私の愛するかたは山々
木々の生い茂る、人気のない谷
ふしぎな島々
ひびき高く流れる川
愛のそよ風のささやき
あのかたは、また、あけぼのが
たちそめるころの、静かな夜
沈黙の音楽
ひびきわたる孤独
愛に酔わす、たのしい夕食
解 説
2 次の二つの歌の説明にはいる前に、それらの歌、またそれにつづく歌を、よく理解させるため、次のことに注意する必要があると思う。すなわち、今語り終えた霊の飛翔には、きわめて高い段階と、愛の一致とが表明されていて、神は通常多くの霊的修練を積んだ霊魂のみを、そこにおあげになるということである。これは神の御子なる聖言葉との霊的婚約と呼ばれることである。これが行なわれる当初に、すなわち、その最初のとき、神は霊魂に、ご自分についての偉大な光を伝達なさり、ご自分の偉大さ、御稜威への参与によって、これをお飾りになり、たまものや徳をこれに贈られ、神についての知識や神への畏敬でこれを富ませ、要するに、婚約の日の若い娘にふさわしいようにこれをお飾りになるのである。この幸いな日にあたり、霊魂は それまで経験していた激しい懊悩が終りを告げるのを見、その愛の嘆きをやめるのみならず、霊魂は富にみたされ、平和と愉悦と愛の甘味にみちみちた段階にはいるのである。このことは、これにつづく歌を見ればわかる。そこで、霊魂はただもう、愛人の もろもろの偉大さを語り、歌うことしかしない。しかも、これらの偉大さは、前記の婚約の一致によって、愛人のうちに知り、かつ、楽しむのである。それで、これにつづく歌のなかでは、これまでのように、焦慮や苦悩は問題とされない。ただ愛人と霊魂との間の甘く、おだやかな愛の交換、愛のいとなみのみが語られている。他のことは、みな終ったのであるから。ここに注意すべきは、この二つの歌のなかでは、この時期にある霊魂に、通常神が与えられるもっとも著しい恵みが述べられているということである。しかし、この状態に達したすべての霊魂が、ここでいっているすべての恵みを受けると思ったり、それらを同じ様式のもとに受け、または、かれらがみな同じ度合の霊的知識や感覚を有すると思ってはならない。ある者には多く、ある者には少なく与えられるから、またある者にはこの様式で、他の者には他の様式で与えられるであろう。とはいえ、いずれもこの霊的婚約の状態において見られることである。しかしここでは、この段階においてあり得る最高のことが述べられている。そこには他のすべてのことも含まれて いるから。
二つの歌の解説
3 聖書のいうところによれば、ノエの箱舟のなかには、いろいろの種類の動物を入れておくための数多くの住居と、またこれらの動物が食するすべての食物とがあった。同様、この霊の飛翔において神の御ふところの箱舟にまで上った霊魂も、聖ヨハネを通じて主が語られたあの御父の家にある数多くの住居を見るのである。のみならず、すべての食物、つまり霊魂が味わうように用意された食物、すなわち神のもろもろの偉大な属性を見、かつ知るのである。上掲の二つの歌のなかに含まれているたくさんの比喩的言辞が象徴しているのは、まさにこれらの神的属性であって、その大要は次のとおりである。
4 霊魂は、この神的一致において、あふれるばかりの、測り知れぬほど貴重な富を眺め、かつ所有し、自分が望むすべてのいこいと楽しみとを見出す。霊魂は、神の秘密と、そのふしぎな知識とを悟る光を受けるが、これは人々が知っている最上の食物とも比較にならぬほど味よき食物である。霊魂は神のうちに、他のいっさいの権能や力を超絶する恐るべき権能と力とを感じ、同時にそこで、感嘆すべき甘味と霊の愉悦を味わい、真のいこいと神的光とを見出す。またすべての被造物や、神のみ手のわざの調和のうちに輝いている神の上知を、きわめて高い様式で味わう。霊魂は自分が すべての善でみたされ、すべての悪から まったく解放されたことを感じる。しかし、何にもまして霊魂は、評価しがたい愛の糧を知り、かつ味わうが、これが霊魂を愛において確固不動にする。以上が、前掲の二つの歌の内容の要約である。
5 この二つの歌のなかで花よめは、愛人がかれ自身、これらすべてのものであり、また彼女にとっても同様に、すべてのものであることを告げている。事実、霊魂は、このような脱魂に伴う神的交わりにおいて、「私の神よ、私のすべてよ」という聖フランシスコのことばを真実に体験するのである。神は霊魂にとって、すべてのものであり、かつ、これらすべてのものが含む善である。それで、この脱魂が含む神的交わりは、これらの歌のうちにあげられている被造物の有する優秀性から引き出された比喩によっていい表わされている。今から、これらの歌の一句一句を別々に説明しよう。まず心得ておくべきは、ここにあげられている被造物の優秀性は、神において卓絶した様式で無限に見出される。というより、むしろ、これらの優秀性のおのおのは神であり、また、それらすべてを集めたものもまた神であるといったほうがよいだろう。