第38の歌

そこであなたは見せてくださるでしょう
私の魂がに願うあのものを
そこであなたはただちに賜うでしょう
おお私の命よ
ほかの日に私にすでにくださったあのものを

解説

2 この霊魂これらの洞穴にはいることを望んだのは彼女が常に憧れていた神的愛の完成 に達するためであったそれは、自分が神から愛されていると同じ清さと完全さをもって神を愛することで、これによって神に報いることがでさるためであるそれで彼女は花むこに向かいこの歌のなかで彼女がそのすべての行為や修行においてたえず目指していたこと、すなわちかれがご自身を愛されるその同じ完全さをもってかれを愛することをそこで教えるだろうという第二に、そこでかれが彼女におえになるであろうといっているのは、かれが、永遠の日から彼女に予定なさった本質的光栄のことである

そこであなたは見せてくださるでしょう
私の魂がせつに願うあのものを

3 霊魂のこの願望は、神との愛の同等性であってこれを霊魂は自然的にも超自然的にもたえず切望している。愛している者は、自分が愛されているそれだけ、自分も愛していると感じなければ満足することはできないものだから。この霊魂は、この世で達し得る神における変化をもってしては、たとえ愛は非常に大きなものであっても、神から愛されていると同じ愛の完全さをもって、神を愛することの不可能なのを見てとる。それで、この愛の同等性に達し得る光栄による明らかな変化に憧れる。この地上で彼女が上げられた崇高な段階においで、意志の真の一致があることは事実だが、この一致は光栄における力強い一致のうちに有するであろう愛の完全さにも力にも達することはできない。光栄にはいるとき、聖パウいがいうように、霊魂は神に知られている通りに完全に知るであろう(1コリント13・12)。したがって霊魂は神に愛されている通りに神を愛するであろう。そのとき、霊魂の知性は神の知性であり、霊魂の意志はは神の意志である。それで霊魂の愛も神の愛である。そこで霊魂の意志はまだ存続するであろうが、それは、愛してくださる神の意志の 力ときわめて力強く一致するので、二つの意志は、ただ一つの意志、ただ一つの愛となって、霊魂は、神から愛されていると同じ力と完さをもって神を愛するのである。こうして、霊魂は神自身の意志と力をもって神を愛する。それは、霊魂が、神から愛されているその同じ愛の力そのものに一致しているからであるがこの力は聖霊のうちにあり霊魂はそのとき、聖霊に変化するのである。そしてこの神のこの愛する力を付与するために霊魂に与えられるのであるから、光栄による変化のために、霊魂に欠けているものをってくださる。霊魂が、このにおいて到達するこの霊的婚姻の完全な変化においてさえ、霊魂は、ことごとく恵みにみちあふれこの変化の効力によってなし得る限りにおいて聖霊によって愛するのである。

4 それゆえ次のことに注意すべきであるここで霊魂は、神がその愛を、実際には与えてくださるにもかかわらず、与えてくださるとはいわず-(魂は単に神が彼女をお愛しになるだろうといっているように見えるから)-ただ自分が望んでいる完全さをもって、いかに神を愛すべきかを神が示してくださるだろうといっていることである事実、来世において神は霊魂にご自分の愛を与えこの愛において霊魂に、自分が神から愛されていると同様に、神を愛することが示されるというのも、神は、そこでご自分がわれらを愛されるように清く、自由に、無私無欲に愛することを霊魂にお教えになるばかりでなく、前述の通り、霊魂をご自分の愛に変化させ、霊魂に神を愛することを可能にするご自分の力を与えて、ご自分が霊魂をお愛しになるのと同じ力で愛することを可能にしてくださるからであるそして、それは、ちょうど彼女の手に楽器をもたせて、彼女とともにそれをかなでながら、彼女にそれをかなでることを教えるのに似ているそれは、彼女に愛することを教え、そして愛することができるようにすることであるもしもそこまで達しないなら霊魂は満足できないだろうそして来世においても、霊魂は、もしも聖トマスが、「至福についての小論」のなかでいっているように、自分が神から愛されているだけ、神を愛していることを感じないなら、満足することはできないだろうすでにいったように霊的婚姻の段階において、愛は光栄における完全さを有していないとしても、この完全な愛のあまりにも生き生きとしたうつしであるため、それはまったくえもいわれぬのである。

