花よめははいった
憧れの楽しい園のなかに。
そして心のままにいこつている
愛する者のやさしい腕に
うなじかたむけて
解説
2 花よめは狐どもが狩りとられ、北風が去り、女精たちが静められるため、つまり霊的婚姻を完全に楽しむことを妨げるすべての障害がとり除かれるよう、すでにけんめいに努力した。そして前掲の歌のうちに見られるように、聖霊の風を呼び、かつこれをかちえた。これは、このような段階の完成に独特の準備であり、方法である。そこで今、この歌においては、霊的婚姻そのものを諭じることが残されている。この歌において天の花むこは、霊魂をすでに花よめと呼びつつ語っている。そして二つのことを知らせる。一つは、この霊魂が敵に打ち勝ったのち、ふたりが互いにあれほど渇望していた霊的婚姻の楽しい段階にどのようにして到達したかをいうことである。次には、霊魂がすでに楽しむようになったこの段階の特質、たとえば霊魂は愛する者のやさしい腕にうなじをかたむけて、心ゆくまでいこっているというようなことを語ることである。これから、それについて説明しよう。
花よめははいった。
3 これらの歌の順序をいっそう明らかに示し、神の恵みのもとに、今述べようとするもっとも高い霊的段階である霊的婚姻の状態に到達するまで、通常、霊魂が通る道程を了解するため、次のことに注意してほしい。すなわち、霊魂はこの状態に達する以前、抑制の労苦と苦さとのうちに、また、霊的事物の黙想のうちに、よく修練をつんだということである。これは、はじめに霊魂が第一の歌から、”百千の美をまきちらしながら”という歌までのところで示したことである。次に霊魂は観想的な道にはいり愛の狭い道を通過する。このことを、上の歌につづく歌から、霊的婚約が行なわれた”あなたの目をそらせてください”で始まる歌までの間で述べている。その後、霊魂は一致の道にはいり、そこでかずかずの崇高な交わり、おとずれ、許婚女(いいなづけ)が受けるような、花むこの贈り物や宝石を受ける。そして霊魂は花むこの愛をますます悟り、かつ愛において完成されつつゆく。それを、婚約の成立を意味する今のべた歌、すなわち、”愛する者よ、あなたの目をそらせてください”で始まる歌から、これから説明しようとする”花よめははいった…″の歌までのところで語ったのである。さて、今や残ることは、この霊魂と神の御子との間に霊的婚姻が行なわれることである。婚姻の状態は、婚約の状態に比軟にならぬほどまさっている。それは、愛人への完全な変化であり、両者は相互に完全に所有し合うことにより、相互に自己を渡し合い、この地上で可能なかぎり霊魂を神的なものとし、参与によって神となす愛の一致のある種の完成をもたらすから。それゆえ、私の考えでは、この状態は、霊魂が恵みにかためられるという恩寵がないかぎり、決して成立しないと思われる。なぜなら、この恩寵によって、神の忠実さは霊魂のうちに確認されるので、双方の忠実さは確固不動となるから。それがため、この状態は、今生において達しえられるかぎりの最高のもの゛である。肉体的婚姻の完了にあたって、聖書のいうとおり、ふたりは一体となるように(創世記2・24)神と霊魂との間の霊的婚姻も、それがひとたび完了されると、二つの性は同一の霊、同一の愛のうちにとけ合う。これはまさに聖パウロが、同じ比喩を用いて宣言しているところである。すなわち、「主に一致する者は、これと一つの霊となる」(コリント前6・17)と。これはまた、星またはろうそくの光が太陽の光に合わされると、星もろうそくも光を失い、他のすべての光を吸収する太陽の光しか残らないのと同様である。花むこはこの句のなかで、この感嘆すべき段階について語って、”花よめははいった……”といっているが、それは、花よめがすべてこの世のもの、自然的なもの、またすべての愛情、霊的様式や方法を捨て去り、すべての誘惑、混乱、悩み、心づかい、憂慮を忘却し、かくも崇高な抱擁によって変化させられたことを意味する。そこで次の句がつづく。
憧れの楽しい園のなかに
4 この意味は、霊魂は神に変化した。霊魂は、神のうちに見出す楽しく、こころよいいこいのゆえに、ここでは、神を楽しい園と呼んでいる。この完全な変化の園(それは婚姻の喜び、楽しみ、光栄である)にはいるのは、まずさきに、霊的婚約がむすばれ、婚約者相互間の誠実な愛の実行を経たのちでなければならない。この忠実なやさしい愛によって、しばらくの間、神の御子のふさわしい許婚者であることを示したのち、はじめて霊魂は神に呼ばれ、神はご自分との婚姻という、このもっとも幸福な状態を完成するために、ご自分の花咲く園に霊魂をお入れになる。そこにおいて、この二つの性の間に、筆舌につくされぬ緊密な一致が結ばれ、神性と人性との間に、えもいわれぬ交流がおこなわれるため、神性も人性も、その本質を変えることなく、しかもおのおの神であるように見える。この一致は、今生においては完全なものではありえないとはいえ、それは、人がいい得る。また考え得るいっさいに越えるものである.
