第12の歌

おお、水晶のような泉よ 
あなたの銀の水面に
熱く求めているあの目を、
私が胸のうちに、おぼろに描いていだく
あのひとみ
にわかに、あらわしてくれるなら! 

解説

2、霊魂は花婿との一致を、これほど激しく望んでいるのに、被造物のうちには、そのためのなんの手段も助けも見出さないので、愛人についてのもっとも生き生きとした光を与えてくれることのできるものとして、信仰に向かって話しかけ愛人との一致の手段としてこれをえらぶ。事実信仰こそ神とのの一致霊的婚約のための唯一の手段である神ご自身オゼアを通じて、これをわれらに悟らせてくださる「私は、あなたを信仰のうちに許婚しよう」(2・20)霊魂は燃えるような望みをもって次のようにいうが、これがすなわち、歌の意味である。おお、私の花むこなるキリストの信仰よ、おまえが闇と暗さでおおって(事実、信仰は神学者によれば暗い習性である)私のうちに注ぎ入れた、私の愛するかたについての真理を、今あきらかに私にあらわしてくれるなら そしてこれらの真理から突然、おまえが全く身をひいて、(なぜなら信仰は神的真理をおおうヴェールだから)判然としない暗い観念として私に伝えたものをはっきりと見せそれらを光栄の顕現にしてくれるならば そこで次の句をいう。

おお、水晶のような泉よ

3 霊魂は二つの理由のために信仰をクリスタリナ”(水晶のような)と呼ぶ。第一、それは花むこキリストについてのものだから。次にそれは水晶(クリスタル)の特性をもっているから。すなわち信仰は、真理において、純粋で、強くて明澄で、誤謬自然的形を少しも混じていないから。信仰は泉と呼ばれる。それは霊的なあらゆる宝の水が、そこから魂に注ぎ入るから。それで主キリストもサマリヤの婦人とお語りになったとき、信仰のことを泉と呼ばれ、かれを信じる者は「永遠の生命にほとばしる泉」を心のうちにもつようになると、おおせられた。(ヨネ4・14)この水とは、かれを信じる者が受けるはずの聖霊のことであった。

あなたの銀の水面

4 霊魂は信仰が教える事柄や信仰箇条銀の水面”と呼ぶ。この句とそれにつづく句とを理解するために、信仰箇条は銀に、それらが含む真理の実体は、金に例えられていることに注意すきである。事実、われらが信仰の銀のおおいのもとに信じているこれらの真理の実体は、来世においてわれらに、あらわに示されるであろう。そのときわれらは信仰のおおいから解き放たれた純金のように、それらを完全に楽しむであろう。それでダヴィドは信仰について語りながら次のようにいっている。「あなたがたが二つの歌隊の中間で眠るなら、鳩の翼は銀のようになりその背の末は黄金の薄光に包まれるであろう」(詩篇67・14)と。すなわち、われらが、知性の目を天上のことにも、地上のことにも閉じるなら(これを予言者はで眠ると呼んでいる)われらは信仰のうちにとどまるであろう。この信仰を鳩と呼び、信仰が教える真理を象徴するその翼は、銀でおおわれているであろうという。なぜなら現世において信仰は、これらの真理ヴェールにおおわれた暗いものとして、われわれに示すから。それがために霊魂は、それらを「銀の水面」と呼ぶのである。信仰が終りを告げ、神のあからさまの直観に場所をゆずるとき、信仰の実体そののヴェールから解き放たれ純金のように輝かしく現われるであろう。それで信仰は、われらに神自身を与え神と交わらせる。ただし、それは銀のヴェールにおおわれた神である。とはいえ、真実に神を与えることにおいて変りはない。それは、ちょうど銀メキした黄金の器を与える場合いくらメキしてあるとはいえ黄金の器を与えるのに違いはないのと同じである。それで雅歌の花よめが、神をこのように所有することを渇望したとき神は現世において可能な様式で、それが与えられると約束なさった。すなわち「おまえのために銀をちりばめた金の耳飾りをつくろう」(雅歌1・10)といわれた。このみことばによって神はご自分を、信仰のヴェールのもとにお与えになることを約束なさったのである。それで霊魂は信仰に向かっていう。おお、もしもおまえの銀の水のうちに”この銀の水面は前述の信仰箇条で、そのうちにおまえは神的光線の黄金を、つまり私が熱望する花むこの目を隠してもっている。それでただちにいいそえる。