霊魂は神に一致しながら、神がすべてであることを体験する。それは聖ヨハネがいっているとおりである、すなわち「造られたものは、かれのうちに生命があった」(ヨハネ1・4)。しかし、ここで霊魂が体験するといわれていることについて、霊魂が光のうちにものを見る。あるいは神のうちに被造物を見ると想像してはならない。それはこの一致において、霊魂は神が自分にとって万事であると体験することだということを知らねばならない。また、今述べているように、これほどまでに崇高な神の体験をするからといって、霊魂が神を、本体的に、あからさまに見ると思ってもならない。そうではなくて、それは強く、豊かな交流、神が ご自身において、どういうものであるかを隙間見せる光であって、それによって霊魂は被造物のもつ優秀性をも感じるのである。今、それを歌の各句において説明する。
私の愛するかたは、山々
6 山々は高く、豊饒で、広大で、美しく、優雅で、花々が咲きみだれ、芳しい香にみちている。私にとって.私の愛人は、こういう山々である。
木々の生い茂る、人気のない谷
7 人気のない谷は静かで、気持ちよく、涼しい木蔭に富んでいる。清らかな水が、ゆたかに流れ、そこに生えている種々さまざまの植物や、小鳥たちのやさしい歌声で、人々の感覚を魅了し、楽しませる。またその静寂と沈黙とによって、すがすがしさといこいとを与える。私の愛人は私にとって、こういう谷である。
ふしぎな島々
8 ふしぎな島々は海にとりまかれ、海のかなたにあって、人間との交わりから、きわめてかけ離れ、まったく関わりをもたない。それで、こういう島々の産物は、われわれの土地のとは非常に異なっている。それらは見たところも変っているし、私たちの まったく知らない特性をもっていて、見る人々の目を驚かせ感嘆させる。それで、神のうちに発見する 一般の認識をはるかに越えた、偉大な驚嘆すべき目新しいことや、ふしぎな知識のゆえに、霊魂は神をふしぎな島々と呼ぶ。人は二つの理由のために、ふしぎな人とみなされる。すなわち、あるいは、人々から遠ざかって生活しているか、あるいは、その行為やわざが、他の人々のそれにはるかにまさり、異彩をはなっている場合である。この二つの理由によって、霊魂は神を”ふしぎ”と呼ぶのである。神には見知らぬ島々のあらゆるふしぎがあるばかりでなく、神の道も、意見も、わざも、人間にとって、きわめてふしぎで、目新しく、驚嘆すべきものであるからである。それで神を見たことのない人間にとって神が”ふしぎ”であるのは驚くにあたらない。神を直観している天使たちや天国の霊魂たちにとっても同様なのだから。かれらといえども、神を完全に見ることはできず、また永遠にできないであろう。審判の日に至るまで、神のあわれみと正義のみわざに関連したそのいとも深いご判定のうちに、あまりにも多くの新しいふしぎを発見するので、かれらの驚きと賛嘆は常にますます増大するのである。それで人間だけではなく天使たちもまた、神を”ふしぎな島”と呼ぶことができる。神は、ただ、ご自分にとってだけ、ふしぎでも目新しくもないのである。
ひびき高く流れる川
9 川は三つの特性をもっている。第一、川は出会うすべてのものをひたし、沈めてしまう。第二、自分の前にあるすべての低地と空虚をみたす。第三、他のすべての音響をおおって、きこえなくするほど高いひびきをたてる。今、問題になっている神との交わりにおいて霊魂は、神において以上の三つの特性を、きわめてこころよく味わう。それがため霊魂は、自分の愛人は”ひびき高く流れる川”だという。霊魂が感じる第一の特性は、すなわち、霊魂は神の霊の奔流におそわれ、それが信じがたいほどの力をもって、自分を占領するのを感じる。まるで自分の上に世界中の河川が全部おそいかかって自分を沈めてしまうかのように思われる。そしてこれらの川は霊魂の かつての行為や欲情をすべてのみこんでしまうように感じるのである。聖霊のこの働きはきわめて激烈なのにもかかわらず、霊魂に なんの苦しみも ひきおこさない。なぜなら、これらの川は、平安の川であるから。神は、霊魂がこのように占領されることについて、イザヤを通じておおせられている。「よく注意してきけ。私はこれの上に、すなわち霊魂の上に傾いて、平和の川のように、また、みなぎりあふれる光栄の激流のように注ぎ入るであろう」(66・12)。このように、音高く流れる川にも似た霊魂内への神の降臨は、霊魂を平和と光栄にみたすのである。霊魂が感じる第二の特性は、すなわち、このときにあたり、この神的水が、霊魂の謙遜の低い谷と欲求の空虚をみたすことである。それは聖ルカ福音書に「低い人々を高め。飢えた人々をよいものでみたした」(1・52)とあるとおりである。霊魂が愛人の、ひびき高い川について感じる第三の特性とは、他のあらゆる音や声をおおう一つの音、霊的の声をきくことで、この声は他のすべての声をおおい、この音は、世界中のすべての音を凌駕する。今ここで、しばしとどまって、それがどういうことか説明することにしよう。
