■目次
霊魂と天の花婿との間にかわされる歌
(花嫁)
1、どこにお隠れになったのですか?
愛するかたよ、私をとり残して、嘆くにまかせて…
私を傷つけておいて、鹿のように、
あなたは逃げてしまわれました。
叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
でも、あなたは、もう、いらっしゃらなかった。
2、牧場を通って、かなたの丘へと
行く牧者たちよ、もしも運よく、
私がこよなく愛するおかたに会うならば、
どうか、彼に言ってください。
私は病んでいます、苦しんでいます、死にます、と。
3、私の愛をさがしながら、私は行こう。
あの山々を越え、かの岸辺を通って。
花もつむまい、野獣も恐れまい。
強い敵も、国境を越えて行こう。
(被造物に問う)
4、ああ愛するあの方の手で
植えられた森よ、あつい茂みよ!
おお花をちりばめた緑の草原よ、
いってください、もしあのかたが
あなたがたの間を通られなかったかを!
(被造物の答)
5、無数の美をまき散らしながら
これらの林をいそいで過ぎてゆかれたのです。
そして、通りすがりにごらんになったのです。
かれはみ顔を向けられただけで、かれらに美をまとわせ
あとに残してゆかれたのです。
(花嫁)
6、ああ、だれが私をいやそうか!
どうか、もう真にあますところなく
あなたをお渡しください
もうきょうからは私に使者を送らないでください。
私がのぞむことを告げないあの人たちを
7、さまようすべての人々は、あなたについて
語ろうとする、百千の美を。
けれど、かれらはますます私を傷つけるばかり。
そして私も息も絶えるほどにすること、
それは、私の知らぬ何かしらかれらの口ごもること。
8、どうして生きながらえていられるのか
おお、私の生命よ、おまえの命ある
ところに生きていないで。
おまえに放たれた矢は、おまえを死なすはずだった。
おまえにいだかせた 愛するかたについての思いによって
9、なぜこの心を癒してくださらない?
これを傷つけたのはあなたですのに。
あなたはこれを盗み去られたのに、
なぜこのように捨てておかれるのです?
なぜあなたは、盗んだものを、もってゆかれないにです?
10、どうか私のいら立ちを消してください。
だれも、それを晴らし得ないのですから。
ああ、どうか私の目はあなたを見るように。
あなたこそ、その光なのですから。
私は、あなたのためにだけ、私の目をとっておきたい。
11、あなたの姿を私に現わしてください。
あなたの美しさを見て、私は息絶えますように。
あなたは知っていれれます、
愛の病気は、愛人の姿と
その顔を見る他に
癒す すべのないことを。
12、おお水晶のような泉よ
あなたの白銀の水面に
熱く求めているあの目を
私が胸のむちに、おぼろに描いていだく
あの瞳を
にわかに、現わしてくれるなら!
13、愛するかたよ、あなたの目を、背けてください。
私は飛んでいってしまう‥‥
(花婿)
13、お帰り、鳩よ
傷ついた鹿は丘の上に姿をのぞかせ、
お前の飛翔のそよ風に涼んでいるから。
14、私の愛するかたは山々
木々の生い茂る人毛のない谷
不思議な島々
響き高く流れる川
愛のそよ風のささやき
15、あの方は、また、あけぼのが
立ち染めるころの静かな夜
沈黙の音楽
響きわたる孤独
愛に酔わす、楽しい夕食
16、私たちのために狐どもを捕えて下さい。
私たちのぶどう園は、もう花盛りなのですから。
ばらの花で松かさを、いっしょに作りましょう。
どうか、丘の上には、だれも姿を現しませんように。
17、留まれ、死の北風よ
吹け、愛を目覚ます南風よ
私の庭を通して吹いて、 おまえの芳香をただよわせよ
そうすれば愛するかたは花の間で
饗宴をなさるでしょう。
18、おお、ユデアの女精よ
花とばらの木との間で
りゅうぜん香が芳香をはなつとき、
郊外にとどまっていてください。
そして、私のしきいに触れようとしてはなりません。
19、いとしい友よ、お隠れなさい。
顔を山々に向けて、お眺めなさい。
ものを言おうとなさいますな。
むしろ、不思議な島々に行く彼女の
伴侶たちをお眺めください。
(花婿)
20、軽やかな鳥よ
獅子よ、鹿よ、はねる野鹿よ
山よ、谷よ、岸よ、
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
21、調べも美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
お前たちの怒りをとどめよ。
壁に触れてはならない。
花嫁が、もっと安らかに眠れるように。
22、花嫁は言った
憧れの楽しい園のなかに。
そして心のままに憩っている
愛する者のやさしい腕に
うなじを傾けて。
23、かのリンゴの木の陰で
あなたは私に許嫁けられた
あなたは癒された。
あなたの母が傷つけられたその所で。
(花嫁)
24、花に飾られた私たちの床は
獅子の岩穴に囲まれています。
緋色の布が張られ
千の黄金の盾をいただいています。
25、あなたのみ跡を慕って
乙女らは軽やかに道を行きます
火花に触れられ
香よいぶどう酒に酔って
神の香油を吐きながら。
26、奥の酒蔵に入って
愛するあの方から私は飲みました
そして、そこから出た時
広い野原、見渡すかぎり
私はもう何も知りませんでした
追っていた群れも失いました
27、そこで、彼は私に
ご自分の心をくださいました。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました。
そして私は余すところなく
自分を彼に与えました
私は彼に、浄配となることを約しました。
28、私の魂はそのすべてをあげて
彼にお仕えしています
私はもはや群れを守りません。
もう他の務めはありません。
ただ愛することだけが私のすること。
29、もしも今日からは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
私は失われたのだとお言いなさい。
私は愛に燃えて歩みながら
自分を失うことにを欲しました。
でも結局自分を設けたのです。
30、さわやかな朝に選んだ
花とエメラルドで
私たちは花環を造りましょう。
あなたの愛に開いた花を
私の神の一筋であみ合わせて。
31、私のうなじにゆらぐ 一筋の髪の毛、
あなたはそれをお眺めになりました。
私のうなじの上に それを眺めて
あなたの心は捕らわれました。
そして私の一つのまなこは
あなたを傷つけました。
32、あなたが私を眺めていられたとき
あなたの目は私の上に
あなたの美しさを刻みました
これがためにこそ、あなたは私を熱愛され
それによって私の目は
あなたのうちに見たものを
拝する恵みにふさわしくなりました。
33、私をおさげすみになりませんように。
私の色は浅黒かったとしても、
今はもうあなたは私をよくお眺めになれるのですから。
そして愛らしさと美しさとを
私のうちにお残しになりましたから
(花婿)
34、白い小鳩はえだをたずさえて
箱舟に戻って来た。
そしてはや山鳩は憧れの伴侶を
緑の岸辺に見出した
35、孤独のうちに彼女は生きていた
孤独のうちにもはや巣を置いた。
そして孤独のうちに彼女を導くのは
彼女が愛しているかの人だだ一人
彼もまた孤独のうちに愛の傷について。
(花嫁)
36、ともに楽しみましょう、愛するかたよ、
行きましょう、あなたの美のなかで
お互いに見るために。
清い水の湧き出る山へ、丘へ
またあつい繁みのなかに
もっと深く入りましょう。
37、それから行きましょう
あの岩の高い洞穴に
あのよく隠れている洞穴に。
そこに私たちは入りましょう
そしてざくろの果酒を味わいましょう。
38、そこであなたは見せてくださるでしょう。
私の魂が切に願うあのものを。
そこであなたは直ちに賜わうでしょう。
おお私の命よ
他の火に私にすでにくださったあのものを。
39、そよ風は吹き
やさいしい小夜鳴き鳥の声が聞こえます。
森とそのうるわしき
澄んだ静かな夜に
焼き尽くして、しかも苦しませない
炎が燃えて…
40、だれも、それを見ませんでした。
アミダブも姿を見せません。
包囲はとけました。
騎士たちは水を見て
降りてゆきました。
霊魂と天の花婿との間にかわされる歌の概要
1、これらの歌は一つの霊魂が神に仕え始めてから完徳の絶頂、すなわち霊的婚姻に達するまでの道程を述べているのである。すなわち浄化の道、照明の道、一致の道を扱い、かつ、これらの道の特性と効果を説明する。
2、初めのいくつかの歌は初心者すなわち浄化の道を歩む人々に関するものである。それに続くいくつかの歌は、進歩しつつある人々を扱い、この時期に霊的婚約が、かわされるのであるが、これが照明の道である。終わりのいくつかの歌は一致に関するもので、それは霊的婚姻の行われる完全な人々の道である。この一致の道または完全な人々の道は、進歩しつつある人々の道と言われる照明の道に続くものである。最後の歌は完全な状態に達した霊魂の唯一の渇望のまとである至福の状態を語っている。
第1の歌
1、どこにお隠れになったのですか?
愛する方よ、私をとり残して、嘆くにまかせて…
私を傷つけておいて、鹿のように、
あなたは逃げてしまわれました。
叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
でも、あなたは、もう、いらっしゃらなかった。
第一の歌の解説
この第一の歌において霊魂は自分の花婿、神の御子なるみ言葉への愛に燃え、彼に一致したいと熱望し、おのが愛の焦燥を述べ、彼の不在をとがめる。しかも、彼はその愛によってこの霊魂を傷つけ深傷を負わせたので、霊魂はすべての被造物と、自分自身から出たのに、なおその愛人の不在を苦しまねばならない。それで霊魂は言う。
どこにお隠れになったのですか?…
神の本体はすべての人間の目には見えず、すべての人間の知性からは隠されている。ゆえに、この世において霊魂がどんなに素晴らしい神との交わりや神の現存を体験しても、これらは霊魂神の本質ではない。したがって、霊魂は自分に示されていることがどんなに偉大であろうとも、いつも神を隠れたものと見なし、“どこにお隠れになったのですか?”と言いながら、彼を探しもとめねばならない。
花嫁なる霊魂は御父に“どこにお隠れになったのですか?”と言う時、御子を示されることを願うのである。なぜなら、御父は御子を無限に愛していて、常に御子と共におられるからである。
さて、神の御子が御父と聖霊とともに隠れて住んでおられる場所は、霊魂の一番奥深くである。それゆえ彼を見出そうとする霊魂は、愛情と意志に関して、すべてのものから離脱し、自分のうちに入って、深く潜心していなければならない。聖アウグスチヌスも神に語っていっている。「主よ、私は自分の外にあなたを見出さなかった。あなたは内部においでになったのに私は誤って外部にあなたを探し求めたからだ」と。それで、神は霊魂のうちに隠れておいでになるのだから、よき観想者は、愛を込めてそこに神を探さなければならない、“どこにお隠れになったのですか?”と言いながら。
神が決して自分を離れることがないと知るのは霊魂にとって大きな慰めである。おお霊魂よ、あなたは自分自身のうちに、あなたの富、楽しみ、満足であり、あなたが憧れ求めている愛する御者を所有している。喜び踊れ、あなたはこんなにも近く彼を所有しているのだから。あなたのなかで彼を望め、彼を礼拝せよ、そしてあなたの外に彼を探し求めに行くな。それは、ただ気を散らせるばかり、疲らせるばかりであって、あなたの内部における以上に、より確実に、より迅速に、より近くに彼を見出し、彼を楽しみうるところはどこにもないからである。ただ一つ問題となること、それは、あなたの中に住んではいられても、彼はそこに隠れていられるということである。
それで、あなたは言うかもしれない。“私の愛する御者は私のうちに住んでおられるのに、どうして私は彼を見出しもせず感じもしないのであろうか?”と。その訳はこうである。あなたは、隠れたものを見出すために、あなた自身も同じように隠れ、そのものが隠れている奥深いところまで入って行っていないからである。それゆえ、彼を見出すためには、あなたは自分に属することを忘れ、すべての被造物から遠ざかり、内心の庵に隠れ戸を背後に閉めて(すなわち意志をもって一切のものを捨てて)隠れてましますあなたの父に祈ることが必要なのである(マタイ6・6)。このように、彼とともに隠れて留まるならば、あなたは密かに彼を感じるであろう。そしてひそやかに彼を愛し、喜び、ひそかに、つまり、あらゆる言葉、感情を越える様式で彼と共に楽しむであろう。そして、御子は、この地上では、神との一致の特別の恵みによって示され、来世においては本質的光栄によって、少しも覆い隠されることなく、顔と顔を見合わせる喜びのうちに示されるであろう。
愛する方よ、私をとり残して、嘆くにまかせて…と。
この霊魂は自分の全存在をあげて、神と共におり、その心を神以外の何ものにも愛着させていない。したがって、その思いは常に神に向けられているので、その霊魂は真実に、神を、“愛するかた”と呼ぶことができる。
また、霊魂は次に“私をとり残して、嘆くにまかせて…”と言い、愛人にとり残されたことを訴える。なぜなら、いくら神との親しい交わりがあったとしても、霊魂が、この世で味わい得る心の平安、静けさ、満足は決して完全なものではありえないからであるる。それで、まだ自分に欠けているものを希望しながら、心のうちに嘆かずにはいられないのである。なぜなら、嘆きは希望につきものであるからである。ここで、霊魂がその愛に燃える心の内に、抱いているのは、まさにこの嘆きなのである。特に、天の花婿が甘く味良い交わりをいくらか経験させたのちに、霊魂を突然、孤独と乾燥のうちに残して、遠ざかられるとき、この嘆きは一層激しい。それで、霊魂は直ちに言う。
鹿のように、あなたは逃げてしまわれました
ここで、花嫁が花婿を、鹿に例えている。彼女がこう言ったのは、花婿は、鹿のように伴侶を避けるからばかりではなく、姿を隠したり、現わしたりすることの迅速なためである。実に天の花婿のなさりかたはこうなのだ。彼は忠実な霊魂たちを喜ばせ、力づけるために、彼を訪れるが、そのあとで、彼を試し、へりくだらせ、教えるために、冷淡に扱い、不在をお感じさせになる。それがために彼らは花婿の不在を、一層辛く感じるのであって、それを霊魂は次の言葉をもってここに述べられている。
私を傷つけておいて
神はときとして、火の矢のように霊魂を傷つけ貫き、愛の火ですっかり焼灼する。これらの傷は意志と愛情とをあまりにも燃え立たせるので、霊魂は自分が愛の火焔のなかで灼熱し、これによって、霊魂は自分自身から出て、まったく新たせられ、あたかも新しい存在様式に移されたかのようである。そして霊魂は愛によって、無きものとせられ、愛の他には何も知らぬものとなる。このとき、欲求と愛情との変化は非常な苦しみと同時に神を見たい渇望を伴って行われるので、霊魂は、愛が自分に対して耐え難い厳しさを用いているように思える。それで霊魂はその苦痛がどれほど激しいものかわからせようとして言う。“私を傷つけておいて”と。
この霊魂の苦しみは非常に激しい。それは、神が霊魂に負わせた愛の傷におされて、意志の愛情は、接触をお感じさせになった愛する御者を所有しようとして、急激な躍動を生じるからである。これと同じ急激さで、霊魂は愛する御者の不在と、この世では望むままに彼を所有することは不可能であることを感じる。また同時に、直ちに、このような不在ゆえの嘆きをも感じるのである。このことを次のように歌う。
叫びながら、私はあなたを追って出て行きました。でもあなたはもういらっしゃらなかった。
愛の痛手の場合には傷つけた御者のほうからしか薬を得ることができない。それでこの傷ついた霊魂は、おのれを傷つけた火の力に押されて、癒してくださるようにと大声で哀願しながら、自分を傷つけた御者のあとを追って行くのである。ここで言われる「出る」ということを霊的に解釈すると、第一はすべてのものから離脱することで、それは、それらのものを憎悪し、軽蔑することによってなされる。第二は、自分自身を忘れることによって自分から離脱することで、それは神の愛によってなされる。なぜなら、この愛が、真実に霊魂に触れるならば、この愛は霊魂を高く上げるので、霊魂は自己忘却によって自分自身から出るばかりではなく、その本質の素質や様式や傾向からも引き出されるほどであるから。それで霊魂は神に向かって叫びながら次のような意味のことを言う。“おお私の天の花婿よ、この接触によって、この愛の傷によって、あなたは私の魂を、すべての事物からばかりでなく、私自身からもお引き出しになった―そしてあなたは私をあなたのほうに高くお上げになった。それで、私はあなたに向かって叫びながら行き、あなたを捕らえようとして、すべてから脱却してしまった。ああ、しかし、あなたは行ってしまわれた。
つまり、熱愛する魂は、愛する御者の不在のゆえに、絶えず悩みながら生きる。なぜなら、霊魂はすでに、愛する御者に自分自身を渡してしまい、この引き渡しが支払われること、つまり愛する御者がご自分を渡してくれることを期待しているのだが、彼は一向にご自分を与えてはくださらないから。霊魂は愛する御者のためにすべての事物と、そして自分自身をも失ったのに、その損失を埋め合わせる利得を何も見出さなかった。霊魂は、まだ、愛する御者を所有するに至らないのであるから。
完徳の状態に近づく人々においては、神の不在ゆえに引き起こされるこの苦しみ、この悩みは、こういう神的痛手を負わされるときあまりにも激しくなるので、もしも主が彼らをお支えにならなければ、彼らはそのために生命を失うことであろう。彼らの意志の味覚は健全で、霊は純粋で、神の御働きに対してよく用意さえており、また他面、先に述べた接触において、彼らが万事にこえて渇望する神の愛の甘美さの幾分かを味わうことが許されたがために、彼らはなんとも言いようのないほど苦しむ。彼らには無限の至宝がいわば垣間見せるれ、しかもそれが与えられないのである。それで、この名状しがたい苦しみ、悩みが生じるのである。
第2の歌
牧場を通って、かなたの丘へと
行く牧者たちよ、もしも運よく、
私がこよなく愛するお方に会うならば、
どうか、彼に言ってください。
私は病んでいます、死にます、と。
解説
この歌において、霊魂は、自分の愛人を目の当たりにしながら、彼と交わることができないので、自分と愛人との間に第三者、つまり仲介者を用いようとしている。そして自分の苦しみを彼に伝えてくれるようにと彼らに願う。霊魂はここで、心の秘密を愛人に告げ知らせることのできる使者として、自分の望みや愛情や嘆きを利用しようとして、彼らに行くことを求めて言う。
牧場を通って、かなたの丘へと行く牧者たちよ、
霊魂は、自分の望み、愛情、嘆きをさして牧者たちと呼ぶ。なぜなら、これらは霊魂を霊的な善で養うからである。牧者は養牧する者の意味であり、神はこれらのもの、すなわち望み、愛情、嘆きを介して霊魂とお交わりになり、霊魂に神的牧草をお与えになる。これらのものなしには、神は霊魂とわずかしかお交わりにならない。それで、霊魂は…(かなたの丘へと)行く牧者たちよ、と言うが、それはすなわち、純粋な愛から出たものという意味である。事実、すべての愛情や望みが神まで行くのではない。ただ真の愛から出たものだけがそこにまで達するのである。
牧場を通ってかなたの丘へと‥‥
霊魂は天使の階級、天使の隊を指して牧場と呼ぶ、私たちの嘆きや祈りは、これらの天使の階級を次々と経て神にまで達するのである。霊魂は神を丘と呼ぶ。なぜなら神は至上の高さそのもので、神において、ちょうど丘の上からのように、すべてのもの、そして高い、または低い牧場がすっかり見晴らされるからである。我らの祈りはこの丘に向かって行き、前述のように、天使たちがそれらを捧げてくれる。また「牧者」を、これらの天使たち自身の意に解することもできる。彼らは我らの伝言を神に持って行くばかりでなく、また、神の伝言も我らにもたらしてくれる。彼らは親切な牧者のように、神との甘味な交わりや、神よりの快い霊感で我らを養う。神は、こういう恵みを我らに与えるために、彼らを仲介としてお用いになるのである。そして我らを、オオカミ、すなわち悪魔から守護し防御してくれるのもまた彼らである。それで、「牧者」を自分の愛情と解するにせよ、天使だと考えるにせよ、いずれにせよ霊魂は自分の愛人に対して仲介者の役を果たしてくれるようにと切望しているのである。それで、彼ら皆に向かってこう言う。
もしも運よく‥‥会うならば
その意味は“もしも私にとって幸いにも、あなたがたが、彼らの前に出て、彼があなた方を見、あなた方に聞くようになれば”‥‥である。ここで注意すべきは、神はすべてを知り、すべてを知っておいでになるのである(申命31・21)。にもかかわらず、彼が我らの困窮を救い、または願いを満たしてくださるとき、これをご覧になる。あるいはお聞きになると言われる。というのは、我らの困窮や願い事が、神に聞き入れてくださるほどの度合いに達するのは、神の御目が、時期としても時間としても、度数としても、もう十分とお認めになったときにおいてであるから。そのときはじめて、神はご覧になった、お聞きになったと言われる。これについて出エジプト記に一例がある。イスラエルの子らはエジプト人に隷属して苦しむことすでに四百年を経て、神は、はじめてモーゼに向かって仰せられた「私は私の民の悲しみを見た、そして彼らを救うために下って来た」(出エジプト3・7)と。しかしながら、この悲しみを神はいつも見ていられたのである。それゆえ、だれでも、自分の必要を神がただちにお満たしくださらず、また自分の祈りをただちにお聞き入れくださらなくとも、勇気を失わず辛抱し続けるかぎり、いつか適当なときに、神は必ず助けてくださるということをよく悟らないといけない。なぜならダビデも言っている通り、「主は艱難の時の折りよき援助者」(詩編9・10)であるから。これがちょうど“もしも運よく…会うならば”という言葉で霊魂が言おうとしていることである。つまり、私の願いが神に聞き入れられるに適した時が、運よく到来したのであるならば、という意味である。
私がこよなく愛する方
すなわち、私がすべてにこえて愛する者の意である。これは、霊魂が、神への奉仕のためならば、どんなことでも敢然と果たし、また苦しむ覚悟があるときに真実である。また、霊魂が次の句の意味することを真実に言うことができるとき、それも同じく、神をすべてに越えて愛している徴である。
どうか、彼に言ってください。
私は病んでいます、苦しんでいます、死にます、と。
ここで霊魂は三つの苦境を示す。すなわち、病気、苦悩、死である。事実、ある程度の完全な愛をもって神を愛する霊魂は、神の不在を三つの様式で苦しむ。つまり霊魂はその三能力、知性、意志、記憶において苦しむのである。なぜなら、神は知性の健康であられ、神は意志の清涼で愉悦であられるからである。また記憶については死と言っている。なぜなら、神を見るという知性の宝のすべてと、神を所有するという意志の愉悦を思い出し、また一方、この世のさまざまの危険や罪の機会に常にさらされていて、神を失うことが大いに可能であることを考えるとき記憶において死のような感じに苦しむからである。これらの三つの苦悩は信、望、愛の三つの対神徳に関連し、これらの対神徳は前述の三つの能力、ここに記された順序によれば、知性、意志、記憶に関連している。
ここに注意すべきは、霊魂は、この歌の中で、ただ、自分の必要と苦悩を愛人に表明するに止めていると言うことである。なぜなら、思慮深く愛する者は、自分に欠けているものや望ましいものを求めるようなことをせず、ただ、自分の必要を表明し、愛人がその心のままにするのに任せるものであるから。聖母はガリラヤのカナの婚宴において、ちょうど、このように振る舞われた。愛する御子に、彼女はブドウ酒を直接にお願いにはならず、ただ、「あの人たちにブドウ酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と言われたのみであった。第二には愛人は自分を愛している者の必要と同時に彼らの忍従を見る時に、もっとも深く同情するものだからである。第三に霊魂は、自分に必要だと思われることを願うよりも、自分に欠如しているものを単に表明するに留めておくほうが、自愛心や利己心から一層、安全に守られるからである。ここで霊魂はちょうどこの通りに振る舞って、自分の三つの必要を表明するに留めるのである。それはあたかも次のように言うに等しい。どうか私の愛人に告げてください。私は病んでいます、そしてあなただけが私の健康なのですから、健康を与えてください。私は苦しんでいます。そしてあなただけが私の喜びなのですから、私に喜びを与えてください。私は死にます、そしてあなただけが私の生命なのですから私に生命を与えてください、と。
第3の歌
私の愛をさがしながら、私は行こう。
あの山々を越え、かの岸辺を通って。
花もつむまい、野獣も恐れまい。
強い敵も、国境を越えて行こう。
解説
霊魂は愛人を見出すためには、嘆きも懇願も、第一と第二の歌のなかでしたように、よい仲介者の助けを借りることも十分ではないことがわかる。そこで、この第三の歌において、霊魂は自ら、努力して彼を見出そうと努力し、そのためにどんな方法をとるかを述べる。
私の愛を探しながら
霊魂は、ここで神を真実に見出すためには、心や舌をもって祈ることも、他の人々の好意にすがることも、十分ではなく、これとともに、自分の力に及ぶことをすることを決意する。この霊魂は「探せ、そうすれば見つけ出す」(ルカ11・9)との愛人の言葉を思い出し、自分の業によって彼を求めるべく出かけて行き、彼を見出さないうちは決して止めまいと決意している。それゆえ、その霊魂は、いかなる好みや快楽のうちに留まらずに神を探す。私の愛を探しながら言う。
