さわやかな朝にえらんだ
花とエメラルドで
私たちは花環を造リましょう
あなたの愛に開いた花を
私の髪の ひとすじで あみ合わせて
解説
2 この歌のなかで、花よめは、愛の交わりと、いこいとのうちに花むことふたたび語り始める。さてこの歌のなかで、花よめなる霊魂と神の御子とが、両者の有するゆたかな徳とたまものとを 楽しみ喜ぶことが語られる。両者は愛の交わりのうちに、相互にその徳やたまものを楽しみながら、それらの徳の行為を相互に交流させる。それで霊魂は、花むこに語りかけて、こころよい好適な時間に獲得した徳やたまもので、豊富な花環をふたりで造ろうという。これらの花環は花むこが花よめに対していだく愛によって、美しく優雅なものとなり、また花よめが花むこに対していだく愛によって、養われ、保たれている。それでこのように徳を楽しむことを霊魂は、徳の花環を造ると呼ぶ。それはふたりの配偶者は相互にいだく愛のうちに、花環の花のように互いにつながれたこれらの徳をすべて、同時に楽しむからである。
花とエメラルドで
3 花とは霊魂の徳のこと、エメラルドとは、神から受けた、たまもののことである。
さわやかな朝にえらんだ‥‥
4 すなわち、人生のさわやかな朝である青春時代に獲得した花とエメラルド。”えらんだ”というのは、青春期に獲得した徳は精練されたもので非常に神のみ心にかなうからである。それというのも、この時期には、これらの徳を獲得するために、悪習から来る妨害は いっそう多いし、天性は これらの徳を失うほうにより多く傾き、かつ早急だからである。また青春の頃から修め始めた徳は、いっそう完全で、精練されているからでもある。霊魂が青春期をさわやかな朝と呼んでいるのは、春の朝のさわやかさは、一日の他の時刻にまさって こころよいように、青春期の徳は、神のみまえに、こころよいものであるから。なお、このさわやかな朝を、徳を獲得するためになす愛の行為と解することもできる。これらの行為は人の子らにとってのさわやかな朝にもまさって、神のみ心にとってこころよい。
5 また”さわやかな朝″を冬の朝のつめたさが表わしている霊的乾燥や困難の時期に課されたわざの意味にとることもできる。乾燥や困難のときに神のために果したわざは、神の御目に非常に価値がある。こういうわざにおいてこそ、徳やたまものは大いに獲得されるのであるから。それに。通常、こういう場合に努力して獲得した徳は、もっぱら霊的慰めや 楽しみによって、獲得された場合よりも、大体において、いっそう精練され、いっそう優秀で、堅固である。「力は弱さのうちで全うされる」(コリント後12・9)との聖パウロのことばのとおり、乾燥や困難の労苦のさなかで、徳は深く根をおろす。それで花よめが、自分の愛する者のための花環を造りなす徳の優秀性を称揚するために、それらが”さわやかな朝にえらんだ”ものであるというのはもっともなことである。事実、愛人は、不完全な徳やたまものではなく、えらんだ花やエメラルドが象徴するえりぬきの完全な徳や、たまものを喜ばれるのである。そこで花よめなる霊魂はいう。これらの花やエメラルドで
私たちは花環を造りましょう。
6 この句を理解するためには、神と霊魂との所有である徳やたまものは、いろいろの花で造られた花環のように霊魂内にあって、豪華な衣服のように霊魂を すばらしく美化するということを知るべきである。またさらにいっそうよく理解するために、いいそえよう。花環を造るためには花をつみ、次に、それらを適宜につなぎ合わせるように、まず、徳の霊的花や天的たまものを獲得し、次いでそれらを霊魂内に固定しなければならない。それがすむと、完徳の花環は霊魂内で完成する。そのとき、霊魂と花むことは、完全に獲得した完徳のかたどりであるこの花環によって飾られ、美しくされて、相互にそこで 楽しむのである。霊魂が造るといっている花環とはこういうものである。そして花環を造るとは、霊魂が、完全な徳やたまものの、いろいろの花やエメラルドで、自分をとりまくことである。それはこの美しい高賞な装飾を身につけて、王の御顔のまえにふさわしく出てゆき、王と同等の位に上げられ、后として王の側におかれるためである。さまざまの徳によって美しくなった霊魂は、このほまれにふさわしいのであるから。そのために、ダヴィドはこのことについてキリストに語りかけて、こういっている。「女王は金の衣裳を着て、さまざまのかざりにとりまかれて、あなたの右に坐した」(詩篇44・10)これはつまり、完全な愛をまとい、さまざまなたまものや、完全な諸徳に包まれて、あなたの右に坐したとの意である。そして霊魂は、この花環を私がひとりで造ろうとも、あなたがひとりで造るだろうともいわないで、私たちがふたりで、いっしょに造ろうといっている。