そこでかれは私に
ご自分の心をくださいました。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました。
そして私は何もあまところなく
自分をかれに与えました。
私はかれに、浄配となることを約しました。
解説
3 この歌のなかで花よめは、この霊的婚約において、双方からの、すなわち、霊魂と神との相互の引き渡しを語っている。霊魂は、愛の奥の酒ぐらで、神が自分と交わりたもうことによって、どのように一致が成立したかを語る。神は、自由にその愛の心を霊魂に与えられ、その上知と奥義とを、これに教えられた。霊魂のほうもまた、自分自身のためにも、また他のだれのためにも、何ものも保留するところなく、自分をことごとく与え、自分は永久に神のものであると宣言した。そこで次の歌をいう。
そこでかれは私に
ご自分の心を与えてくださいました
4 だれかに自分の心を与えるとは、自分の愛や友情を与え、親友に対するように、自分の秘密を打ち明けることである。霊魂は、”そこでかれは心を私に与えた”といっているが、これはつまり、神がその愛と奥義とを霊魂に交流させたということで、神がこの段階において、霊魂にお行ないになるのは、まさにこれである。また、次の句ではさらにこれを押し進めていう。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました
5 ここで、霊魂にお教えになったうましい学問とは、神秘神学のことである。これは、霊的な人々が観想と呼ぶ神の奥義の知識である。これが非常に甘美であるのは、愛を通じての知識だからであって、愛は霊魂の師であり、すべてのことを甘美にする。この知識と知解とを、愛、すなわち、神がそれによって霊魂と交わられる愛のなかで伝達なさるので、それは知性にとって甘美なのである。事実、これは知識であって、知識は知性に属するものだから。しかしまた、これは同時に、意志にも甘美である。なぜなら、愛における知識であり、愛は意志に属するから。そこでただちに、次のようにいう。
そして私は何もあますところなく
自分をかれに与えました。
6 前述のように、霊魂は、神の甘美な飲みものによって、まったく神に浸透されているので、ごく自発的に、そして非常にこころよく、自分をことごとく神に渡し、完全に神のものとなることを求め、神でない何ものも、自分のうちにとどめておくまいと決意している。霊魂内にこの一致を生じられる神は、このような一致が要求する純潔と完徳とを、霊魂に与えられる。霊魂をご自身に変化なさるのは神であるから、神は、これをまったくご自分のものとなし、神でないいっさいをこれから取り去る。それで、神が霊魂に自由にご自分を与えられたのと同様に、この霊魂は、ただ意志によってだけでなく、実際にも、何一つ残すところなく、ことごとく神にささげたものとなる。二つの意志、すなわち、神の意志と霊魂の意志とは.相互に巴を返し、相互に渡し合い、相互に満足しているので、婚約の堅固不易の掟に従って、相互に忠実さに欠けることは決してないであろう。そこで霊魂は.さらにつけ加えていう。
私はかれに、浄配となることを約しました。
7 花よめは、その愛も心づかいもわざも、花むこ以外のもののうちに置くことがないのと同様、霊魂もこの段階において、その意志のすべての愛情、知性のすべての考え、記憶のすべての心づかいとそのすべてのわざとを、その欲求とともに、ことごとく神のほうに向かわせている。このとき霊魂は、あたかも、神化され、みずから判断し得る限りにおいて、神の意志にさからう天性の本能的衝動すらない。不完全な霊魂が、その知性、意志、記憶、欲求において、悪へと導き、不完全なことを行なわせる天性の本能的衝動をたびたび感じるのに反して、この段階に達した霊魂においては、知性も、記憶も、意志も、欲求すらも、その天性の最初の衝動によって、すぐに神のほうに向かうのを常とする。これは、神の力強い援助の効果であり、神において堅固にせられ、善のほうに完全に転向している結果である。これは、ダヴィドが、この段階にあげられた自分の霊魂のことを語りつつ明らかにしていることで、「私の魂は、どうして神に従わないことがあろう。私の救いは、かれから出るのだから。実に、かれこそ私の神、私の救主である。私の受容者よ、私はもはや動かない」(詩篇61・1)と。神が自分の受容者だということによって、ダヴィドは、自分の霊魂が神に受け容れられ、われわれがここで述べているように神に一致しているのだから、神にさからう天性の衝動を、もはや感じないのだということを示しているのである。
8 今まで述べてきたすべてのことによって、この霊的婚姻に達した霊魂は、もはやただ一つ のことしか知らないということは明らかである。それはすなわち、愛すること、花むことともに愛の愉悦を楽しむこと。というのも、この霊魂は、聖パウロがいっているように。その形相と本質が愛である完徳に達したからである。ある霊魂に愛があればあるほど、この霊魂はその愛の対象において完全である。それでこの完全な霊魂は、もしこういうことが許されるとすれば、全く愛である。そのすべての行為は愛である。そのすべての能力と資産とは、愛において用いられる。霊魂は、かしこい商人のように、神のうちに隠されているのを発見したあの愛の宝をかち得るために、すべてを与えた。この宝は、神の御限に限りなく貴重である。それで霊魂は、愛する御者がただ愛しか評価なさらず、愛しか嘉納なさらないのを見て、神の純粋な愛においてかれに完全に奉化したいと望み、すべてをささげる。それは、ただ愛する御者がそう望まれるからというだけではなく、この霊魂をかれに一致させている愛は、霊魂をして、すべてにおいて、すべてを通じて神を愛するように傾けるからである。蜜バチが、すべての草花から、そこにある蜜をとり、かつ、ただそのためにのみこれらの草花を用いるように、この霊魂も、自分のうちにおこるすべてのことから、きわめて容易に、そこにある愛の甘味を引き出す。それらのすべでのことのうちで、この霊魂は神を愛し、事がらが甘かろうと苦かろうと問題ではない。愛につつまれ、愛に守られ、この霊魂は、そのようなことを感じないし、味わわないし、知りもしない。なぜなら、繰り返していうが、この霊魂は、愛することしか知らないから。何をしようと。何を扱おうと、この霊魂は、ただ神愛の愉悦しか味わわない。それを表明するために、次の歌をいう。
次の歌についての注
1 しかし、われわれは、神は愛のほかに何ものもお喜びにならないといったのであるから、次の歌を説明する前に、ここにその理由を述べておくべきであろう。われらのすべてのわざ、すべての労苦は、たとえそれが、いかに大きなものであろうとも、神のみまえには無にすぎない。なぜなら、そのようなことにおいて、われらは神に何もささげることはできず、神の唯一のご希望をみたすことはできないから。神の唯一のご希望とは、われらの霊魂を高めるということである。神はご自分のために何もお望みにならない。何も必要とせられないのだから。それで、もしみ心を喜ばせることがあるとすればそれは霊魂が向上することである。そしてご自身と等しいものとする以上に霊魂を高めることはおできにならないので、神はただ、一つのことだけを追求なさる。それは、霊魂から愛されること。なぜなら、愛の特徴は、愛する者をその愛の対象と等しくすることであるから。さて、霊魂は、ここで、完全な愛を有していればこそ、神の御子の花よめ。すなわち、かれと同等な者といわれるのである。愛のわざであるこの同等性において、ふたりの愛人の間ではすべてが共通である。それは花むこご自身、弟子たちにおおせられているとおりである。すなわち「これから、私はあなたたちを友人と呼ぶ。私の父からきいたことをみなあなたたちに知らせたから。」(ヨハネ15・15)さて次の歌は、