第30の歌

さわやかな朝にえらんだ
花とエメラルドで
私たちは花環を造リましょう
あなたの愛に開いた花を
私の髪の ひすじで あみ合わせて

解説

2 この歌のなかで花よめは、愛の交わりと、いこいとのうちに花むことふたたび語り始める。さてこの歌のなかで花よめなる霊魂と神の御子とが両者の有するゆたかな徳とたまものとを 楽しみ喜ぶことが語られる両者は愛の交わりのうちに、相互にその徳やたまものを楽しみながらそれらの徳の行為を相互に交流させるそれで霊魂は、花むこに語りかけてこころよい好適な時間に獲得した徳やたまもので、豊富な花環をふたりで造ろうというこれらの花環は花むこが花よめに対していだく愛によって美しく優雅なものとなりまた花よめが花むこに対していだく愛によって、養われ、保たれている。それでこのように徳を楽しむことを霊魂は、徳の花環を造ると呼ぶ。それはふたりの配偶者は相互にいだく愛のうちに、花環の花のように互いにつながれたこれらの徳をすべて、同時に楽しむからである。

花とエメラルド

3 花とは霊魂の徳のこと、エメラルドとは、神から受けた、たまもののことである。

さわやかな朝にえらんだ‥‥

 すなわち人生のさわやかな朝である青春時代に獲得した花とエメラルド。”えらんだ”というのは、青春期に獲得した徳は精練されたもので非常に神のみ心にかなうからであるそれというのもこの時期には、これらの徳を獲得するために悪習から来る妨害は いっそう多いし天性は これらの徳を失うほうにより多く傾き、かつ早急だからであるまた青春の頃から修め始めた徳は、いっそう完全で、精練されているからでもある霊魂が青春期をさわやかな朝と呼んでいるのは、春の朝のさわやかさは、一日の他の時刻にまさって こころよいように、青春期の徳は神のみまえにこころよいものであるからなおこのさわやかな朝を徳を獲得するためになす愛の行為と解することもできる。これらの行為は人の子らにとってのさわやかな朝にもまさって神のみ心にとってこころよい

5 またさわやかな朝″を冬の朝のつめたさがわしている霊的乾燥や困難時期されたわざの意味にとることもできる。乾燥困難のときに神のために果したわざは、神の御目に非常に価値がある。こういうわざにおいてこそ、徳やたまものは大いに獲得されるのであるから。それに。通常、こういう場合に努力して獲得した徳は、もっぱら霊的慰めや 楽しみによって、獲得された場合よりも、大において、いっそう精練され、いっそう優秀で、堅固である。「力は弱さのうちで全うされる」(コリント12・9)との聖パウロのことばのとおり、乾燥や困難の労苦のさなかで、徳は深く根をおろす。それで花よめが、自分の愛する者のための花環を造りなす徳の優秀性を称揚するために、それらがさわやかな朝にえらんだ”ものであるというのはもっともなことである。事実、愛人は、不完全な徳やたまものではなく、えらんだ花やエメラルドが象徴するえりぬきの完全な徳や、たまものをばれるのである。そこで花よめなる霊魂はいう。これらの花やエメラルドで

たちは花環を造りましょう

6 この句を理解するためには、神と霊魂との所有である徳やたまものは、いろいろの花で造られた花環のように霊魂内にあって、豪華な衣服のように霊魂を すばらしく美化するということを知るべきである。またさらにいっそうよく理解するために、いいそえよう。花環を造るためには花をつみ、次に、それらを適宜につなぎ合わせるように、まず、徳の霊的花や天的たまものを獲得次いでそれらを霊魂内に固定しなければならない。それがすむと完徳の花環は霊魂内で完成する。そのとき霊魂と花むことは、完全に獲得した完徳のかたどりであるこの花環によって飾られ、美しくされて、相互にそこで 楽しむのである。霊魂が造るといっている花環とはこういうものである。そして花環を造るとは、霊魂が、完全な徳やたまものの、いろいろの花やエメラルドで、自分をとりまくことである。それはこの美しい高賞な装飾を身につけて、王の御顔のまえにふさわしく出てゆき、王と同等の位に上げられ、后として王の側におかれるためである。さまざまの徳によって美しくなった霊魂は、このほまれにふさわしいのであるから。そのために、ダヴィドはこのことについてキリストに語りかけて、こういっている。「女王は金の衣裳を着て、さまざまのかざりにとりまかれてあなたの右に坐した」(詩篇44・10)これはつまり、完な愛をまといさまざまなたまものや、完全な徳に包まれて、あなたの右に坐したとの意である。そして霊魂は、この花環を私がひとりで造ろうとも、あなたがひとりで造るだろうともいわないで私たちがふたりでいっしょに造ろうといっているそれは、こういう徳を、霊魂は神の助力なしにひとりで行なうことも獲得することもできないからでありまた神も霊魂の協力なしに単独で、これらの徳を霊魂内で お行ないになることもないからである。聖ヤコボのいっているように「すべてのよい贈物と完全な恵みとは、上から来て、光の父から降る」(1・17)のがほんとうであるにしても、それらの恵みは霊魂の受容力と協力がなければ受けられないのである。そのため雅歌の花よめは、花むこに向かっていう、「私を引きよせてください。私たちは、あなたのあとに走りましょう。」(I・3)これは、善に向かう動きは、ここに明らかにされているようにただ神からのみ来るべきであるが走るのは、かれだけとも、彼女だけともいわれていない。両方が いっしょである。つまり神と霊魂との両方のわざである。