私は行こう あの山々を越え かの岸辺を通って
山々は高い。それは、ここでは徳を意味する。というのは、徳は崇高なものだからであり、また、徳の山を登るには困難、労苦を通過しなければならないからである。つまり霊魂は徳によって観想生活を修練しながら行くということである。岸辺は低い。それは抑制、苦行その他の霊的修行を意味する。霊魂はこういうことにおいて、修練をつみながら、今言った観想生活に活動を合わせてゆこうというのである。なぜなら確実に神を見出し、徳を獲得するためにはこの両方が必要だからである。それは、あたかもこういうに等しい。私の愛人を探しながら、私は高い徳を実行し、抑制や謙遜の修練によって、自分をへりくだらせてゆこうと。事実、神を求める道は、神において善を行い、おのれにおいて悪を抑制しつつ行くことである。そこで、霊魂は次の句において言う。
花もつむまい
この句において、霊魂は、途中で見かける花をつむまいという。花とはすなわち、この世において、自分に自分に差し出される楽しみ、満足、快楽のことを意味し、もしもそこに留まったり、座り込んだりすれば、キリストに導くまっすぐな道のために要求される霊的赤裸の妨害となる。それで、霊魂は神を見出すために、こういう楽しみのいずれをも、摘み取るまいと宣言する。それはちょうどこう言うことに等しい。私の心をこの世俗が差し出す富や財産のうちに置くまい。肉の満足や享楽は受け入れまい。霊的味わいや慰めにも心を止めまい。こうして徳や労苦の山々を越えて、私の愛を求めることを、何ものによっても、引き留められないようにしようと。
野獣も恐れまい
強い敵も国境も越えてゆこう
この句において霊魂は、世間、悪魔、肉という三つの敵をあげている。これらは絶えず霊魂に戦いを挑み、道を困難なものにする。強い者は悪魔を、国境は肉を意味する。世俗を野獣と呼ぶのは、世俗はまるで残忍に脅迫する野獣のように想像に上がって来るからである。第一に、世俗は、自分の持つ友人、信用、財産を失くすだろうと想像させ、第二に、世間からの満足や、世俗の喜びなしに、どうして耐えて行くことができるのかと想像させ、第三に、人々からの、言葉による攻撃を受けること、自分が嘲弄、悪口、ひやかし、軽蔑のまととなるのだと想像させる。これらを、ある霊魂にはあまりにも如実に示されるため、これらの野獣と戦い続けて行くことが、ひどく困難であるばかりでなく、道に一歩踏み出すのさえもっとも困難なことになる。しかし、もっと雄々しい霊魂は、他のもっと内的で、もっと霊的な野獣に会わなければならない。それはいろいろの種類の困難、誘惑、迫害、試練であって、彼らはそれを通過しなければならない。神は、高い完徳に上げようとせられる霊魂に、こういうものをお送りになり、火中の金のように、彼らをお試しになる。ところで、万事に越えて、自分の愛人を尊重している愛に燃える霊魂は、愛人の愛と恵みに信頼し、次のように言うことを決して言い過ぎとは思っていない。”野獣も恐れない”
そして強い者も国境を越えてゆこう
第二の敵である悪魔を、霊魂は「強い者」と呼んでいる。なぜなら、彼らの誘惑や狡計は、世俗や肉のそれより一層激しく、打ち勝つに、一層難しく、かつ、一層、分かりにくい上に、先の二つの敵、すなわち世間と肉を用いて、一層強くなって、霊魂に激しい戦いを挑むからである。悪魔の力と比較され得る神の光のみ、彼の謀略を見破ることができる。それゆえ霊魂は、念禱にキリストの十字架よらないでは悪魔の力に打ち勝つことはできないし、抑制と謙遜なしには、悪魔のたぶらかしを見破ることができない。
霊魂はまた国境を越えてゆこうという。国境とは、霊に対する肉の自然的嫌悪反逆を意味する。聖パウロも「肉の望むことは霊に反す」(ガラテア5・17)と言っている。肉は霊的な道をはばんで、あたかも国境のように、そこに立ちはだかっているのである。霊魂は、困難を打ち破り霊の力と決意とをもって、感覚的欲求と自然的愛好をことごとく倒しながらこれらの国境を越えてゆかなければならない。なぜなら、霊魂内に、こういうものを持ち続ける限り、それらは霊をあまりにも重く圧し続けるので、霊魂は真の生命や霊的愉悦を享受することができないからである。これを聖パウロは「もしも霊をもって肉の傾向と欲求とを殺すならば、あなたは生きるだろう」と明らかに教えて言う。これが上掲の歌の中で、霊魂が、この道において愛人を追求するにあたって、とるべき基本方針だと言っているものである。これは要するに、花を摘もうとして身をかがめないために、極めて堅忍不抜で大胆であること、野獣を怖れないために勇敢であること、強い者が国境とを越えて行くために強くあること、そしてすでに説明したとおり、徳の山々や岸辺を越えて行くことのみを考えていることである。
第4の歌
ああ愛するあの方の手で
植えられた森よ、あつい茂みよ!
おお花をちりばめた緑の草原よ、
いってください、もしあのかたが
あなたがたの間を通られなかったかを!
解説
霊魂は、享楽、愉悦に留まることなく、誘惑や困難に雄々しく打ち勝とうと決意している。そこに神を知るために霊魂が第一にしなければならないことは、被造物についての考察や認識を通じて、創り主を認識することである。それは被造物を通じて神の偉大さや卓越性を考えさせられるからで、使徒聖パウロも「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1・20)と言っている。ここでで、霊魂は被造物に向かって質問すると言うことは、造物主を考察することだということに注意しよう。
おお森よ、あつい茂みよ
森と呼ぶのは諸要素のことで、それは、土、水、空気、火である。なぜなら、それはきわめて心地よい森のように、種々様々の被造物で満ちているからである。そしておのおのの要素のなかにある被造物の数や種類がおびただしいため、これらの被造物をさして厚い茂みと呼ぶのである。土には数えきれないほどの種々雑多な動物や植物がある。水の中には無数の異なった魚類がいる。空中には、おびただしい鳥類がいる。日にはあらゆる被造物を活気づけ、また存続させるために協力する。それで、生物の各々は自分の本領を発揮できるところに生きている。それは言わば発生し成長するために適した森、または領域に植えられ、置かれているのである。実際神は天地創造の際、このようにお命じになった(創世記1)すなわち地には植物と動物を、海と水には魚を生じるように、空には鳥の住まいとなるように命じられたのである。霊魂は神がこのように命じられ、そしてすべてはそのとおりなされたのを見て次の句を言う。
愛するあの方の手によって植えられた‥‥
この句のなかには次の考察が含まれている。すなわち、このように種々様々なもの、偉大なものは、ただ、その愛人である神の御手のみがつくり、かつ、生じさせたことがお出来になったのだということである。ここで注目すべきは、霊魂が、特に注意深く”愛するあの方の手によって”と言っていることである。なぜなら、神は他の多くのものを他のものの手を借りて、たとえば、天使や人間の手によって、行われるとしても、創造は、神ご自分の御手以外の他の手によっては決して行いにならなかったし、またお行いにならないからである。そこで、霊魂は、これらの被造物は、愛する神の御手の業であることを知るので、これらを眺めることによって、神に対する愛に強く心を動かされるのを覚える。そして言う。
おお 緑の草原よ
これは天についての考察で、天を緑の草原と呼ぶ。それは、天に創造されたものは、時と共にしおれたり、枯れたりすることのない、決して色あせぬ緑草のようなものであるから。また義者たちはあたかも新鮮な緑草のなかにいるかのようにそこで楽しみ、憩っているから。またこの緑草という言葉は、いろいろの種類の美しい星や、その他、天界のさまざまの遊星をも意味している。
この緑という名詞は、教会もまた天上の事柄をさし示すために用い、死んだ信徒の霊魂のために神に祈願して「神が、あなたがたを福楽の緑の草原のうちに住まわせてくださるように」との意味である。そして霊魂はまたこの緑の草原は”花をちりばめた”といっている。
花をちりばめた
この花とは天使たちや聖なる霊魂たちのことである。かれらによって、天の園生は飾られ美しくせられていて。それはちょうど、とうとい金の器に優雅な極上の七宝をほどこした観がある。
いってください もしやあのかたが
あなたがたの間を通られなかったかを
この問は前述のとおり、この霊魂がただ創造主のみを目的としていることを示すもので ”かれがどんなすぐれたものをあなたがたのうちに造られたかを私に告げてください”との意である。
第5の歌
(被造物の答)
無数の美をまき散らしながら
これらの林をいそいで過ぎてゆかれたのです。
そして通リすがリにごらんになったのです。
かれはみ顔を向けただけで、
かれらに美をまどわせ、あとに残してゆかれたのです。
解説
この歌のなかで、被造物は霊魂に答えている。この答とは、考えながら質問している霊魂に向かって、神の偉大さや卓越 性について、被造物が、みずからにおいて与える証明である。この歌のなかに含まれていることを要約すると、神は万物をきわめて容易に、かつ短時間でお造りになり、それらのなかにご自分がどういうものであるかの、薄い反映をお残しになった。神は被造物をただ無からお引き出しになったばかりでなく、それらを数えきれない美と長所とをもってお飾りになり、それら相互の間に簡単すべき秩序と、不可欠の相互依存とを定めて美化なさった。そしてそれはみな、ご自分の上知のわざなのであり、上知とはすなわち、万物がそれによって造られたかれの御独子、聖言葉である。そこでいう。
無数の美をまきちらしながら
ここで、まきちらしながらゆくといっている無数の美とは、無数の被造物を意味し、その数のおびただしいことをわからせるために無数という最上級の数が用いられているのであり、美と呼ぶわけは、被造物に与えられたあまたの美のためであり、まきちらしながらとは、これらのものを世界のいたるところにお住まわせになったとの意である。
いそいで、これらの林を過ぎてゆかれたのです
林を通り過ぎてゆくとは諸要素(土、水、火、空気)を創造することで、ここではこれらの諸要素をさして林と呼んでいる。そして無数の美をまきちらしながらそれらを通り過ぎていったとは、優雅な被造物でそれらをお飾りになったからである。なお、その上、それらに、すべての被造物の増殖と保存とに協力することができる力を賦与なさったのである。そして、”通り過ぎてゆかれた”といっているのは被造物は神の足跡のようなものであるからで、かれらは、神の偉大さ、能力、上知、その他の神的完徳の何かしらを反映しているから。また、”いそいで”通り過ぎてゆかれたといっているのは、被造物は神の小さい作品であり、ちょっと通りすがりにお造りになったようなものであるから。神が御みずからをいっそうよくあらわされ、いっそう注意深くなさったみわざとは聖言のご託身やその他のキリスト教の信仰上の奥義である。これらに比べては、他のすべてのことは通りすがりに、いそいでお行ないになったようなものである。
そして通りすがりにごらんになったのです。
かれはみ顔を向けただけで
かれらに美をまとわせ、あとに残してゆかれました
神は、ただ、その御子のみ顔をもってのみ、すべての被造物をお眺めになった。すなわち神は、これによって、かれらに自然的有と多くの自然的美とのたまものを与えられ、かれらを仕上げて、完全なものになさったのである。創世記に、「神はご自身が造ったすべてのものを見られた。それははなはだよかった」(創世記1・31)といわれているとおりである。これらを、はなはだよかったと見るとは、これらをその御子、聖言葉においてはなはだよいものとしてお造りになることである。そして、かれらをごらんになることによって、かれらに自然的有と、美とをお与えになったばかりでなく、さらに、ただ御子のみ顔を向けただけで、かれらに、美をまとわせて、あとに残してゆかれた。すなわち、聖言葉のご託身に際して、かれらに、超自然的有を賦与なさったのである。このとき、神は人間を神的美にまでお高めになり、また、人間において、すべての被造物をお高めになった。なぜなら神は人間において、すべての被造物の自然性に一致なさったからである。それで神の御子は御みずから、「私が地上から上げられるとき、すべてを私に引きよせるであろう」(ヨハネ12・32)とおおせられたのである。そこで御子のご託身と、そのご肉体の復活の崇高な奥義によって、御父は、被造物に部分的な美をお与えになったばかりでなく、さらにあますところなく完全に、美と尊厳とをかれらにおまとわせになった、ということができるであろう。
次の歌についての注
さて今、われわれは、観想的感覚と情感とにしたがって語っているのだが、霊魂は、このように被造物を観想するとき、そこから汲み出す生き生きした認識によって、かれらのうちに、神のたまものであるあまりにも豊かな魅力と完全さと、美とを発見する。それがため、これらの被造物は、神のみ顔の超自然的無限の美から由来する自然的美と、完全さとを着せられているように見えるのである。神が、ごらんになるとき、全地上はおろか、全天国は美と歓喜で包まれるのである。ダヴィドも「あなたは、み手を開いて、あらゆる生物を祝福でみたされる」(詩篇144・16)といっているではないか?被造物のうちに発見する愛人の美の足跡によって、愛に傷つけられた霊魂は、可見的美が生ぜしめた不可見的美を見ようとの望みにかられて、次の歌を述ベる。
第6の歌
ああ たれが 私をいやせようか!
どうか、もう、真にあますどころなく、あなたをお渡しください。
もうきようからは、私に使者を送らないでください。
私がのぞむことを告げえないあの人たちを。
解説
霊魂は、愛人の美と卓越性のあわい反映を認識したため、愛は増大したが、同時に愛人の不在を苦しむ苦痛も増大したのである。なぜなら霊魂は神を知れば知るほど、ますます神を見たいという欲求と苦悩が増大するものであるから。霊魂は、愛人を見ること、愛人の現存を楽しむこと以下のものをもっては、満足することはできない。それで、神ご自身を彼女に渡してくださるよう、懇願しつつ、いう。
ああ、たれが私をいやせようか!
これは、世俗のあらゆる楽しみも、感覚の満足も、霊の慰めも甘美も何ものも、たしか に、私を、いやすことはできないし、満足させることもできないであろうとの意味である。それゆえ
どうか、もう真に、あますところなく
あなたを、お渡しください
真実に愛している霊魂は、神を真に所有するまでは、喜ぶことも、みたされることも望み えない。なぜなら、他のすべてのことは、霊魂を満足させないばかりでなく、かえって、神をありのまま見ようとの渇きと、欲求とを増大させるからである。それゆえ、愛人についての、なんらかの知識や、感動や、伝達を受けるたびごとに、それらは、愛人がどんなおかたであるのかの知らせを、もたらす使者のようなもので、ちょうど、飢えている人に差し出すパン屑のように、彼女の望みを増し、激しくするばかりである。霊魂は、こんなわずかなもので、飢えをまぎらされることを、非常に苦しく感じるので、”どうかもう、あますところなく、真に、あなたを、お波しください”というのである。
事実、この世で、神について知り得るすべてのことは、どんなに崇高なものであろうとも、真の認織ではない。それは、部分的で、実際からきわめて遠い認識だからである。しかるに神を本質的に知ることこそ、真の認識であって、霊魂が、ここで切望しているのはそれである。霊魂は、もはや、他の部分的な伝達では満足しない。それでただちに、こういう。
もうこれからは 私に使者を送らないでください
すなわち、もうこれからは、知解とか感動とかの使者によってもたらされる、あのように不完全な認識によって、私があなたを知ることを、おゆるしにならないでください。このようるな認識は、私の霊魂が、あなたについて切望していることとは、あまりにも遠くへだだっている。それにあなたは、よく知っておられる、おお、私の天の花むこよ、愛人の不在を苦しんでいるものにとって、使者たちは、ただ、苦しみを増すばかりだということを。それは、第一、かれらは、そのもたらす知解によって、私の傷手を新たにし、次にあなたの到着がまたさらに遅れることを思わせるから。それゆえ、もうきょうからは、このような遠い知解を送らないでください。今まで、このようなもので、私がすませてこられたのは、あなたをよく知らなかったし、それほど愛してもいなかったからである。しかし、私が今いだいている大きな愛は、もはや、このようなもので満足はできない。
私がのぞむことを、いいえないあの人々
この意味は、霊魂が、あなたについて、もちたいと望んでいる知解を霊魂に与え得る使者は天にも地にも一つもない。それゆえ、このような使者の代りに、どうか、あなた自身が使者となってください。
第7の歌
さまようすべての人々は、
あなたについて語ろうとする、百千の美を。
けれど、かれらはますます私を傷つけるばかリ。
そして私を息も絶えるほどにすると、
それは、私の知らぬ何かしらかれらの口ごもること。
ここに掲げた歌では、霊魂は、天使や人間を介して受ける愛人についてのより高い知識のゆえに、愛の深傷を受けていることを知らせる。そればかりではなく、これらの被造物を介して示される感嘆すべき神を見て、自分は愛のあまりに、死ぬばかりになっているともいっている。とはいえ、神は完全に霊魂に示し尽されたわけではないので、霊魂はここでそれを”私の知らぬ何かしら”と呼ぶ。しかし、それは霊魂を、愛のあまりに死ぬばかりにさせるほどである。
ここで、愛人について持つ三つの知識の様式に関連して、愛人に対してもつ三種類の苦しみがある。
- 負傷と呼ばれ、きわめて浅い傷で、比較的短時日でなおってしまう。なぜならそれは、理性のない被造物から受ける知識によって生じるもので、これらの被造物は、神のわざのなかで、もっとも下級のものであるから。
- 深傷と呼ばれ、聖言葉のご託身やその他の信仰上の奥義のわざの知識によって、霊魂内につくられる。これらは、神のもっとも偉大なわざであり、下級の被造物を生ぜしめた愛よりも、はるかにすぐれた愛を、そのうちに含む。したがって、これらが霊魂内に生じる愛の効果も、いっそう大きい。つまり、単なる負傷ではなくて長くつづく深傷を生じるのである。
- 死苦である。この愛による死は、神性についての至高の知識が霊魂に触れることによって生じる。この歌のなかで”私の知らぬ何かしらかれらが口ごもること”といっているのはこのことである。この接触は長つづきするものでもない。さもなければ、霊魂は肉体から解き放たれてしまうであろう。しかし、それはまたたく間に過ぎ去って、霊魂は愛に死ぬばかりになってとりのこされ、しかも、愛によって死にきれないのを見て、ますます深刻な死苦を味わう。
この歌の中で上の2、3を歌っている。そしてこれらの苦しみは、神についての知識を天使や人間が語るのを聞くときに突如与えられる神性についての感動や知識から霊魂に起こるのである。それで次のようにいう。
さまよう、すべての人々は……
”さまようすべての人々”は、天使と人間を意味する。そして、これらの理性的被造物を通じて、霊魂は神についての、いっそうはつらつとした知識を受ける。たとえば天使らのように、ひそやかな霊感によって内的に教えてくれるし、他のものは、聖書の真理を用いて、外的に教えてくれる。それでいう。
かれらは、あなたについて語ろうとする、百千の美を
これはすなわち、かれらは、あなたのご託身のわざや、その他あなたのことを私に教える 信仰上の真理におけるあなたの美しさや、憐れみの感嘆すべき事がらを悟らせ、しかも常にますます多くのことを、私に語ろうとする。なぜなら、多く語れば語るほど、ますます多くの美しさを表わすことができるであろうから。
けれどもかれらは、ますます、私を傷つけるばかり
というのは、天使たちが、私に霊感を与えれば与えるほど、また人間があなたについて私に教えれば教えるほど、私は、ますます激しく愛に燃えたち、このようにして、すべての被造物は私をますます愛に傷つけてゆくからである。
そして、私を息も絶えるほどにすること
それは、私の知らぬ何かしら、かれらの口ごもること
これは次のような意味である。神は、霊魂が、きいたり、見たり、知ったりする事柄によって、あるいは、そのようなことは何もないときにも、至高の知識を授けるという恩ちょうをお与えになる。神は、ご自分の崇高さ、偉大さをわからせ、またはお感じさせになるのである。この場合、霊魂は神の崇高さを、あまりにも強く感じるので、神についてはすべてが未知のこととして残されていると、はっきり悟るほどである。このように神性が、知り尽しえぬほど広大無辺だと悟り、かつ、感じることは、きわめて崇高な知識である。それゆえ、神が、この世で、ある霊魂にお与えになるきわめて大きな恵みの一つは、神については完全に理解し、感じることは不可能なのだと、はっきりわかるほど、神の崇高さを明らかに悟らせ、かつ感じさせることである。なぜなら、これは天国で神を見る者らの様式に、いくらか似ているから。天国では、神をよりよく知る者ほど、自分にはまだ知るべきことが無限に残されていることを、はっきり悟る。これに反して、神をより少なく見る者らは、まだ見ずに残されていることを、多く見る者のように、はっきり悟らないのである。このことは、経験がない者には完全に理解できない。しかし、これを経験する霊魂は、自分が強く感じているものが、やはり自分にとって未知のこととして残されているのをわかるので、それを”私の知らぬ何かしら”と呼ぶのである。なぜなら、理解できないことはいうこともできない。それで、霊魂は、被造物が、完全に知らせることができず、ただ口ごもるばかりだという。
第8の歌
生きながらえて、いられるのか
おお、私の生命よ、おまえの命のあるところに生きていないで。
おまえに、放たれた矢は、おまえを死なすはずだった。
おまえに、いだかせた、愛するかたについての概念によって (最後の行の直訳-愛人より、おまえのうちに受胎したものによって)
解説
どうして、生きながらえて、いられるのか
私の生命よ、おまえの命のある所に生きていないで。
霊魂は、自分が生かせている肉体のうちにおいてよりも、霊魂自身は、愛によって、自分の愛するもののうちに生きている。とはいえ、霊魂は、肉体の生命の中に存在する。そしてその基本的かつ自然的生命を、他のすべての被造物と同様に、神からえている。霊魂は神のうちに行う自分の存在を通じて、自分は自然的生命を神のうちにもっていることを見、また、自分が神を愛しているその愛を通じて、霊的生命を神のうちにもっていることをも見る。それで、この死すべき肉体の生命というような、これほどもろい生命が、自然性と愛とによって神のうちにいとなんでいる、あれほど強く、真実、甘味な生命を楽しむことを妨げ得るのを、嘆き悲しむのである。このような状態にあって、霊魂が用いることばは、きわめて激しい。なぜなら、霊魂は、ここで、肉体における自然的生命と神における霊的生命という二つの相反のなかで、どれほど自分が悲しんでいるかを、わからせようとするのだから。事実、この二つの生命は相互に反抗し、それ自身相反するものである。そして霊魂は、この両者のなかで生きなければならないので、必然的に激しい苦しみを忍ばねばならない。苦悩にみちた一方の生命が、甘味にあふれる他方の生命を妨害する。そのため、自然的生命は霊魂にとって、一種の死のようなものになる。なぜなら自然的生命ゆえに、霊の生命が失われるのだから。ところで、霊の生命のうちにこそ、霊魂は、その本性を通じて、自分の全存在、全生命を有し、愛を通じては自分の働きと愛情のすべてをもっている。そこで、霊魂はこのもろい生命が いかに苛酷であるかを よりよくわからせようとして ただちに こういう。
おまえに放たれた矢は
おまえを死なすはずだった。
この意味は、すなわち、前にいったことは別としても、どうしておまえは肉体のうちに生きつづけていられるのか?愛人がおまえの心に行なった愛の接触(これを矢ということばで示 している)だけでも、おまえの命を奪うに十分ではないか?この種の接触は、霊魂と心とのうちに神の知解と愛とのたねをまいてゆくので、次の句で言っているように、神によって受胎すると真に言うことができる。すなわち、
おまえに、いだかせた、愛するかたについての概念によって。(直訳=愛人より、おまえのうちに受胎したものによって)
この意味は”かれについて、おまえが悟る偉大さ、美しさ、上知、恵み、徳によって”である。
鹿は一度、毒草に傷つけられると、もう一瞬開もじっとしていない。自分の傷手をいやすすべを、あちらこちらとさかし求め、こちらの水に浸ったり、あちらの水にはいったりする。しかし、どんな方法をこうじても、どんな薬を用いても、毒の作用は増すばかりで、ついには心臓を冒し、命を奪うに至る。ここで扱っている愛の毒草に傷ついた霊魂も同様で、自分の苦悩に処する薬をさがし求めることを決してやめない。しかし、それを見出さないばかりか、考えること、いうこと、することのすべては、かえって苦悩を増すに役立つばかりである。霊魂は、自分の努力がこのようにむなしいのを見、自分を傷つけた御者の手に、自分をすっかり渡す以外に薬はないことを認める。そこで愛の力によって、自分の生命を断ち切って苦悩より解放してもらおうと、これらすべての苦しみの原因である花むこのもとに戻って来る。そしてかれに次の歌をいう。
第9の歌
なぜ、この心を、いやしてくださらない?
