、という意味である。
10 この地上で有することのできる変化の状態においての霊魂の歌とは、このようなものである。この歌の甘美なことは.実に言語に絶する。しかし、それは光栄の生命における新しい歌ほど完全ではないので、この歌の崇高さのうちに、それより比べものにならぬほど、もっとずっと、すぐれている光栄の歌を予感しながら、楽しんでいる霊魂は.その思いを光栄の生命にあげ、自分に与えられるであろう”あのもの”とは、やさしい小夜鴫どりの歌なのだという.
森とそのうるわしさ
11 花よめのいうところによると、これは、花むこが彼女に与えてくださるはずの、第三のたまものである。森は、自分のうちに、たくさんの植物や動物を生育させるというところから、こここでは、すべての被造物を造り、それらに存在を与え、ご自分のうちに、生命と根源を見出させる神を意味する。これは、神が、創造主としてのご自分を霊魂に示し、知らせることである。霊魂が、来世のため、花むこにここで願っている森のうるわしさとは、地上の、また天上の被造物のおのおのが、神から受けている恵み、知恵、美のことだけでなく、下級の被造物相互の、上級の被造物相互の、また上級の被造物と下級の被造物との間にある、賢明で秩序だち、笑しく親しい関係から生れて来る美をも、願っているのである。これを知ることは、霊魂に大いなるうるわしさと愉悦を与える。ここで第四のことがつづく。
澄みわたった静かな夜に
12 この夜とは、霊魂が、これらのことを、そのなかで見たいと望んでいる観想のことである。これを夜と呼ぶのは観想は暗いものだからで、そのため人々はこれに神秘神学との別名を与えている。要するに、これはひそかな、隠れた神の上知であって、そのなかで神は、ことばの騒音もなく、肉体的また霊的いかなる感覚の援けを借りることもなく、沈黙と静寂とのうちに、かつ、感覚的ならびに自然的なすべてのものの暗黒のなかで、きわめてひそやかに、隠れて、霊魂をお教えになる。そして霊魂自身もどのように教えられるのか知らないのである。ある霊的な人々は、これを、理解しないで理解することと呼んでいる。というのも、これは、哲学者たちが能動的知性と呼んでいる知性のうちに行なわれるのではなく、可動的知性または受動的知性と呼ぶ知性のうちに行なわれるからである。この能動的知性というのは肉体的諸能力から来る形や映像や知覚の上に働くものであるが、可能的または受動的知性のほうは、形等々を受けることなく、なんらの能動的わざも働きもなすことなく、イメージを脱ぎ去った実体的知鮮を受動的に受けるものである。
13 このゆえに霊魂は、この観想を”夜”と呼ぶのであって、この夜のなかで、霊魂はこの世で、すでに自分のうちにおこなわれた変化を通じて、この神的森とそのうるわしさとを知るのである。しかし、この知識が、いかに崇高なものであっても、ここで霊魂が願っている至福の観想に比すれば、それはやはり暗夜である。それで、霊魂は明らかな観想を願いながら、この森とそのうるわしさ、ならびにここに述べたその他のものの享楽が、すでに澄みわたった静かな夜、つまり至福の明らかな観想のうちにおこなわれるようにと特にいうのである。要するに霊魂は、この地上での暗い観想が、来世における神性の明らかな、静かな観想と変ることを願っているのである。それでダヴィドは観想のこの夜について、こういっている。「夜は、私の愉悦のさなかに私を照らすだろう.」(詩篇138・11)これはすなわち、神を本体的に見る愉悦のうちにはいるとき、すでに観想の夜は明けて、私の知性の日と光となるであろうとの意である。次に第五のことがつづく。
焼きつくし、しかも
苦しませない ほのほが燃えて……。
14 ほのほというのはここでは聖霊の愛のことである。焼きつくすとは、し終ること、完成することを意味する。それで、霊魂が、この歌のなかで述べたすべてのものを、愛する御者が自分に与えてくださるはずであり、自分は、完成された完全な愛のうちにそれらを所有するはずだというとき、そしてこれらのものはみな.苦しませない、完全な愛のうちに吸収され、霊魂自身もまた、おなじく、この愛のうちに吸収されるというとき、それによって、霊魂は、この愛の欠けることなき完全性を明らかにしようとしているのである。愛は、完全であるためには二つの特性をもっていなければならない。すなわち、霊魂を焼きつくし、神に変化すること、またこの愛の炎が霊魂内におこなう炎上と変化とは苦しみを与えぬものであること。ところで、これは至福の状態においてしかありえない。そこでは、すでに、この炎はこころよい愛となっているから。なぜなら愛の炎が、霊魂におこなう変化において、両者の間には適合一致と至福的満足しかないから。したがって、この愛は、霊魂がこの完全な愛を有し得る資格に達する以前のように、多かれ少なかれ苦しみをもたらすことはない。完全な愛に達したこの霊魂は愛の甘美のうちに神とまったく適合一致したので、モイゼのいうところによれば神は焼きつくす火であるとはいえ、今はもうそうではない、今は完成する火、絶えず新たに補充する火である。光栄における変化は、霊魂がこの世で経験していた変化とは非常に違う。この世での変化は、愛において、きわめて完全で、完成されていたとしても、霊魂をいくらか消耗し、傷つけるものであった。それは、ちょうど火が、まっかな炭を燃焼させる時のようで、炭は変化し、火のようになり、変化する前にはき出していた煙はもう出ないとはいえ、火は炭を燃焼しながら、これを消耗し、灰と化していったのであった。この地上で、完全な愛で変化された霊魂のうちにおこるのはこれである。霊魂がいかに神的火と適合一致していようとも、ある種の苦悩や損傷を苦しむ。まず。至福直観の必要が、常に霊に感じられる。次に、弱く、朽つべき感覚は、このような愛の激しさと高さとに必然的に圧倒される。事実、すべて、すぐれたものは、われらの、か弱い天性を圧倒し、苦しませるものである「朽つべき休は霊魂に重荷となる」(知書9・13)と書かれている通りである。しかし。来世の至福の生命においては。知識はきわめて深奥で、愛は、はかり知れぬほど大きくとも、圧倒や、苦しみを少しも感じない。なぜなら、神はこの知識のためには、それに必要な能力を、愛のためには力を与えてくださるからで、つまり知性は神の上知をもって、意志は神の愛で完成されるのである。
15 花よめは、前の歌と、今、われわれが説明している歌のなかで非常に広大な神的交流と知識とを願った。この交流と知識の偉大さ崇高さに順応した愛で愛するため。きわめて強く、きわめて崇高な愛を必要とする。それで花よめはここで、これらの交流や知識が、完成された完全な強い愛のうちに与えられることを願っているのである。