軽やかな鳥よ
獅子よ、鹿よ、はねる野鹿よ
山よ、谷よ、岸よ、
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
調べも美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
お前たちの怒りをとどめよ。
壁に触れてはならない。
花嫁が、もっと安らかに眠れるように。
解 説
4 この二つの歌において神の御子なる花むこは、花よめなる霊魂の下部を上部に適合させ、彼女をそのすべての不完全さから浄め、その自然的な諸能力と理知とを秩序づけ、そのすべての欲求を静め、もって、彼女に完全な平和と静けさとを享有させる。これが上記の二つの歌のなかに含まれていることで.その意味は次のとおりである。まず最初に花むこは、想像力のむなしいさまよいに向かって、今後は、それをやめるようにと願い、かつ命じる。また以前にこの霊魂を悩ましていた二つの自然的能力、すなわち、憤怒と欲望とを秩序づける。さらにかれは霊魂の三つの能力、記憶、知性、意志を、この地上で可能なかぎり、それぞれに固有の完全な対象へと導く。また、かれは霊魂の四つの情、喜悦、希望、悲哀、恐怖に向かって、今後はもっと静かになり、秩序を保っているようにと願い、かつ命じる。以上のことは、みな、この最初の歌のなかにあげられるいろいろの名称によって示されているが、霊魂をわずらわせるこれらの働きや動きを、花むこは、このとき、神が霊魂と交わり、これにご自身を渡されるにあたって、霊魂に享有せしめる甘味、愉悦、力を介しておやめさせになる。この交わりにおいて、神は霊魂を生き生きとあざやかにご自身に変化させられるので、霊魂のすべての能力、欲求、動きはその性来の不完全さを失って神的なものに変化する。
軽やかな鳥よ
5 軽やかな鳥とは想像のさまよいをいう。事実、想像は非常に軽やかに敏活に、あちらこちらを飛びあるく。意志が、愛人との甘味な交わりの静けさのうちに楽しんでいるとき、想像は間断なく敏活に飛び廻つて、霊魂の楽しみを味気ないものにし、消し去つてしまうのが常である。そこで花むこは調べよい七絃琴……等々でかれらに懇願する。すなわち、今後、霊魂はあまりにも豊かな、そして、ひんぱんな愉悦にみたされるので、このように高い度合に達する以前のように、想像のさまよいは、もはや彼女を乱すことができないであろう。だからこの不安な激しい、度はずれな飛びあるきはもうやむべきである。このことは、これから説明される他の能力についても同様である。
獅子よ、鹿よ、とびはねる野鹿よ
6 獅子というのは憤怒のにがにがしさと激しさとを意味する。なぜなら、この能力は、その行為が大胆で、無謀なこと獅子のようであるから。鹿とはねる野鹿とは欲望という霊魂の能力を意味する。これは何かをほしがる能力であって、二つの結果を有する。その一つは臆病、他の一つは大胆である。臆病という結果が生じるのは、ことが自分の望むようにはこばない場合で、そのとき、この能力は消極的となり、萎縮し、おじけてしまう。それはちょうど鹿のようである。鹿は欲という能力が他の動物よりも強いため、こういう場合、すっかりおじ気がついて、ひどくおどおどする。大胆という結果は、自分にとって都合のよいものを発見したとき生じる。そのとき、こわがったり、おじけたりすることをやめ、その望みと愛好のいきおいにまかせて、これらをどうしても自分のものにしようとする。この能力が愛好の力にもち去られてゆくさまは、ちょうど野鹿に比することができる。なぜならこの動物は、自分に気に入るものを、あまりにも激しくほしがり、そこに向かって走るというより、むしろはねてゆくからで、そのため”はねる野鹿”と呼ぶのである。
7 そこで獅子に切願することにより、花むこは、怒りの度外れた激情に手綱をつけ、鹿に切願することにより、恐れおじ気のためにそれまで萎縮していた欲望を強め、はねる野鹿に切願することにより、欲望をみたそうとして野鹿のようにあちらこちらはねまわる望みや欲求を静める。ところで欲望は七絃琴のこころよい調べを楽しみ、人魚のあまい歌声に静められて、すでにみたされているのである。そして注意すべきは、ここで、花むこは憤怒や欲望自身に切願しているのではないことである。なぜなら、これらの能力は霊魂に欠けているわけにはゆかないから。それで、ただ、これらの能力からくるやっかいな無秩序な行為、獅子、鹿、はねる野鹿で象徴されている行為に向かって切願している。事実、こうしたものは霊的婚姻の状態において、必然的に消滅するはずである。