10 霊魂が、ここで語るこの声、この川のひびきとは、霊魂をあらゆる善でみたすあふれるばかりの充満であり、霊魂を占領する抗しがたい力である。これを川の音に比較したのでは十分とはいえない。それは何かしら恐るべき雷鳴にも似ている。とはいえ、それはまったく霊的な声 で、物体的な音響を有せず、普通強い音響がひきおこす苦痛や不快を伴わない。それはただ、威厳と力と愉悦と光栄にみちあふれたものである。それは、まったく内的な偉大な声、ひびきわたる音であって、霊魂を力と勇気でおおう。この霊的な声、霊的な音は、(使徒行録2・2に述べられているように)聖霊が使徒たちの上に激流のようにお降りになったとき、かれらの霊のうちに ひびいた音である。かれらの内部にひびいたこの霊的な声をわからせるために、それは大旋風のような音を外部にたて、エルザレムにいたすべての人々は、その音をきいたのであった。この外的音響は、そのとき使徒たちが着せられた前述の力と勇気との充満の象徴であった。また同様に、聖ヨハネ(12・28)が述べているように、主イエズスが、敵対者たちから受けられる迫害や悩みのさなかにあって御父に祈られたとき、主のご人性を強めるために、一つの内的な声が天からひびいたのであった。この声は非常に荘重な強烈な音響として外部にきこえたため、ユダヤ人たちのある者は雷鴫がとどろいたのだといい、また他の者は、天使が天の高いところからイエズスに語ったのだといっていた。外部にきこえたこの声は、キリストの人性が内的に着せられた勇気と力とを示したのであった。しかし、それだからといって、霊魂は、その霊のうちにこの霊的な声のひびきを受けないと解してはならない。ここで注意すべきは、霊的な声のひびきとは、この声が霊魂内に生じる効果と解すべきことで、ちょうど肉体の声が耳にひびいて、その意味するところを霊のうちに刻むのと同様である。これはダヴィドの「主はそのみ声をきかせられる、力強いみ声を」(詩篇67・34)とのことばの意味するところである。そして、この力強い声とは内的の声のことである。事実「神はその声を、その力強い声を聞かせる」といいつつ、ダヴィドは、神が外部にきこえる外的な声に、さらに、内部に聞こえる力強い声を合わせられることを、われらに教えている。これによって、神は無限の声であり、上述のような様式で霊魂と交わられるときには、大声のような効果を生じるということを知るべきである。
11 黙示録のなかで、聖ヨハネは、この声をきき、自分がきいた声は、大水の音、大いかづちの声のようであったといっている(黙示録14・2)。そして、この声は強烈であるがために、ききづらく、苦痛をひきおこすと考えさせないために、ただちに、この声はきわめて、こころよくて、たくさんの弾奏者が立琴をひくようであったといいそえている(黙示録14・2)。エゼキェルもまた、大水の音にも似たこの声は「いと高い神の音のようだった」(エゼキア書I・24)という。この意味は、神はこの声を通じて、いとも崇高に、いともこころよく霊魂と交わられるということである。この声は無限である、なぜなら前述のとおり、霊魂内にこの声をひびかせながら、これと交わられるのは神ご自身だからである。しかしながら神は、そのみ声を、一つ一つの霊魂に道当した強さに加減しながら、かれらのおのおのにご自分を順応されるので、霊魂は大きな愉悦と光栄とにみたされる。そのため、雅歌のなかで花むこは、花よめに向かって「あなたの声を私の耳にきかせよ。あなたの声はやさしい」(雅歌2・14)というのである。
愛のそよ風のささやき
12 この句において霊魂は、二つのことをあげている。すなわち、そよ風とささやき。愛のそよ風とは、愛人の徳と美しさとで、これらは天の花むことの一致を通じて霊魂にはいり、愛深くこれと交わり霊魂の実体休に触れる。このそよ風のささやきとは、神と神の完徳との いともこころよい認識である。この認識は神の完徳が霊魂の実体に触れるところから生じて、知性のうちにあふれはいるのである。一致の状態にあって霊魂が味わうすべての愉悦のうちで、これは最高の愉悦である。
13 このことを、よりよく理解するため次のことに注意してほしい。そよ風のうちに、二つのものを区別することができる、すなわち、接触とささやき、同様に、花むことのこの交わりは愉悦と知解とを同時に生じる。そよ風は触覚に触れ、それと同時にそのささやきは聴覚に触れるが、同様に、愛人の完徳の接触は、霊魂の実体にある触覚をもって感じられ、味わわれる。そしてこの神の完徳の知解は、霊魂の聴覚、つまり、知性において感知されるのである。また次のことも知っていてほしい。愛のそよ風が到来するとは、それが、こころよく触覚に触れ、このような慰めを望んでいた者の要求をみたすときである。事実そのときこそ触覚は喜び楽しむ。と同時に聴覚も、そよ風のささやきをきいて、大いに喜ぶ楽しむ。そしてこの聴覚の楽しみは、そよ風に触れるときの触覚の楽しみにはるかにまさる。なぜなら聴覚は、触覚より もっと霊的なものであるから。より正確にいうなら、聴覚は霊的なものと、より多く関係をもっているから。それで聴覚による楽しみは触覚による楽しみより、もっと霊的である。
