第24の歌

花に飾られた、私たちの床は
獅子の岩穴に、かこまれています
緋色の布が張られ
平安で築かれ 

千の黄金の楯をいただいています。 

解  説

花に飾られた私たちの床

今いったとおりこの霊魂の床は神の御子なる花むこのことであってそれは霊魂にとって花に飾られている。なぜなら、霊魂は花よめとしてすでに、かれに一致しかれのうちにいこい、愛する御者はその心と愛とを彼女に与える。ことばをかえていえば、神の上知と神秘と恵みと徳とたまものとが彼女に与えられるからで、彼女はこの上なく美しくせられ富まされ、愉悦にみたされる。それがため彼女は自分が香り高いさまざまの神的な花の床に、いこっているように思われその接触は、こころよく、その芳香は酔わすようである。それで、霊魂が、神とのこの愛の一致をさして、花に飾られた床と呼ぶのはきわめて適切である。雅歌の花よめは、花むこに語りかけて同様にいう。「われらの床は花にみちている」(1・15)と。彼女は「われらの」と呼ぶ。なぜなら愛する御者の徳と愛とは今はふたりにとって共通であるから。また格言の書のなかで霊魂が「私の楽しみは人の子らとともにあることである」(8・31)とおおせられているとおり、楽しみもまたふたりにとって共通である。この床が花で飾られているというもう一つの理由があるそれは霊魂の徳はこの状態においてすでに完全で英雄的であるがそれは、この床が、神との完全な一致によって花咲くまではありえないことである。それでただちに、この徳の完成のことを次の句で歌っていう。

獅子の岩穴にかこまれています

獅子の穴というのは神との一致の、この段階において、霊魂が所有している徳のことで ある。その理由はこうである。獅子の穴はのすべての物に対して非常に安全できわめてよく守られている。なぜなら、他の物は、そのなかにいる獅子の力や勇猛さを恐れて、そこにはいって来ないばかりか、その近くにとどまることさえしない。このように、一つ一つの徳は、霊魂がそれらを完成した状態で所有しているとき、この霊魂にとって、獅子の穴のようなものである。そこに強い獅子のように花むこなるキリストが住み、この剛毅の徳をはじめ、他のすべての徳を介して、この魂と一致していられる。そして、これらの徳によってキリストに一致している霊魂も、また自身強い獅子のようである。なぜなら、この霊魂は神の特性を受けるから。それで、神との一致という花の床にいこっている霊魂は、その徳のおのおの、および、すべての徳の結集によってきわめてよく守られ、強くなっているので。悪魔たちはこのような霊魂を襲撃しようとしないばかりでなく、その面前に現われることさえはばかる。かれらはこの霊魂が愛人の床において完全な徳によって、これほど偉大なもの、勇敢なもの、勇猛なものにせられているのを見て非常に恐れるのである。事実、霊魂が変化的一致によって、神に一致しているとき、魔はこの霊魂を神ご自身のように恐れ、この霊魂を、あえて見ることさえしない。実に悪魔は完徳にした霊魂をひどく恐れるものである。

床が、獅子の穴にかこれているというわけは、この段階において、すべての徳は相互につながれ、一致し、堅固にせられ、霊魂において、ただ一つの完成された完徳となるようにわせられて、相互に支えあっているからであるそれで、悪魔がはいり込むことのできるすき間や、弱い部分がないばかりでなく、世俗のいかなるものもそれが高尚なことであろうと低いことであろうとこの霊魂を不安にすることも悩ますことも、感させることさえもできないそれというのも、この魂は自然的欲情のわずらわしさから完全に解放されこののことのさまざまな思いわずらいを解脱し赤裸となって安全に静穏に神性への参与を楽しんでいるからであるこれこそ、雅歌の花よめが渇望していたことで、彼女はいう「私があなたを、ただひとり外に見出し、あなたに接吻してももはやたれも私をさげすむ者がないよう、あなたを私に与えて、私の母の乳房を吸う兄弟としてくれる者はたれでしょう」(8・1) この接吻というのはわれわれが述べている一致のことで、この一致において霊魂は愛によって神と同等になるこの聖なる接吻をかちえようと望んで霊魂は、その愛人が兄弟であることすなわち自分と同等な者であるようにしてくれる者はないかというそして「私の母の乳房を吸うように」というのは、自分が母エワから受けている自然的不完全さや欲求のすべてを消滅させてほしいとのである「ただひとりかれを外に見出す」とは意志と欲求とにおいて、すべての被造物をぬぎすてて、すべてから離れて、ただかれにのみ一致することであるそうすればたれも彼女を、さげすむことがない、つまり、世も、肉も悪魔もあえて彼女をおそわないなぜなら霊魂はこれらいっさいのことから自由になり、純潔となり神に一致しているのでこれらの何ものも彼女を悩ますことができないからそれでこの段階において霊魂は、常住的な甘美と静穏とを楽しみ、それは決して失われたり、欠如したりすることがない

