私たちのために、狐どもを捕らえてください
私たちのぶどう園は、もう花ざかリなのですから。
ばらの花で、松かさを、いっしょにつくリましょう
どうか丘の上には、たれも姿を現わしませんように。
解説
3 霊魂は、この愛の内的愉悦をひきつづいて楽しむことを何ものによっても妨げられないようにと希望する。霊魂はこの楽しみをぶどう園の花にたとえ、しっと深くて邪悪な悪魔や、感性の激しい欲求や、想像の右往左往や、その他なんらかの知解とか、事象の現存とかによって乱されることがないようにと望み、天使たちに向かって、これらのものをすべて追いはらい、阻止し、それらが内的愛のいとなみを妨げに来ることがないようにしてほしいと願う。この内的愛の愉悦と風味とのさなかで、霊魂と神の御子とは相交わり、徳と恵みとを楽しんでいる。
私たちのために狐どもを、捕えてください
私たちのぶどう園は、もう花ざかりですから。
ここでいうぶどう園とは、この聖なる霊魂のうちにあるすべての徳の植えつけられた苗床のことで、これらの徳は風味よいぶどう酒を彼女に提供する。霊魂が意志によって花むこに一致し、これらすべての徳のさなかに、花むこのうちに楽しんでいるとき、このぶどう園は花ざかりといわれるのである。そのようなとき、時として、さきに述べたように、記億や想像力に種々雑多の想像が浮んで来たり、感性的部分にいろいろの衝動や欲求が、わき起こってくることがある。ダヴィドもこのうましい霊的ぶどう酒を飲みながら、神への激しい渇きをいやしている間にこれらの種々雑多な敵に妨害され悩まされた。それでかれは叫んでいった。「私の魂は、あなたにあこがれ渇いた、私の肉もあなたに向かって、いかばかり嘆くことか」(詩篇62)
5 霊魂は感性的な欲求や衝動の合唱をさして、狐と呼んでいる。それは、この時期において、これらのものが、狐と非常によく似た特質を有するためである。狐は、えものを捕らえるために眠ったふりをする。同様に感性的欲求や衝動も、霊魂内に徳の花が完全に開いて芳香をはなつようになるまでは、しずかに休んでいる。しかし、徳の花が芳香をはなつようになると、感性の欲求や力も目をさまし、いわば花を開き、霊に反抗し、ほしいままに支配力をふるおうとするかのように見える。これは聖パウロが言う、いわゆる霊に反抗する肉の欲望である。感性的なものへの肉の傾向は、いかにも激しいので、霊が霊的愉悦を味わうやいなや、肉のすべては嫌気と不快とを感じる。こうして感性的欲求は甘美な霊を大いに悩ませる。そのため、霊魂は次のようにいう。
私たちのために、狐どもを捕らえてください
6 しかし狡猾な悪魔どもは、ここで二つの様式で霊魂を苦しめる。第一、かれらはまず欲求をはげしく刺激し、わきたたせる。そしてそれらと、また他の想像なども使って、この霊魂のおだやかな、花ざかりの王国に戦いをいどむ。第二、これは、いっそう有害なことだが、悪魔どもは右のような努力がむなしいと見ると、肉体的な苦痛や外的な騒音を用いて霊魂におそいかかり、気を散らさせようとする。それから、さらにいっそう悪質なのは、かれらが、霊的な恐怖を用いて霊魂を攻撃する場合で、このとき霊魂は真に拷門にかけられたようになる。このようなことは、この時期にあたって、もしも神が悪魔どもに許可を与えられるなら、かれらは実に見事にすることができる。それは霊魂が愛の働きに身をまかせるために、霊的赤裸の状態に身をおいたからで、悪魔も、霊であるところから、いっそうたやすく霊魂に現われることができるためである。また他の場合、霊魂がこれらの甘美な花を楽しむ前に、すなわち、神が霊魂を上述の愛のいとなみの行なわれる花むこの庭に導き入れるために、感覚の家から引き出し始められる時期に、悪魔は恐怖という武器を用いて霊魂を攻撃する。