山よ、谷よ、岸よ、
8 これらの名称は、霊魂の三能力、記億、知性、意志の不正、不秩序な行為を指示する。これらの行為は、あるいは極端に高いか、あるいは極端に低く、なおざりであるか、あるいは、それほど極端なものでないまでも、この両極端のいずれかに傾いているかするとき、不秩序、不正なのである。さて、非常に高いものである山は、ひどく不秩序な極端な行為を象徴する。非常に低いものである谷はこの三能力の行為のうち、適当な度合よりも、はるかに低い無秩序な行為を象徴する。岸は高すぎもせず、低すぎもせず、そうかといって、平でもなく、高さと低さの両極端にあずかっているので、過度、または不足のため、中庸と正しさを欠いた行為を象徴する。これらの行為は極度に不秩序ではない、つまり大罪までにはゆかないが、いくぶん秩序を欠いている。なぜなら、小罪を構成することが可能であり、あるいは少なくとも知性、記憶、意志においで、ごく些細なものであるとはいえ、ある不完全を構成するから。花むこはしらべよき七絃琴と前記の歌とにより、正しさからそれたこれらの行為すべてに、停止するよう切願する。この神的メロディーは霊魂の三能力を、きわめて完全な均勢のうちにおくので、それらは、完全な中庸を保つ行為をなし、極端なことをしないばかりか、そのようなことに、いくぶんなりとも傾くことすらしない。
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
9 上の四つの名称は、霊魂の四つの情、すなわち、前記のとおり、悲哀、希望、喜悦、および恐怖の特性と解すべきである。水は霊魂を悲しめる悲哀の情を意味する。それはちょうど水のように霊魂内にはいって来るから。ダヴィドはこれについて神に語っていう「私の神よ、私を救い給え。水は私の魂のなかにまではいって来たから」(詩篇68・2)と。風とは希望の情を意味する。希望の情は、自分に欠けているよいものを望んで風のように飛んでゆくから。それでダヴィドはまたいう「私は希望の口を開いた、そして私は望みの風を引きよせた。なぜなら私は、あなたの掟を憧れ望んだから」(詩篇118・131)と。熱は火のように心を燃やす喜悦の情を意味する。これについても同じダヴィドはいう。「私の心は、私の内部で熱くなった。そして黙想する間に火が燃えあがった」(詩篇33・4)と。これは「黙想する間に喜悦が燃えあがった」というに等しい。眠りを奪う夜の恐怖とは、第四の情、すなわち恐怖の情を意味する。これらの恐怖は、今述べつつある霊的婚姻の段階にまだ達していない霊的な人々においてたびたび、きわめて激しい。ときとして、その原因は神ご自身であって、神が何か特別な恵みをかれらに与えようとせられるときにおこる。そのとき、かれらはその精神に恐怖、驚愕をおぼえ、肉体や感覚は萎縮する。なぜなら、かれらの天性はまだ強められ、完成されていず、この種の恵みを受けることに慣れていないからである。他の場合これらの恐怖は悪魔から来る。悪魔は神が霊魂にこころよい潜心をお与えになるとき、この霊魂が楽しむ平和と幸福とを見て大きな羨望にさいなまれている。ときとして霊魂の霊を脅迫する。悪魔は、この霊魂が深く潜心し、神と一致しているために、その内部にはいってゆくことが不可能なのを見るや、少なくとも外部からこれを悩ませようとし、その感覚的部分に、放心、移り気、窮迫を、また感覚に苦痛や恐怖を、ひきおこし、このようなことを介して、花よめを不安にし、できれば婚姻の部屋から彼女を引き出そうとする。これらの恐怖は”夜の恐怖”と呼ばれる。なぜなら、悪魔から来るものであって、悪魔は霊魂内にやみをひろげ、霊魂が楽しんでいる神的光を暗くするために、これらを用いるから。また”眠りを奪う夜の恐怖”といわれる。なぜなら霊魂を内的な甘味な眠りから覚まさせるから。またこれらの恐怖の原因である悪魔は、これらを生ぜしめるために、いつも目覚めて機をうかがっているから。これらの恐怖は、神からのものにせよ、悪魔からのものにせよ、いずれも、すでに霊的な生活をおくる人々の精神に受動的に注がれる。私はここで、他の自然的恐怖については何もいわない。このような恐怖をいだくことは霊的な人々には関しないことだから。しかし、私が先に述べた霊的な恐怖は霊的な人々に特有なものである。