そして そこであなたはただちに
賜うでしょうおお私の命よ
ほかのに私にすでに
くださったあのものを

5 ここで、霊魂がただちに花むこが賜うだろうといっていることは、本質的光栄のことで、それは神の本体を見ることにあるそれゆえ、われわれは説明を進める前にここで一つの疑問を解しておかねばならない。それはすなわち、本質的光栄は神を見ることにあって愛することにあるのでないとすると霊魂がここで、自分の願うところは、この愛であるといい本質的光栄だとはいわず愛に対する望みを歌のはじめに置き、そのあとにあたかも、それより関心がうすいことであるかのように本質的光栄の望みを述べているのはなぜであろうかということであるそれは二つの理由による第一は、すべてのことの目的は愛であり、愛は意志に従し、意志の特質は与えることであって受けることではないしかるに本質的光栄の主である知性の特質は受けることであって、与えることではない。ところで、今霊魂は愛に酔わされて神が与えてくださるはずの光栄を眺めず、自分自身の利益など少しもかえりみることなく、真実な愛によって、自分を神に渡すことだけに憧れているからである。第二の理由第一の願いのなかに当然第二の願いが含まれており、前の歌のなかにすでに予想されているということである。なぜなら神を完全に見ることなしに、神の完全な愛に至ることは不可能であるから。したがってこの疑問の要点は第一の理由によって解かれている。というのは霊魂は愛をもって神に対する自分の負債を支払うのに反し、知性をもっては神から受けるのであるから。

6 さて、本文の説明にはいってここで霊魂がいっているほかの″とはどんなのことか、その日神がお与えになったものそして霊魂が、のちに光栄において楽しむために願っているあのものとは何かを見よう。このほかの日とは神の永遠の日のことで、これは現世の日とは異なるほかの日である。この永遠の日に神は、霊魂を光栄に予定なさりこの霊魂に与えるべき光栄をおきめになり、霊魂を創造なさる以前、永遠から、自由にそれを霊魂にお与えになった。そのときから、すでに、あのもの(光栄)は絶対的に霊魂の所有となったので、いかなる出来ごとも、大小いかなる妨害も霊魂からこれを奪い取ることは永久に不可能であろう。したがって、霊魂は神が永遠からくださったあのものを終りなく所有するに至るであろう。これがほかの日”に彼女に与えたと神がいわれ、彼女が今、光栄のうちに明らかに見たいと願っているあのもの”である。ではそのとき、神が霊魂に与えたあのものとは何か? それは使徒パウロがいうように「目がまだ見ず、耳がまだきかず。人の心にまだ思い浮かばなかった」ものである。(コリト前2・9)またイザヤ予言者も「神よあなたを待ち望む者にあなたが備えられたもの…… それはあなたのほかに…… はたれも見たこともない」(64・4)といっているそれをなんと呼んでよいかわからないので、霊魂はここで、あのものというのである。それはするに神を見ることである。しかるに、神を見ることは、霊魂にとって、あのものというほか、いいようがない。