ひとたび、あの潜心のうちにはいってしまうと、霊魂は、きわめてよく守護されてしまうので、悪魔は、たとえ何をしようとも、これに害を加えることのできないのを知っているから、多くの場合、悪魔が通路をふさごうと飛びかかるその瞬間に、霊魂はきわめて速かに自分の内奥の深い隠れ家のうちに沈潜して、そこで大いなる愉悦と庇護とを見出す。そしてそのとき、霊魂はこれらの恐怖の襲撃を全然外部のこと、かつ、非常に遠くのことのように感じるので、それらは霊魂を恐れさせるどころか、かえって歓喜、愉悦の原因とさえなる。
7 雅歌のなかで花よめが「私の心はアミナダブの車のために乱れた」(雅歌6・11)というとき、これらの恐怖の襲撃のことをいっているのである。アミナダブというのは悪魔を意味する。そして悪魔の襲撃に戦車という名称を与えられるのは、その激しさや、ひしめき合いや、騒がしさのためである。そこで霊魂は「私たちのために、狐どもを捕えてください」という。雅歌の花嫁もまた同じことについていっている。「ぶどうの木をそこなう小狐を私たちのために捕えてください、私たちのぶどう畑は今、花ざかりなのですから」(2・15)と。そして私のために捕らえてくださいとはいわず、私たちのために捕らえてくださいという。なぜなら彼女は自分と愛人とのふたりについて話しているからで、ふたりはいっしょにぶどう園の花を楽しんでいるのであるから。またここで、ぶどう園は花ざかりだといって、実っているとはいわないわけは、この世では、徳は、今われわれが語っているような完全さをもって霊魂において味わわれるとはいえ、それは単に、その花を楽しむようなものであって、来世においてはじめてその果実を楽しむことができるからである。
ばらの花で、松かさを
いっしょにつくりましよう。
8 霊魂が、ぶどう園の花をよろこび、愛人のふところのなかで、楽しんでいるこの時期にあたり、霊魂の諸徳は、前述のように、突然明るみに出て、霊魂の目に姿を現わし、霊魂に非常なこころよさと愉悦とを与える。霊魂は、これらの徳が自分のうちにあると同時に神のうちにあると感じるので、それらは自分のものであると同時に、また神のものであるただ一つの花ざかりのここちよいぶどう園のように思われる。そしてそのなかで、両者はともに楽しみ、かつ、飽かされる。そのとき霊魂は、これらの徳をみな集め、それらのおのおのにおいて、またその全体において、極めてここちよい愛の行為をする。またこのようにして集めたものを、こよなくやさしい愛情とここちよさのうちに愛人にささげる。愛人ご自身もこのささげに協力される。なぜなら、かれの援けと恵みなしに、霊魂はこれらの徳を集めることも、花むこにささげることもできないから。それで”いっしょに、松かさをつくりましょう”というが、いっしょにとは。”愛人と私と″を意味する。
9 これらの徳を集めたものをさして、松かさと呼んでいる。松かさというものは、一つのかたいかたまりであるが、それは相互にかたくいだき合っている鱗片から成り立っていて、これらの鱗片はすなわち松の種である。同様に霊魂が愛人のためにつくる徳の束は霊魂のただ一つの完徳であるが、そのうちにはかずかずの強固な徳や、きわめてゆたかなたまものが整然と、かつ確固に包含されている。これらの徳はみな相互に整然と結ばれて、霊魂のために堅固な一つの完徳をつくりなしている。それが徳の実行によってつくられつつあるとき、かつ、すでにつくり上げられて、霊魂がそれを前述のように愛こめて愛人にささげているときに、このふたりの愛人の内的交わりを妨げに来ないように、上記の狐どもを捕えるということは、まことにふさわしいことである。さらに、花よめなる霊魂は、松かさをよくつくることができるようにと、この歌のなかで、狐を捕らえることを願っているばかりでなく、また次の句に含まれていることをも願っている。