14 同様に、この神との接触は、このような神的一致に達することを渇望していた霊魂の欲求をここちよくみたしつつ、霊魂の実体を大いに満足させ、楽しませる。霊魂は、この一致、または接触を、愛のそよ風と呼ぶ、なぜなら、それは、前述のように、愛人のもろもろの徳を愛深くここちよく霊魂に伝達するから。そして、そこから知性のうちに知解の”ささやき”がもたらされる。この知解をささやきと呼ぶのは、ちょうど、風のたてるうなりが鋭く耳の鼓室にはいり込むように、この微妙なデリケートな知解は、きわめて、うましく ここちよく霊魂の実体の内に奥にはいり込む。これは他のあらゆる愉悦に、はるかにまさる愉悦である。その理由は、あらゆる偶有性やイメージを脱ぎすてた純粋な実体的知解が与えられるからである。この知解は、哲学者たちが受動的または可能的知性と呼ぶものに与えられる。したがって、知性はなんらの協力もすることなく、受動的にこれを受ける。これは霊魂にとって最高の愉悦である。なぜなら、それは知性におけることだからで、神学者たちのいうところによれば最高の悦楽、すなわち神を見ることは知性に依存するからである。このそよ風のささやきは前述の実体的知解を意味するゆえに、神学者たちのある人々は、われらの父エリアは、ホレブ山上の洞窟の入口で感じたそよ風のささやきのうちに、神ご自身を見たのだと考えている。聖書はそよ風のささやきといっている。なぜなら.この微妙なデリケートな霊的伝達は預言者の知性のうちに知解を生じたからである。霊魂はここで、この知解を愛の風のささやきと呼ぶ。それは、この知解は愛人の諸徳の愛にみちた伝達が知性にあふれて生じたものだからで、それがためにこそ、愛のそよ風のささやきと呼ぶのである。
15、霊魂の耳からはいるこの神的ささやきは、前述のとおり、実体的知解であるのみならず、 同時に神性に関する真理の顕現、神のかくされた秘密の啓示でもある。聴覚を通じてはいるといわれる神的伝達のことが聖書にある場合、それは、通常、こうした赤裸な真理が知性に顕現されること、または神的秘密が啓示されることである。すなわち感覚の仲介なしに伝達された純粋な霊的示幻や啓示である。それゆえ、聴覚を通じて神から伝えられるといわれることは、きわめて崇高、かつ、確実である。だからこそ、聖パウロは自分が受けた啓示の崇高さを、わからせようとして「私は人間には語ることの許されぬ秘密のことばをきいた」(コリント後12・4)といった。これによって、エリアが、そよ風のささやきのうちに神を見たと同様に、パウロもまた神を見たのだと考えられている。さて信仰は、聖パウロの教えによれば、肉体の聴覚を通じて われらのうちにはいるものであるが、同様、信仰の教えること、すなわち実体的知解もまた、霊的聴覚を通じてわれらのうちにはいって来る。預言者ヨブも、このことを われらによくわからせてくれる。すなわち神がヨブに、ご自身をお示しになったとき、かれは神に向かっていった。「私は、あなたを私の耳できいた。そしていまや私の目は、あなたを見る」(ヨブ42・5)と。これによって、霊魂の耳で きくということと、前述の受勣的知性の目で見るということとは同一事であることが明らかに示される。したがって、ヨブは、私はあなたを私の耳できいたというとき、耳という語を複数形にせず単数形にし、また、私の目であなたを見たというとき、目という語を単数形にして、知性の目であることを示している。それゆえ霊魂の、このきくということは知性で見るというのと同じである。
16 しかしながら、霊魂が知解するこのことが、前にのべたように赤裸な実体であるからといって、これが天国におけるような完全な明かるい愉悦だと解してはならない。この知解は偶有性を脱ぎすてたものであるとはいえ、明らかでなく、むしろ暗い。それは観想であるから。そして観想は、聖ディオニジオによれば、この地上においては闇の光線である。しかし、観想は、光栄の愉悦の座となる知性において おこなわれるがため、われらはこれを来世の喜びのかたどり、そのひとすじの光線と見なすことができる。霊魂が ここで”ささやき”と呼んでいるこの実体的知解は、前に霊魂が熱く望んでいた目、しかし、それが示されたとき、感覚はそれに耐えれず”愛するかたよ、どうかそれらを、そむけてください”と叫ばぬわけにはゆかなかったあの目と同じである.