7 この句はまた、イズスキリストと聖会とのことに非常によくあてはまる。キリストの花よめである教会はキリストに向かって、「私たちは花環を造りましょう」という。ここで花環とは、教会がキリストによって生むすべてのなる霊魂のことである。これらの霊魂の一つつは、徳や、天的たまもので造られた花環であってこれらが全部集まって花むこイズス・キリストのみ頭を飾るべきただ一つの花環を形成しているまた、これらの美しい花環とは、教会がキリストによって生むすべての聖なる霊魂のことである。これら一つ一つは、徳や、天的たまもので造られた花環であって、これが全部集まって、花婿イエズス・キリストの、み頭を飾るべき、ただ一つの花環を形成している。また、これらの美しい花環を、キリストと教会のわざである聖人がたの冠と解することもできる。それには三種類あるその第一はすべての童貞女たちの美しい純白な花で造られたもので、童貞女のおのおのは、その童貞性の冠を有しまた、彼女たちのすべてが集まって花むこキリストの上に置かれるための、一つの桂冠を形成している。第二は輝かしい花で造られた聖なる博土たちの桂冠である。そしてかれらのすべてを合わせたものが、キリストのみ頭の上に童貞女らの冠に重ねて 置かれるべき、ただ一つの桂冠を形成している。第三のは赤いカーネーションで造られた殉教者たちの冠である。殉教者のおのおのは殉教者の冠をもっているが、かれらの全部が一つの冠となって、花むこキリストの冠を完成する。これらの三つの冠、または花環キリストをいやが上にも美しくし、優しくするので、天国の住民たちは雅歌の花よめのことばを繰り返すことであろう。「シオノの娘たちよ、出て、サロモン王をごらんなさい。かれはその婚姻の目。心の喜悦の口。その母がこれに被らせた冠をけています」(3・11)霊魂は、花環を造ろうというとき。

あなたの愛にいた花……という

8 霊魂のわざや徳をかざる花とは神の愛から来る美しさと力とである。この愛がなければ、これらのわざは開花していないばかりでなく、枯れていたとえ人間的には完全なものであっても神の前には価値がない。しかし神がその恵みと愛をお与えになるので、これらのわざは愛において開花したものとなる。

私の髪のひとすじで あみ合わせて

9 ここでいわれる髪の毛とは霊魂の意志のこと、霊魂が愛する者に対していだく愛のことである。この愛はここで、花環の糸と同じ役目を果す。花環において、糸が花をつなぎ、固定るように愛は霊魂において、諸徳をつなぎ、固定し、支えている。聖パウロがいうように、愛は完徳の結び(ロサイ3・14)だからである。霊魂において、徳や超自然的たまものは愛によって固定されているので、もしもこのつなぎが、神に対する不忠実によって切れるならば、ただちにすべての徳は、ばらばらになって、霊魂はそれらを失ってしまうであろう。ちょうど花環を支えている糸が切れると花が落ちてしまうのと同じである。それでわれらが、徳を所有するためには神がわれらを愛されるだけでは足りない。これらの徳をうけかつ、保つためには、われらのほうも、また神を愛さねばならない。霊魂がひとすじの髪の毛といってたくさんの髪の毛とはいわないわけは、彼女の意志は、他のすべての髪の毛、つまり神とは無関係なすべての愛から解放されて単独となっているからである。このようにいうことによって、霊魂はこの徳の花環の価値をすばらしく高揚している。愛が単一で、確固浮動であるなら、諸徳も完全で完成され、神の愛において開花しているから。そのとき神が霊魂に対していだかれる愛は実に測り知れないもので霊魂もそれを自覚している。