それは、こういう徳を、霊魂は神の助力なしにひとりで行なうことも獲得することもできないからであり、また神も、霊魂の協力なしに単独で、これらの徳を霊魂内で お行ないになることもないからである。聖ヤコボのいっているように「すべてのよい贈物と、完全な恵みとは、上から来て、光の父から降る」(1・17)のがほんとうであるにしても、それらの恵みは霊魂の受容力と協力がなければ受けられないのである。そのため雅歌の花よめは、花むこに向かっていう、「私を引きよせてください。私たちは、あなたのあとに走りましょう。」(I・3)これは、善に向かう動きは、ここに明らかにされているように、ただ神からのみ来るべきであるが、走るのは、かれだけとも、彼女だけともいわれていない。両方が いっしょである。つまり神と霊魂との両方のわざである。
7 この句はまた、イエズス・キリストと聖会とのことに非常によくあてはまる。キリストの花よめである教会はキリストに向かって、「私たちは花環を造りましょう」という。ここで、花環とは、教会がキリストによって生むすべての聖なる霊魂のことである。これらの霊魂の一つ一つは、徳や、天的たまもので造られた花環であって、これらが全部集まって、花むこイエズス・キリストの、み頭を飾るべき、ただ一つの花環を形成している。また、これらの美しい花環とは、教会がキリストによって生むすべての聖なる霊魂のことである。これら一つ一つは、徳や、天的たまもので造られた花環であって、これが全部集まって、花婿イエズス・キリストの、み頭を飾るべき、ただ一つの花環を形成している。また、これらの美しい花環を、キリストと教会のわざである聖人がたの桂冠と解することもできる。それには三種類ある。その第一は、すべての童貞女たちの美しい純白な花で造られたもので、童貞女のおのおのは、その童貞性の桂冠を有し、また、彼女たちのすべてが集まって、花むこキリストの頭上に置かれるための、一つの桂冠を形成している。第二は輝かしい花で造られた聖なる博土たちの桂冠である。そしてかれらのすべてを合わせたものが、キリストのみ頭の上に童貞女らの桂冠に重ねて 置かれるべき、ただ一つの桂冠を形成している。第三のは赤いカーネーションで造られた殉教者たちの冠である。殉教者のおのおのは殉教者の冠をもっているが、かれらの全部が一つの冠となって、花むこキリストの冠を完成する。これらの三つの冠、または花環は、キリストをいやが上にも美しくし、優しくするので、天国の住民たちは雅歌の花よめのことばを繰り返すことであろう。「シオノの娘たちよ、出て、サロモン王をごらんなさい。かれはその婚姻の目。心の喜悦の口。その母がこれに被らせた冠を着けています」(3・11)霊魂は、花環を造ろうというとき。
あなたの愛に開いた花……という
8 霊魂のわざや徳をかざる花とは神の愛から来る美しさと力とである。この愛がなければ、これらのわざは開花していないばかりでなく、枯れてい、たとえ人間的には完全なものであっても、神の前には価値がない。しかし神がその恵みと愛をお与えになるので、これらのわざは愛において開花したものとなる。
私の髪のひとすじで あみ合わせて
9 ここでいわれる髪の毛とは霊魂の意志のこと、霊魂が愛する者に対していだく愛のことである。この愛はここで、花環の糸と同じ役目を果す。花環において、糸が花をつなぎ、固定するように、愛は霊魂において、諸徳をつなぎ、固定し、支えている。聖パウロがいうように、愛は完徳の結び(コロサイ3・14)だからである。霊魂において、諸徳や超自然的たまものは愛によって固定されているので、もしもこのつなぎが、神に対する不忠実によって切れるならば、ただちにすべての徳は、ばらばらになって、霊魂はそれらを失ってしまうであろう。ちょうど花環を支えている糸が切れると花が落ちてしまうのと同じである。それでわれらが、徳を所有するためには、神がわれらを愛されるだけでは足りない。これらの徳をうけ、かつ、保つためには、われらのほうも、また神を愛さねばならない。霊魂がひとすじの髪の毛といって、たくさんの髪の毛とはいわないわけは、彼女の意志は、他のすべての髪の毛、つまり神とは無関係なすべての愛から解放されて単独となっているからである。このようにいうことによって、霊魂は、この徳の花環の価値をすばらしく高揚している。愛が単一で、確固浮動であるなら、諸徳も完全で、完成され、神の愛において開花しているから。そのとき、神が霊魂に対していだかれる愛は実に測り知れないもので霊魂もそれを自覚している。