の常住的な楽しみと平安とは別に、ときとして次のようなことが起こる。霊魂の園のなかにある徳の花が突然開いて、ふくいくとした芳香をはなつので、この霊魂は神の愉悦にくみたされているように思い、かつ、事実そうなのである。私は魂内の徳の花が咲くことがあるといった。なぜなら、霊魂がいかに完全な徳でみたされているにせよ、それを常に現行的に楽しんでいるわけではないから。ただ、徳から流れ出る平安と静けさは永続的である。それで、今生にあっては、霊魂の徳は園のなかで、いわば、まだかたいつぼみの状態の花であるといい得る。それらが聖霊の息吹のもとに、ことごとく開いて種々さまざまの芳しい香をはなつさまは実にすばらしい見ものである。というのも、霊魂は前に述べた山々の花、すなわち、神の富、偉大さ、美しさを自分のうちに見るようになるからでこの山々には生い茂る静かな谷のすずらんが織り込まれている。すずらん、それは、いこい、すがすがしさ安けさである。次にふしぎな々”香高いばらがそのにちりばめられているが、それは神についての驚くべき知解である。ときとして、百合の芳香が、魂をおそう。それは水音高く流れる川で象微される神の御綾威の印象で霊魂全をみたす。またほかの時、前にいったように、この段階において霊魂が楽しむヤスミンのデリケートな芳香、または愛のそよ風のささやき”その間に入り混る。なおまた前に述べた他のすべての徳や、たまものも同様でそれらは静かな認識音なき音楽ひびきわたる孤独、甘味な愛にみちた夕食といわれる。ときとして霊魂はこれらの花のすべてを同時に、えもいわれぬほどに感じ楽しむので、実に私たちの床は花に飾られ、獅子の穴にかこまれています”ということができる。これらの神的花を、この世において時折楽しむに価した霊魂は幸いである。霊魂はまたいう。

緋色の布が張られ

緋色の布は聖書では愛を示す。そして国王たちはこの緋色の布を用する。霊魂は、花に飾られたこの床は緋色の布で張られているというがそれは霊魂のすべての徳と富と善きもの天の王の愛といつくしみのうちにのみ支えられ、開花し楽しまれるからで、愛がなければ 魂はこの神的床も床をかざる花をも楽しむことはできないであろうそれでこれらすべての徳は霊魂内で神の愛のうちにまきちらされ、そのなかでよく保存されているかのようであり、また愛のうちにひたされているかのようでもあるなぜなら、これらの徳のすべてはまたおのおのは常に霊魂に神の愛をそそり、あらゆること、あらゆるわざにのぞんで神の愛を増大すべく愛をもってくからこれが緋色の布で張られているということである雅歌はこの真理をあきらかに示し、サロモ王が自分のために造った輿または床はレバノンの木でその柱は白銀そのよりかかりは黄金、その階段は緋色のびろうどで造られていたといわれかつこれらのすべては愛を介して整えられたといわれている雅歌(3・9)神が霊魂の床をおかざりになる徳やたまものは、レバノンの木と白銀の柱で象徴され、その柱は黄金で象徴される愛のよりかかりを支えているなぜなら前述のように愛のうちにこそ徳は座を占め保たれているもので神と霊魂との相互の愛によって相互に秩序づけられ、かつ、修練されるものであるからこの床はまた

平和で築かれている

今ここに、この床の第四の優秀があげられるのであるが、それは既述の第三の優秀に従している。というのは、第三の優秀性は完全な愛であり、完全な愛の特徴は聖ヨネのいうように、恐怖を追放することで、その結果、霊魂の完全な平和が確立されるからである。そしてそれが今いったようにこの床の第四の優秀性なのである。これを、いっそうよく理解するために心得ておくべきは、おのおのの徳はそれ身、平安で温和で強いということである。したがって徳を所有している霊魂内に三重の効果すなわち平安、温和、剛毅を生じる。そして、この床は徳の花で飾られ、組立てられており、前述のように、これらの徳の花は皆、平和で温順で強い。したがって霊魂は平安で築かれ、平和で、温順で、強い。そしてこれら三つの特性は間からのものであろうと、魔からのものであろうと、肉からのものであろうといかなる戦いとも相容れない。それで徳のおかげで、霊魂は絶対的な平和と安とを享有しているので、自分はことごとく平安で築かれたもののように思う。次にこの花に飾られた床の第五の特性を述べるのであるが、それは既述の特質のほかにさらに

千の楯をいただいている。

ということである。これらの楯とは魂が所している徳や、たまもののことである。これらの徳が花よめの床の花であることは、すでに述べたが同時に徳を獲得するために彼女がした努力の冠、報賞でもある。それのみならずこれらの徳の修練によって打ち勝った習に対する強力な楯として守備にもいられる。それゆえ、徳と冠、守備を味する花よめの花の床は、花よめの報として徳の冠をいただき、楯で守られているように徳に守られている。これらの楯が黄金のだというのは諸徳の大いなる価値を示すためである。この同じ真理歌の花よめは別なことばで述べて言う。「ソロモンの床をごらんなさい。イスラエルのもっとも強い勇士六十人がそれをとり囲み、夜間の危難に備えておのおの腰に剣を帯びています」(3・7)。そして霊魂はこの楯が一千だと言っているのは、この段階において神が霊魂に与える徳や、恵みのたまものの数多いことを言うためである。雅歌の花婿は、その花嫁の無数の徳を示すため、同じ言葉を用いていう。「あなたの首はとりでとともに建てられたダヴドの塔のようで、その上に千の楯がかかっている。みな勇士の武器である。」(4・4)

次の歌についての注

1、完徳のこの度合に達した霊魂は、神の御子である自分の愛人の優秀性を称揚し、賛美し、かれから受ける恵みや、かれにおいて味わう愉悦を謳歌し、感謝するだけでは満足せず、なお、かれが他の霊魂になさる恵みのわざをも告げている。なぜならこの霊魂はこの幸いな愛の一致においてみずから、それを験しているから。それで、花むこが他の霊魂に与える恵みについて賛美と感謝をささげながら次の句をいう。