10、もしも私がこれらの徳の花やエメラルドが相互にまじり合っているさまの美しさをいい表そうとするなら、またそれらの調和が、この霊魂に与ている力威厳となりもいおうとし、かつ、さまざまな徳からなる衣裳が霊魂を飾ているその美、魅力ようとするなら、それらを表明ばも現もさないことろう。は悪魔ついてヨブ記のなかでういわれる「その鋳造した楯のようで、鱗が互に隙間なくおしならび、一つ一つと相接して、風もその通りえない。」(41・6-7もしも悪魔が鱗で象徴されている相互に重なり合った数々の邪悪からなる衣をているがためにこれほどをもち、邪悪はそれ自体においてであるのに、そのは鋳造された鉄のようだといわれるなら、醜悪も不完全さも決してはることができないほどに相互に密着し、からみ合った堅固かり着せられている霊魂の力はどれほどであろうおのおのの徳はその力をもってを加え、その美をもって、美を加えその価値と尊貴をもって霊魂を富裕にし、尊厳をもって霊魂に威厳と偉大さをてゆく花よめなる霊魂がこのようなたまものに飾れて、花むこなる王の右に座している様子は霊的なまなこになんとすばらしく映とだ主の娘よ、靴をはいたあなたの歩みはなんと美しいことだろう」と花む雅歌のなで、霊魂についで語りながら7・I)かれはこの霊魂をその威厳のゆえ君主の娘呼ぶ。靴をはいたとろが美しいというなら、その衣裳はどうであろうか

11 花むこは、花の衣裳で飾られた霊魂の美しさを賛嘆するばかりでなく、これらの花の配置や秩序、またさらにその間に神の無数のたまものを象徴するエメラルドが はめこまれることによって霊魂に付与される剛毅と能力とに驚愕して、雅歌のなかで霊魂に向かい「あなたは陣立を整えた王の軍勢のように恐ろしい」といわれるそれは、これらの徳と神のたまものとはその霊的芳香で楽しませると同様これらが霊魂内で集結しているときその本質をもって霊魂に力を与えるからであるしたがってこれらの花やエメラルドが、まだ愛の髪の毛で相互に結び合わされていないために雅歌の花よめは弱くて愛に病み、これらが、結合一致することにより強められることを切望しながら、次のことばをもってそれを願った。「花をもって、私を引き立て、りんごをもって私を力づけてください、私は愛するあまり病んでいますから」(2・5)花は徳を、りんごはその他のたまものを意味している

次の歌についての注

1 これらの花環をあみ合わせ、霊魂のうちに固定するというシンルのもとに霊魂がの段階における自分と神との間の愛の神的一致をどのように理解させようとしたかは、十分説明したことと思うそれに花むこ自身がこれらの花であるかれみずから称して「私は野の花、百合の花」(雅歌2・1)ってから。そして、霊魂の愛なる髪の毛は、前述のように花のちの もっともすれた花を霊魂にかたく結びつけているのである。使徒聖パウロもいるよう「愛は完徳の結び」(コサイ3・14)であるから。ところで、は神致にほかならない。また霊魂は、これらの花環が固定される芯である。霊魂こその光主体であるから。霊魂はもは以前のようではなくなり、すべての花の完さとめた一つの完全のようである。それというのもこの愛の糸が両なわち、霊魂とをあまりにも固定すため、かれらは変化され、愛によ一とらである。もち本質におい、かれらにけれども、光と様相においては、は神あるかのように、神るかのように見える。

2 この一致はこのようなものである。そのすばらしさはまったく言語に絶する。聖書が、列王記大一緒で、ヴィドとヨナタスにていっているこが、これについていくぶんの光を与くれる。ヨナタスをダヴィドにさせていた愛情はりにも緊密であったため、ヨナタスの心はダヴィド心に密着していたわれている。一人の人間が、他の人対しいだく愛がの人を相手に密着させるほど強いのだと霊魂神に対によてなされたなる花むこと霊魂との間の密着はどうであろう。しかも特にここでは神が主位となる愛人で、底知れぬ愛の全能によってに消えゆく朝露の一滴に対る火の奔流にもまさる効果と力とをもって霊魂を ご自分のうちに吸収なさるのだから……。このような結合のわざを行なう髪の毛は疑いもなくきわめて強く、かつ微妙なものでなければならない。それは結合させる両のうちにこんなにも力強くはいり込むのだから。霊魂は次の歌のなかでこの美しい髪の毛の特性を述べていう。