第18の歌

おおユデアの女精よ
と、ばらの木どの間で
リゆうぜん香が芳香をはなつどき
郊外にどどまっててください
そして
私たちの、しきいに、触れようとしてはなリません。

解説

3 この歌のなかで語っているのは花よめである。彼女は自分の霊魂の霊的な高尚な部分が愛人によって、これほどまでに豊かで、すぐれたたまものや愉悦にみたされていることを見て前の二つの歌のなかで描写した状態、つまり花むこが彼女を、おおきになった安全な状態にとどまり、これらのを永続的に所有することを望む。しかし、一方、霊魂の下級の部分すなわち、感性から妨害が来ることは可能であり、事実、そのために、この大いなる善が妨害され乱されるのを見て、この下級の部分の働きや衝に向かって、この部分の能力や感覚のなかで静かにしていてくれるように、そして自分の領域、つまり感性の限界を越えて、魂の上部の霊的な部分をわずらわせに来ないようにと懇願する。要するに霊魂は自分が楽しんでいる幸福や愉悦がごくわずかな衝によっても乱されることがないようにとっているのである。なぜなら感性的部分の衝と能力とは、霊が楽しんでいるときに活するならば、この活の力と激しさに比例して、霊をわずらわし不安にするから。そこでいう。

おお、ユデアの女精よ。

4 ユデアとは霊魂の下部すなわち感性のことであるこれをユデアと呼ぶわけは、この部分は弱くて、肉的で、それ自体盲目であることまさにユダヤ民族のようであるから。この下級の部分の想像や、気まぐれや喧騒や愛好は女精と呼ばれる。女精はその愛情や魅惑的な美しさで人々を自分のほうに引きよせるが、同様、感性のこうした働きや衝動は意志を理性的部分から引き出して自分たちのほうへ引きよせようと魅惑的に執拗に努力する。つまり意志を、その内的なことから引き出して自分たちが求め追求している外的な事物を楽しむようにさせようと努力する。また同時に知性をもかして、感覚の低級な様式で自分たちに結合一致するようにいざなう。要するに理性的な部分を感性的な部分の水準にまで引き下げようと努力するのである。それで霊魂はいう。おお、おまえたち、感性の働きや衝

花とばらの木との間で

5 花とは前述のとおり、霊魂の徳のことであるばらの木とは霊魂の諸能力、すなわち、記憶、知性、意志で、それらは神的思念の花や、愛やその他の徳の行為を生じるそれで、私の霊魂の諸能力と徳とのさなかで

りゅうぜん香が芳をはなつとき

6 りゅうぜん香とは霊魂内に住んでいられる天の花むこの霊を意味する。この神的りゅうげんにとって、花とらの木とので芳香をはなつとは、霊魂の徳と能力とのうちに注ぎ入り、そこで芳しい神的香をこの霊魂のために、はなつことである。それでこの神の霊が私の魂のうちに、的な愉悦を注ぐとき、

郊外にとどまっていてください

7 ユデアの郊外とは、さきにいったとおり霊魂の下部または感覚的部分のことである。郊外は内的感覚すなわち、記億とか想像とかにじていて、これらの能力のうちにはいろいろの物の形や、イメージや幻影などが置かれ、収められている。そして感性は霊魂内に数々の欲求や欲望をかきたてるために、これらのものをいるのである。これらの形やイメージなどに対して霊魂は女精という名称を与えている。これらが静かにしていれば欲求も眠っている。これらが内的感覚という郊外にはいる場合、外的感覚という門すなわち、視覚とか聴覚とか嗅覚とかをじてはいる。それでこの感覚的部分の能力や感覚は、内的なものも外的なものも全部郊外”と呼ばれることができる。なぜならそれらは都市の城壁の外にある地区のようなものであるから。霊魂において”都市”と呼ばれるものは霊魂のもっとも内なる部分すなわち、神と交わることの可能な理性的部分のことであり、この部分の働きは感性の働きとは正反対である。しかしながら郊外と呼ばれる感覚的部分の住民、すなわち、上述の女精、都市と呼ばれる霊魂の上部との間には自然的つながりがある。そのため下部でおこなわれることは内的な部分に感じられる。したがってこの内的部分はそれに気付き、神とともにいとなむ霊的交わりから気をそら。そこで霊魂は女精に向かって郊外にとどまってほしいと頼むつまり、内的、外的、感性的感覚のうちに静けさが保たれることを願うのである。

私たちの しきいに触れようとしてはなりません。

8 これは、単なる衝によってさえも霊魂の上部に触れないようにとの意である。事実、最初の衝は霊魂内にはいるための入口、しきいのようなものである。最初の衝動衝動の状態を過ぎて理性のなかにはいってくるとしきいを踏み越えたということになる。しかし衝動が単に衝動としてとどまるなら、それはしきいに触れる、戸を叩くということで、感性が理性をおそい何か不秩序な行為をさせようとする場合におこることである。それで霊魂は感性の衝動という女精に向かって自分に触れることを禁じるばかりでなく、自分が楽しんでいる静けさや幸福に役だたない考えさえも、近づいてきてはならないというのである。

次の歌についての注

1 この状態にある霊魂は、自分の部とその働きとをひどく憎しているの、神が上部に恵み伝達なさると、下部はそれに少しもあずからないとを望むほどである事実、れらの恵みが、もし下部にも伝達れるとすれば、それがきわめて僅少でないか霊魂は、の性来の弱さのために気絶してししたがって霊はしみかつ悲しみ、結局この恵みを平和楽しむとができない賢者が「朽ちる肉は霊魂の重荷となる」(知恵の書9・15)ているとおりであるしかも魂はっとも高いすぐれた交わりを望んでいるが感覚的部分といっしょでは、そのような恵みとができないので感覚的部分があずかることなしに、それらを与えられ望む。聖パウロ、神ることの許れた第の崇な示幻を語るときこの恵みうちで受たかで受か、知らなってリント後12・2)この示幻が、いかなるものいたにせよ、肉体にあずからなかったことは確かであるもしも肉があずかっなら、使徒らないいるわけゆかなかったであろうからまた使徒はいて人間口にだすことを許されないほの神秘的なことばをたとってるが、も肉がそずかっていたならほど崇高なものではありえなかったであろうそれで霊魂は、これほどすぐれた恵みは感覚的部分のような狭小な器のうちに受けることができないのをよく悟りこのような恵みを花むこが与えてくださるときは、肉の外にありたい少なくとも肉体が少しもこれにあずかることがないようにと望み、花むこに向かって、次の歌のなかでこのことを懇願する