これを傷つけたのは、あなたですのに。
あなたは、これを盗み去られたのに
なぜこのように捨てておかれるのてす?
なぜ、あなたは盗んだものを
もってゆかれないのです?
解説
なぜ、この心を、いやしてくださらない?
これを傷つけたのは、あなたですのに。
霊魂は、自分が傷つけられたことを嘆いてはいない。事実、愛している者は、愛の傷手が 深ければ深いほど、いっそうよく報いられたのである。彼女はただ、愛人が心を傷つけておきながら、死を与えてこれをいやしてくれないことを嘆くのである。なぜなら、愛の傷手は、あまりにもこころよく、甘味なので、これによって死に至らしめられなければ、霊魂は満足することができないから。これらの傷は霊魂にとって、あまりにも甘味なので、彼女は、生命を奪われるまでに、ひどく傷つけられることを熱望し、そのため次のようにいう。”なぜ、この心をいやしてくださらない?これを傷つけたのはあなたですのに”。つまり、あなたは深傷を負わせるほどひどく私の心を傷つけたのに、なぜ、愛の激しさで死なせて、これをいやしてはくださらない?愛の病気のこの深傷の原因は、あなたなのだから、どうか愛の死で私の健康の原因になってください。そうすれば、あなたの不在の苦しみに深傷を負った私の心は、あなたの甘味な現存の愉悦と光栄によっていやされるでしょうと。そして次のようにいいそえる。
あなたは、これを盗み去られたのに
なぜ、このように、捨てておかれるのです
霊魂は愛人に向かって、あなたは愛によって自分の心を盗み、もはや、心は自分のものではなく、自分の力の及ぶものでもなくしてしまったのに、なぜ、この心を、あなたのものとはしないのか?盗人は普通盗んだものを、もち去ってゆくのに、なぜこれをこのように、ほっておくのか? と嘆いていう。それで愛している者は、その心を、その愛の対象によって盗まれた、あるいは奪われたと言うことができる。なぜなら、その心は、もはや自分のうちにはなく、愛の対象のうちにあるから。それで、もはや、その心を、自分のためにもっているのではなく、その愛の対象のためにのみもっているのである。これによって霊魂は自分が純粋に神を愛しているか否かをよく知ることができるであろう。もしも純粋に神を愛しているなら、その心はもはや自分のものではない。それは、自分の楽しみや利益をかえりみず、ただ神のほまれと光栄とのみを求め、ひたすら神を喜ばせようとする。なぜなら、心は自分のことを思わなくなればなるほど、いっそう神のことを思うものだから。心が、ほんとうに神に盗まれたかどうかは、次の二つのしるしのいずれかによって知る。すなわち、霊魂がここで示しているように、心が悩ましいまでに神への憧れをいだいていること、神以外のものを楽しもうとしないことである。
なぜ、あなたの盗んだものを
もってゆかれないのです ?
この意味はすなわち、愛によって、あなたが盗んだこの心を取って、みたし、飽かせ、あなたとともにあらせ、いやし、あなたにおいて、完全な安住と休息をこれに与えるために、なぜ もっておゆきにならないのです?愛に燃える霊魂は、いかに愛人の心と一つになっていようとも、自分の愛の正当な報酬を望まずにはいられない。彼女は、この報いのゆえに愛人に奉仕しているのである。もしそうでなければ、真の愛ではないであろう。なぜなら愛の報酬は愛以外のものではなく、霊魂は愛の完全さに達するまでは、愛の増大以外のことをのぞむことができないから。愛はただ愛によってのみ支払われる。神を愛する霊魂は、おのが奉仕の報いとして、神を完全に愛すること以外の何ものも求めていない。
愛のこの境地に達した霊魂は、ちょうど疲れ果てた病人のようである。こういう病人は味覚も、食欲も失い、どんな食物にも、みな嫌気を感じ、すべてことが、かれには、うるさく、いらだたしく思える。考えに浮ぶことすべて、目にはいることすべてにおいて、かれはただ一つの欲求、ただ一つの願望しかもっていない。つまり自分の健康のことで、それに関係のないことはかれにとってうるさくて、重苦しい。
それで、この霊魂も、神の愛の病気にかかったがたために、次の三つの特性をもっている。すなわち、
- どんな出来事に出会っても、どんなことを扱っても、彼女はいつも、とりもどしたいと切望する健康のこと、つまり自分の愛人を思い、その心は、いつも愛人のうちにある。
- そこから第二の特性が生じる。すなわち、彼女は何も味わえない。
- さらにまた第三の特性もこれにつづく。すなわち、すべてのことが彼女にとって、うるさく、どんな交際も重荷で、いらだたしい。
この理由はみな、前述のことから引き出される。すなわち、この霊魂の意志の味覚は、神の愛といううまし食物に触れ、かつ、それを味わったので、その結果、どんな事に出会おうと、どんなことに関わろうと、そのうちにただひたすら愛人をさがし求め、これを楽しもうとし、他のいかなる楽しみも利益も顧みない。愛に燃える霊魂は、すべてのことのために数知れぬ不快と、いらだちをおぼえる。そこで、霊魂は、神を見ずにこの地上にとどまっているかぎり。このようなことから逃れるすべのまったくないことを見て、愛人に向かって哀願をつづけ次の歌をいう。
第10の歌
どうか私のいらだちを、消してください
たれも、それを晴らしえないのですから。
ああ、どうか、私の目は、あなたを見るように。
あなたこそ、その光なのですから。
私は、あなたのためにだけ、私の目をとっておきたい。
解 説
どうか、私のいらだちを消してください
愛の欲情は、意志が愛しているものに関係のないこと、適合しないことは すべて、霊魂を疲れさせ、悩ませ、いらだたせ、味気ないものにするという特性をもっている。それは意志の欲するところが成就されないからである。このことや、また神を見たいとの悩ましい望みを、ここで、いらだちと呼んでいるが、愛人を所有すること以外に、これを晴らすに足りるものは何もない。それゆえに、霊魂は、愛人に、その現臨によって、これらのいらだちを、ことごとく消してほしいと願う。ここで、消すということばを用いているのは、そのためである。つまり、自分が愛の火に苦しめられているということを、わからせるためである。
あなたのほかに、たれも、それを晴らしえないのですから
霊魂は愛人を感動させ、いっそうよく説得して自分の願いを、きき入れさせようとして、かれのほかにだれも、彼女の必要をみたしえないのだから、彼女のいらだちを消すのは、かれのなすべきことだという。ある霊魂が、神以外に満足も楽しみも有せず、また求めなくなるとき、神は非常にすみやかにこの霊魂を慰め、その必要をみたし、悩みから救い出してくださるものだということに注意しよう。そこで、神以外に、なんの楽しみももたない霊魂は、愛人の訪問を受けずに長くとどまることはありえない。
ああ、どうか私の目は、あなたを見るように
これはすなわち、私の霊魂の目をもって、顔と顔を合わせて、私はあなたを見るように、との意である。
あなたこそ、その光なのですから。
神は霊魂の目の超自然的の光であって、これが欠ければ、霊魂は暗黒のうちにとどまるの であるが、しかし、そのためだけではなくて、愛情のゆえにも霊魂は、ここで神を自分の目の光と呼ぶ。ちょうど愛している人が自分の愛情を示すために、愛人を称して、私の目の光と呼ぶのと同じである。それで上掲の二つの句のなかで、霊魂がいっていることは、次のような意味である。”私の霊魂の目は、本質上からも、愛からも、あなた以外の光をもたないのだから、どうか私の目が、あなたを見るようにしてください。あなたは、すべての点からみて、その光なのだから”と。
私は、あなたのためにだけ、私の目をとっておきたい
ここで、霊魂は、その目の光を見せてくださるよう天の花むこを強いようとする。そして、その理由として、自分は他の光をもたず、闇のうちにいるばかりでなく、かれ以外の他のも ののために、目をもちたくないのだから、という。事実、神以外のものの上に、所有的精神をもって、意志的に目をとどめる霊魂に、この神的光が与えられないのは当然である。視覚がほかのことに使われていて、神の光を受けることを、みずから妨害しているのだから。いっぽう、神にのみ、その目を開くため、他のいっさいのものに、これを閉じる者は、この光を受けるに価いする。
さて、霊魂たちの愛深い天の花むこは、私が話している霊魂の場合のように、彼女らが、 ただひとりで長い間苦しむことを傍観していることは、おできにならないということを知っておくべきである。ことに、霊魂たちの悩みが、この霊魂のそれのように、愛 によるものであるときは、なおさらである。愛に燃えるこの霊魂は、金銭を求める以上の熱意をもってその愛人をさがしている。かれのために、すべてのものを、そして自分自身をも捨てたのだから。これほど激しい望みへの応えとして、神は、ご自分の現存を彼女に霊的に感じさせ、その神性と美との深奥な示現を、いくらか、お見せになる。それによって、神を見たいとの彼女の望みと熱情とは、おびただしく増大したのである。火をいっそう燃えたたせ、火力を増させるために、ときとして炉のなかに水をかけることがあるが、同様に、主は、ご自分のたぐいない優秀性を、いくらか、お示しになり、これによって、彼女らの熱を刺激し、彼女らに与えようとされる恵みのために、いっそうよく彼女らを準備される。このほのぐらい現存のうちに、至高の善と、そこに隠された至高の美を感じた霊魂は、それを見たいという望みの激しさに死ぬばかりとなる。それで次の歌をいう。
第11の歌
あなたの現存を私に、あらわしてください
あなたの美しさを見て、私は息絶えますように
あなたは知っていられます
愛の病気は、愛人の現存と
その顔を見るほかに
いやす すべのないことを
解説
あなたの現存を私にあらわしてください。
霊魂における神の現存には、以下の三つの様式がある
- 本質的現存:神は有徳な聖なる霊魂のうちの みならず、不徳な、有罪な霊魂のうちにも、また、その他のすべての被造物にも現存なさるのである。なぜなら、この現存によって、神は、かれらに存在と生命とを与えられ、もしも、この現存がなければ、被造物は無に返り、存在を失うであろうから、それでこの現存が霊魂に欠けることは決してない。
- 恵みによる現存:これによって神は、霊魂について喜び、かつ、満足されて、そのうちに住まわれる。それで、すべての霊魂が、この現存を享有しているわけではない。大罪におちいる者は、これを失う。なに人も、それを所有しているかどうかを自然的には知ることができない。
- 愛の働きによる現存:神は多くの敬虔な霊魂に、いろいろな様式でこの現 存をお感じさせになって、これらの霊魂を慰め、楽しませ、喜ばせてくださる。しかし、この霊的現存も、他の現存と同様に蔽われている。神はそこで、ご自分を、ありのままに、おあらわしにならない。なぜなら現世の条件は、それに耐ええないから。
それで上掲の句、すなわち”あなたの現存を私にあらわしてください”におおいて、神が常に霊魂内に、少なくとも第一の様式において現存なさることは確実なので、霊魂は自分のうちに神が現存してくださるようにとはいわない。ただ自然的現存 にせよ、霊的現存にせよ、または愛による現存にせよ、通常、隠されているこの現存を、あらわにに示してほしいと願う。それによって神を、そのご本性と美のうちに眺めることができるようにとこい願う。しかしながら、この霊魂は神への愛の熱情に燃えたっているので、あらわに示してほしいと願う現存は、主としてかれが彼女に対してなしたある種の情感的臨在と考えるべきである。それは非常に崇高な臨在で、霊魂には、そこに無辺の存在が隠されているように思われ、また感じられたのである。それによって神は、ご自分の神的美の、ほの暗い光をお送りになったのであるが、それが霊魂に及ぼす効果は、きわめて大きく、霊魂はこの臨在のうちに隠されていると感じる御者を、わがものにしようとし、その望みの激しさに、絶え入るばかりとなる。なぜなら、このとき、霊魂は、臨在すると同時に、隠れていると感じるこの至高善のうちに全く沈み入りたいとの激しい望みに絶え入るばかりであるから。またそれは隠されているとはいえ、霊魂はそこにある宝を、そして愉悦を、きわめて強く感じるから。霊魂は、物体が、その中心へと引かれてゆくにもまして、いっそう強くこの至高の善のほうに引かれ、これに奪われる。そして、このような渇望、深刻な欲求にかりたてられて、もはやみずから制することができずに叫ぶ。
あなたの現存を私に、あらわしてください
ここで、霊魂は神の現存の前に立ち、隠された神の性の至高の美の深奥崇高な光を垣間見て、もはや耐えきれず、主に、そのご光栄をあらわしてくださるようにと切願する。しかし、神の顔の美しさ、本質の直観が、もたらす愉悦は、あまりにも強烈で、このように、もろい生命のうちにあっては、霊魂は、これを見るにとても耐えられないことを、神が霊魂にお教えになる。それで、霊魂は、このみじめな現世にあっては、神をその美のうちに見ることはできないことを悟る。そこで、霊魂は言う。
あなたの美しさを見て、私は息絶えますように
これをいいかえれば、”あなたの本質、あなたの美を見ることが、もたらす愉悦は、私の霊魂には堪えきれず、それを見ることによって死なねばならぬほどなのだから、さあ、あなたの美しさを見て、”私は息絶えるように”と。この句を、よりよく理解するため、霊魂が、ここで、条件的に語っていることに注意しよう。彼女が、神の美を見ることにょって命を奪われることを願うとき、それは、死なずには神を見ることはできないということを前提としているのである。もし死なないでも、それが可能なら、死を願わないであろう。なぜなら死を願うのは、一つの自然的不完全さであるから。しかし人間の朽つべき生命は、神の不朽の生命と両立しえない。そこでいう。”私は息絶えますように……”
それで死は、愛している霊魂にとって苦いものではありえない。なぜなら、そこに愛のあらゆる甘味、楽しみを見出すから。死の思いはこの霊魂を悲しませえない。そこに同時に歓喜を見出すから。この霊魂にとって死は辛く悩ましいものとは思われない。それは、そのすべての悩み、苦しみの終り、そのすべての幸の始まりだから。それでこの霊魂が”あなたの美しさを見て、私の命が奪われるように″と恐れずに敢然といいはなつのは当然である。彼女は、この神的美を見るや否や、自分はこの美に奪われ、この美のなかに吸い込まれ、この美に変化され、この美によって美しく、この美の宝によって富まされることも知っている。だからこそ、ダヴィドは「聖人たちの死は主のみ前に貴い」といっているのである。もしも聖人たちが、神ご自身の偉大さにあずかるのでなければ、そうはいわれないだろう。なぜなら、神のみ前には、神ご自身以外に貴重なものはないのだから。それで、霊魂は、愛するとき、死を恐れるどころか、心からこれを望む。しかし罪人は常に死を恐れている。なぜなら、かれは死がすべての善いものをかれから取り去り、すべての悪いものをかれにもたらすであろうと予想しているから。事実、ダヴィドもいうように、罪人の死は、いとも不幸である。(詩篇33・22)それで、賢者も死を思うことは、かれらにとって苦々しい(集会書41・1)といっている。なぜならかれらは、この世の生命を熱愛していて、来世の生命を愛することは、きわめてわずかなので、非常に死を恐れるのである。しかるに神を愛する霊魂はこの世の生命のうちよりもいっそう来世の生命のうちに生きている。霊魂は自分が生きている所より、愛している所に、いっそう多く生きているのだから。それで現世の生命を軽んじ、”あなたの美しさが、私の命を奪うように”というのである。
あなたは、知っていられます
愛の病気は、愛人の現存と
その顔を見るほかに
いやす、すべのないことを
愛の病気が、ここで霊魂がいっているように、愛人が来てくれて、その慕わしい顔を見せ てくれるのでなければ、なおらぬわけは、それが他の病気とは異なる性質のものであるため、その治療法も当然、異なるからである。普通の病気の場合には、正当な哲学によると、相反に相反をもっていやされるのであるが、愛は、愛に適合したものによって、いやされるのである。そのわけは、霊魂の健康は神の愛だからである。したがって、霊魂が完全な愛を有しないとき、完全な健康をもっていない。霊魂は病気である。なぜなら、病気とは健康の欠如にほかならないから。それで、霊魂の愛の度合いがゼロなら、その霊魂は死んでいるのである。もしも、いくらかの度合の愛があれば、たとえそれが、わずかであっても、霊魂は生きている。しかし、きわめて弱く病弱である。わずかな愛しかもっていないのだから。愛が増せば。健康はよくなってゆく。そして完全な愛を有するようになれば、その健康も完全となるであろう。
さて、愛は、愛人同志を一致させ、同等にし、一方が他方に相互に変化されるに至るまで は、完全なものとはいわれないということを知らねばならない。そして、そのときはじめて、愛は完全な健康に達するのである。ところで、この霊魂は、自分において愛はまだ、ほんの素描の状態にすぎないことを感じている。そして、それを愛の病気と呼ぶ。彼女はこの素描が、その原型、すなわち彼女の花むこなる聖言葉、神の御子によって、完全に描き上げられることを渇望して言う。
あなたはに知つていられます
愛の病気は、愛人の現存と
その顔を、見るほかに
いやすすべのないことを、と
まだ不完全な愛が、病気と呼ばれるのは至極正しい。なぜなら病人は労働のために力がないのと同様、また弱い愛しかもたない霊魂は、英雄的な徳を実践するだけの力がない。また次の意味に解することもできる。自分のうちに愛の病気を感じるものは、それによって、かれは、ある程度の愛を持っていることがわかる。なぜなら、そのもっているものを通じて、不足しているものがわかるのだから。しかし、愛の病気を感じないということは、愛を全然持っていないか、あるいは完全な愛に達したかの、どちらかのしるしである。
この状態に達した霊魂は、急速度で、自分が神へと運ばれてゆくのを感じる。その信仰は、もはや、あまりにも照らされているので、神の崇高さのきわめて明らかな特性を垣間見る。そこでこの霊魂は、愛人の顔の美しさを、そのうちに含むと同時に、おおい隠すものとして信仰のほうに向かうこと以外には、なすべきことを知らない。そして霊魂は、この信仰から前述の愛の素描と保証とを受けるのである。そこで信仰に語りかけて次の歌をいう。
第12の歌
おお、水晶のような泉よ
あなたの銀の水面に
熱く求めているあの目を、
私が胸のうちに、おぼろに描いていだく
あのひとみを
にわかに、あらわしてくれるなら!