17 ところで、ヨブ記のなかに、私が恍惚や霊的婚約についていったことの大部分を証明する 章句があるが、それをここに適用するのは、きわめて時宜をえているように思われる。そのため、説明が少しひまどっても、私はその章句をここにしるして、われわれの扱っている問題に関係ある部分を説明しようと思う。
さて、テマン人エリファズは、ヨブ記中、次のようにいう。「ひそかに私に告げられたことばがあって、私の耳は盗むようにそのささやきのかすかな声をききとった。すなわち深い眠りが、常に人々をおそうころ、夜の幻の恐ろしさに私は恐怖と戦慄とにおそわれ、私の骨は、ことごとくふるい動いた。そして一陣の風が、私の前を過ぎるにあたって。私の身の毛はよだった。ときに何者か、一つの像が私の限前に立ったが、私は、その顔を見知らなかった。次に私は、ちょうど、そよ風のような声をきいた。」(4・12~16)。以上の章句は第十三の歌、”愛するかたよ。あなたのお目をそむけてください”以降、これまでわれわれが、恍惚についていったことをほとんどすべて含んでいる。なぜなら。テマン人エリファズが、ひそかに告げられたことば、といっているものは、霊魂に伝達されたあの神秘的知識、愛人に向かって、それらを遠ざけてくださいと懇願しないわけにゆかなかったほど、圧倒的な偉大な知識を意味しているから。
18 また、エリファズが、自分の耳が盗むようにききとったといっているささやきのかすかな声とは霊魂の知性が受ける前述の赤裸な実体である。なぜなら、かすかな声はここで、内的実体を示し、ささやきは、神の完徳との交わり接触を意味する。そしてこの接触から、上記の実体的知解が知性に伝達される。ささやきと呼ぶわけは、このような交わりのこころよさのためで、霊魂は、この交わりを愛のそよ風と呼んでいる。なぜなら、それは愛の交わりであるから、エリフアズはこのささやきを盗むようにききとったといっている。そのわけは、盗んだものが他人のものであるように、この神秘的知識も自然的には人間のものではないから。人間がこれを受けるとき、自分の本性上から見て受ける権利のないものを受ける。それで、聖パウロも自分に示された秘儀について権利を持たず、それを言い表すことを許されなかったのである。他の預言者も「私の秘密は私のもの」(イザヤ24・16)と二回にわたって繰り返し言っている。次にエリファズが「深い眠りが、常に人々をおそうころ、夜の幻の恐ろしさに、私は恐怖と戦慄におそわれた」というが、これは脱魂中に受ける神との交わりが、必然的に霊魂に引き起こす恐怖と戦慄とを示している。なぜなら、前述のように天性は神の霊との交わりに耐え得ないから。預言者はここで、人が眠りに入ろうとするとき襲いかかって、恐怖させる悪夢と呼ばれる一つの幻影のことを暗示しているが、これは睡眠と不眠との中間、つまり、ちょうど睡眠が始まろうとするときに起こる現象である。同様に本性的無知という睡眠と、超自然的知識という不眠の状態との中間に―それはつまり、恍惚や脱魂の始まりのところだが―霊魂に与えられる霊的示幻は恐怖と戦慄を引き起こすのである。
19 かれはまた「私の骨は、ことごとく恐れおののいた」、ことばを変えていえば、骨がふるい動いた、または骨のふしぶしが、はずれたといっている。これは、この時期に霊魂が経験すると前述した、かの激しい脱臼を意味する。ダニエルも天使を見たとき、これと同じことが自分のうちに起こったことを次のようにいっている。「主よ、あなたの幻示を見て、私の関節ははずれた。」(10・16)かれはすぐに、つづいていう「一陣の風が私の前を過ぎるにあたり、」すなわち、恍惚が私の霊をして、その自然的能力の限界を越えさせたとき、「私の身の毛はよだった。」これは肉体について前述したこと、すなわち、この恍惚において肉体は冷却し、生命を奪われたもののように、ちぢんでしまうことを暗示している。
20「ときに何者か、一つのすがたが私の目の前に立ったが、私はその顔を知らなかった」ここで「私の目の前に立った者」とは上記の様式で御みずから霊魂と交わられる神のことである。「私は、その顔を知らなかった」といっているのは、このような交わり、示幻が、いくら崇高なものであっても、霊魂はそこで、神のみ顔やご本質を見るわけではないことを示すためである。しかし預言者は、一つのすがたがかれの口の前に現われたといっている。それは、隠れたことばについてのこの知解は、きわめて崇高で、あたかも、神のすがた、そのみ顔のようなものであるからである。とはいえ、それは、神性の本質的直観と解してはならない。