あのあこがれのひとみを
にわかに、あらわしてくれるなら

5 ひとみとはくり返していうが、神的光と神的真理を意味するそして信仰はそれらを、おおわれた、はっきりしない信仰箇条のうちにわれわれに提示する。これはちょうどこういうにひとしい。おまえが信ずべき事柄のうちに隠して判然としない神秘的な様式で私に教えるこれらの真理もしも私が熱く望んでいるように、あからさまに、はっきりと示してくれるなら!霊魂は、これらの真理を目と呼ぶ。それは愛人の現存を心の奥深くにあまりにも強く感じ、かれが、いつも自分を見つめていられるように思われるからである。それで言う。

私の胸のうちに、おぼろげに描いて、いだく…。

6 彼女は愛人の目を胸のうちに描くすなわち、知性と意志とによって霊魂のうちに、お ぼろげに描いているという。事実彼女は信仰によって知性を通じて、神的真理を霊魂内に注ぎ込まれたのである。しかし、霊魂はまだ、それらについて不完な知識しかもっていないので、”おぼろげに描いてつまり素描ということばをいる。素描は、未完成な画である。同様に、信仰による知識もまだ完全なものではない。そのため信仰によって霊魂内に注がれる真理は素描のような状態であるが、明らかな直観の光に照らし出されるときには、それらは霊魂内において、完全に仕上げされたのようになるであろう。それは使徒聖パウロの次のことばのとおりである。完全なものつまり明らかな直観が来るときには、不完なもの、つまり信仰の知識は亡びるであろう(コリント前13・10)

7 しかしながら愛している霊魂のうちには、信仰の素描のほかに、さらにもう一つ愛の素描が存在するこの第二の素描は意志をじてなされるそれは霊魂内に愛人の像を、あまりにも深く生き生きと描きだすので愛の一致があるとき愛されている者は愛している霊魂のうちに愛している霊魂は、愛されている者のうちに生きていると真実にいえるのであるそして愛が、愛人たちの変化ということにおいて行なうこの相似は、きわめて完全であるためかれらのおのおのは互に、その相手の者になってしまい、両者は、まったく一つであるといい得るのであるその理由は.愛の一致、変化において一方は他方に自分の所有権を与え相互に身をまかせ合い相互に自分をとりかえ合うそのためかれらは、相互に相手のうちに生き、かれらのおのおのは真実に相手の者となりきって、両者は愛の変化によって一つとなる聖パウロもこのことを教えて私は生きているとはいえ生きているのは、もはや私ではなく、私のうちにキリストが生きていられるのだといっている(ガラア2・20)かれが私は生きているが、もはや私ではないというときかれは自分はまだ生きてはいるが自分自身の生命を生きているのではないなぜならキリストに変化されてしまったから自分の生命は人的であるより、むしろ神的であるということを示すのであるそれゆえ、生きているのは、もはやかれではなくかれにおいてキリストが生きていられるのだという。

8 それで、愛によるこの変化のもたらす相似という点で、パウロの生命とキリストの生命と愛の一致によって、ただ一つの生命でしかなかったということができる。神のうちにはいるに価したすべての者において神的生命へのこの変化は、天国で完全に行なわれるであろう。神に変化した者として自分自身の生命ではなく、神の生命を生きるであろうから。とはいえ、それはまた、かれらの生命でもあろう。神の生命はかれらの生命となるであろうから。そのとき、かれらは、れらは生きているとはいえもはやわれらではなく神がわれらにおいて生きていられるのだと真実にいい得るであろう。この変化は、聖パウロのうちに見られるように現世においても可能である。しかしながら、地上において、それは完全なもの完成されたものではありえないであろう。霊魂が地上で達し得るかぎりの最高の状態、霊的婚姻におけるような愛の変化に達した場合にさえもそうである。光栄における変化によるかの完全な姿に比べれば、それは愛の素描にすぎないから。とはいえ、この地上で可能なこの変化の素描が実現されるとき、それは実に大いなる幸といわねばならぬ。なぜなら、これによって愛人は非常に満足されるから。そのためかれは花よめが、その霊魂内に、かれを素描としてもっていることを望まれ、雅歌において次のように彼女にいう「私を印章のように、あなたの心に押し、印章のように、たの腕に押してください」(雅歌8・6)ここで心とは霊魂自身を象徴し、地上において神は、そのうちに、上述のとおり信仰の素描のようにとどまられる腕は強い意志を象徴し神はそのうちに、今言ったとおり、愛の素描の印章のように、とどまれるのである。