解説
霊魂は花婿との一致を、これほど激しく望んでいるのに、被造物のうちには、そのためのなんの手段も助けも見出さないので、愛人についてのもっとも生き生きとした光を与えてくれることのできるものとして、信仰に向かって話しかけ、愛人との一致の手段としてこれをえらぶ。事実信仰こそ、神との真の一致、霊的婚約のための唯一の手段である。それで霊魂は言う、おお、私の花むこなるキリストの信仰よ、おまえが闇と暗さでおおって、私のうちに注ぎ入れた、私の愛するかたについての真理を、今、あきらかに、私にあらわしてくれるなら! そして、これらの真理から突然、おまえが全く身をひいて(なぜなら、信仰は神的真理をおおうヴェールだから)、暗い観念に包んで私に伝えたものを、はっきりと見せてくれるなら! そこで次の句をいう。
おお、水晶のような泉よ
霊魂は信仰を”水晶のような”と呼ぶ。なぜなら、それは花むこキリストについてのものであり、水晶の特性をもっているから。すなわち信仰は、真理において、純粋で、強くて、明澄で、誤謬や、自然的形相を少しも混じていないからである。また、信仰は泉とも呼ばれる。なぜなら、霊的なあらゆる宝の水が、信仰から霊魂に注ぎ入るからである。それで聖主キリストもサマリヤの婦人とお語りになったとき、信仰のことを泉と呼ばれ、かれを信じる者は「永遠の生命に、ほとばしる泉」を心のうちにもつようになると、おおせられたのである(ヨハネ4・14)。この水とは、かれを信じる者が受けるはずの聖霊のことであった。
あなたの、銀の水面
信仰箇条は銀に、それらが含む真理の実体は、金に例える。現世において信仰は、真理の実体をヴェールにおおわれた暗いものとして、われわれに示すので、霊魂は、それらを「銀の水面」と呼ぶのである。信仰が終りを告げ、神のあからさまの直観に場所をゆずるとき、信仰の実体は、その銀のヴェールから解き放たれ、純金のように輝かしく現われるであろう。それで信仰は、われらに神自身を与え、神と交わらせる。ただし、それは銀のヴェールにおおわれた神である。とはいえ、真実に神を与えることにおいて変りはない。それは、ちょうど、銀メッキした黄金の器を与える場合、いくらメッキしてあるとはいえ、黄金の器を与えるのに違いはないのと同じである。それで霊魂は信仰に向かっていう。”おお、もしもおまえの銀の水面のうちに”この銀の水面は前述の信仰箇条で、そのうちにおまえは神的光線の黄金を、つまり私が熱望する花むこの目を、隠してもっている。それでただちにいいそえる。
あの、あこがれのひとみを
にわかに、あらわしてくれるなら
ひとみとは、くり返していうが、神的光と神的真理を意味する。そして信仰は、それらを、おおわれた、はっきりしない信仰箇条のうちにわれわれに提示する。これは、ちょうどこういうにひとしい。おまえが信ずべき事柄のうちに隠して、判然としない神秘的な様式で私に教えるこれらの真理を、もしも、私が熱く望んでいるように、あからさまに、はっきりと示してくれるなら!霊魂は、これらの真理を目と呼ぶ。それは愛人の現存を心の奥深くにあまりにも強く感じ、かれが、いつも自分を見つめていられるように思われるからである。それで言う。
私の胸のうちに、おぼろげに描いて、いだく…。
彼女は愛人の目を胸のうちに描く、すなわち、知性と意志とによって、霊魂のうちに、お ぼろげに描いているという。事実、彼女は信仰によって、知性を通じて、神的真理を霊魂内に注ぎ込まれたのである。しかし、霊魂はまだ、それらについて不完全な知識しかもっていないので、”おぼろげに描いて”つまり素描ということばを用いる。素描は、未完成な画である。同様に、信仰による知識も、まだ完全なものではない。そのため信仰によって霊魂内に注がれる真理は素描のような状態であるが、明らかな直観の光に照らし出されるときには、それらは霊魂内において、完全に仕上げされた画のようになるであろう。
しかしながら愛している霊魂のうちには、信仰の素描のほかに、さらにもう一つ、愛の素描が存在する。この第二の素描は意志を通じてなされる。その愛の素描は霊魂内に愛人の像を、あまりにも深く生き生きと描きだすので、愛の一致があるとき、愛されている者は、愛している霊魂のうちに、愛している霊魂は、愛されている者のうちに生きていると真実にいえるのである。そして愛が、愛人たちの変化ということにおいて行なうこの相似は、きわめて完全であるため、かれらのおのおのは、互に、その相手の者になってしまい、両者は、まったく一つであるといい得るのである。その理由は、愛の一致、変化において、一方は他方に自分の所有権を与え、相互に身をまかせ合い、相互に自分をとりかえ合う。そのためかれらは、相互に相手のうちに生き、かれらのおのおのは、真実に相手の者となりきって、両者は愛の変化によって一つとなる。聖パウロも、このことを教えて「私は生きているとはいえ、生きているのは、もはや私ではなく、私のうちにキリストが生きていられるのだといっている」(ガラテア2・20)という。
それで、愛によるこの変化のもたらす相似という点で、パウロの生命とキリストの生命とは、愛の一致によって、ただ一つの生命でしかなかったということができる。神のうちにはいるに価したすべての者において、神的生命へのこの変化は、天国で完全に行なわれるであろう。神に変化した者として、自分自身の生命ではなく、神の生命を生きるであろうから。とはいえ、それはまた、かれらの生命でもあろう。神の生命はかれらの生命となるであろうから。そのとき、かれらは、われらは生きているとはいえ、もはやわれらではなく、神がわれらにおいて生きていられるのだと真実にいい得るであろう。この変化は、聖パウロのうちに見られるように、現世においても可能である。しかしながら、地上において、それは完全なもの、完成されたものではありえないであろう。霊魂が地上で達し得るかぎりの最高の状態、霊的婚姻におけるような愛の変化に達した場合にさえもそうである。光栄における変化による、かの完全な姿に比べれば、それは愛の素描にすぎないから。とはいえ、この地上で可能な愛の素描が実現されるとき、それは実に大いなる幸福といわねばならぬ。なぜなら、これによって愛人は非常に満足されるから。
この時期における霊魂の歩みかたは、ことばでいい表わすには至極むずかしい状態にある。が、とにかく私は、それについて少しばかり説明を、こころみてみよう。この霊魂の霊的また肉体的実質は、神の生ける水の泉へと彼女を引きつけるはげしい渇きのために、ひからびてしまうかのようである。この渇きはダヴィドが次のことばをもって表現しているものに似ている。「鹿が水源を慕うように、神よ、私の魂もあなたを慕う。私の魂は神を、活ける神を望み渇く。私はいつ行って神のみ顔をあおぎ見るであろうか?」(詩篇41・3)この渇きはあまりにも激しい苦しみをひきおこすので、これをいやすためなら、霊魂はどんな危険もものともせず、世間が引きおこすあらゆる妨害、悪魔のすべての憤怒、地獄のどんな責苦も、この底知れぬ愛の泉に身を沈めにゆくためには、何ものでもないと見なすであろう。
この時期における霊魂の苦悩は大きい、なぜなら、神に近づけば近づくほど、いっそう、自分の うちに神のいらっしゃらない空虚ともっとも濃い闇を感じるのみならず、さらに神と一致することができるように霊魂を浄化する目的で、これを乾燥し、浄化する霊的火が加わるからである。事実、神が霊的に近くにましますとき、ご自身から発する超自然的光を、この霊魂の上に注がれぬかぎり、この霊魂にとって、神は堪えがたい暗黒である。なぜなら、超自然的光は、まさに、その強さのゆえに、自然的光を、くらくするものであるから。
第13の歌
愛するかたよ、あなたの目を、そむけてください
私は、飛んでいってしまう。
(花むこ)
お帰リ、鳩よ、
傷ついた鹿は丘の上に姿をのぞかせ、
おまえの飛翔のそよ風に涼んでいるから。
解 説
愛するかたよ、あなたの目をそむけてください
愛人の神性を眺めたいと、激しく望んでいた霊魂は、かれから、神的交わり、あまりにも高い神の認識を内的に受けるので、”愛するかたよ、あなたの目をそむけてください”というのを余儀なくされる。事実、これらの恍惚による神のおとずれがときとしてひき起す苦しみは非常に激しいので、もしも神が、そこに干渉されなければ、生命を断たれてしまうことであろう。実際、このようなことを経験する霊魂は、自分が肉体を脱け出し、これを捨て去ってゆこうとしていると感じる。そのわけは、この種の恵みは、普通、肉体にあっては、受けることのできないものであるから。霊は自分のほうに来る神の霊と交わろうとしで高く上るので、必然的に、幾分、肉体を捨て去るのである。肉体は非常に苦しみ、霊魂も肉体において同様に苦しむ。それは一つの主体において両者の有する一致のためである。
しかしながら愛人に向かって、目をそむけてくれるように願うとき、愛人が、実際に、そうすることを霊魂が望んでいない。ただ、霊魂はこの恵みを肉体のうちにあって、受けたくない。なぜなら、まだ肉体に結ばれている間は、十分にこれを楽しむことができず、ただ、ごくわずかしか、しかも苦しみながらでなければ楽しめないからである。それで、この恵みを自由に楽しむことのできる肉体のそとの霊の飛翔のうちに受けることを渇望して、愛するかたよ、あなたの目をそむけてください”すなわち、肉体にある間、そのような交わりを、しないでくださいというのである。
私は飛んでいってしまう。
この神的まなこは私を肉体から抜け出させて飛んでいかせる。なぜなら、神の霊の訪れにより、霊は力強く引き上げ、神の霊との交わりに入らされからである。そのとき、霊魂は、その感覚も働きも、もはや肉体のうちには有さず、神のうちにもつようになる。このゆえに、聖パウロは、自分の恍惚について語りながら、そのとき、自分の霊魂が、肉体に結ばれていたのか、または、肉体から離れていたのかを知らないといっている。(コリント後12・2)これは霊魂が肉体を捨て去って、その自然的生命を奪ってしまうことを意味しない、ただ、肉体における働きをやめるのである。それで、これらの恍惚とか、霊の飛翔がつづく間、肉体は感覚を奪われていて、きわめて激しい苦痛をおこさせるようなことをしても、何も感じない。これは自然的な失神、気絶とは大いに異なる。その場合には、苦痛によって、正気に戻るものである。このようなおとずれにおける、こうした現象は、まだ完徳の状態に達していず、ただ、そこに近づきつつある人々のうちにおこるものである。完全な状態に述した霊魂において、神との交わりは、平安と甘味な愛のうちにおこなわれ、上述の恍惚は止む。このような恍惚は、完全な交わりへの準備にすぎないものであるからである。
お帰り、鳩よ、
この霊的飛翔にあたって、霊眺は、喜んで肉体から脱け出て行った。霊魂は、この地上の生命の終りに達したのだと思い、今こそ、天の花むこの現存をあらわに永久に楽しみに行くのだと思っていた。しかし、花むこは”お帰り、鳩よ”といって、ひきとどめる。これはちょうど次のような意味をもつ。おまえの観想のすみやかで、軽やかな飛翔により、また、おまえの燃えている愛により、また、おまえの、ふるまいの単純さによって、おまえは鳩だ(なぜなら、鳩は、以上の三つの特質をもつものだから)だが鳩よ、私を真実に所有しようと おまえに望ませるこの崇高な飛翔から戻らないといけない。これほど高い認識の時はまだ来ていない、私が今、おまえの霊のこうした高揚のさなかに、おまえに伝えるこのより低い認識で満足しなければならない。
傷ついた鹿は
花むこは、ご自分を鹿にたとえられる。ここで、鹿ということばで、ご自分を意味される。鹿の特性は高い所に登ることであり、負傷したときには、渇きをいやそうとして新鮮な水辺へ疾駆してゆくことである。雌鹿(メジカ)の嘆く声をききつけ、雌鹿が傷ついていることがわかると走って行って、やさしく愛撫する。天の花むこは、まさにこのようになさるのである。ご自分の花よめなる霊魂が、かれの愛に傷ついているのを見、嘆いているのをきかれると、かれご自身、愛に傷ついて、彼女のもとに走ってゆかれる。事実、愛人同志の間では、ひとりの傷は、ふたりの傷になり、ふたりで、同じただ一つの痛みを感じるのである。それで、これは、ちょうど次のようにいったにひとしい。”私のところに戻っておいで、私の花よめよ、もしも、おまえが私の愛に傷ついているなら、私自身も、おまえの傷によって傷ついて、鹿のようにすみやかに、おまえのもとに走ってゆく。そして、鹿のように高い所に姿をのぞかせる″
丘の上に、姿をのぞかせる
丘の上とはすなわち、霊の飛翔によって、おまえが上った観想の高所のことである。事実、観想は、この世で、すでに神が霊魂と交わり、これに、ご自身を示し始められる高いところである。とはいえ、それはまだ完全な顕現ではない。それゆえ、かれは、あらわに、ご自身を現わすとはいわず、ただ姿を、のぞかせるといっている。実際、この世で、霊魂に与えられる神についての観念は、どんなに高いものであろうとも、それはみな、ごく遠方からの隙間見のようなものにすぎない。さて今度は、鹿の第三の習性について語るべきだが、それは次の句のうちに含まれている。
おまえの飛翔の、そよ風に涼んでいるから。
飛翔は上述の脱魂を伴う観想を意味し、そよかぜは、観想の飛翔が霊魂内に生じる愛の霊を意味する、飛翔によって生じる愛を、そよ風と呼ぶのは適切である。愛である聖霊は、御父と御子の息吹きであるところから、聖書中、そよ風に比せられているから。そして、三位一体において聖霊が御父と御子との相互の観想、相互の上知から発出し、御父と御子の息吹きであるところから”飛翔の風”であるのと同じように、花むこは、ここで霊魂の愛に、そよ風という名称を与える。なぜなら、それは霊魂がそのとき 神についてもっている観想と知識から発出するものであるから。また、花むこが、花よめの飛翔によって引きよせられたとはいわず、飛翔のそよ風によってといっていることに注意しよう。正確なところ、神は霊魂の飛翔によって、いいかえれば、霊魂が神について有する知識によって、霊魂とお交わりになるのではなく、この知識から生じる愛によってである。事実、愛は御父と御子とを一致させる結びであるが、同様、霊魂を神に一致させるのも愛である。霊魂は、どんなに高い神の知識に恵まれ、どんなに崇高な観想にあげられ、すべての奥義を詳しく知っていても、愛がなければ、聖パウロもいっているとおり(コリント前13・2)神との一致のために、それらはみな何の役にも立たない。同じ使徒はまた”愛をまとえ、愛は完徳の結びである”(コロサイ3・14)という。それで、霊魂のうちに見出される愛こそ、花むこを引きよせ、花よめの愛の泉から飲もうと、かれを走らせるのである。それはちょうど、新鮮な水が、渇きに苦しむ傷ついた鹿をひきよせ、そこでその渇きをいやさせるのと同じである。そこで次のようにいう。
そして、涼んでいる。
暑さに悩む人を、そよ風が涼ませて元気づけるように、この愛のそよ風も、愛の火に燃える心を爽快にし、元気づける。愛の火の特徴は 自分を爽快にし元気づけるそのそよ風が いっそう強い愛の火だということである。なぜなら愛する者において、愛は自然の火焔とひとしく、いつも、さらにいっそう強く燃えあがろうとして燃えている火焔であるから。そこで、花むこは、飛翔のそよ風と呼んでいる花よめの愛の熱気によって、自分自身いっそう強く燃えようとの、かれの激しい望みの実現を見ることを、ここで”涼む”といっているのである。それは、こういうにひとしい。”おまえの飛翔の熱気は私をいっそう燃え立たせる。なぜなら、一つの愛は他の愛を燃えあがらせるものだから”と。ここで注意すべきは、神は、もっぱら霊魂の意志と愛とに準じて、これに恵みと愛を注がれるということである。それで、真に愛する人は自分のうちに、この炎が決して欠けることがないようにしなければならない。そのようにすれば、かれは―もしも、こういうことが許されるとすれば―神をして、かれをより多く愛させ、かれの霊魂内で、より多く楽しむように、おさせするのである。この愛徳を追求するためには、使徒パウロがこれについていっていることを実践しなければならない。すなわち「愛は寛容で、情あつく、愛は妬まず、誇らず、たかぶらない。愛は非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、人からの不義を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてをこらえる」(コリン卜前13・4~7)つまり愛徳に道したすべてのことである。
第14、15の歌
私の愛するかたは山々
木々の生い茂る、人気のない谷
ふしぎな島々
ひびき高く流れる川
愛のそよ風のささやき
あのかたは、また、あけぼのが
たちそめるころの、静かな夜
沈黙の音楽
ひびきわたる孤独
愛に酔わす、たのしい夕食
解 説
神は通常多くの霊的修練を積んだ霊魂のみを、愛の一致という高い段階におあげになる。これは神の御子なる聖言葉との霊的婚約と呼ばれる。その最初のとき、神は霊魂に、ご自分についての偉大な光を伝達し、ご自分の偉大さ、御稜威への参与によって、これをお飾りになり、たまものや徳をこれに贈られ、神についての知識や神への畏敬でこれを富ませ、要するに、婚約の日の若い娘にふさわしいようにこれをお飾りになるのである。この幸いな日にあたり、霊魂は それまで経験していた激しい苦悩が終りを告げるのを見、その愛の嘆きをやめるのみならず、霊魂は富にみたされ、平和と愉悦と愛の甘味にみちみちた段階にはいるのである。このことを、これにつづきの歌で述べる。そこで、霊魂はただもう、愛人の もろもろの偉大さを語り、歌うことしかしない。
二つの歌の解説
霊魂は、この神的一致において、あふれるばかりの、測り知れぬほど貴重な富を眺め、かつ所有し、自分が望むすべてのいこいと楽しみとを見出す。霊魂は、神の秘密と、そのふしぎな知識とを悟る光を受けるが、これは人々が知っている最上の食物とも比較にならぬほど味よき食物である。霊魂は神のうちに、他のいっさいの権能や力を超絶する恐るべき権能と力とを感じ、同時にそこで、感嘆すべき甘味と霊の愉悦を味わい、真のいこいと神的光とを見出す。またすべての被造物や、神のみ手のわざの調和のうちに輝いている神の上知を、きわめて高い様式で味わう。霊魂は自分が すべての善でみたされ、すべての悪から まったく解放されたことを感じる。しかし、何にもまして霊魂は、評価しがたい愛の糧を知り、かつ味わうが、これが霊魂を愛において確固不動にする。以上が、この二つの歌の内容の要約である。
この二つの歌のなかで花よめは、愛人であるかれがすべてであることを告げている。霊魂は、このような脱魂に伴う神的交わりにおいて、「私の神よ、私のすべてよ」という聖フランシスコのことばを真実に体験するのである。神は霊魂にとって、すべてのものであり、かつ、これらすべてのものが含む善である。それで、この脱魂が含む神的交わりは、これらの歌のうちにあげられている被造物の有する優秀性から引き出された比喩によっていい表わされている。今から、これらの歌の一句一句を別々に説明しよう。まず心得ておくべきは、ここにあげられている被造物の優秀性は、神において卓絶した様式で無限に見出されることである。霊魂は神に一致しながら、神がすべてであることを体験する。しかし、この体験において、霊魂は光のうちにものを見る、また、霊魂が神を、明らかに見ることもない。そうではなくて、霊魂は、神がわずかにお見せになる光を見るのであり、それによって霊魂は被造物のもつ優秀性も感じるのである。今、それを歌の各句において説明する。
私の愛するかたは、山々
山々は高く、豊饒で、広大で、美しく、優雅で、花々が咲きみだれ、芳しい香にみちている。私にとって.私の愛人は、こういう山々である。
木々の生い茂る、人気のない谷
人気のない谷は静かで、気持ちよく、涼しい木蔭に富んでいる。清らかな水が、ゆたかに流れ、そこに生えている種々さまざまの植物や、小鳥たちのやさしい歌声で、人々の感覚を魅了し、楽しませる。またその静寂と沈黙とによって、すがすがしさといこいとを与える。私の愛人は私にとって、こういう谷である。
ふしぎな島々
ふしぎな島々は海にとりまかれ、海のかなたにあって、人間との交わりから、きわめてかけ離れ、まったく関わりをもたない。それで、こういう島々の産物は、われわれの土地のとは非常に異なっている。それらは見たところも変っているし、私たちの まったく知らない特性をもっていて、見る人々の目を驚かせる。それで、神のうちに発見する 一般の認識をはるかに越えた、偉大な驚嘆すべき目新しいことや、ふしぎな知識のゆえに、霊魂は神をふしぎな島々と呼ぶ。神には見知らぬ島々のように、あらゆる不思議があるばかりでなく、神の道も、意見も、わざも、人間にとって、きわめて不思議で、目新しく、驚嘆すべきものであるからである。それで神を見たことのない人間にとって神が”ふしぎ”であるのは驚くにあたらない。神を直観している天使たちや天国の霊魂たちにとっても同様なのだから。かれらといえども、神を完全に見ることはできず、また永遠にできないであろう。審判の日に至るまで、神のあわれみと正義のみわざに関連したそのいとも深いご判定のうちに、あまりにも多くの新しいふしぎを発見するので、かれらの驚きと賛嘆は常にますます増大するのである。それで人間だけではなく天使たちもまた、神を”ふしぎな島”と呼ぶことができる。神は、ただ、ご自分にとってだけ、ふしぎでも目新しくもないのである。