21最後にかれは「そよ風のような声をきいた」というが、それは、霊魂がここで愛人のことをそよ風といったのに合致する。そして、このような神的おとずれが、いつでもこのような恐怖や、肉体的損傷を伴うと思ってはならない。このような現象は前にもいったように、完徳の道、または照明の道にはいり始め、このような交わりを受け始めたばかりの人に起こることである。他の人々において、このような交わりは、かえって非常なここちよさを伴うものである。
静かな夜
22 愛人の胸のうちにむすぶ霊的眠りのさなかに、霊魂は、おだやかな夜のいこいと静けさとを味わい、かつ所有している。と同時に霊魂は、神において深淵のような、そして、暗い神的知識を受ける。それがため、愛人は彼女にとって静かな夜だというのである。
あけぼのが近づくころの
23 霊魂は、この静かな夜は、真暗ではなく、むしろ、あけぼのが近づくころの夜だという。なぜなら、神におけるこの静けさ、いこいは、霊魂にとって深夜のように真暗ではないから。それは神的光、神の新しい知識のうちに味わういこい、静けさで、そこで、霊は神的光へと上げられて、ここちよくいこうのである。この光を曙光、すなわち朝に比較しているのは、きわめて適切である。なぜなら朝が明け始めると、夜のやみは追い散らされ、昼の光が現われるように、神においておだやかにいこうこの霊は、自然的知識のやみから神の超自然的知識へと立ちのぼるから。この知識はすでにいったとおり、明かるいものではなく、あけぼのの光がさしそめるころの夜のような暗さを伴っている。れいめいが近づくころの夜は、すっかり暗くもなく、すっかり明かるくもなく、いわゆる明暗の中間にある。同様に、この孤独も神的静穏も、神的光の完全な明かるさを伴わないけれども、そのいくぶんにあずかっていることも、また否めない。
24 この、いこいのさなかにあって、知性はふしぎな新しい様式で、自然的知力をすべて越えて、神的光へと上げられてゆく。それはちょうど長い間眠ったあと、予期していなかった明かるさに目を開く人のようである。ダヴィドが、次のようにいったとき。この種の知識を暗示していたように思われる。「私は目ざめた、そして私は屋根の上の孤独の雀のようだった」(詩篇101・8)すなわち、私は私の知性の目を開いた。そして私は自然的なすべての知識を超越し、これらの知識をぬぎすてて、屋根の上に孤独でいる。つまり地上のすべてのものを脚下に見て孤独でいるとの意である。ここで霊魂は自分が孤独の雀のようになったといっているが、それは、こうした様式の観想において霊魂は、この雀の特性をもっているからであって、この特性は五つある。第一は通常、一番高い所にとまること。そして霊魂も、この度合にあって、きわめて崇高な観想のうちにとどまる。第二は、風の吹く方向に、いつもそのくちばしを向けていることで、ここで同様に霊魂も愛の風、つまり神の方にその愛情のくちばしを向けている。第三はいつも孤独でいることで、ほかのどんな烏でも自分のそばにいることをがまんしない。もしもほかの鳥がそばに来ると、この雀はすぐ飛び去ってしまう。霊魂もこの観想において、すべてから離れ、すべてを脱ぎすて、自分のうちに、ただ神における孤独以外に、なにも許容しない。第四は、きわめて美しく歌うこと。霊魂も、そのとき神に向かってこのように美しく歌う。霊魂が神にささげる賛美の歌は、もっとも甘美な愛にみちているので、霊魂自身にとって、きわめてここちよく、神にとっては、きわめて貴重である。第五は一定の色がないこと。同様完全な霊魂も、この忘我の境にあって、感覚的愛情や自愛心のいかなる色も、もたないばかりでなく、さらに、天上のことについても地上のことについても、特定の思考を有せず、それらの様式について何もいうことができない。なぜなら霊魂は前述のように、神について深淵のような知識をもっているから。
沈黙の音楽
25 この夜の静けさと沈黙のうちで、また、この神的光明の知解のさなかで霊魂は、神の上知 が多種多様な被造物と、みわざとを、いかに適切に処理されるかを発見して感嘆する。これらの被造物のすべては、またその一つ一つは神とのある程度のつながりを有し、おのおのは、その様式にしたがって自分における神を宣言している。それは、霊魂にとって、全世界のあらゆる奏楽、旋律をはるかに越えたきわめて崇高な音楽の美しいしらべのように思われる。霊魂はこの音楽を沈黙の音楽と呼ぶ。なぜなら、それは前述のとおり、声のひびきの少しもはいらぬ静かなおだやかな知解であるから。そこで霊魂は音楽の甘美と沈黙の静けさを同峙に楽しむ。それで霊魂は自分の愛人がこの沈黙の音楽だという。それは、かれにおいてこそ霊的音楽の美しいしらべが知られ、味わわれるから。だがそれだけではなく、自分の愛人はまた、