7 しかし、あのものについて何もいわないでおくわけにもいかないから、われわれはキリストが、聖ヨハネの黙示録中、さまざまの表現やことばや比喩を用いて、七度にわたって、それについておおせられたことをいうことにしよう。あのものは一のうちにまた一度で含ませることはできないし聖ヨネのこれらすべての説明もそれを全部いいつくしているわけではない。さてキリストは「勝利者には神の楽園にある生命の木の実を食べさせるであろう」(2・7)とおおせられる。しかし、この表現はあのものをよく説明していないので、すぐにまた、「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに生命の冠を与えよう」(2・10)と。けれども、この言葉もまたそれを明らかにしていないので、他の、もっとわかりにくいしかしもっと説明的なことばをいわれる「勝利者に私は隠れたマンナを与えるであろうまた白い石を与えるであろうその石にはそれを受ける人以外には、だれにもわからない新しい名がしるされている」(2・17)と。これも、まだ、”あのもの”をいうに充分ではないので、神の御子は大きな歓喜と権能をもたらす言葉をおおせられる。「最後まで、私のわざを守る勝利者には、私は邦国に対する権利を与えよう。かれは鉄の棒で、土器を割るようにかれらを治めるであろう。その権利私が父から受けたのと同じものである。私はかれにあかつきの星を与えよう」(2・26)と。神の御子は、”あのもの”を説明するためにこれらのことばをもってしてはまだ満足なさらずさらにつづけて「利者は白い服をつけるであろう。私はその名を生命のら消すことなく御父のみ前でその名を宣言するであろう」(3・5)とおおせられている。

8 しかし以上のすべての叙述では不足なので、またそののちもあのもの”の説明のため、多くのことばをついやしていられるが、それらのことばのなかに実に言語に絶する尊厳と偉さが隠されている。「勝利者を私は神の神殴の柱とするであろう。かれはもうそこから出ないであろう。私はわが神のみ名、わが神の、天からわが神のみもとから下る新しいイェルザレムの名と、私の新しい名とを、かれの上にしるすであろう」(3・12)それからつづいてあのもの”の七番目の説明をなさる。「勝利者を私とともに私の王座にすわらせよう。私が勝利をえて、父とともにその座にすわったと同様に耳ある者はきけ……」(3・21)と。ここまでがあのものを説明するための神の御子のみことばである。それらはあのもの”にきわめて完合致しているとはいえ、それを明らかにしてはいない。なぜなら偉大な事柄というものはすべて、すぐれた崇高な尊厳なことばがそれらによく適合するとはいえ、そのようなことばのいずれもまた全部を合わせても、それらを説明することができないという特徴をもつものであるから

9 さて今、われわれは、ダヴィドがあのもの”について何かいっていないか、調べてみることにしよう。詩扁のなかにこういう句がある。「あなたを恐れる人々のために、隠しておかれるあなたの御いつくしみはなんとおびただしいことだろう」(30・20)。また他のところであのもの″を愉悦の奔流と呼んで「あなたはかれらを愉悦の奔流からお飲ませになる」(35・9)という。そしてダヴィドもまた、こういう言い方の不充分なのを認めてのところで、それを「先んじて与えられる神の仁慈の祝福」(20・4)と呼ぶ。するに霊魂がここで語っている、神が、霊魂を予定なさった至福に他ならぬこの”あのもの”に正確に適合する言葉はないわけである。だから、霊魂が、用いている”あのもの”という言い方で満足して、この句を次のように説しよう。私にすでにくださった”あのもの”とは、おお、天の花婿よ、あなたが私を創造しようとおきめになったあなたの永遠の日に、私に予定なさった光栄の重みである。あなたはそれを私とあなたとの婚約そして婚姻の、私の心の喜びの日にただちに私に賜うであろう私を肉のほだしから解き放ち、あなたの婚姻の室である崇高な洞穴に私を導き入れ栄光をもって私をあなたに変化して、甘美なザクロの果酒を、ともどもに飲むそのときに

次の歌についての注

1 今われらが述べている霊的婚姻の段階にあげられた霊魂は、あのものをいくぶんなりとも知らないわけではない。神において変化したためにこれをいく分か体験するので、自分がすでにその前味と保証とを有するあのものをいわずにはいられない。予言者ヨブがいっているように、「たれか心にいだいたことばを制して、いわずにいることができようか。」(4・2)それで、この霊魂は次の歌のなかで、至福直観において楽しむであろうあの喜びのいくぷんかをいおうと努力するのである。霊魂は、この喜びがどんなものか、かしこにあるであろう”あのもの″がどんなであるかを説明しようとする。