ひびき高く流れる川
川は次の三つの特性をもっている。
- 川は流れるところをすべてを浸し、沈める。
- 川は、低いところを満たす。
- 川は、他の音を、きこえなくするほど高いひびきをたてる。
神との交わりにおいて霊魂は、これと同じように、この三つの特性を、きわめてこころよく味わう。
- 神の霊の奔流におそわれ、それが信じがたいほどの力をもって、自分を占領するのを感じる。まるで自分の上に世界中の河川が全部おそいかかって自分を沈めてしまうかのように思われる。そしてこれらの川は霊魂の かつての行為や欲情をすべてのみこんでしまうように感じるのである。聖霊のこの働きはきわめて激烈なのにもかかわらず、霊魂に なんの苦しみも ひきおこさない。このように、音高く流れる川にも似た霊魂内への神の降臨は、霊魂を平和と光栄にみたす。
- このとき、この神的水が、霊魂の謙遜の低い谷と欲求の空虚をみたす。それは聖ルカ福音書に「低い人々を高め、飢えた人々をよいものでみたした」(1・52)とあるとおりである。
- 他のあらゆる音や声をおおう一つの音、霊的の声をきくことで、この声は他のすべての声をおおい、この音は、世界中のすべての音を凌駕する。
この「川のひびき」とは、
- 霊魂をあらゆる善でみたすあふれるばかりの充満であり、霊魂を占領する抗しがたい力
- それはまったく霊的な声 で、物体的な音響ではなく、強い音響がひきおこす苦痛や不快をおこさない。
- 威厳と力と愉悦と光栄にみちあふれ、まったく内的な偉大な声、ひびきわたる音であって、霊魂を力と勇気でおおう。
- この声は無限である、なぜなら、霊魂内にこの声をひびかせながら、これと交わられるのは神ご自身だからである。
- 神は、そのみ声を、一つ一つの霊魂に道当した強さに加減しながら、かれらのおのおのにご自分を順応されるので、霊魂は大きな愉悦と光栄とにみたされる
この霊的な声、霊的な音は、聖霊降臨のとき、聖霊が使徒たちの上に激流のようにお降りになったとき、かれらの霊のうちに ひびいた音である。かれらの内部にひびいたこの霊的な声をわからせるために、それは大旋風のような音を外部にたて、エルザレムにいたすべての人々は、その音をきいたのであった。この外的音響は、そのとき使徒たちが着せられた前述の力と勇気との充満の象徴であった。
愛のそよ風のささやきとは次のことを言う
- 天の花むことの一致を通じて、愛人の徳と美しさが、霊魂にはいり、愛深くこれと交わり霊魂の実体に触れる。
- 神と神の完徳との いともこころよい認識である。この認識は神の完徳が霊魂の実体に触れるところから生じて、知性のうちにあふれる。
☆一致の状態にあって霊魂が味わうすべての愉悦のうちで、これは最高の愉悦である。
愛のそよ風と呼ばれる神の接触は、愛人のもろもろの徳を愛深くここちよく霊魂に伝達し、次の楽しみを与える
- 愛人の完徳の接触は、霊魂の実体にある触覚をもって感じられ、味わわれる。
- 神の完徳の知解は、霊魂の聴覚、つまり、知性において感知される。そして、この聴覚の楽しみは、触覚の楽しみにまさる。なぜなら、触覚よりも聴覚のほうが霊的であるからである。
霊魂の耳からはいるこの神的ささやきは、前述のとおり、実体的知解であるのみならず、 同時に神性に関する真理の顕現、神のかくされた秘密の啓示でもある。聴覚を通じてはいるといわれる神的伝達のことが聖書にある場合、それは、通常、こうした赤裸な真理が知性に顕現されること、または神的秘密が啓示されることである。すなわち感覚の仲介なしに伝達された純粋な霊的示幻や啓示である。それゆえ、聴覚を通じて神から伝えられるといわれることは、きわめて崇高、かつ、確実である。
しかしながら、霊魂が知解するこのことが、前にのべたように赤裸な実体であるからといって、これが天国におけるような完全な明かるい愉悦だと解してはならない。この知解は偶有性を脱ぎすてたものであるとはいえ、明らかでなく、むしろ暗い。それは観想であるから。そして観想は、この地上においては闇の光線である。しかし、観想は、光栄の愉悦の座となる知性において おこなわれるがため、われらはこれを来世の喜びのかたどり、そのひとすじの光線と見なすことができる。
静かな夜
愛人の胸のうちにむすぶ霊的眠りのさなかに、霊魂は、おだやかな夜のいこいと静けさとを味わい、かつ所有している。と同時に霊魂は、神において深淵のような、そして、暗い神的知識を受ける。それがため、愛人は彼女にとって静かな夜だというのである。
あけぼのが近づくころの
- 霊魂は、この静かな夜を、朝が近づいている夜と言う。なぜなら、夜が明け始めると、夜の闇が追い散らされ、朝の光が現れるように、神において穏やかに憩う霊魂は、自然的闇から神の超自然的な知識に立ちのぼるからである。
- また、この神の超自然的な知識は、朝がさしそめるころの夜のような暗さを伴っている。同様に、神に憩う霊魂は、この世において、神的光の完全な明るさのなかにはいない。しかし、その幾分にはあずかっている。
沈黙の音楽
この夜の静けさと沈黙のうちで、また、この神的光明の知解のさなかで霊魂は、神の上知 が多種多様な被造物と、みわざとを、いかに適切に処理されるかを発見して感嘆する。これらの被造物のすべては、またその一つ一つは神とのある程度のつながりを有し、おのおのは、その様式にしたがって自分における神を宣言している。それは、霊魂にとって、全世界のあらゆる奏楽、旋律をはるかに越えたきわめて崇高な音楽の美しいしらべのように思われる。
”ひびきわたる孤独″だという。
- ひびきわたる孤独とは、霊的諸能力が自然的なあるゆる形や知覚から離れ、空虚になることを言っている。そして、これにより、神の卓越性の、この上もなくひびきよい霊的音楽を、よく聞くことができる。
- これは霊的の音楽であって、物質的な立琴のひびきではない。使徒ヨハネは、天国の聖人たちが、絶え間なく神にささげている賛美を、感知したのであった。これらの賛美は一つの音楽のようである。なぜなら、聖人たちはそれぞれ、ことなったまものを受けたため、おのおの固有の賛美を歌い、それが合わさり、愛の一つのの協和音となり、真の音楽を構成するから。
- 同様、霊魂もこのおだやかな上知のうちに、すべての被造物が、各自、神から受けたたまものに従って、神がいかなる御者にましますかの証明をささげているのをきく。被造物のおのおのはその固有の能力に従って神を所有しているので、それぞれ独特の様式で神を賛えているのを見る。そしてこれらの声はみな一つに溶け 合って、神の偉大さ、上知、またその感嘆すべき知識を歌うしらべよき歌となって、たちのぼる。
- 霊魂はここで、これを感知して楽しむのである。霊魂はこのひびきよい音楽を、外的なすべてのものから離れた孤独のうちにおいてしか感知することができないため、これを沈黙の音楽、また、ひびきわたる孤独と呼ぶのである。そして愛人は、彼女にとって、まさにそれなのだという。
愛に酔わす、楽しい夕食
この快い交わりにおいて、霊魂内に次の効果を生じる。
- 花婿は霊魂と一致することによって、甘美と愉悦をお与えになる。霊魂はこれを楽しむ。
- 神と霊魂が一致することにより、神の宝そのものが、神と霊魂との共有になる。神はこの宝を無償で、たくさんお与えになる。
よって、神ご自身が霊魂にとってこの”愛に酔わすたのしい夕食”なのである。神はその花よめをご自分の無限の高みで楽しませ、深いいつくしみを示して彼女を愛に燃えたたせられるから。
ここで注意することは、この世においてはまだ、神と霊魂の一致は、霊的婚約の状態であり、霊的婚姻の状態ではないことである。この霊的婚約の状態で、霊の完全な静けさは、霊魂の上部についてだけである。なぜなら霊魂の感覚的部分は、悪習がまだ残っているからである。したがって、霊的婚約の時期にあっても、ときとして、霊魂は花婿の不在を苦しみ、また感覚的部分や、悪魔から来る不安・煩わしさに悩まされる。しかし、霊的婚姻の状態に達すると、こうゆうものはすべて終わる。
花よめは、その完徳の度合に応じた徳を、霊魂内に所有し、愛人のおとずれを受けて通常 、平和を楽しんでいる。ときとしてそれらの徳は、花むこがなさる接触のために芳しい香をはなつことがある。それはちょうど、百合とか、そのほかの花が咲きほころび、それらを手にすると、その芳しい香や美しさで人を楽しませるのに似ている。たびたび、このような神のおとずれにあたって霊魂は、おのが霊のうちに自分のすべての徳を見るが、それは神が、そうした光を霊魂のうちに生じられるからである。そのとき霊魂はすばらしい愉悦と愛のこの上もなく、うましい味わいのうちに、これらの徳をみな集めて美しい花束として愛人にささげる。そしてそのとき、これを受けられる愛人は(かれは真実に受けられるのであるから)これによって、大きな奉仕をお受けになるのである。
さて悪魔は、この霊魂の幸運を感知する。かれはその邪悪な性質のために霊魂のうちに見る宝のすべてに羨望をいだき、そのごくわずかな部分なりとも攬乱しようとして、巧妙さのかぎりを尽し、奸策のすべてを用いる。事実、悪魔はこのような霊魂から、その富と光栄ある愉悦のただ一つの度合だけでも失わせるほうを、他の多くの霊魂をかずかずの重大な罪におちいらせることよりも高く評価している。なぜなら、他の多くの霊魂は失うものを何ももたないか、またはごくわずかしかもたないのに反して、このような霊魂は、きわめて貴重な莫大な富をかちえたのであるから、それで悪魔はこの霊魂のうちに感覚的な欲求をかきたてようとする。しかし、この種の欲求は、このような段階にある霊魂にあっては、すでに衰弱しているので、悪魔はごくわずかなことしかできず、あるいは全然、何もできない。それでこの方面での自分の努力がむなしいと見ると、悪魔はこの霊魂の想像に種々さまざまのものを示して見せる。ときとしては、あらゆる種類の衝動を感覚的部分におこさせる―これについてはのちに語るであろう―またその他、霊的な、また感覚的ないろいろのわずらわしさをひきおこし、そこから逃れ出ることは霊魂にとって不可能なことである。詩篇に「主は、主をおそれる者らのまわりに、その使いをつかわし、かれらを救われる」とあるが、霊魂は主がこの使いを送ってくださって、自分を解放し、感覚的部分にも霊的部分にも、平和と静けさを確立されるまで待たねばならない。この時期にあたって霊魂は悪魔が、前述の害を加えようとして用いる奸策を経験によってよく知っているので、恐れをなし、この状態を知らせ、恵みを願うため天使に語りかける。こういうときに、悪魔を追い払い、霊魂を助けるのは天使の務であるから。それで次の歌をいう。
第16の歌
私たちのために、狐どもを捕らえてください
私たちのぶどう園は、もう花ざかリなのですから。
ばらの花で、松かさを、いっしょにつくリましょう
どうか丘の上には、たれも姿を現わしませんように。
解説
霊魂は、この愛の内的愉悦をひきつづいて楽しむことを何ものによっても妨げられないようにと希望する。霊魂はこの楽しみをぶどう園の花にたとえ、しっと深くて邪悪な悪魔や、感性の激しい欲求や、想像の右往左往や、その他なんらかの知解とか、事象の現存とかによって乱されることがないようにと望み、天使たちに向かって、これらのものをすべて追いはらい、阻止し、それらが内的愛のいとなみを妨げに来ることがないようにしてほしいと願う。この内的愛の愉悦と風味とのさなかで、霊魂と神の御子とは相交わり、徳と恵みとを楽しんでいる。
私たちのために狐どもを、捕えてください
私たちのぶどう園は、もう花ざかりですから。
ここでいうぶどう園とは、霊魂のなかにあるすべての徳が植えらえた園のことであり、これらの徳は風味のよいぶどう酒を霊魂に提供する。霊魂が花婿と意志において一致し、この園のなかで楽しんでいるとき、このぶどう園は花盛りと言われるのである。
そのときに、ときとして、記憶や想像、感性的な衝動や欲求が、わき起こってくることがある。この園の中の楽しみを、これらによって妨害され悩まされる。
霊魂は、感性的な欲求や衝動を狐と呼んでいる。なぜなら、狐はぶどう園がよい香りがするまでは休んでいるが、よい香りがし始めるとこれを襲いにくる、それと同じように、感性的欲求や衝動は、徳のよい香りがするまで、しずかに休んでいるが、霊魂が徳のよい香りを発するようになると、感性の欲求や衝動が目をさまし、霊魂を襲うからである。
そのとき、感性的なものへの肉への傾向は、非常に激しいので、霊が霊的喜びを味わうとすぐに、肉のすべては嫌気と不快を感じる。このことは霊を非常に悩ませる。そのため、霊魂は次のようにいう。
私たちのために、狐どもを捕らえてください
感覚なものが霊を苦しめているとき、悪魔は次のように霊を苦しめる。
- 悪魔は最初に欲求を激しく刺激したり想像させることで、欲求を大きくする。
- 上記が駄目な場合、悪魔は肉体的な苦痛や外的な騒音を用いて、気を散らせようとする。
- さらに悪質なのは、悪魔は霊的恐怖を用いて霊魂を攻撃する。このとき霊魂は拷問にかけられたようになる。
このとき、霊魂が神への潜心のうちに入ると、霊魂はきわめてよく守られ、悪魔は何も手出しすることはできない。そして霊魂は大きな喜びと守られていることを感じる。
霊魂は「私たちのために、狐どもを捕えてください」という。ここで、私のために捕らえてくださいとはいわず、私たちのために捕らえてくださいという。なぜなら彼女は自分と愛人とのふたりについて話しているからで、ふたりはいっしょにぶどう園の花を楽しんでいるのであるから。またここで、ぶどう園は花ざかりだといって、実っているとはいわないわけは、この世では、徳は、今われわれが語っているような完全さをもって霊魂において味わわれるとはいえ、それは単に、その花を楽しむようなものであって、来世においてはじめてその果実を楽しむことができるからである。
ばらの花で、松かさを
いっしょにつくりましよう。
霊魂が、諸徳の花であるぶどう園の花を、愛人とともに楽しんでいるとき、これらの徳は霊魂に非常な快さと喜びを与える。また、これらの徳が、自分のなかにあるのと同時に、神のなかにあることも感じるので、その徳の花を共有していると感じる。そしてこの園のなかで両者は楽しみ満足する。霊魂はこのとき徳の花を集め、愛人に捧げる。愛人ご自身もまたこれに協力される。なぜなら、彼の助けなしに、徳の花を集めることも、それを捧げることはできないからである。それで、”松かさをいっしょにつくりましょう”という。
これらの徳を集めたものを、松かさと呼んでいる。松かさは、一つのかたいかたまりであるが、それは相互にかたくいだき合っている鱗片から成り立っている。同様に霊魂が愛人のためにつくる徳の束は霊魂のただ一つの完徳であるが、そのうちにはかずかずの強固な徳や、きわめてゆたかなたまものが整然と、かつ確固に含まれている。これらの徳はみな相互に整然と結ばれて、霊魂のために堅固な一つの完徳をつくりなしている。それが徳の実行によってつくられつつあるとき、かつ、すでにつくり上げられて、霊魂がそれを前述のように愛こめて愛人にささげているときに、このふたりの愛人の内的交わりを妨げに来ないように、上記の狐どもを捕えるということは、まことにふさわしいことである。さらに、花よめなる霊魂は、松かさをよくつくることができるようにと、この歌のなかで、狐を捕らえることを願っているばかりでなく、また次の句に含まれていることをも願っている。
どうか丘の上には、だれも姿を現わしませんように
この内心における神的交わりを行うために、霊魂は感覚的・理性的なものすべてを捨て去ることが必要である。これら二つの部分は人間の諸能力と感覚の全体を含んでいて、それを、霊魂は”丘”と呼ぶ。悪魔は、ちょうどこの人間の諸能力や感覚において狩りをして、霊魂を害するために欲求や観念を獲物にするからである。霊魂は、ここに誰も姿を現さないようにように願う。つまり、”私の霊的能力、すなわち、私の記憶、知性、意志のうちに、なんらの特定な知解も愛好も、またその他のなんらかの留意もないように。同様、私の肉体的感覚や能力、その外的なものにも内的なものにも、すなわち、想像力とか視覚とか聴覚等々のうちに、なんの逸脱も形も、またイメージも想像も、またなんらかの事物の表示も、その他自然的な、なんの働きもないように”と願っている。
霊魂がこのようにいうわけは、この神との交わりを完全に楽しむためには、外的の、また 内的のすべての感覚と能力とが、何ものにもたずさわらず、空虚になっていて、その固有の働きや、対象からは解き放たれている必要があるからである。なぜならこのようなときには、これらの能力が活動すればするほど、いっそう神の働きを妨害するから。事実、霊魂は愛の内的一致のある度合に達すると、その霊的能力は働かなくなり、肉体的能力はさらにいっそう働かない。愛の一致のわざがひとたびしとげられると、霊魂は愛によって動かされるようになる。それで、諸能力の働きはやんでしまう。目的地に到達したからには手段としての働きは、すべてやむのが当然である。そのときから、霊魂のすることは愛によって神のうちにとどまることであって、これはすなわち不断の一致の愛のうちで愛することである。それで、どうか丘にたれも姿を現わさないように。ただ、上に述べたような様式で、自分の能力のすべてと、また自分自身とを愛人に渡しながら意志だけが現われるように。
次の歌の意味を、いっそう明らかにするために、ここで次のことに注意を促したいと思う。それは、この霊的婚約の段階にあっては、愛人の不在が非常に悲しく思われるということである。ある場合に、それは比較するものもないほどの苦痛である。その原因は、この段階にあって霊魂が神に対していだく愛は、きわめて強いからで、それがため神の不在にあたって、激しく霊魂を苦しめるのである。またこれに、さらに他の苦しみが加わる。それは被造物とのいろいろの交渉、交わりから来るもので、これもまた非常に大きな苦しみである。それというのも、霊魂は神との一致に対する底知れぬ強く激しい望みをいだくようになっているため、すべての交渉がわずらわしく重荷となるからである。そして霊魂は神のおとずれの甘味を、すでに味わったので、それは黄金やその他のあらゆる美にもまして望ましいものとなる。それで、ただ一瞬間なりとも、これほど貴重な現臨が欠如することを非常に恐れ、霊的乾ばつに向かい、あるいは花むこの霊に向かって語りかけながら次の歌をいう。
第17の歌
どどまれ、死の北風よ
吹け、愛をめざます南風よ
私の庭を通して吹いて
おまえの芳香をただよわせよ
そうすれば愛人は花の間で饗宴をなさるでしょう。
解説
霊魂が内的甘味を楽しむことを妨げるのには、悪魔の妨げ、肉の妨げ、そして霊の乾燥がある。ここで、霊魂は霊の乾燥により愛が弱くなることを恐れて次のことをする。
- 不断の祈りと信心
- 聖霊を呼び頼むこと
とどまれ死の北風よ
北風は冷たい風であり、草花を乾燥させ枯らしてしまう。霊的乾燥や愛人の不在の実感は、霊魂内にこれと同じ結果を生じ、霊魂が徳のうちに味わっていたものを奪うため、霊魂はこれを死の北風と呼ぶ。この言葉は、霊魂の乾燥を阻止するため念祷や霊的修行に励むことを言っている。しかし、花婿の霊が彼女のなかで愛の動きを生じないなら、花婿の恵みを働かせたり、楽しむことはできない。それで、ただちに言う。
吹け愛を目ざます南風よ
南風は、温かく雨をふらせ、草花に芽を出させ、育て、花を開かせる。これは北風と反対の結果を生じさせる。ここで、霊魂は、この南風を聖霊として示す。なぜなら、霊魂内に溢れ入った聖霊は、霊魂を燃え立たせ、歓喜させ、目覚めさせ、奮起させ、霊魂を神の愛に向かわせるからである。それで聖霊に次のように願う。
私の庭を通して吹いて……
庭は自身の霊魂である。ここで「庭を通して吹いて」といっているのは、霊魂にすでに与えられている徳に触れて、動かしてくださいと願っている。これにより徳を更新し活動させ、霊魂内で徳を楽しみ、感じるのである。なぜなら、この世において、霊魂は自分のうちにある徳を常に現実的に感じ、かつ楽しんでいるものではないからである。
しかし、神は、ときどき霊魂に大きな恵みを与え、霊魂の庭に神的風を吹いて、徳のつぼみをことごとく開き、豊富な宝や美しさを霊魂にお示しになることがある。それらは霊魂を非常に驚かせ、甘美にさせる。それで
”おまえの香をただよわせよ“という。
この芳香は、ときとしてあまりにも豊かに流れ出るので、霊魂は自分が喜びの衣を着せられ、測り知れぬ光栄のうちにひたされているように感じる。しかも霊魂自身が内心そのように感じているというばかりでなく、この光栄は外部にもあふれ出るので、注意深い人々はこれに気づく。この聖なる霊魂がこのように人々の注目をひくのは、ただ花が満いているときだけではない。この霊魂は普通の生活のうちにも、人々に畏敬の心をおこさせる何かしら偉大なもの、威厳のあるものをもっている。
