花に飾られた、私たちの床は
獅子の岩穴に、かこまれています
緋色の布が張られ
平安で築かれ
千の黄金の楯をいただいています。
解 説
花に飾られた私たちの床
今いったとおり、この霊魂の床は神の御子なる花むこのことであって、それは霊魂にとって花に飾られている。なぜなら、霊魂は花よめとしてすでに、かれに一致し、かれのうちにいこい、愛する御者はその心と愛とを彼女に与える。ことばをかえていえば、神の上知と神秘と恵みと徳とたまものとが彼女に与えられるからで、彼女はこの上なく美しくせられ、富まされ、愉悦にみたされる。それがため彼女は自分が香り高いさまざまの神的な花の床に、いこっているように思われ、その接触は、こころよく、その芳香は酔わすようである。それで、霊魂が、神とのこの愛の一致をさして、花に飾られた床と呼ぶのは、きわめて適切である。雅歌の花よめは、花むこに語りかけて同様にいう。「われらの床は花にみちている」(1・15)と。彼女は「われらの」と呼ぶ。なぜなら愛する御者の徳と愛とは今はふたりにとって共通であるから。また格言の書のなかで霊魂が「私の楽しみは人の子らとともにあることである」(8・31)とおおせられているとおり、楽しみもまたふたりにとって共通である。この床が花で飾られているという、もう一つの理由がある。それは、霊魂の徳は、この状態においてすでに完全で英雄的であるが、それは、この床が、神との完全な一致によって花咲くまでは、ありえないことである。それでただちに、この徳の完成のことを次の句で歌っていう。
獅子の岩穴にかこまれています
獅子の穴というのは、神との一致の、この段階において、霊魂が所有している徳のことで ある。その理由はこうである。獅子の穴は他のすべての動物に対して非常に安全できわめてよく守られている。なぜなら、他の動物は、そのなかにいる獅子の力や勇猛さを恐れて、そこにはいって来ないばかりか、その近くにとどまることさえしない。このように、一つ一つの徳は、霊魂がそれらを完成した状態で所有しているとき、この霊魂にとって、獅子の穴のようなものである。そこに強い獅子のように花むこなるキリストが住み、この剛毅の徳をはじめ、他のすべての徳を介して、この霊魂と一致していられる。そして、これらの徳によってキリストに一致している霊魂も、また自身強い獅子のようである。なぜなら、この霊魂は神の特性を受けるから。それで、神との一致という花の床にいこっている霊魂は、その徳のおのおの、および、すべての徳の結集によって、きわめてよく守られ、強くなっているので。悪魔たちは、このような霊魂を襲撃しようとしないばかりでなく、その面前に現われることさえはばかる。かれらはこの霊魂が愛人の床において、完全な徳によって、これほど偉大なもの、勇敢なもの、勇猛なものにせられているのを見て、非常に恐れるのである。事実、霊魂が変化的一致によって、神に一致しているとき、悪魔は、この霊魂を神ご自身のように恐れ、この霊魂を、あえて見ることさえしない。実に悪魔は完徳に達した霊魂をひどく恐れるものである。
床が、獅子の穴にかこまれているというわけは、この段階において、すべての徳は相互につながれ、一致し、堅固にせられ、霊魂において、ただ一つの完成された完徳となるように合わせられて、相互に支えあっているからである。それで、悪魔がはいり込むことのできるすき間や、弱い部分がないばかりでなく、世俗のいかなるものも―それが高尚なことであろうと低いことであろうと―この霊魂を不安にすることも、悩ますことも、感動させることさえもできない。それというのも、この霊魂は自然的欲情のわずらわしさから完全に解放され、この世のことのさまざまな思いわずらいを解脱し赤裸となって、安全に静穏に神性への参与を楽しんでいるからである。これこそ、雅歌の花よめが渇望していたことで、彼女はいう「私があなたを、ただひとり外に見出し、あなたに接吻しても、もはやたれも、私をさげすむ者がないよう、あなたを私に与えて、私の母の乳房を吸う兄弟としてくれる者はたれでしょう」(8・1) この接吻というのは、われわれが述べている一致のことで、この一致において霊魂は愛によって神と同等になる。この聖なる接吻をかちえようと望んで霊魂は、その愛人が兄弟であること、すなわち自分と同等な者であるようにしてくれる者はないかという。そして、「私の母の乳房を吸うように」というのは、自分が母エワから受けている自然的不完全さや欲求のすべてを消滅させてほしいとの意である。「ただひとり、かれを外に見出す」とは、意志と欲求とにおいて、すべての被造物をぬぎすてて、すべてから離れて、ただかれにのみ一致することである。そうすればたれも彼女を、さげすむことがない、つまり、世も、肉も、悪魔も、あえて彼女をおそわない。なぜなら霊魂はこれらいっさいのことから自由になり、純潔となり、神に一致しているので、これらの何ものも彼女を悩ますことができないから。それでこの段階において霊魂は、常住的な甘美と静穏とを楽しみ、それは決して失われたり、欠如したりすることがない。