10 このように、愛人は霊魂の四つの情から生れる四様の激情に懇願し、かれらを鎮め停止させる。この霊的段階にあって、愛人は、しらべよき七絃琴の愉悦と、人魚の歌の甘美によって、その花よめを酔わし、これによって彼女に、あまりにも豊かな力と満足とを伝達するので、これらの情は、もはや花よめを支配することなく、またなんらかの様式で彼女を不快にさせることさえない。またこの段階における霊魂の崇高さと安定性とは、きわめてすぐれたものであるため、以前には、なんらかの悲哀の水が霊魂にまで達していたとしても、今はもうそのようなことはない。たとえそれが霊的な人々が、もっともよく感じるのを常とする自他の罪から来る悲しみであるにしても、この霊魂はそれらの罪を、よくわきまえてはいるが、もうそれについて悲しみも、感動もおぼえない。また同情というものは霊魂の感動であるが、こういう霊魂は同情のわざや完全さを有していながらも、悲しみの情はもうおぼえない。なぜなら、これらの霊魂は、以前にはその徳のうちに、人間の弱さから来るものをもっていたが、今は、ただ強いもの、変らないもの、完全なものだけをそこに保留しているから、天使たちは、悲しみに価するものを完全にわきまえているが、悲しみの情はおぼえない。かれらは憐れみのわざは行なうが、同情の悲しみは感じない。このような愛の変化に達した霊魂も同様である。とはいえ、このような霊魂が、ものごとを強く感じてそれを苦しむことを神がお許しになる場合もあることは事実である。それは、功徳をつむ機会を与えるためとか、愛を活気づけるためとか、またそのほかの理由による。神は聖母や、聖パウロや、その他の聖人がたにも、このようにふるまわれた。しかし、われらが語っている状態はそれ自身としては、この悲しみを許さない。
11 この霊魂はまた期待の熱情によっても苦しむことがない。この世で能うかぎり、神との一致によって、そのすべての望みはすでにみたされているから。彼女はこの世のものにはなんの期待もかけず、霊的なものも何も望まない。自分は神のあらゆる富でみたされているのを見、かつ、感じているのだから。それで、生と死に関しても神の意志とまったく適合一致している。その感覚的部分によっても、霊的部分によっても、彼女はただ「聖旨が行なわれるように」といい、そこには他の欲望や欲求の激情が少しもない。このようにして、神を見たいというその望みには苦しみが伴わない。喜悦の情も以前には多少の感動を引き起こしたものだが。今では喜悦が欠けても気がつかないし、それが豊富にあっても、べつに驚かない。その理由はこうである。この霊魂が通常楽しんでいる喜悦はあまりにも完全なものであるためで、ちょうど河川が流れ込んでも、べつに水量が増すこともなく、河川が流れ出しても減らない海のようである。というのもこの霊魂は、キリストがヨハネ福音書中「永遠の命に至る水がわき出る」(4・14)とおおせられた。かの泉となったからである。
12 このような霊魂は、この変化の段階において、新しいものは何も受けないと私がいったので、この霊魂には偶有的喜悦は欠如していると思われるかもしれない。ところで、光栄の状態にはいった霊魂たちのためにも偶有的喜悦は存在するのである。事実、偶有的喜悦とか甘味とかが、この霊魂に欠けているどころか、かえって、それらを数えきれないほど所有している。しかし、そのために霊の本体的交わりが少しも増加することがない。なぜなら、この霊魂に新しく到来するすべてのものは、この霊魂がすでにもっていたものであるから。したがってこの霊魂がみずからのうちにもっているものは新しく到来するものより偉大である。それで喜びや快感のもととなるものがこの霊魂に提供されるたびごと、それらが外的なものであろうと、霊的な精神的なものであろうと、この霊魂は、ただちに、自分自身のうちにすでに所有している富を楽しむためにそのほうに向かう。