「私の庭を通して吹く」南風とは霊魂に聖霊が訪れることで、このとき神の御子は霊魂に対する愛にかられて、これを伝達なさるのである。それにより、花婿は霊魂を喜びでみたして立ち上がらせ、楽しくし、徳の花を開かせ、たまものを明かるみに出し、ご自分の恵みや宝で霊魂をお飾りになる。それで花よめなる霊魂は北風が去り、南風が来て、庭を通して吹いてくれるようにと熱烈な望みをもってこい願う。なぜなら、南風が吹いてくると、いろいろの善いことをいちどきに獲得するから。それはまず前述のように、ここちよく実行できるほどに進歩した諸徳を楽しむこと。また、それらの徳において、愛人を楽しむということ。さらにまた霊魂は、このような諸徳の現行的な実践によって、愛人をより多く喜ばせるという利益を得る。ところで愛人の喜びこそ、この霊魂にとって最大の喜びである。霊魂はまた諸徳のこのようなこころよい味わいが永続すという益もかちえる。このこころよい味わいは花むこがこのような様式で霊魂のうちにとどまり、花よめなるこの霊魂がこれらの徳によって、かれを楽しませている間中継続する。
それでこの聖霊の風はこの上もなく望ましいものである。そしてすべての霊魂は自分の庭を通してこれが吹いて、神の天的芳香がそこにただようことを願うべきである。これは霊魂にとってきわめて必要で、その栄誉、利益となること非常であるため、雅歌の花よめもこれを望み、この霊魂が用いているのとよく似たことばで、この恵みを願っている。「北風よおこれ、そしてすぎ去れ、南風よきて、私の園を吹き過ぎて、その芳香をただよわせよ」(4・16)こういうことすべてを霊魂が望むのは、そこから自分に来る楽しみや光栄のためではなく、花むこがそれをお喜びになるということを知っているためである。またそれは、神の御子がこの霊魂において楽しみにおいでになるための準備であり前兆であるからである。そこでただちにいう。
そうすれば愛人は花のなかに
饗宴をなさるでしよう。
饗宴とは、神の御子が霊魂内で味わう楽しみである。なぜなら、饗宴とは、「楽しむ」だけでなく「養う」ものであるから。神の御子は、この霊魂が楽しんでいる間、この霊魂とともに楽しむ。またこの饗宴を花の中で行うといっているのは、花とは諸徳のことをあらわし、花婿と花嫁の交わりはこの諸徳を通して行われるからである。そして花婿が養いとするのは、ご自身と化した霊魂であるから。そのとき霊魂は、徳の花や賜物で調味された風味豊かな食物のようである。そしてこの花婿はその食物を調味料をつけてお取りになる。その調味料とは聖霊である。
次の歌についての注
1 この霊的婚約の状態にあって、霊魂は自分に与えられたいろいろの美点や巨大な富を自覚する。しかし霊魂は肉体のうちにひきとどめられているがために、思うがままにそれらを楽しむことができない。たびたび霊魂はこのために非常に苦しむ。特に、これをまざまざと見せつけられるとき、はなはだだ苦しむ。なぜならそのとき、霊魂は自分が肉体のなかで、まるで虜囚の身の王侯のようなありさまでいるのを認めるから。かれは無数の悲惨をなめさせられ、自分の王国は没収され。主権も富も みなそこなわれ、自分の所有からは、ただごくわずかな食物しかりえられない。このような状態にあって、かれがどのようなことを感じるかはだれにもよくわかる。その上、その家の下僕たちは、かれによく服していない。ちょっとした機会があるたびごとに、かれの下僕や奴隷は、かれに対してなんの敬意もなく反抗し、あまつさえ、かれの皿の一口の食物までも収ってゆこうとするほどである。事実、神がこの霊魂に御みずから準備せられた宝や富の一口なりとも味わう恵みを与えられると、ただちに、感覚的部分に欲求という悪い下僕が立ち上がる。あるいは、乱れた心の動きという奴隷、あるいは霊魂の下部におこるその他の反抗が、このような善を楽しむことを妨げる。
こういう状態にあって霊魂は、あたかも、敵国にいて異国人たちにしいたげられ、死者のなかの死者となった人のように感じる。それで霊魂は自分がどれほどわずらわされているかを示し、また感性の支配がやみ、それとともに感性の攻撃やわずらわしさが終りを告げ、少なくともそれらが完全に屈服されることをどれほど望んでいるかをわからせるために、花むこのほうに目をあげる。かれこそ、これらのことをすべて実現してくださるはずの御者であるから。そして上記の乱れた心の動きや反逆に反抗して次の歌をいう。
第18の歌
おお、ユデアの女精よ
花と、ばらの木どの間で
リゆうぜん香が、芳香をはなつどき
郊外に、どどまっていてください。
そして
私たちの、しきいに、触れようとしてはなリません。
解説
この歌のなかで語っているのは花よめである。彼女は自分の霊魂の霊的な高尚な部分が愛人によって、これほどまでに豊かで、すぐれたたまものや愉悦にみたされていることを見て、前の二つの歌のなかで描写した状態、つまり花むこが彼女を、おおきになった安全な状態にとどまり、これらの善を永続的に所有することを望む。しかし、一方、霊魂の下級の部分すなわち、感性から妨害が来ることは可能であり、事実、そのために、この大いなる善が妨害され、乱されるのを見て、この下級の部分の働きや衝動に向かって、この部分の能力や感覚のなかで静かにしていてくれるように、そして自分の領域、つまり感性の限界を越えて、霊魂の上部の霊的な部分を、わずらわせに来ないようにと懇願する。要するに霊魂は自分が楽しんでいる幸福や愉悦が、ごくわずかな衝動によっても乱されることがないようにと願っているのである。なぜなら感性的部分の衝動と能力とは、霊が楽しんでいるときに活動するならば、この活動の力と激しさに比例して、霊をわずらわし、不安にするから。そこでいう。
おお、ユデアの女精よ。
ユデアとは、感性のことである。そう呼ぶのは、この部分は弱くて、肉的で、それ自体は盲目であるので、まさにユデア民族のようであるから。女精は、感性の働きや衝動のことをいう。なぜなら、感性の働きや衝動によって意志を理性的な部分から感覚的な部分に引き寄せようと魅惑的にしつこく努力するからである。そこで言う”おお、おまえたち、感性の働きや衝動よ”
花とばらの木との間で、
花とは前述のとおり、霊魂の徳のことである。ばらの木とは霊魂の諸能力、すなわち、記憶、知性、意志で、それらは神的思念の花や、愛や、その他の徳の行為を生じる。それで、私の霊魂の諸能力と徳とのさなかで、
りゅうぜん香が芳香をはなつとき
りゅうぜん香とは、霊魂内に住んでいられる天の花むこの霊を意味する。この神的りゅうげん香にとって、花とばらの木との間で芳香をはなつとは、霊魂の徳と能力とのうちに注ぎ入り、そこで芳しい神的香をこの霊魂のために、はなつことである。それでこの神の霊が私の魂のうちに、霊的な愉悦を注ぐとき、
郊外に、とどまっていてください
郊外は都市の外側にある。ここで都市は理性的な部分であり、郊外とは、内的感覚つまり記憶、想像などを指している。この記憶、想像のなかには、色々な形、イメージ、幻影が置かれている。そして郊外への門である五感が開かれるとき、ユデアの女精は入ってきて、記憶、想像を用いて欲求や欲望をかきたてる。郊外で行われることは都市にも感じられるので、それで”ユデアの女精よ、郊外にとどまっていてください”という。すなわち、感性の働きや衝動よ、内的感覚のなかで静かにしていてください、と言い、内的、外的、感性的感覚のうちに静けさが保たれることを願うのである。
私たちの しきいに触れようとしてはなりません。
これは、単なる衝動によってさえも、霊魂の上部に触れないようにとの意である。事実、最初の衝動は霊魂内にはいるための入口、しきいのようなものである。最初の衝動が衝動の状態を過ぎて理性のなかにはいってくると、しきいを踏み越えたということになる。しかし衝動が単に衝動としてとどまるなら、それはしきいに触れる、戸を叩くということで、感性が理性をおそい、何か不秩序な行為をさせようとする場合におこることである。それで霊魂は感性の衝動という女精に向かって自分に触れることを禁じるばかりでなく、自分が楽しんでいる静けさや幸福に役だたない考えさえも、近づいてきてはならないというのである。
この状態にある霊魂は、自分の下部とその働きとをひどく憎悪しているので、神が上部に霊的な恵みを伝達なさるとき、下部はそれに少しもあずからないことを望むほどである。事実、これらの恵みが、もし下部にも伝達されるとすれば、それがきわめて僅少でないかぎり、霊魂は、その性来の弱さのために気絶してしまう。したがって霊は苦しみ、かつ悲しみ、結局、この恵みを平和に楽しむことができない。賢者が「朽ちる肉体は霊魂の重荷となる」(知恵の書9・15)といっているとおりである。しかも霊魂は神のもっとも高い、すぐれた交わりを望んでいるが、感覚的部分といっしょでは、そのような恵みを受けることができないので、感覚的部分があずかることなしに、それらを与えられたいと望み、花むこに向かって、次の歌のなかでこのことを懇願する。
第19の歌
いとしい友よ、お隠れなさい
顔を山々に向けて、お眺めなさい
ものをいおうとなさいますな。
むしろ、ふしぎな島々にゆく彼女の
伴侶たちを、お眺めください。
解 説
この歌のなかで、霊魂は花婿に向かって四つのことを願っている。
- 花婿がその恵みを霊魂の内部の秘奥に与えてくださること。
- 霊魂の諸能力を、花婿のご神性の光栄と卓越性で捕え、かつ、形成してくださること。
- この伝達が誰にも知られず、また誰もこれをいい表わすことができず、また外的な感覚的部分は、それに少しもあずかることができないほど崇高で深いものであること。
- 花むこが御みずから霊魂のうちにおかれたかずかずの徳と恵みとを熱愛されること。
霊魂はこれらの徳と恵みとに伴われ、神性についてのいと崇高な知解と、人が通常経験するものをはるかにこえた、いたってふしぎな愛の熱情を経て神へとのぼってゆく。
いとしい友よ、お隠れなさい
これはちょうど”いとしい私の花むこよ、私の霊魂の、いちばん奥深いところにひきこもり、私の魂とひそかに交わり、すべての人の目に隠されたあなたのふしぎを、これに示してください”といっている。
顔を山々に向けて、お眺めなさい
神の顔とは、神性のことであり、山々とは霊魂の諸能力、すなわち、記憶、知性、意志のことである。それで、この句の意味は”あなたの神性をもって、私の知性のうちにはいり、これに神的に知識を与え、私の意志にはいって、これに神的愛を与え、伝達し、かつ、記億のうちには、光栄の神的所有という思いを入れてください”。霊魂は、ここで願いえられる限りのことを願っている。つまり、神の御能力の結果と、わざによって神を知ることではもう満足しない。霊魂は神のみ顔を見ること、すなわち、なんらの媒介もなく、神性と霊魂との確実な接触による神との本質的交わりを求める。いいかえれば、あらゆる感覚と偶有性とを離れ、神の実体と霊魂の実体とが赤裸で、触れ合うことを願っているのである。そこでただちにいう。
ものをいおうとなさいますな。
以前、あなたは私にくださる恵みを外的感覚にもいわれた。これらの恵みは外的感覚もあずかることのできるようなもので、外的感覚の達しえられないほど高いものでも、深いものでもなかったから。しかし、今、私はきわめて高く、きわめて本質的で、きわめて内密な交わりを願っているのだから、どうか外的感覚にはそれを絶対にいわないでほしい、すなわち外的感覚は、それらを知ることの不可能な状態にあるように。なぜなら霊の本体は感覚には伝達されえないものであるし、また、感覚に伝ええられるものは、特にこの世においては、決して純粋な霊ではありえない、感覚は純粋な霊を容れえぬものだから、霊魂は感覚には少しも触れぬ神との本質的、実体的交わりに憧れているので、花むこに向かい、この点について沈黙を守ってくださるようにこい願う。つまり、この霊的一致の秘密は、感覚がそれをいうことも感知することもできないほど深いものであるようにと願うのである。
むしろ、伴侶たちを眺めてください
神にとって眺めるとは、愛すること、恵みを与えることである。そして、ここで霊魂が神に眺めてくださいといっている伴侶とは、ちょうど許婚女に与える贈りもの、宝石や、保証金のように、花むこがすでに霊魂のうちにおかれたかずかずの徳やたまものや、その他の霊的富のことである。それで、この句の意味は、次のようである。”愛人よ、むしろ私の魂の内部のほうに御目を向けてください。そしてあなたが、そこにお置きになった富という伴侶を愛してください。それは、あなたが、これらの霊的富のさなかで、私の魂への愛に燃え、そのなかに隠れ、そこに、おとどまりになるために。これらの富があなたのものであることは事実です。しかしあなたはこらの富をお与えになったのですから。それらはまた、
”ふしぎな島々に行く彼女”のものでもあるのです、と。
つまり、私の霊魂のもの、すなわち、あなたについてのふしぎな知解によって。また感覚や自然的知識からまったくかけはなれたふしぎな様式、道を経て、あなたへと進んでゆく私の霊魂のものである。それで、霊魂は次のようなことを強制的に花むこに願っているわけである。”私の魂は感覚からかけ離れたまったく霊的な知解によって、あなたのほうに行くのだから、あなたもまた私の感覚が少しもあずかり知ることのないきわめて内密な、きわめて高い度合において私と交わってください”と。
次の歌についての注
この霊魂が憧れているような高い完徳の状態―それは霊的婚姻にほかならないが―に達するためには、古い人を脱ぎ捨て、霊塊の下部がすでに上部に服し、したがって、この下部から来るあらゆる不完全さ、反逆、不完全な傾向から浄められただけでは、まだ十分ではない。あれほど強く、あれほど緊密な神的抱擁に耐ええられるために、大きな力と、きわめて高度の愛とが必要である。なぜなら霊的婚姻の状態において、霊魂は非常に高度の純潔と美とをまとわせられるばかりでなく、さらに恐ろしいほどの力をも与えられる。この力は霊魂と神との間の一致によって作られる緊密な強い結合から来るのである。
であるから、この状態に至るために霊魂は、純潔と力と愛とのふさわしい度合に達することが必要である。それで、この霊的結合に介入し、これをとりおこなってくださる聖霊は、霊魂がこの恵みに価するため、上の特性をもつようになることを切望して、雅歌のなかで聖父と聖子とともに語られつつ、次のようにいわれた。「われらの妹が姿をあらわして語らねばならない日に、われらは彼女をどうしよう? われらの妹は小さくて乳房はまだ成熟していない。彼女がもし石垣ならば、われらはその上に白銀のとりでを築こう。もし扉ならば、これに杉の板を張ろう。」(雅歌8・8-9)白銀のとりでとは、力強く、英雄的で。白銀をもって象徴される、信仰によって包まれた徳をあらわす。これらの英雄的徳は、霊的婚姻の徳であって、石垣という語が象徴する雄々しい霊魂の上に座をしめている。この霊魂の力のうちに、平和の花むこは、いかなる弱さにも乱される憂いもなく、いこっておられる。杉の板は崇高な愛の特性や偶有性を意味する。そしてこの崇高な愛は杉によって象徴されていて、それは霊的婚姻の愛である。花よめがこの愛をまとわせられるためには、彼女は花むこがそこからおはいりになるように開かれた扉でなければならない。すなわち、霊的婚姻の前に、霊的婚約に際して与える承諾にほかならぬ真実な、まったき愛の承諾によって、意志の扉を花むこのために開いておかなければならない。花よめの乳房とは神的婚姻が完成されるため、花むこキリストの前に出るとき、花よめがもっていなければならない完全な愛のかたどりである。
聖書によれば、花よめは、花むこに見えたい望みにかられて、ただちに答える、「私は石垣、そして私の乳房は塔のようです」(雅歌8・10)これは「私の霊魂は強く、私の愛は非常に高いから、この一致のために欠けるものはない」といっているかのようである。このことはまた花よめなる霊魂が一致と完全な変化への憧れとともに、前の歌のなかで明らかにしたことで、特に最後の歌で、花よめは花むこを強制しようとして、かれから受けた徳や すばらしい傾向をかれの眼前においた。そこで、花むこもまた、この問題に解決をつけようと欲して次の二つの歌をいう。かれは霊魂を、その感覚的部分も、霊的部分もともに完全に浄化し強め、この状態にふさわしい準備を完了しようとし、感性または悪魔から来る反抗反逆に対抗して次のように語るのである。
第20、21の歌
軽やかな鳥よ
獅子よ、鹿よ、はねる野鹿よ
山よ、谷よ、岸よ、
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
調べも美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
お前たちの怒りをとどめよ。
壁に触れてはならない。
花嫁が、もっと安らかに眠れるように。
解 説
軽やかな鳥よ
軽やかな鳥:想像が、頭の中であちこちに歩き回ることをいう。霊魂が愛人との甘味な交わりにいるなか、想像は絶え間なく活発に飛び回り、霊魂の楽しみを味気ないものにし、消し去るのが常である。
獅子よ、鹿よ、とびはねる野鹿よ
獅子:憤怒による不愉快、憤怒の激しさを意味する
鹿:欲望が達成されないときに消極的になり、委縮し、おじけつき、臆病になることを意味する。鹿は他の動物と比べ欲が強いため、欲望が達成されないとき、ひどくおどおどする。
野鹿:欲望が強い時、それを得るため、大胆になり、これを勢いにまかせてそれをどうしても手に入れようとすることを意味する。野鹿は、自分に気に入るものを、あまりにも激しく欲しがり、そこに向かって、はねて行く。
山よ、谷よ、岸よ、
記憶、知性、意志の不正、不秩序な行為を指す
山:ひどく不秩序な極端な行為
谷:適切な行為よりも、はるかに低い無秩序な行為
岸:過度、または不足のため、中庸と正しさを欠いた行為
水よ、風よ、熱気よ
眠りを奪う夜の恐怖よ
水:悲哀を意味する。悲哀はちょうど水のように霊魂に入るから
風:希望を意味する。希望は、望んでいるものの方へ風のように飛んでいくから
熱:喜びを意味する。喜びは、心を燃やすから
眠りを奪う恐怖の夜:恐怖を意味する。
調も美しい七絃琴と
人魚の歌によって願う。
調も美しい七絃琴は、この段階において花むこが御みずから、霊魂内に注ぎ入れるこころよさを意味する。これによって、花むこは前述から生じる悩みをことごとく停止させる。七絃琴の調がきく者をここちよい楽しみでみたし、人はこれに心酔し恍惚となって、不快や悩みを忘れてしまうほどであるのと同様に、この神的こころよさは、あまりにも力強く霊魂を捕えるので、いかなる苦悩も、もはや霊魂に触れることができない。
おまえたちの怒りを、とどめよ。
”怒り”とは前記の霊魂の諸能力の無秩序な働きや激情からくる混乱や苦悩のことである。怒りは霊魂の平和を乱す激情で、平和から霊魂を引き出す。同様すべての乱れた激情は、霊魂に触れると、平和の限界、内的静けさから、これを引き出し、混乱のうちに投じこむ。そのため花むこはいう。
壁に触れてはならない。
この壁とは霊魂をかこみ、保護する徳と完徳とのとりでである。霊魂は先に述べた、花むこが花のなかで饗宴をする園、壁にかこまれ、花むこが、ご自分のためにだけとっておく園である。ここでは、この園の囲いや壁にも触れないようにと願っているのである。
花よめがもっと安らかに眠れるように
これはすなわち花よめが、自分の愛人において味わういこいと甘味とを、もっと自由に楽しめるようにとの意である。これによってわれわれは、花よめのためには、もはや閉じられた門はなく、自分が欲するときに、また欲するままに、この甘い愛の眠りに身をまかせることができると知る。
第22の歌
花よめははいった
憧れの楽しい園のなかに。
そして心のままにいこつている
愛する者のやさしい腕に
うなじかたむけて
解説
花よめははいった。
第一の歌から第五の歌まで:抑制の労苦、霊的な黙想を通して、よく修練を積んだことを表す。
第六の歌から第十二の歌まで:観想的な道に入り、愛の狭い道を通過する。
第十三の歌から第二十一の歌まで:霊魂は一致の道に入り、崇高な交わり、訪れ、賜物を受け、霊的婚約が行われる。
次の段階、霊的婚姻のことを、ここで歌う。それは、愛人への完全な変化であり、両者は相互に完全に所有し合うことにより、相互に自己を渡し合い、この地上で可能なかぎり霊魂を神的なものとし、参与によって神となす愛の一致のある種の完成をもたらす。この感嘆すべき段階について語って、”花よめははいった……”といっているが、それは、花よめがすべてこの世のもの、自然的なもの、またすべての愛情、霊的様式や方法を捨て去り、すべての誘惑、混乱、悩み、心づかい、憂慮を忘却し、かくも崇高な抱擁によって変化させられたことを意味する。そこで次の句がつづく。
憧れの楽しい園のなかに
この意味は、霊魂は神に変化した。霊魂は、神のうちに見出す楽しく、快い憩いのゆえに、神を楽しい園と呼んでいる。この園にはいるのは、まずさきに、霊的婚約がむすばれ、婚約者相互間の誠実な愛の実行を経たのちでなければならない。この忠実なやさしい愛によって、しばらくの間、神の御子のふさわしい許婚者であることを示したのち、はじめて霊魂は神に呼ばれ、神はご自分との婚姻という、このもっとも幸福な状態を完成するために、ご自分の花咲く園に霊魂をお入れになる。そこにおいて、この二つの性の間に、筆舌につくされぬ緊密な一致が結ばれ、神性と人性との間に、えもいわれぬ交流がおこなわれるため、神性も人性も、その本質を変えることなく、しかもおのおの神であるように見える。この一致は、今生においては完全なものではありえないとはいえ、それは、人がいい得る。また考え得るいっさいに越えるものである.