”ひびきわたる孤独″だという。
26 このひびきわたる孤独は沈黙の音楽とほとんど同じである。なぜなら。この音楽は自然的感覚や能力にとっては沈黙であるが、霊的能力にとっては、きわめてひびきのよい孤独であるから。これらの霊的諸能力は自然的なあらゆる形や知覚から離れ、空虚になっているので、神ご自身において、また被造物において、神の卓越性の、この上もなくひびきよい霊的音楽を、よくききとることができる。これは前にすでにいったあの黙示録のなかで、聖ヨハネが見たこと、すなわちたくさんの琴弾きが、立琴から美しいしらべをひびかせていることに通じる。これは霊的の音楽であって、物質的な立琴のひびきではない。使徒ヨハネは、天国の聖人がたがおのおのその栄光の様式にしたがって絶え間なく神にささげている賛美を、ある様式において感知したのであった。これらの賛美は一つの音楽のようである。なぜなら。聖人がたはそれぞれ、ことなったまものを受けたため.おのおの固有の賛美を歌い、しかもこれらの声はとけ合って.愛の一つのの協和音となり、真の音楽を構成するから。
27 同様、霊魂もこのおだやかな上知のうちに、すべての被造物が―上級のものだけでなく、下級のものもすべてー各自、神から受けたたまものに従って、神がいかなる御者にましますかの証明をささげているのをきく。被造物のおのおのはその固有の能力に従って神を所有しているので、それぞれ独特の様式で神を賛えているのを見る。そしてこれらの声はみな一つに溶け 合って、神の偉大さ、上知、またその感嘆すべき知識を歌うしらべよき歌となって、たちのぼる。聖霊が知恵の書のなかで次の句をいわれたとき、われらに悟らせようとされたのはまさにこれである。「主の霊は全地球にみちみちた。そして神のみ手のすべてのわざを含むこの世界は声の知識をもっている」(1・7)と。この声とはひびきわたる孤独のことで、すべての被造物が神について自分の身においてささげる証明にほかならず、前述のように、霊魂はここで、これを感知して楽しむのである。霊魂はこのひびきよい音楽を、外的なすべてのものから離れた孤独のうちにおいてしか感知することができないため、これを沈黙の音楽、また、ひびきわたる孤独と呼ぶのである。そして愛人は、彼女にとって、まさにそれなのだという。
愛に酔わす、楽しい夕食
28 夕食は愛人たちに、楽しみと、飽満と愛とをもたらす。霊魂の愛人なる天の花むこも、この、こころよい交わりにおいて、霊魂内にこの三つの効果を生じる。それがためにこそ霊魂は愛人を”愛に酔わす楽しい夕食”と呼ぶ。聖書において夕食は見神を意味する。夕食が一日の労苦の終りであり、夜のいこいの始まりであるように、霊魂も前述のおだやかな知識のさなかで、その労苦のある種の終局と幸福の所有とを楽しむのであり、それによって、神に対する愛は、以前に比して、いちじるしくその熱を増す。そこで天の花むこは霊魂にとって、苦悩の終りであるゆえに”楽しい夕食”なのであり、幸福の所有であるゆえに”愛に酔わす”のである。
29 この夕食は、前述のとおり、愛人ご自身にほかならない。それでこの夕食が霊魂にとって、どういうものかをよりよく理解するため、愛人なる花むこご自身が黙示録のなかでいわれることに耳を傾けよう。「私は門の外に立って叩いている。もし私の声をきいて戸を開くなら、私はその人のところへはいって、かれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう」(黙示録3・20)このみことばによって、花むこは御みずから食事をたずさえておいでになり、この食事とはかれご自身が楽しんでいられる甘美、愉悦のことだということを悟らせてくださる。そしてこの甘美、愉悦は、かれが霊魂と一致なさるとき、霊魂にお与えになり、霊魂もまた、これを楽しむのである。「私はかれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう」とのことばの意味はこれである。それで、このことばは霊魂と神との一致の効果をいっているわけで、この神的一致において、神の宝そのものが神とその花嫁なる霊魂との間において共有となる。なぜなら神はこれらの宝を無償で、しかも大まかに霊魂にお渡しになるから。したがって神ご自身が霊魂にとってこの”愛に酔わすたのしい夕食”なのである。神はその花よめをご自分の大まかさで、楽しませ、深いいつくしみを示して彼女を愛に燃えたたせられるから。