そして新らしく来たものにおけるよりもずっとすぐれた喜び、楽しみをそのなかで味わう。というのも、この霊魂はこの点について神と同じ特性をいくぶんもっているからである。神はすべてのもののうちに楽しむが、それはご自身のうちに見出す楽しみには比べものにならない。なぜなら神はすべての善にまさる最高の善をご自分のうちに所有していられるから。それで、この霊魂に新しく提供されるすべての喜びや満足は、それらのうちにとどまるよりも、むしろ彼女が、自分のうちに所有し、感じている幸福のうちに楽しむようにとの招きの役割をはたすのである。それは、前述のとおり、この本質的幸福こそ、他のすべての喜びや楽しみにまさるものであるから。
13 それに、何かが霊魂に喜びや満足を与えるとき、もしもこの霊魂が、他により高く評価しているもの、そして、より多くの楽しみをもたらすものをもっているならば、ただちにこのよりすぐれたものを思い出し、そのうちで楽しむのは当然である。それで、これらの偶有的な喜びは、霊的なものであっても、また、それが霊魂に新たにもたらすものが、なんであろうとも、霊魂がすでに所有している本質的喜びに比すれば、あまりにもわずかなことなので、この霊魂にとって、何ものでもないといい得るほどである。事実、霊魂が、ひとたび、すっかり成長しきったこの完全な変化の状態に達すると、まだ、そこまで達していない他の霊魂のように、これらの新しい霊的恵みによって成長するのではない。ところが、驚くべきことには、もはや新しい楽しみを受けないこの霊魂は、常に新しいものを受けるように感じる。その理由は霊魂が楽しんでいる善は常に新しいので、それを常に新しく味わっているためである。それでこの霊魂は新たに受けるまでもなく、常に新しい喜びを受けているように思われる。
14 さて、霊魂が、絶えず楽しんでいる神の抱擁が、ときとして霊魂内に生じる光栄の照明について語ろうとすると、それをいくらかでも、わからせるようなことは何もいいえないことを感じる。この照明とは神が霊魂のほうにお向きになること、とでもいおうか、それによって神は、霊魂内におおきになった富と愉悦の深淵を霊魂に見せ、かつ、楽しませてくださるのである。それは、あたかも、太陽が、大海を、さんさんと照りつけて深底のくぼみや洞穴までも照らし出すのにも似ている。そのとき、真珠とか、黄金やその他の貴金属のきわめて豊富な鉱脈が、あらわにされる。同様、霊魂の花むこなる神的太陽も、その花よめのほうに向き、彼女がもっている宝を明るみに出されるので、天使たちさえ感嘆のあまり、雅歌にしるされているように叫んでいう。「さしのぼる、あけぼののように立ち現われ、月のように美しく、口のようにきらめき、陣立を整えた軍勢のように畏るべき者はたれか?」(6・9)と。この照明は、いかにすぐれたものであるとしても、それは霊魂の富に何も加えるのではない。それはただ、霊魂がすでに所有していものを明るみに出して、それを楽しませるまでのことである。
15 最後に、”眠りを奪う夜の恐怖”は、もはや、この霊魂のところまで達しえない。彼女はあまりにも照らされ、強められ、神のうちに安全にいこっているので、悪魔はもう、そのやみをもって、この霊魂を暗くし、その恐怖で恐れさせ、その攻撃をもって彼女を揺るがすことはできない。もう何ものも、彼女に触れることはできず。彼女を悩ますこともない。なぜなら、彼女は、造られたいっさいのものから解放されて神のうちに深くはいり、この地上の条件、状態が許すかぎり完全な平安を享有し、純粋な風味を味わい、まったき愉悦を楽しんでいるのであるから。それで、この霊魂には賢者の次の句があてはめられる。「心が安らかなのは絶え間ない饗宴のようだ」(格言の書15・15)饗宴において人は、あらゆる料理の風味と、あらゆる楽の音のこころよさを味わう。同様、花むこの胸のうちに有する饗宴において、霊魂はあらゆる愉悦を楽しみ、あらゆる風味を味わう。そして、われわれがすでにいったこと、またすべてことばで表わし得ることは、霊魂がこの幸いな状態において実際に体験することに比して、あまりにもわずかなことである。なぜなら、教会がいっているように、すべての感覚に越える神の平安のうちにはいるようになれば、すべての感覚はそれをいい表わすために力及ばず、ただ黙しているのみである。さて第二の節を見よう。