霊魂は、あたかもこのすばらしい花むこの腕に、もういだかれているようである。それで、通常、霊的に強く抱きしめられているように感じているが、それは真実に抱擁の名に価することで、この抱擁を通じて、神ご自身の生命に生きる。実にこの霊魂において、「生きているのは、もはや私ではなく、イエズス・キリストこそ私のうちに生きていられる」(ガラチア2・20)との聖パウロのことばが実現したからである。それで、霊魂はここで神の生命という、かくも幸福な光栄ある生命を生きているのだから、各人は、もしできるなら、この霊魂の生きている生命がどれほどうましいものか考えてみるがよい。神は、いかなる不快も感じることができないのと同様、この霊魂もそれを感じない。かえって、霊魂は、神に変化されたおのが実体において、神の光栄の愉悦を感じ、楽しんでいる。それがため、次の句をいう。
そして、心のままにいこっている
うなじを傾けて……
うなじは、ここで霊魂の力、すなわち、前述のとおり、霊魂と花むことの結合一致のために役立った、かの力を意味するのである。霊魂が非常に強くなければ、これほどかたい抱擁に耐えられないであろう。またこの力によってこそ、霊魂は労苦し、徳を実行し、悪習に打ち勝った。労苦し、勝利をえたこの力において憩うのは正しい。それで霊魂は、うなじを傾けていう。
愛する者のやさしい腕に
神の腕にうなじを傾けるとは、自分の力を、というよりはむしろ、自分の弱さを神の力に合わせたことである。神の腕とは、神の力を意味するから。われらの弱さをこの力にもたせかけ、これに変化させられると、それは神ご自身の力をもつようになる。それで、霊的婚姻の状態を、「愛する者の腕に花よめのうなじを傾ける」ということで示すのは、きわめて正しい。神は霊魂の力であり、また甘味である。神において霊魂は、あらゆる悪から守られ、保護され、あらゆる善に酔わされる。
霊的婚姻の崇高な状態において、天の花むこは、ご自分の忠実な伴侶である霊魂に、ご自分のくすしい秘密を、きわめてたやすく、またひんぱんに示す。なぜなら、真の完全な愛は、自分の愛する者に何も隠しておくことができないものであるから。天の花むこは特に、ご托身に関する甘美な奥義や、人類救済のためにとりたもうた方法や様式を示すが、これこそ、神のみわざのうちでも、もっとも崇高で、かつ霊魂にとってもっとも甘美なものである。それで、霊魂に他の多くの奥義を示すとはいえ、次の歌のなかで花むこは、すべての奥義のなかでもっとも重要なものとして、ただご託身の奥義のみをあげている。さて、かれは花よめとと共に語りつついう。
第23の歌
かのリんごの木のかげで
あなたは私に許婚けられた
あそこで私は、あなたに手を与え
あなたは、いやされた
あなたの母が、傷つけられたその所で
解説
かの、りんごの木のかげで
りんごの木はここで十字架の木を意味するから、この句は、”十字架の木のおかげで”ということになる。この木の上で神の御子は人類をあがない、これと婚約を結び、したがって、一つ一つの霊魂と婚約を結んだのである。かつ、かれが、そのための恵みと保証をお与えになったのも、またこの十字架においてである。
そこで、あなたは私に許婚けられた
そこで私は、あなたに手を与えた
これはすなわち、私はあなたに、恵みと助けとを与えて私の伴侶、私の許婚者とするために、あなたを低い状態から引きあげた、との意である。
あなたの母が傷ついたその所で
あなたは、いやされた
あなたの母、つまり人間性は、木のかげで、人祖において傷つけられ、あなたもやはり、そこで―十字架の木の下で―あがなわれた。それであなたの母は、木の下であなたに死をもたらしたとしても、私は十字架の木の下であなたに生命を与えた。このようにして神は、この霊魂にご自分の上知の処置や摂理を啓示なさり、いかほど賢明に、かつ、美事に悪から善を引き出すか、そして、悪の原因であったそのものを、より大きな善へと処置なさるかを示される。
ここでわれらが語るのは、神が十字架上でわれらの霊魂とともになされた婚約のことではない。それは、ただ一度で決定的に行なわれ、神はそのとき、最初の恵みを与え、次いでおのおのの霊魂にそれを伝達される。ここで問題となっている婚約は、各自の固有の道を経て少しずつ行われることである。これらの二つの婚約は、結局のところ一つのものに過ぎないのだが、違うところは、一つの霊魂の歩みに従ってなされるので、少しずつ進み、他方は神の歩みに従うので一度で行なわれるということである。
第24の歌
花に飾られた、私たちの床は
獅子の岩穴に、かこまれています
緋色の布が張られ
平安で築かれ
千の黄金の楯をいただいています。
解 説
花に飾られた私たちの床
この霊魂の床は神の御子なる花むこのことであって、次の二つの理由でそれは霊魂にとって花に飾られている。
- 霊魂は花よめとし、かれに一致し、かれのうちにいこい、愛する御者は神の上知と神秘と恵みと徳とたまものとが彼女に与える。彼女は自分が香り高いさまざまの神的な花の床に、いこっているように思われ、その接触は、こころよく、その芳香は酔わすようである。
- 霊魂の徳はまだ花が開いていないため、花が開くまでは、神との完全な一致はありえない。
獅子の岩穴にかこまれています
獅子の穴は霊魂の徳を表す。なぜなら、獅子の穴は他の動物に対して非常に安全に守られていて、それと同じように霊魂が徳を完徳の状態で持つとき、その徳に獅子のようにキリストが住み、その徳を介してキリストと一致しているからである。またキリストと一致している霊魂も、また自身獅子のようである。それで、悪魔は完徳に達した霊魂をひどく恐れる。
床が、獅子の穴にかこまれているというわけは、この段階において、すべての徳は相互につながれ、一致し、堅固にせられ、霊魂において、ただ一つの完成された完徳となるように合わせられて、相互に支えあっているからである。世も、肉も、悪魔も、あえて霊魂をおそわない。なぜなら霊魂はこれらいっさいのことから自由になり、純潔となり、神に一致しているので、これらの何ものも彼女を悩ますことができないから。それでこの段階において霊魂は、常住的な甘美と静穏とを楽しみ、それは決して失われたり、欠如したりすることがない。
ときどき、この世において、徳のつぼみが開き、徳の花が咲くときがある。そのとき、その花が放つ香りは実にすばらしいものである。というのも、霊魂は自分のうちに、神の富、偉大さ、美しさを見るからである。これらを同時に、えもいわれぬほどに感じ、楽しむので、真実に”私たちの床は花に飾られ、獅子の穴にかこまれています”ということができる。
緋色の布が張られ
緋色の布は愛を示している。霊魂は、花に飾られたこの床は緋色の布で張られているという。霊魂のすべての徳と富と善きものは、天の王の愛といつくしみに支えられているので、愛がなければ 霊魂は、この神的床も、床をかざる花をも楽しむことはできない。
平和で築かれている
完徳に達したこの霊魂は、完全な愛により、霊魂は恐怖を追放し、その結果、霊魂は完全な平和が確立されている。なぜなら、徳はそれ自身、平和で温和で強いので、したがって、徳は霊魂内に平和、温和、剛毅を生じるからである。
千の楯をいただいている。
千の楯とは霊魂が所有している徳や、たまもののことである。これらの徳が花よめの床の花であることは、すでに述べたが、同時に徳を獲得するために彼女がした努力の冠、報賞でもある。それのみならず、これらの徳の修練によって打ち勝った悪習に対する強力な楯として守備にも用いられる。それゆえ、諸徳と冠、守備を意味する花よめの花の床は、花よめの報賞として諸徳の冠をいただき、楯で守られているように諸徳に守られている。
完徳のこの度合に達した霊魂は、神の御子である自分の愛人の優秀性を称揚し、賛美し、かれから受ける恵みや、かれにおいて味わう愉悦を謳歌し、感謝するだけでは満足せず、なお、かれが他の霊魂になさる恵みのわざをも告げている。なぜなら、この霊魂はこの幸いな愛の一致において、みずから、それを体験しているから。それで、花むこが他の霊魂に与える恵みについて賛美と感謝をささげながら次の句をいう。
第25の歌
あなたの足跡を慕って
おとめたちは軽やかに道を行きます
火花に触れられ
香よい、ぶどう洒に酔って
神の香油の芳香を吐きながら
解説
あなたの足跡を慕って
足跡は、神がご自身を知らせ、探し出させるために、霊魂に与える快さや知解のことを表す。
おとめたちは軽やかに道を行きます
霊魂は、神が残す足跡を、軽やかに進むことを表している。この霊魂は、神と愛において一致し結ばれている。そのため一切の被造物的なものから離脱しているため何ものにも引かれることがない。
火花に触れられ
香よいぶどう酒に酔って
神の香油の芳香を吐きながら
”火花に触れること”とは愛する御者が、ときどき霊魂に与え、しかも、ときとして、霊魂が、それについて、いちばん考えていないようなときに与えるきわめてせんさいな”接触”のことである。それによって、その心は突然、愛の火に燃え立ち、望みや、賛美や、感謝や、崇敬や懇願を、甘美な愛をこめて、神のほうに立ちのぼらせる。これが花よめのいう”神の香油の芳香を吐く”ことである。
香よいぶどう酒に酔って
ぶどう酒とは、はるかに高い恵みのことをいう。神は、進歩した霊魂にときとしてこれを与える。このとき、聖霊は霊魂を心地よくし、うましく、強い愛のぶどう酒で酔わせる。霊魂はこの心地よい陶酔のうちに沈む。
この甘味な陶酔の恵みは”火花に触れること″のように速かに過ぎ去らない。それにはもっと安定性がある。火花は霊魂に触れるが、ただちに過ぎ去る。しかし、”火花に触れる”ことはぶどう酒の陶酔からのものよりも、いっそう激しく心を燃え立たせる。なぜなら、時折、この神的火花は霊魂をあまりにも強く熱するので、霊魂は愛に焼き尽されてしまうからである。
このぶどう酒は、神に仕えはじめた人々にとって、感覚的である。彼らにとって愛の力は感覚のうちにあり、いつも感覚的なものに愛着を持っている。それらは真の愛、完全な愛に傾き、かつそこに導くよい媒介として役立つ。しかし、彼らの感覚的な熱が消えないうちは、神への愛に燃えることはない。かれらは行動するための勇気をこの味わいのうちに求め、それによって動かされている。それで、こういう人々にはぶどう酒を制限するのが適当である。
第26の歌
奥の酒ぐらにはいって
愛するあのかたから、私は飲みました
そして、そこから出たどき
広い野原、見わたすかぎリ
私はもう何も知リませんでした
追っていた群も失いました。
奥の酒ぐらにはいって、
奥の酒ぐらとは、この地上で達することのできる愛の最高の度合いのことをいう。この酒ぐらに達するためには、愛の七つの酒ぐらがある。
愛の最奥の酒ぐらは、愛において神との完全な一致が行われるところである。この厳密な一致は、この酒ぐらにおいて、霊魂はただ、”私の愛するかたから飲んだ”と例えられる。
私の愛する、あのかたから飲みました。
飲んだものが、身体の肢体や血管のすべてを通じて、拡がり流れるのと同様、この神との交わりも、飲んだもののように実体的に霊魂の全部にゆきわたる。これは次のように飲む。
- 知性が上知を飲む:花婿が、霊魂を上知の中に入れ、その中で愛と上知を飲ませたことを言う。
- 意志が愛を飲む:”かれはその愛を私に順応させ、私のものとしながら、かれの愛を私のうちに、お整えになった”との意味である。これが、霊魂にとって愛人から、愛人自身の愛を飲むということで、この愛は愛人自身、霊魂に注ぎ入れたのである。さて、自然の道において、愛する者を、まず理解しなければ、愛することは不可能である。超自然の道によおいて、神は明確な知識を注ぎ、あるいは増大させることなしに愛を注ぎ、あるいは増大させることがおできになる。かれらは、以前よりも明碓な知識が増大するわけでもなくて、自分が神の愛に燃え立つのを感じる。
- 記憶をもって愛人自身の憩いと愉悦を飲む:霊魂が”愛する御者との一致のうちに所有し楽しんでいる財宝”を想起しつつ、知性の光に照らされるのは明らか である。
この神的飲みものは、霊魂を、あまりにも神化し高くあげ、神のうちに吸収するので霊魂はいう
そこから出たとき
これはすなわち、”この恵みが過ぎ去ったとき”の意味である。霊魂は神によって一致の状態にいて常にその状態に留まっているが、上述の諸能力(知性、意志、記憶)は常に神に一致していない。この一致は、この世では継続的ではありえない。それで、この諸能力の一致から出たのち、
広い野原、みわたすかぎり
これは、すなわち世俗のすべてのひろがりを通じて、私はもう何も知りませんでした、との意味である。この理由は、霊魂が飲んだあの神のいと高き上知の飲みものは、霊魂に世俗の事物をことごとく忘れさせたからである。この霊魂にとって、以前知っていたこと、また全世界が知っていることさえも、この新しい知識に比べれば、まったくの無知のように思われるからである。
なお、このほか、精神のこの神化、この神における高揚によって、霊魂は恍惚となり、愛のうちにのみこまれ、あたかも、まったく神と化すので、何にもあれ、世俗のことに留意することができない。霊魂はすべてのものに対して、己自身に対してさえ、無関係なもの、存在しないもののようになり、愛のうちに、すっかり溶けこんで、愛に化す。これはつまり、自分から出て愛する御者のうちに移り往むことである。
このような霊魂は自分のことさえ思い出さないくらいだから、まして、他人のことにはほとんど干渉しない。なぜなら、霊魂内に往んでいられる神の霊は、霊魂をして忘却へと傾かせ、自分に関係のないこと、特に自分の進歩に役立たないことは知ろうとしないようにさる特質を有していられるから。神の霊は潜心の霊であって、霊魂を己自身に引き戻し、他人の事がらに関わらせるどころか、かえってそこから引き出す。そこで、霊魂はそれまで自分にとっで親しかった事柄についての知識を失う。
しかし、霊魂が不知の状態にとどまっていたとしても、獲得した知識の習性を失ったことを意味しない。否、かえって、これらの習性は、より完全な習性、すなわち注入された超自然的知識の習性によって、いっそう完全なものとなされる。
しかし、霊魂は、このように愛のうちに恍惚となっているとき、事物の特定の観念や形相、想像的行為、具象的ななんらかの知覚などはすべて、失ってしまう。それには二つの理由がある。第一、霊魂は愛の飲みものによって恍惚となっているため、他のことに従事したり留意 したりすることができないのである。第二の、そしておもな理由は、神におけるこの変化は、いかなる形相も、想像も、はいりこまない神の単純性と純潔に霊魂を相似させるので、霊魂もまた、清澄、純潔となり、初めにもっていたさまざまの形相や想像から空虚となり、単純な観想によって、浄められ、照らされているからである。それは、霊魂が、以前のすべての習性をはく奪されて、神においていとなむ新しい生命である。霊魂が、以前もっていた知識は無に帰し、すべてが、かれにとって何ものでもなくなったのみならず、以前の生活は、その不完全さとともに無きものとなったのである。この霊魂においては、ただ新しい人のみが生きている。これは第二の効果で次の句に含まれている。
追っていた群も失いました。
霊魂が、完全な状態に達する前には、いかに霊的になっていても、なんらかの不完全な欲求や、小さな好みとかを持っている。そしてそれを追い、それに従い、それに満足しようとする。すなわち、知性の場合、通常、知ろうとする欲求のなんらかの不完全さが残る。意志の場合は、なんらかの好みとか、欲求とかがあとをたたず、あのもの、このものに対する大なり小なりの愛着をもって、なんらかのものの所有へと意志を引いてゆく。また、うぬぼれとか、人からのが敬を求めることとか、その他のいまだ世間を感じさせる小さな不完全さなどがある。物質的なことでは、飲食物についての好みや、いちばんよいものを求め、選ぶこと。霊的なことでは神からの慰めとか、その他望むべきでないことを望むこと、等、完徳に達していないうちは、霊的な人々のおちいりがちな無数のみじめさがある。記億に関しては、霊魂を引きずってゆくかずかずの精神の敗漫、心配、さしでがましい心づかいなどがある。
霊魂は、その四情に関しても、数多くの希望、喜悦、悲哀、無益な恐怖などをもっていて、それらのあとを追ってゆく。しかし、奥の酒ぐらに導き入れられて飲むまでは、だれでもなんらかの群を追ってゆく。そしてそこにはいってはじめて、群から解放されるのである。その後は、霊魂はまったく愛に化され、自分の不完全さの郡が、いっそうやすやすと焼き尽されるのを見る。霊魂は、自分を引きずっていたこのようなすべての子供っぼい好みとか、みじめさとから解放されたことを感じて”追っていた群も失いました”と真実にいうことができるようになる。
この内的一致において、神は霊魂とあまりにも愛深くお交わりになるので、たとえ母親がどんなに愛深くその子供を愛撫しようとも、また、兄弟や友人の愛がどれほどやさしくとも、これほど莫実な愛にはとても比べられない。広大無辺の御父が、この謙遜な愛深い霊魂を愛撫し、高めるときのやさしさ、誠実さは、ああなんとふしぎなことだろう。それは、まったく恐れと驚嘆に価する。神は霊魂を偉大なものにするために、まるでご自分はしもべであり、霊魂は女王であるかのように、霊魂に服従なさる。また、霊魂を喜ばせるためにみ心をつかいたもうこと、あたかも、ご自分はどれいで、霊魂がご自分の神であるかのような観がある。神の謙遜とやさしさとは、なんと底知れぬものであろう。この愛の交わりにおいて、主は、ある意味で、天国の選まれた人々に対してお行ないになると福音書中にいわれている、あの奉仕を実行なさる。すなわち、「主人みずから帯をつけ、しもべたちを食卓にすわらせ、順番にまわって給仕してくださる」(ルオ12・37)
これほどの高い恩ちょうにみたされた霊魂は、何を感じるだろうか。なんと愛に溶けてしまうことであろう。
第27の歌
そこでかれは私に
ご自分の心をくださいました。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました。
そして私は何もあまところなく
自分をかれに与えました。
私はかれに、浄配となることを約しました。
解説
そこでかれは私に
ご自分の心を与えてくださいました
”そこでかれは心を私に与えた”:神がその愛と奥義とを霊魂に交流させたことを表している。
そこで、いともうましい学問を
私に教えてくださいました
うましい学問とは、観想による神の奥義の知識である。これが”うましい”のは、愛を通じての知識だからであって、神が霊魂と交わられる愛の中でそれを伝達するため甘美であるからである。
そして私は何もあますところなく
自分をかれに与えました。
前述のように、霊魂は、神の甘美な飲みものによって、まったく神に浸透されているので、ごく自発的に、そして非常にこころよく、自分をことごとく神に渡し、完全に神のものとなることを求め、神でない何ものも、自分のうちに留めることなはない。二つの意志、すなわち、神の意志と霊魂の意志とは、相互に渡し合い、相互に満足しているので、婚約の掟に従って、相互に忠実さに欠けることは決してない。
私はかれに、浄配となることを約しました。
この段階において霊魂は、その意志のすべての愛情、知性のすべての考え、記憶のすべての心づかいとそのすべてのわざとを、その欲求とともに、ことごとく神のほうに向かわせている。したがって、知性も、記憶も、意志も、欲求すらも、その天性の最初の衝動によって、それを感じることはなく、すぐに神のほうに向かうのを常とする。これは、神の力強い援助の効果であり、神において堅固にせられ、善のほうに完全に転向している結果である。
この霊的婚姻に達した霊魂は、愛すること、花むことともに愛の愉悦を楽しむことしか知らない。というのも、この霊魂は、愛である完徳に達したからである。霊魂がある対象に愛があればあるほど、その愛の対象において完全である。したがって、この完全な霊魂は、もしこういうことが許されるとすれば、全く愛である。そのすべての行為は愛である。そのすべての能力と資産とは、愛において用いられる。霊魂は、愛する御者がただ愛しか評価なさらず、愛しかお喜びにならないのを見て、神の純粋な愛においてかれに完全に奉化したいと望み、すべてをささげる。それは、ただ愛する御者がそう望まれるからというだけではなく、この霊魂をかれに一致させている愛は、霊魂をして、すべてにおいて、すべてを通じて神を愛するように傾けるからである。
神は愛のほかに何ものもお喜びにならない理由:われらのすべてのわざ、すべての労苦は、たとえそれが、いかに大きなものであろうとも、神のみまえには無にすぎない。なぜなら、そのようなことにおいて、われらは神に何もささげることはできず、神の唯一のご希望をみたすことはできないから。神の唯一のご希望とは、われらの霊魂を高めるということである。神はご自分のために何もお望みにならない。何も必要とせられないのだから。それで、もしみ心を喜ばせることがあるとすればそれは霊魂が向上することである。そしてご自身と等しいものとする以上に霊魂を高めることはおできにならないので、神はただ、一つのことだけを追求なさる。それは、霊魂から愛されること。なぜなら、愛の特徴は、愛する者をその愛の対象と等しくすることであるから。さて、霊魂は、ここで、完全な愛を有していればこそ、神の御子の花よめ。すなわち、かれと同等な者といわれるのである。愛のわざであるこの同等性において、ふたりの愛人の間ではすべてが共通である。それは花むこご自身、弟子たちにおおせられているとおりである。すなわち「これから、私はあなたたちを友人と呼ぶ。私の父からきいたことをみなあなたたちに知らせたから。」(ヨハネ15・15)
第28の歌
私の魂は そのすべてをあげて
かれにお仕えしています。
(直訳=私の魂は用いられました。その所有のすべてをあげてかれのご奉仕に)
私はもはや群を守リません。
もう他の務はあリません。
ただ愛することだけが、私のすること
解説
私の魂は用いられました
”私の魂は用いられました”:霊魂はこの愛の一致において、その愛する御者に自分を渡したことをいっている。すなわち、知性は、愛する御者へのご奉仕にいちばん適したことのために使い、意志は神のみ心に適うことを愛し、万事において神を愛するために使い、記憶と注意は神の奉仕と、神をいっそうお喜ばせすることのために用いる。
その所有のすべてをあげてかれのご奉仕に
”私の所有のすべて”は、霊魂の感覚的部分に属するすべてを意味する。この感覚的 部分には、肉体とその内的外的感覚と諸能力、ならびにすべての自然的能力、つまり、霊魂の四つの情感、自然的欲求、その他の素質がある。これらのすべても今は、愛人への奉仕に用いられると、彼女はいうのである。
このようにして霊魂の所有の全部が、神のために用いられ、まったく神に向けられているから、霊魂が、別に気をつけるまでもなく、今、述べたこの所有のすべての部分が、その本能的最初の衝動からすでに神において、神のために行動するように傾く。それで、霊魂は非常にしばしば、神のためにしていると考えもせず、思い出しもせずに神のために働き、神のご利益のためにつくしている。それについてつけられた習慣が、注意とか努力とか、また以前には、何かをする前にしていた熱心な内的行為すらも除去してしまうからである。このように、この霊魂の所有のすべては、神のために用いられるので、次の句に述べていることは、その当然の結果である。
私は もはや詳を守りません
この句の意味はこうである。私はもはや、自分の好みや、自分の欲求に従わない。それらは神のうちに置き、神にささげてしまったから。霊魂はもはや、それらを自分のために牧しもしないし、守りもしない。そして、この群を、もはや守らないというばかりでなくさらにいう。
もう他の務はありません
霊魂のすべてのことば、考え、わざは、神よりのものであり、神に向けられている。そのために、それらはふつうもっている不完全の汚点を もはや、もたない。それで この句はちょうど、こういっているようなものである。”私は、もはや、私の欲求も、他人の欲求も、みたそうとはしない。私は、むなしい気晴しや、世俗の事柄にはもはや、たずさわらない”
愛すること。ただ、それだけが私のすること
ことばをかえていえば、以前の私の務のすべては、今は神の愛の実行だけとなってしまった。すなわち、”私の霊魂と肉体のすべての能力、私の記憶、知性、意志、内外の感覚、感覚的部分と霊的部分との欲求は、愛によって、また、愛においてしか働かない。私はすることをみな愛によってする。苦しむことはみな愛の風味をもって苦しむ”と。ダヴィドが「私の力をあ なたのために守ろう」といったとき、このことを示そうとしたのである。
ここで一つの注意をしよう。ある霊魂が、この段階に達すると、その霊的部分の、また感覚的部分のすべての働きは、行動するにせよ、苦しむにせよ、すべて霊魂が神から汲み出す愛と愉悦とを増大させるに役立つ。これはすでに述べたことである。以前、この霊魂は、その念祷や神との交わりにおいて、なんらかの考察を行なったり、なんらかの方法に従ったりしていた。今は、すべてが愛することにつきる。物質的な事柄に関しようと、また、霊的生活のことに関しようと、この霊魂は真実に”愛すること、ただそれだけが私のすること”と常にいうことができる。