9 この時期における霊魂の歩みかたはことばでいい表わすには至極むずかしい状態にあが、とにかく私は、それについて少しばかり説明をこころみてみようこの霊魂の霊的また肉的実質は神の生ける水の泉へと彼女を引きつけるはげしい渇きのためにひからびてしまうかのようであるこの渇きはダヴィドが次のことばをもって表現しているものに似ている「鹿が水源を慕うように神よ私の魂もあなたを慕う私の魂は神を、活ける神を望み渇く私はいつ行って神のみをあおぎ見るであろうか?」(詩篇41・3)この渇きはあまりにも激しいしみをひきおこすのでこれをいやすためなら、霊魂はどんな危険もものともせず、ちょうどダヴィドの勇士たちのように、キリストを象徴するベトレヘムの泉水に行って、器に水をみたしてくるためフィリスチン人のまっただなかを突きぬけていくことさえ、なんでもないと思うことであろうが引きおこすあらゆる妨害、悪魔のすべての憤怒、地獄のどんな責も、この底知れぬ愛の泉に身を沈めにゆくためには、何ものでもないと見なすであろう。それがため雅歌のなかに、「愛は死のように強く、嫉妬は冥府のように執拗である」(8・6)といわれている。事実、至の善を味わおうとする寸前に、それを拒まれるとき、魂が感じる欲望と悩みの激しさは信じがたいほどのものである。というのも望みの対象が、まじかに見え、戸口のところにまで迫っていればいるほどそれが拒まれるときの悩みと苦しみは、いっそう大きいものであるから。このまったく霊的な意味においてヨブは次のように叫んだのである。「私は食する前に嘆息し私の呻吟は氾濫する洪水のようである」(3・24)かれが憧れ求める食物とは神ご自身である。ところで食物に対する欲望が強ければ強いほど、かつ、その快い味を知っていればいるほど、苦しみも、いっそう大きいのである。

次の歌についての注

1、この期における霊魂の悩の理由は、人は神に近づけば近づくほど、いっそう自分の うちに神のいまさぬ空虚と、もっとも濃いを感じるのみならず、さらに神と一致することができるように霊魂を浄化する目的でこれを乾燥し、浄化する霊的火が加わるからである事実、神が的に近くにましますとき、ご自身から発する超自然的光を、この霊魂の上に注がれぬかぎりこの魂にとって神は堪えがたい黒であるなぜなら、超自然的光は、まさにその強さのゆえに、自然的光を、くらくするものであるから。ダヴィドは、このことを次のようなことばで、われらに教えている「雲と闇とが、かれの周囲にある…日はそのみ前に先立って進む」(詩篇96・2)またの詩篇では「暗を、その覆いとし空の雲の暗い水を身にまとってその幕とせられたその御眼前の光ゆえに、雲はと炭火とを伴って進んだ」そしてこれらのことは霊魂がまさに神に到達しようとするときにおこるのであるなぜなら、霊魂は神に近づけば近づくほど上述のダヴィドのいっていることをますます深刻に験しが、愛の変化によって、ご自分の神的光輝のうちにはいらせてくださるまでは、このような状態がつづくのであるそれで、その間中、霊魂はヨブとともに常にくりかえしていう「私をして、主を知り、かつ見出し、もってその玉座に至らしめる者は、だれであろう」(ヨブ23・3)しかし神はその大いなる御いつくしみによって、この霊魂の暗黒と空虚とに応じてまた慰めと愛撫とを与えられるなぜなら「あなたにとって、やみはまた光のようである」(詩篇138・2)であるし、また神は高め、かつ光栄あらしめるためにのみ霊魂を、はずかしめ苦しめられるのであるから神はこのような苦しみのさなかにある霊魂に、ご自身より発するある種の光輝をお送りになるが、それは、あまりにも大きな光栄とあまりにも強い愛の力を伴うので、霊魂はことごとくゆりかされ、その自然的力はすっかり脱けてしまうそれで霊魂は非常な恐怖に捕われつ、次の歌の初めの部分を愛人に向かっていい愛人はつづけて残りの部分をいう