調も美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
16 調も美しい七絃琴とは、この段階において花むこが御みずから、霊魂内に注ぎ入れるこころよさを意味することはすでに説明した。これによって、花むこは前述の霊魂の悩みをことごとく停止させるのである。七絃琴の調がきく者をここちよい楽しみでみたし、人はこれに心酔し恍惚となって、不快や悩みを忘れてしまうほどであるのと同様に、この神的こころよさは、あまりにも力強く霊魂を捕えるので、いかなる懊悩も、もはや霊魂に触れることができない。それでこの句の意味は次のようである。私がこの霊魂をみたすこころよさは、霊魂にとって不快なことをすべて停止させるように。また、人魚の歌とは、霊魂が所有するようになった常住的幸福を象徴することも、すでに述べた。花むこはこの幸福を人魚の歌と呼ぶ。なぜなら、人の語るところによれば、人魚たちの歌は実に甘くここちよいので、それをきく者は、もう、うっとりとなって、愛に燃え立ち、夢中になって他のいっさいを忘れてしまうほどである。同様にこの一致の愉悦は、霊魂をすっかり没入させ、いこわせ、うっとりとさせて、前述のあのすべての苦悩、混乱を忘れさせる。それが次の句の意味である。
おまえたちの怒りを、とどめよ。
17 ”怒り”とは前記の霊魂の諸能力の無秩序な働きや激情からくる混乱や懊悩のことである。怒りは霊魂の平和を乱す激情で、平和の限界から霊魂を引き出す。同様すべての乱れた激情は、霊魂に触れると、平和の限界、内的静けさから、これを引き出し、混乱のうちに投じこむ。そのため花むこはいう。
壁に触れてはならない。
18 この壁とは平和の囲、霊魂をかこみ、保護する徳と完徳とのとりでである。霊魂は先に述べた、花むこが花のなかで饗宴をする園、壁にかこまれ、花むこが、ご自分のためにだけとっておく園である。それゆえ、花むこご自身、雅歌のなかで花よめのことを閉ざされた園と呼んでいる。すなわち「私の妹は、閉ざされた園である」と。ここでは、この園の囲いや壁にも触れないようにと願っているのである。
花よめがもっと安らかに眠れるように
19 これはすなわち花よめが、自分の愛人において味わういこいと甘味とを、もっと自由に楽しめるようにとの意である。これによってわれわれは、花よめのためには、もはや閉じられた門はなく、自分が欲するときに、また欲するままに、この甘い愛の眠りに身をまかせることができると知る。このことを花むこは歌のなかで次のことばをもって明らかにしている。「イエルサレムの娘たちよ。私は、かもしかと鹿とにかけて、せつにあなたがたに願う。私の愛する者を、そのみずから欲するまで起こさないように。目覚ませないように」(3・5)
次の歌についての注
1 その花よめを感性や悪魔の手から完全に解放し、とりもどそうとの激しい望みにせめ立てられていた花むこは、自分の計画が成功したのを見て喜びに身をまかせる。かれはちょうど失われた羊をさがして、あちら、こちらをかけめぐり、ついにこれを肩にのせて帰って来る善い牧者のようだ。また燭台を灯し家中をかきまわして、やっと見つけたドラクマを手にして大喜びし、友だちや隣人を呼んで「私といっしょに喜んでください。……」という女のようでもある。この愛深い牧者、この霊魂のやさしい花むこが、高い完徳に導き、ご自分のものとしたこの霊魂が、かれの肩によりかかり、このようにまちこがれた抱擁と一致において、かれの手のうちにいるのを見て、喜びにあふれていられるさまは実に感嘆すべきものである。かれはただご自分だけで喜んでいるのでは満足されず、ご自分の幸福を天使たちや聖なる霊魂たちにもわかたれる。そして雅歌にしるされてあるように「シオンの娘たちよ、出でてサロモン王を見よ。かれはその婚姻の目、心の喜びの日、その母がこれにかぶせた冠をつけている」(3・11)という。かれはこの句のなかで霊魂を、かれの冠、かれの花よめ、かれの心の喜悦と呼び、彼女を御腕にいだいて運び、花むこのように、彼女とともに婚姻の部屋から出て来る。このことをかれは次の句で説明する。