10、もしも私が、これらの徳の花やエメラルドが相互にまじり合っているさまの美しさをいい表そうとするなら、またそれらの調和が、この霊魂に与えている力と威厳とを幾分なりともいおうとし、かつ、このさまざまな徳からなる衣裳が霊魂を飾っているその美しさ、魅力を描写しようとするなら、それらを表明するに足ることばも表現も見出さないことであろう。神は悪魔についてヨブ記のなかでこういわれる。「その体は鋳造した楯のようで、鱗が互に隙間なくおしならび、一つ一つと相接して、風もその間を通りえない。」(41・6-7)もしも悪魔が鱗で象徴されている相互に重なり合った数々の邪悪からなる衣を着ているがために、これほど力をもち、邪悪はそれ自体において弱さであるのに、その体は鋳造された鉄の楯のようだといわれるなら、醜悪も不完全さも決してはいることができないほどに相互に密着し、からみ合った堅固な徳で、すっかり着せられている霊魂の力はどれほどであろう。おのおのの徳は、その力をもって霊魂に力を加え、その美をもって、美を加え、その価値と尊貴をもって霊魂を富裕にし、その尊厳をもって霊魂に威厳と偉大さを加えてゆく。花よめなる霊魂が、このようなたまものに飾られて、花むこなる王の右に座している様子は、霊的なまなこに、なんとすばらしく映ずることだろう。「君主の娘よ、靴をはいたあなたの歩みはなんと美しいことだろう」と花むこは雅歌のなかで、この霊魂についで語りながら叫ぶ。(7・I)かれはこの霊魂をその威厳のゆえに君主の娘と呼ぶ。靴をはいたところが美しいというなら、その衣裳はどうであろうか!
11 花むこは、花の衣裳で飾られた霊魂の美しさを賛嘆するばかりでなく、これらの花の配置や秩序、またさらにその間に神の無数のたまものを象徴するエメラルドが はめこまれることによって霊魂に付与される剛毅と能力とに驚愕して、雅歌のなかで霊魂に向かい「あなたは陣立を整えた王の軍勢のように恐ろしい」といわれる。それは、これらの徳と神のたまものとは、その霊的芳香で楽しませると同様、これらが霊魂内で集結しているとき、その本質をもって霊魂に力を与えるからである。したがってこれらの花やエメラルドが、まだ愛の髪の毛で相互に結び合わされていないために、雅歌の花よめは弱くて愛に病み、これらが、結合一致することにより、強められることを切望しながら、次のことばをもって、それを願った。「花をもって、私を引き立て、りんごをもって私を力づけてください、私は愛するあまり病んでいますから」(2・5)花は徳を、りんごはその他のたまものを意味している。
次の歌についての注
1 これらの花環をあみ合わせ、霊魂のうちに固定するというシンボルのもとに、霊魂が、この段階における自分と神との間の愛の神的一致をどのように理解させようとしたかは、十分説明したことと思う。それに花むこ自身が、これらの花である。かれみずから称して「私は野の花、百合の花」(雅歌2・1)といっているから。そして、霊魂の愛なる髪の毛は、前述のように花のうちの もっともすぐれたこの花を霊魂にかたく結びつけているのである。使徒聖パウロもいっているよう「愛は完徳の結び」(コロサイ3・14)であるから。ところで、完徳とは神との一致にほかならない。また霊魂は、これらの花環が固定される芯である。霊魂こそ、これらの光栄の主体であるから。霊魂はもはや以前のようではなくなり、すべての花の完全さと美しさとを一身に集めた一つの完全な花のようである。それというのもこの愛の糸が両者、すなわち、神と霊魂とをあまりにも強く捉え固定するため、かれらは変化され、愛によって一とされてしまうらからである。もちろん本質においで、かれらに異なるけれども、光栄と様相においては、霊魂は神であるかのように、神は霊魂であるかのように見える。
2 この一致はこのようなものである。そのすばらしさはまったく言語に絶する。聖書が、列王記大一緒で、ダヴィドとヨナタスについていっていることが、これについていくぶんの光を与えてくれる。ヨナタスをダヴィドに一致させていた愛情はあまりにも緊密であったため、ヨナタスの心はダヴィドの心に密着していたといわれている。一人の人間が、他の人間に対していだく愛が、この人の心を相手に密着させるほど強いものだとすれぼ、この霊魂が神に対していだく愛によってなされた神なる花むこと霊魂との間の密着はどうであろう。しかも特にここでは神が主位となる愛人で、底知れぬ愛の全能によって、空間に消えゆく朝露の一滴に対する火の奔流にもまさる効果と力とをもって、霊魂を ご自分のうちに吸収なさるのだから……。このような結合のわざを行なう髪の毛は疑いもなくきわめて強く、かつ微妙なものでなければならない。それは結合させる両者のうちに、こんなにも力強くはいり込むのだから。霊魂は次の歌のなかで、この美しい髪の毛の特性を述べていう。