5 これは、すでに花よめとされた霊魂をこの段階に招いて、雅歌のなかで花むこが、きわめで明らかに述べていることである.すなわち、「来れ、私の園にはいれ、私の妹、花よめよ、私は、没薬と香料とを刈り集めた」(5・1)と。花むこは、霊魂を、妹、花よめと呼ぶ。なぜなら、霊的婚姻に招かれる以前に、霊魂は、愛と自分を渡すことによって、すでに妹、花よめであったから。さて花むこは、香よき没薬と香料とを、すでに刈り集めたという。没薬とか香料とかは、霊魂のために準備された、すでに熟した徳の花の実のことで、それは、この段階において花むこが霊魂に交流させるご自分の完徳と愉悦にほかならない。それゆえ、花むこは、霊魂にとって瞳れの楽しい園なのである。霊魂のすべてのわざにおいて、神と霊魂とが望み、目ざす目的のすべては、この神的婚姻が成就し、完成されることである。それゆえ霊魂は、そこに達するまではいこいを知らない。なぜなら、そこでは、霊的婚約におけるより、はるかにまさる神の豊饒性と充満、いっそう安全で安定した平和、より完全なこころよさを見出すはずであるから。霊魂は、あたかもこのすばらしい花むこの腕に、もういだかれているようである。それで、通常、霊的に強く抱きしめられているように感じているが、それは真実に抱擁の名に価することで、この抱擁を通じて、神ご自身の生命に生きる。実にこの霊魂において、「生きているのは、もはや私ではなく、イエズス・キリストこそ私のうちに生きていられる」(ガラチア2・20)との聖パウロのことばが実現したからである。それで、霊魂はここで神の生命という、かくも幸福な光栄ある生命を生きているのだから、各人は、もしできるなら.この霊魂の生きている生命がどれほどうましいものか考えてみるがよい。神は、いかなる不快も感じることができないのと同様、この霊魂もそれを感じない。かえって、霊魂は、神に変化されたおのが実体において、神の光栄の愉悦を感じ、楽しんでいる。それがため、次の句をいう。
そして、心のままにいこっている
うなじを傾けて……
6 うなじは、ここで霊魂の力、すなわち、前述のとおり、霊魂と花むことの結合一致のために役立った、かの力を意味するのである。霊魂が非常に強くなければ、これほどかたい抱擁に耐えられないであろう。またこの力によってこそ、霊魂は労苦し、徳を実行し、悪習に打ち勝った。労苦し、勝利をえたこの力においていこうのは正しい。それで霊魂は、うなじを傾けていう。
愛する者のやさしい腕に
7 神の腕にうなじを傾けるとは、自分の力を、というよりはむしろ、自分の弱さを神の力に合わせたことである。神の腕とは、神の力を意味するから。われらの弱さをこの力にもたせかけ、これに変化させられると、それは神ご自身の力をもつようになる。それで、霊的婚姻の状態を、「愛する者の腕に花よめのうなじを傾ける」ということで示すのは、きわめて正しい。神は霊魂の力であり、また甘味である。神において霊魂は、あらゆる悪から守られ、保護され、あらゆる善に酔わされる。そのため雅歌の花よめは、この幸いな状態に憧れて。花むこに向かっていった。「私があなたをただひとり外に見出し、あなたに接吻しても、もはやたれも私をさげすむことがないように、あなたを私に与えて、私の母の乳房を吸う兄弟としてくれる者はたれであろう?」(8・1)神を兄弟と呼ぶことによって、霊的婚姻に達する以前に、愛の婚約において、ふたりの間に存する同等性を暗示している。私の母の乳房を吸うということは、私のうちにある欲求や情欲を枯渇させ、消失させることを意味する。欲求や情欲は、肉体におけるわれらの母エワの乳房であり、乳であって、それは霊的婚姻の障害となる。このことがひとたびしとげられたあかつき、私はあなたをただひとり外に見出す。これは、上記の欲求を消滅させることによってえられる霊の孤独と赤裸とのうちに、すべてのものとまた私自身の外にあって、あなたを見出すとの意味である。そこでひとりになった私が、あなたひとりに接吻するというのは、私の本性は現世的、自然的、また精神的すべての汚れから解放され、孤独となって、ただあなたひとりに、いかなる媒介もなしに、あなたの神的本性に一致することである。ところでこれは、ただ霊的婚姻においてのみ可能である。霊的婚姻は、霊魂が神になす接吻である。そのため、そののちには、たれも霊魂をあえてさげすまないのである。事実、この段階において、霊魂はもはや悪魔からも、肉からも、世間からも、また自分自身の欲求からも悩まされない。それは、雅歌のなかにまたいわれていることの実現である。「冬は去り、雨はやみ、われらの地に花があらわれた。」(2・2)
次の歌についての注
1、霊的婚姻の崇高な状態において、天の花むこは、ご自分の忠実な伴侶である霊魂に、ご自分のくすしい秘密を、きわめてたやすく、またひんぱんに示す。なぜなら、真の完全な愛は、自分の愛する者に何も隠しておくことができないものであるから。天の花むこは特に、ご托身に関する甘美な奥義や、人類救済のためにとりたもうた方法や様式を示すが、これこそ、神のみわざのうちでも、もっとも崇高で、かつ霊魂にとってもっとも甘美なものである。それで、霊魂に他の多くの奥義を示すとはいえ、次の歌のなかで花むこは、すべての奥義のなかでもっとも重要なものとして、ただご託身の奥義のみをあげている。さて、かれは花よめとと共に語りつついう。