どうか丘の上には。たれも姿を現わしませんように
10 事実この内心における神的交わりのためには孤独と、霊魂の注意をひくすべての対象―それが霊魂の下部、すなわち人間の感覚的部分から来るものであろうと、上部、すなわち理性的部分から来るものであろうと―すべてを捨て去ることが必要である。これらの二つの部分は人間の諸能力と感覚の全体を含んでいて、花よめなる霊魂はここでそれをさして、”丘”と呼ぶ。なぜならそこに、あらゆる観念や自然的欲求が住み、居を定めていて、ちょうど山で狩りでもするかのように悪魔は、そこで狩りをし、霊魂を害するためにこれらの欲求や観念を獲物にするからである。霊魂はこの丘の上に、たれも姿を現わさないようにという。それはすなわち前述の諸能力または感覚のいずれかに属するなんらかの事物の表示や想像が、霊魂や花むこの前に姿を現わさないようにというのである。これはあたかも”私の霊的能力、すなわち、私の記憶、知性、意志のうちに、なんらの特定な知解も愛好も、またその他のなんらかの留意もないように。同様、私の肉体的感覚や能力、その外的なものにも内的なものにも、すなわち、想像力とか視覚とか聴覚等々のうちに、なんの逸脱も形も、またイメージも想像も、またなんらかの事物の表示も、その他自然的な、なんの働きもないように”といっているようである。
11、霊魂がこのようにいうわけは、この神との交わりを完全に楽しむためには、外的の、また 内的のすべての感覚と能力とが、何ものにもたずさわらず、空虚になっていて、その固有の働きや、対象からは解き放たれている必要があるからである。なぜならこのようなときには、これらの能力が活動すればするほど、いっそう神の働きを妨害するから。事実、霊魂は愛の内的一致のある度合に達すると、その霊的能力は働かなくなり、肉体的能力はさらにいっそう働かない。愛の一致のわざがひとたびしとげられると、霊魂は愛によって動かされるようになる。それで、諸能力の働きはやんでしまう。目的地に到達したからには手段としての働きは、すべてやむのが当然である。そのときから、霊魂のすることは愛によって神のうちにとどまることであって、これはすなわち不断の一致の愛のうちで愛することである。それで、どうか丘にたれも姿を現わさないように。ただ、上に述べたような様式で、自分の能力のすべてと、また自分自身とを愛人に渡しながら意志だけが現われるように。
次の歌についての注
1次の歌の意味を、いっそう明らかにするために、ここで次のことに注意を促したいと思う。それは、この霊的婚約の段階にあっては、愛人の不在が非常に悲しく思われるということである。ある場合に、それは比較するものもないほどの苦痛である。その原因は、この段階にあって霊魂が神に対していだく愛は、きわめて強いからで、それがため神の不在にあたって、激しく霊魂を苦しめるのである。またこれに、さらに他の苦しみが加わる。それは被造物とのいろいろの交渉、交わりから来るもので、これもまた非常に大きな苦しみである。それというのも、霊魂は神との一致に対する底知れぬ強く激しい望みをいだくようになっているため、すべての交渉がわずらわしく重荷となるからである。それは、ちょうど非常に激しい速度で中心に向かって飛んでゆく石のようで、これにぶつかったり、これを止めようとしたりすると激突となるにも似ている。そして霊魂は神のおとずれの甘味を、すでに味わったので、それは黄金やその他のあらゆる美にもまして望ましいものとなる。それで、ただ一瞬間なりとも、これほど貴重な現臨が欠如することを非常に恐れ、霊的乾ばつに向かい、あるいは花むこの霊に向かって語りかけながら次の歌をいう。