30 残りの歌の説明を始めるまえに次のことを注意したいと思う。霊的婚約の状態にあって、霊は完全な静けさを味わい、この世で受けえられる限りのあらゆる恵みの伝達を受けるといったが、この静けさは霊魂の上部についてだけだと解さなければならない。なぜなら、まだ霊的婚姻に上げられていないうちは霊魂の感覚的部分は、いろいろの悪習をまだすっかり失っていず、後に説くように、そうした悪習の力を完全に服させていないから。それで、霊魂に伝達される恵みは婚約の状態において受けえられる最大の恵みと解すべきである。というのも、霊的婚姻の状態は霊的婚約の状態に比して、ずっとすぐれているから。もちろん前述のとおり、霊的婚約の時期にあっても、天の花むこのおとずれの折には、花よめなる霊魂は、すばらしい霊的富を楽しむことは事実であるが、ときとして霊魂はまだ、花むこの不在を苦しみ、また感覚的部分や、悪魔から来る不安とか、わずらわしさとかに悩ませられる。ところで、霊的婚姻の状態に達すると、こういうことはすべて終わってしまうのである。
次の歌についての注
1、花よめは、その完徳の度合に応じた徳を、霊魂内に所有し、愛人のおとずれを受けて通常 、平和を楽しんでいる。ときとしてそれらの徳は、花むこがなさる接触のために芳しい香をはなつことがある。それはちょうど、百合とか、そのほかの花が咲きほころび、それらを手にすると、その芳しい香や美しさで人を楽しませるのに似ている。たびたび、このような神のおとずれにあたって霊魂は、おのが霊のうちに自分のすべての徳を見るが、それは神が、そうした光を霊魂のうちに生じられるからである。そのとき霊魂はすばらしい愉悦と愛のこの上もなく、うましい味わいのうちに、これらの徳をみな集めて美しい花束として愛人にささげる。そしてそのとき、これを受けられる愛人は(かれは真実に受けられるのであるから)これによって、大きな奉仕をお受けになるのである。このようなことは霊魂の内奥で行なわれ、霊魂は愛人があたかも、ご自分の寝床にいられるかのように、そこにいられるのを感じる。なぜなら霊魂は自分の徳をささげながら、自分自身をもささげるのであるから。それは花むこにささげ得る最大の奉仕である。そして神との内的交わりにおいて霊魂が受けるのを常とする最大の愉悦の一つは愛人になすこのような奉献である。
2 さて悪魔は、この霊魂の幸運を感知する。かれはその邪悪な性質のために霊魂のうちに見る宝のすべてに羨望をいだき、そのごくわずかな部分なりとも攬乱しようとして、巧妙さのかぎりを尽し、奸策のすべてを用いる。事実、悪魔はこのような霊魂から、その富と光栄ある愉悦のただ一つの度合だけでも失わせるほうを、他の多くの霊魂をかずかずの重大な罪におちいらせることよりも高く評価している。なぜなら、他の多くの霊魂は失うものを何ももたないか、またはごくわずかしかもたないのに反して、このような霊魂は、きわめて貴重な莫大な富をかちえたのであるから、それはちょうど純金のごく少量を失うほうが他のつまらない金属を大量に失うより、もっと大きな損害であるのと同様である。それで悪魔はこの霊魂のうちに感覚的な欲求をかきたてようとする。しかし、この種の欲求は、このような段階にある霊魂にあっては、すでに衰弱しているので、悪魔はごくわずかなことしかできず、あるいは全然、何もできない。それでこの方面での自分の努力がむなしいと見ると、悪魔はこの霊魂の想像に種々さまざまのものを示して見せる。ときとしては、あらゆる種類の衝動を感覚的部分におこさせる―これについてはのちに語るであろう―またその他、霊的な、また感覚的ないろいろのわずらわしさをひきおこし、そこから逃れ出ることは霊魂にとって不可能なことである。詩篇に「主は、主をおそれる者らのまわりに、その使いをつかわし、かれらを救われる」とあるが、霊魂は主がこの使いを送ってくださって、自分を解放し、感覚的部分にも霊的部分にも、平和と静けさを確立されるまで待たねばならない。この時期にあたって霊魂は悪魔が、前述の害を加えようとして用いる奸策を経験によってよく知っているので、恐れをなし、この状態を知らせ、恵みを願うため天使に語りかける。こういうときに、悪魔を追い払い、霊魂を助けるのは天使の務であるから。それで次の歌をいう。