この常住的な楽しみと平安とは別に、ときとして次のようなことが起こる。霊魂の園のなかにある徳の花が突然開いて、ふくいくとした芳香をはなつので、この霊魂は神の愉悦に全くみたされているように思い、かつ、事実そうなのである。私は霊魂内の徳の花が咲くことがあるといった。なぜなら、霊魂がいかに完全な徳でみたされているにせよ、それを常に現行的に楽しんでいるわけではないから。ただ、徳から流れ出る平安と静けさは永続的である。それで、今生にあっては、霊魂の徳は園のなかで、いわば、まだかたいつぼみの状態の花であるといい得る。それらが、聖霊の息吹のもとに、ことごとく開いて種々さまざまの芳しい香をはなつさまは実にすばらしい見ものである。というのも、霊魂は前に述べた山々の花、すなわち、神の富、偉大さ、美しさを自分のうちに見るようになるからで、この山々には”生い茂る静かな谷”のすずらんが織り込まれている。すずらん、それは、いこい、すがすがしさ、安けさである。次に”ふしぎな島々”の香高いばらが、その間にちりばめられているが、それは神についての驚くべき知解である。ときとして、百合の芳香が、霊魂をおそう。それは”水音高く流れる川”で象微される神の御綾威の印象で、霊魂全体をみたす。またほかの時、前にいったように、この段階において霊魂が楽しむヤスミンのデリケートな芳香、または”愛のそよ風のささやき”その間に入り混る。なおまた、前に述べた他のすべての徳や、たまものも同様で、それらは静かな認識、音なき音楽、ひびきわたる孤独、甘味な愛にみちた夕食といわれる。ときとして霊魂はこれらの花のすべてを同時に、えもいわれぬほどに感じ、楽しむので、真実に”私たちの床は花に飾られ、獅子の穴にかこまれています”ということができる。これらの神的花を、この世において時折楽しむに価した霊魂は幸いである。霊魂はまたいう。
緋色の布が張られ
緋色の布は聖書では愛を示す。そして国王たちはこの緋色の布を着用する。霊魂は、花に飾られたこの床は緋色の布で張られているというが、それは霊魂のすべての徳と富と善きものは、天の王の愛といつくしみのうちにのみ支えられ、開花し、楽しまれるからで、愛がなければ 霊魂は、この神的床も、床をかざる花をも楽しむことはできないであろう。それでこれらすべての徳は、霊魂内で神の愛のうちにまきちらされ、そのなかでよく保存されているかのようであり、また愛のうちにひたされているかのようでもある。なぜなら、これらの徳のすべては、またおのおのは常に霊魂に神の愛をそそり、あらゆること、あらゆるわざにのぞんで神の愛を増大すべく愛をもって動くから。これが緋色の布で張られているということである。雅歌はこの真理をあきらかに示し、サロモン王が自分のために造った輿または床はレバノンの木で、その柱は白銀、そのよりかかりは黄金、その階段は緋色のびろうどで造られていたといわれ、かつ、これらのすべては愛を介して整えられたといわれている。雅歌(3・9)神が霊魂の床をおかざりになる徳やたまものは、レバノンの木と白銀の柱で象徴され、その柱は黄金で象徴される愛のよりかかりを支えている。なぜなら前述のように愛のうちにこそ、徳は座を占め保たれているもので、神と霊魂との相互の愛によって、相互に秩序づけられ、かつ、修練されるものであるから。この床は、また
平和で築かれている
今ここに、この床の第四の優秀性があげられるのであるが、それは既述の第三の優秀に従属している。というのは、第三の優秀性は完全な愛であり、完全な愛の特徴は聖ヨハネのいうように、恐怖を追放することで、その結果、霊魂の完全な平和が確立されるからである。そしてそれが、今いったように、この床の第四の優秀性なのである。これを、いっそうよく理解するために心得ておくべきは、おのおのの徳はそれ自身、平安で温和で強いということである。したがって徳を所有している霊魂内に三重の効果すなわち平安、温和、剛毅を生じる。そして、この床は徳の花で飾られ、組立てられており、前述のように、これらの徳の花は、皆、平和で温順で強い。したがって霊魂は平安で築かれ、平和で、温順で、強い。そしてこれら三つの特性は世間からのものであろうと、悪魔からのものであろうと、肉からのものであろうと、いかなる戦いとも相容れない。それで徳のおかげで、霊魂は絶対的な平和と安全とを享有しているので、自分はことごとく平安で築かれたもののように思う。次に、この花に飾られた床の第五の特性を述べるのであるが、それは既述の特質のほかに、さらに、
千の楯をいただいている。
ということである。これらの楯とは霊魂が所有している徳や、たまもののことである。これらの徳が花よめの床の花であることは、すでに述べたが、同時に徳を獲得するために彼女がした努力の冠、報賞でもある。それのみならず、これらの徳の修練によって打ち勝った悪習に対する強力な楯として守備にも用いられる。それゆえ、諸徳と冠、守備を意味する花よめの花の床は、花よめの報賞として諸徳の冠をいただき、楯で守られているように諸徳に守られている。これらの楯が黄金の楯だというのは諸徳の大いなる価値を示すためである。この同じ真理を雅歌の花よめは、別なことばで述べて言う。「ソロモンの床をごらんなさい。イスラエルのもっとも強い勇士六十人がそれをとり囲み、夜間の危難に備えておのおの腰に剣を帯びています」(3・7)。そして霊魂はこの楯が一千だと言っているのは、この段階において神が霊魂に与える徳や、恵みのたまものの数多いことを言うためである。雅歌の花婿は、その花嫁の無数の徳を示すため、同じ言葉を用いていう。「あなたの首は、とりでとともに建てられたダヴィドの塔のようで、その上に千の楯がかかっている。みな勇士の武器である。」(4・4)
次の歌についての注
1、完徳のこの度合に達した霊魂は、神の御子である自分の愛人の優秀性を称揚し、賛美し、かれから受ける恵みや、かれにおいて味わう愉悦を謳歌し、感謝するだけでは満足せず、なお、かれが他の霊魂になさる恵みのわざをも告げている。なぜなら、この霊魂はこの幸いな愛の一致において、みずから、それを体験しているから。それで、花むこが他の霊魂に与える恵みについて賛美と感謝をささげながら次の句をいう。