幸いな生活! 幸いな段階! そこに達した霊魂はなんと幸いであろう! この神的婚姻においては、霊魂にとって、すべては本質的愛であり、すべては甘く、楽しい。霊的婚姻の段階において霊魂は、通常神との愛の一致のうちに歩んでいるということで、これによってその意志は絶え間なく、かつ愛深く神に注意を傾けている。
実に、この霊魂は、すべてのことに失われたものとなり、ただ愛においてのみ獲得されたものとなった。その精神はもはや他のことにたずさわらない。それゆえに活動的な生活や他の外的な修行に関することには力が衰え、花むこが必要だとおおせられた、ただ一つのことに完全に従事する者となっている。この唯一の必要事とは、神への注意と愛の不断の実行である(ルカ10・42)。これを主が評価され、尊重されることは非常なもので、マルタがマリアを主への奉仕のため、他の活動的わざにたずさわらせようとして、主の御足もとから去らせようとしたとき、マルタをおとがめになったほどである。マルタは、マリアが主の御足もとに、こころよくいこっているので、自分はあらゆることをなし、マリアは何もしていないと思ったのだが、事実はまったく反対であった。なぜなら、愛以上にすぐれた、そして必要なわざはないから。
ここで次のことに注意してほしい。それは、霊魂が 愛の一致のこの段階に達さないうちは、活動生活と観想生活との両方面において愛を修練することがのぞましいが、ひとたびそこに達したなら、たとえ、神への奉仕にきわめて重要なわざであっても、神への愛深い注意から一瞬間なりとも、そらすことのできるような外的なわざや、修行にたずさわることはよろしくない、ということである。その理由は、純粋な愛は、たとえごくわずかでも、他のすべてのわざを合わせたより、神の御目にも、霊魂の目にも、いっそう貴重で、外見上何もしていないように見えても、聖会のため、いっそう有益だからである。そのため、マリア・マグダレナはその宣教によって多くの効果をあげ、そののちも、きわめて有益に働くことができたであろうに、その花むこをお喜ばせし、聖会を益したいとの大きな望みにかられて、この愛に真実に身をささげるため三十年間荒野に隠れていた。彼女はこの方法によって、他のいかなる方法によるよりも、はるかに多くを獲得すると思ったのである。事実この愛は、ごくわずかでも聖会のため非常に有益で、重要なものであるから。
したがって、ある霊魂が、この孤独の愛の度合のいく分かでも有する場合には、たとえ非常に重要なことであろうとも、また、たとえわずかの時間にすぎないにしても、この霊魂を外的な活動的なことに従事させようとするならば、この霊魂にもまた聖会にも、尽大な損害を与えることになるであろう。神が被造物たちに、この霊魂をその愛の眠りから、目覚ませないように願っていられるくらいであるから、この願いをあえておかして、とがめられないはずはなかろう。要するに、われわれはこの愛のいとなみのために造られたものである。無制限な活動に身をゆだね、その宣教や外的わざによって、全世界を包みこもうと想像している人々よ、反省するがよい。もしも、かれらが活動にささげている時間の半分を祈りにおいて神とともにとどまるために用いるなら、たとえ、今、われわれが話しているような高いは階に達していないにしても―かれらが与えるよい摸範は別として―聖会のため はるかに有益な者となり、神のみ心にいっそうかなうことであろう。そうすればたしかに、かれらは、ただ一つのわざによって、千のわざによるよりも、いっそう多くのことをなし、しかも労苦はより少ないだろう。かれらの祈りが、かれらに恵みをかちえ、必要な霊的力をかれらにもたらすであろうから。祈りがなければ、すべてが かなづちで打つに等しく、ほとんど何も生ぜず、あるいは全然何も生ぜず、ときには善よりも、いっそう悪を生じる。外見上何かよい結果が生じたと仮定しよう。実際のところ、実質的なものは何もないだろう。なぜなら、善は神の能力によってしかなされないということは、疑いをはさむ余地のないことだから。
第29の歌
もしもきょうからは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
私は失われたのだとおいいなさい。
私は愛に燃えて、歩みながら
自分を失うことを望みました。
でも結局自分をもうけたのです。
解説
もしもきょうからは広場に
もう私が見えず、見出されないならば
広場は、世俗を表している。世間の人々は、そこで気晴らしをしたり、交際したり、かれらの欲求にかてを与えたりする。さて、霊魂は世俗に向かって、自分はこのようなつまらないことのためには失われたと見なしてもらいたいと言っている。なぜなら、世俗の人々は、そのように言って喜んでいるからである。
私は失われたのだといいなさい。
神を愛する者は神のために行なうわざを、世間の前に恥じることなく、たとえ世間のことごとくが、それを非難しようとも、恥じて、それを隠すようなことはしない。したがって、世俗のすべてのことに対して自分を失われたものと見なすことを、すべての人から知られることを名誉と思う。それで”私は失われたのだとおいいなさい”というのである。
何かをなすにあたって、これほどの大胆さと決意とをもっている霊的な人々は数少ない。なぜなら、ある人々は霊的なことに身をゆだね進歩をしたとさえ思っているが、世間とか、天性とかのなんらかの満足を徹底的に捨てきらぬため、人がなんというか、自分がどんなに見えるかなどということを気にせず、純粋にイエズス・キリストのための完全なわざを果すに至らないからである。
愛に燃えて歩みながら
これはすなわち神の愛に燃えたって、徳を実行しながら、
自分を失うことを望みました
でも結局もうけたのです。
霊魂は、福音書における花むこのみことば、すなわち、「人はふたりの主人に仕えるわけにはゆかない。そうすれば.ひとりをおろそかにしなければならない」(マテオ6・24)ことを知っているので、ここで、神をおろそかにしないために、神以外のすべてのもの、つまり、すべてのものと自分自身とを軽視し、神の愛のために、こういうものをみな放棄したといっている。真に愛に燃えている者は、愛の対象において、よりよく自分を見出すために、他のいっさいを放棄する。
神の愛に熱中した霊魂は、いかなる利得も褒賞も望まず、ただ神の愛のため、意志において、すべてのものと自分自身を失うことのみを求め、それを自分の利得だと考える。まさにその意味において聖パウロは、「キリストのために死ぬことは、自分自身とすべての事物に関して私の利得であると考える」(フィリピ1・21)と言っている。これと同じように霊魂は、”自分を、もうけたのです”というのである。
このように霊魂が自分をもうけると、霊魂がするすべては利得となる。それは、霊魂の諸能力の力の全部が愛人とのきわめて甘味な、内的な愛の霊的交わりに変っているからである。この愛のうちに、神と霊魂との間に行なわれる交わりは、人の舌をもっては表現できず、人の知恵をもっては理解できぬほど、きわめてデリケートで、崇高で、こころよいものである。花よめはその婚約の日には、祝宴のこと、愛の楽しみのこと、また花むこを喜ばせ、楽しませるために、ありたけの宝石を出し、自分の美しさをできるかぎり発揮することしか考えない。一方花むこのほうも、これにまさるとも劣らず、自分の富や優秀性を示して、花よめを喜ばせ、楽しませようとする。霊的婚約においても同様である。
第30の歌
さわやかな朝にえらんだ
花とエメラルドで
私たちは花環を造リましょう
あなたの愛に開いた花を
私の髪の ひとすじで あみ合わせて
解説
花とエメラルドで
花とは霊魂の徳のこと、エメラルドとは、神から受けた、たまもののことである。
さわやかな朝にえらんだ‥‥
”さわやか朝”:青春時代、もしくは徳を獲得するために行う愛の行為、もしくは霊的乾燥や困難(冬の朝)を表している。
”えらんだ”:獲得した徳を表している。
青春時代に獲得した徳は神の御前に快い。なぜなら、この時期は、徳を獲得するために悪習から来る妨害は多いし、天性は徳を失うことに多く傾くからである。また徳を獲得するための行為そして乾燥や困難の中で獲得された徳はは神のみ心に快い。
私たちは花環を造りましょう。
神と霊魂が所有する徳は霊魂内にあり、徳や賜物は、神と霊魂との所有である徳やたまものは、いろいろの花で造られた花環のように霊魂内にあって、豪華な衣服のように霊魂をすばらしく美化する。そして花環を造るとは、霊魂が、完全な徳やたまものの、いろいろの花やエメラルドで、自分をとりまくことである。それはこの美しい高賞な装飾を身につけて、王の御顔のまえにふさわしく出てゆき、王と同等の位に上げられ、后として王の側におかれるためである。
この句はまた、イエズス・キリストと聖会とのことに非常によくあてはまる。キリストの花よめである教会はキリストに向かって、「私たちは花環を造りましょう」という。ここで、花環とは、教会がキリストによって生むすべての聖なる霊魂のことである。これらの霊魂の一つ一つは、徳や、天的たまもので造られた花環であって、これらが全部集まって、花むこイエズス・キリストの、み頭を飾るべき、ただ一つの花環を形成している。
あなたの愛に開いた花……という
霊魂のわざや徳をかざる花とは神の愛から来る美しさと力とである。この愛がなければ、これらのわざは開花しない
私の髪のひとすじで あみ合わせて
ここでいわれる髪の毛とは霊魂の意志のこと、霊魂が愛する者に対していだく愛のことである。この愛はここで、花環の糸と同じ役目を果す。花環において、糸が花をつなぎ、固定するように、愛は霊魂において、諸徳をつなぎ、固定し、支えている。聖パウロがいうように、愛は完徳の結び(コロサイ3・14)だからである。
第31の歌
私のうなじに ゆらぐ ひとすじの髪の毛
あなたはそれをお眺めになリました
私のうなじの上に それを眺めて
あなたの心は 捕われました
そして私の一つの まなこは
あなたを傷つけました。
解説
私のうなじに ゆらぐただひとすじの髪の毛
(直訳=私の頸の上に飛んでいたひとすじの髪の毛)
あなたはそれを お眺めになりました。
うなじは剛毅を象徴している。諸徳をあみ合わせている愛の髪の毛が、”うなじにゆらい でいた”とこの霊魂がいうとき、それは、この愛が強い愛だったことを意味する。反対の悪習が完徳の花環のいかなる部分を崩すことがないように、それは強くなければならない。そして、愛人が”うなじにゆらいでいた髪の毛を眺めた”といいつつ、霊魂は神がどれほど 強い愛を愛されるかを示している。眺めるとは大いなる注意と尊重の心をもって見ることである。ところで、強い愛は、ごく特別に神の御まなざしを引きよせる。
私のうなじの上に
あなたは それをお眺めになりよした。
神において、見るとは愛することである。眺めるとは、眺める対象を尊重することである。霊魂は、この句において”私のうなじの上に、あなたはそれをお眺めになりました”と、それは前述のように、その愛の力強いのをごらんになったからこそ、神はそれを大いにお愛しになるのだということを示すためである。
これまで、神はこの髪の毛を見て、それに心を捕われるというようなことはなかった。それは、この髪の毛が、他の多くの髪の毛、すなわち他の愛や欲求や、愛好や、楽しみから離れていず、孤独でなかったからである。
そしてあなたの心は捕われました。
神が、一筋の髪に、神ご自身み心を魅了され、お喜びになり、そしてお捕らわれになったのである。
そして私の一つのまなこはあなたを傷つけました。
ここで目とは信仰のことである。そしてそれは、ただ一つであって、それが深傷を負わせたといわれている。そのわけは、信仰というものは、霊魂の忠実さと同様、もしも、ただ一つではなく、何か人間的な思惑とか遠慮とかを混じていたりすれば、神に愛の傷手を負わせることはできないからである。したがって、神をとりこにする髪の毛が、ただひとすじでなければならないように、愛の傷を負わせる目も、ただ一つでなければならない。さて花よめのうちに認めるひたむきな誠実さのゆえに、花むこの心は花よめに夢中になる。
愛の力は非常に大きい。神ご自身を捕えて、しばってしまうくらいだから。愛する霊魂は幸である。自分の望むことすべてに服する捕虜として神を所有しているのだから。神は実にこのような性質をもっていられる。すなわち人が愛によって神を捕らえることを知っているなら、その人はなんでも自分が望むとおりのことを神に行なわせるようになるのだ。しかし、他の方法をもってしては、たとえ極端なことをしようとも、神に語ることも、神に対して何ひとつすることもできない。しかるに愛をもってすれば、ひとすじの髪の毛で神をしばることができるだろう。霊魂はそれをよくわきまえ、かつ、自分の功徳にはるかに越えて、神がこれほど高度の愛にまで上げてくださり、さらにまた、たまものや徳のゆたかな宝をそれにそえてくださったことを見て、次の歌のなかで、そのすべてを神に帰していう。
第32の歌
あなたが私を眺めていられたとき
あなたの目は 私の上に
あなたの美しさを 刻みました
これがためにこそ、あなたは私を熱愛され
それによって私の目は、
あなたのうちに見たものを
拝する恵みにふさわしくなリました
解 説
あなたが私を眺めていられたとき
すなわち、愛のやさしい情をこめて見ていられたときという意味。前述のように神がごらんになるとは、お愛しになることであるから。
あなたの目は私の上に
あなたの美しさを きざみました。
花むこの目とは、そのあわれみ深い神性を意味する。この神性は霊魂のほうに、あわれみ深く御身をかがめ、ご自分の愛と恵みとをその上に刻印し、かつ注ぐ。それによって霊魂を美しくし、神性自身に参与させるほど高めてくださるのである。霊魂は神が自分をあげてくださった尊厳といとも高い品位を見ていう。
これがためにこそ あなたは私を熱愛され
熱愛するとは非常に深く愛することである。どうして、これほど深刻に霊魂を熱愛されたかというと、霊魂がこの句の中でいっているように、神はその御まなざしによって、ご自分の楽しみとなる美しさを彼女に与えることを望まれたからである。それで霊魂は”これがためにこそ、あなたは私を熱愛された”という。神が霊魂内に恵みをお注ぎになるとは、その霊魂を、神の愛を受け入れるにふさわしいものとなさることである。
神は被造物を被造物自身ゆえに愛されることはない。それで神が霊魂をお愛しになるとは、これを言わば、ご自分と同等なものとなして、ご自分の内にお入れになることである。それで、神は霊魂をご自分を愛されるその同じ愛をもって、ご自分のうちで、ご自分とともにお愛しになる。そこで、霊魂は一つ一つのわざによって、それを神において行うかぎり、神の愛に価する者となる。
それによって私の目は‥‥ふさわしくなりました。
すなわち、あなたが私を眺め、私をあなたの目に快い者、あなたに見られるに値する者となさったとき、あなたのあわれみの目を私にくださった恵みによって、私の目は‥‥ふさわしくなりました。
あなたのうちに見たものを拝する恵みに
私の霊魂の諸能力は、あなたを見るために高くあがるにふさわしくなった。これらの能力は、以前は、その低劣な働きや性来の素質のみじめさのために、卑しさのうちに沈み込んでいた。霊魂にとって神を見ることができるとは、神の恵みのうちに、わざをすることが可能になることである。霊魂の諸能力は神を礼拝しながら功徳をつむ。それは、神の恵みのうちに礼拝するからで、神の恵みにおいてこそすべてのわざは功徳あるものとなる。それで、霊魂の諸能力は神の恵みと助けによって照らされ高められて、神のうちに発見するもの、すなわち、以前にはその卑賎と盲目のために、見ることの許されなかったものを礼拝する。しかし、神において何を見るのか?徳の偉大さ、あふれるばかりの甘美、無限のやさしさ、神の愛と憐み、神と緊密に一致して以来、またはそうなる以前から受けた無数の恩恵である。
ここに大いに反省し、また嘆かねばならないことがある。それは神の愛に照らされていない霊魂は、神に対する義務を果すことからどれほどかけはなれているかということである。霊魂は神から受けた現世的な、また霊的な無数の恩恵、また現に各瞬ごとに受けつつあるすべての恩恵を認めるはずであり、かつ、これらすべての恩恵のため、その能力のすべてをあげて間断なく礼拝と奉仕とを神にささげる義務がある。ところが、そうしないばかりか、そういうことは考えもせず、認めもしないし、このようなことについてわずかな観念すら、もつにふさわしくない者とみずからをなしている。罪のうちに、生きている、というよりはむしろ死んでいる人々のみじめさは実に、こういうところにまで至っているのである。
第33の歌
私を おさげすみになリませんように。
私の色は浅黒かったとしても
今は、もうあなたは私を よくお眺めになれるのです。
まえに、もう私をお眺めになったのてすから。
そして 愛らしさと美しさとを
私のうちにお残しになリましたから
解説
私をおさげすみになりませんように。
もちろん、このような霊魂は、自分をいくらか価値のあるものと思われたくて、こんなことをいうのではない。それどころか、神を真実に愛する霊魂にとって、軽蔑とか侮辱とかは大いに尊ぶべきことであり、喜びとするところである。それに彼女は、自分からは それ以外のことに価しないことをよく知っている。ただ、神から受けている恵みや、たまもののためにだけ、このようにいうので、それを次の句で明らかにしている。
私の色は浅黒かったとはいえ
すなわち、私をご好意をもってお眺めになる前には、私のうちに 罪や不完全さのみにくさや黒さ、また私の本性上の低劣さをお見出しになった。
今はもう、あなたは私をよくお眺めになれるのです
前にもう、私をお眺めになったのですから
私は今、眺められることができ、それにふさわしい。また、あなたの御まなざしから、ますます多くの恵みを受けるに価する。というのも、あなたは最初に私から浅黒い色をお取り去りになったばかりでなく、私を、眺められるにふさわしいものとなさったのだから。事実、あなたの愛のまなざしをもって、
愛らしさと美しさとを私のうちに
お残しになりましたから。
霊魂が、神の御目に愛らしいものとなると、神はこの霊魂にさらに多くの恵みを与えようと強くみ心をお動かされになる。かれはこの霊魂のうちに、喜んで住んでいられるのであるから。この最初に受けた恵みのために霊魂は、神のみ前に、偉大なもの、栄誉あるもの、美しいものとされている。そのため、この霊魂は、神になんとも名状しがたいはどに愛されている。この霊魂が神の恵みのうちに入れられる以前に、神はただ、ご自身のゆえに彼女をお愛しになったのだが、かれの恵みが彼女のうちにそそがれた今、かれはただ、ご自分のためだけではなく、彼女自身のためにもお愛しになる。それで、あるときは彼女の美が生じた効果やわざを介して、あるときはそのようなものを介せず、彼女の美に心を奪われたかれは、常にますますその愛と恵みとを彼女に交流なさる。
神が ひとたびそのうちにみ心の楽しみをおかれた霊魂を、どこまで高められるかをだれがいうことができようか? それはいうことができないばかりか想像することさえできない。それば結局、神が神としてなさることであり、ご自分がどういう者かをお示しになるためであるから。ただ、それは、より多く有する、霊魂に、より多く与え、霊魂が、すでに所有しているものに順じて、たまものを増加することを好まれる神のご性格から見て、いくぶん理解することができる。福音書にも、「持っている人は与えられて、ますます豊かになるが、持たない人は、持っているものさえ、取られてしまうだろう」(マタイ13・12)とある。
たしかに、おお私の神よ、あなたは、御まなざしをそそがれた霊魂を、眺め、かつ、高く評価することがおできになる。それは、あなたの御まなざしは、この霊魂に価値とたまものとを与え、それによって、この霊魂を評価し、かれに心をおうばわれになるからである。それゆえ、この霊魂は、あなたが御まなざしをそそがれてのちは、一度ならず、なん度でも、あなたに眺められるにふさわしい。
この霊的婚姻の段階において、花婿が、花嫁になさる友愛の贈り物は実に計り知れないほどである。またかれら相互の間にしきりに交わされる賛辞や愛の言葉は実にえもいわれぬ。花嫁は花婿を讃え、感謝することに没頭し、花婿は、花嫁を高め、讃え、感謝することにもっぱらである。
第34の歌
(花むこ)
白い小鳩は 枝をたずさえて
箱舟に もどって来た。
そして はや山鳩は
あこがれの伴侶を
緑の岸辺に見出した。
解 説
白い小鳩は
花むこは、この霊魂が、神において見出した恵みから受けた白さと、きよさのために彼女を白い小鳩と呼ぶ。鳩と呼ぶのは雅歌のなかで花よめのことがこう呼ばれているからで、花よめの性質の単純、柔和なこと、また、その愛にみちた観想を表わすためである。
枝をたずさえて
箱舟にもどって来た
花むこは、霊魂をノアの箱舟の鳩にたとえ、この鳩が行ったり来たりするのを、この霊魂 におこった、いろいろのことの象徴としてとっている。鳩は、箱舟から出たり、またそこにもどったりする。それは洪水のさなかに足を休める場所がなかったからであるが、ついに、地上に氾濫していた大水を止めた神の御あわれみのしるしとして、かんらんの枝をくちばしにくわえて、もどって来たのである。同様、この霊魂も、神が彼女を創造なさったとき、神の全能の箱舟から出て、罪や不完全の洪水のなかを進み行き、その欲求をいこわせるところを見出さなかった。彼女は愛の焦慮の風に運ばれて行ったり来たりし、その創造主の御ふところという箱舟に、はいろうとするけれども、実際には、そのなかにはいることはできなかった。しかし、ついに神が、この霊魂という地上に、不完全さの洪水をやめさせる日が到来し、彼女は、神の寛容と慈悲によって、すべてのものの上にかちえた勝利の象微であるかんらんの枝をたずさえて、愛する御者の御ふところの幸いな隠れ家に決定的にはいった。
そして はや 山鳩は
あこがれの伴侶を
緑の岸辺に見出した
花むこはまた、霊魂を山鳩と呼ぶ。それは、自分の愛する者を追求する霊魂は、あこがれ伴侶を伴侶を見出さなかったときの山鳩のようだからである。これをよく理解するためには、山鳩について言われていることを知らねばならない。山鳩は、自分の伴侶を見出さないかぎり、緑の枝に休まず、きよい新鮮な水を飲まず、日影に身を置かず、あらゆる伴侶を避ける。しかし、自分の伴侶と結ばれると、こういうことをみな楽しむ。霊魂は以上のような特微をみなもっている。それに神なる花むことの一致結合に達するためには、これらの特徴をもっていることは必要である。なぜなら、霊魂はなんらかの楽しみの緑の枝に欲求の足を止めることなく、世俗のなんらかの名誉や光栄の清い水も、現世的休息やなぐさめの新鮮な水も飲もうとせず、被造物のいかなる ちょう愛や保護の影にも身をおくことも望まぬほどの愛と熱心とをもって進むのがふさわしいのであるから。
この霊魂は、このように高い段階に達する前に、その愛する御者を、熱烈な愛をもってさがし、かれなしには、いかなる満足も味あわなかった。それで、花婿自身ここで、彼女の苦しみの終わり、望みの成就を歌い、”はや、山鳩は、あこがれの伴侶を緑の岸辺に見出した”というのである。これはすなわち、花嫁なる霊魂は、もはや愛する御者のうちに楽しみながら緑の枝にとまり、きわめて高い観想と神的上知の清い水、神において味わうここちよい慰めの新鮮な水を飲み、あつく望んだ神の保護とちょう愛との影に身を置く。
第35の歌
孤独のうちに彼女は生きていた
孤独のうちにもはや巣を置いた。
そして孤独のうちに彼女を導くのは
彼女が愛しているかのひとただひとリ
かれもまた孤独のうちに愛に傷ついて
孤独のうちに彼女は生きていた 霊魂のかたどりであるかの山鳩は、この一致の状態において、愛する者と出会うまで孤独のうちに生きていた。事実、神に憧れる霊魂にとって、いかなるものの伴侶も慰めとはならない。神を見出すまでは、かえってすべてが彼女の孤独を増すのである。以前霊魂が生きていた孤独とは、花むこのために、この世のすべてのもの、すべての宝を欠如することである。霊魂は完徳に向かい、完全な孤独をかちえようと努め、そして、この孤独のなかで聖言葉と一致し、したがって、あらゆる慰めといこいに到達する。このことは、ここで巣ということばが象徴する。それで次のようにいっている、以前に霊魂は、労苦し、悩みながら孤独のうちに生きていた。彼女はまだ完全ではなかったから。しかし、今はそこで、慰めといこいを見出している。それは、神において完全な孤独をかちえたからである。
そこで孤独のうちに彼女を導くのは この意味は、霊魂がすべての事物から離れて、ただ神とのみ、ともにいる孤独においては、神が霊魂を導き、動かし、神的なことのほうへとお高めになる。つまり霊魂の知性を神的知解ヘとお上げになるということである。それというのも、知性は、すでに妨害となる無意味な他の知解を脱ぎすてて孤独となっているからである。また、霊魂の意志は、神の愛のほうに自由に動いてゆく。もはや、他の愛好から解放され、孤独になっているから。記憶も、もはや孤独で、他の想像や幻想から空虚になっているので、神的知識でみたされている。事実、霊魂がこれらの諸能力を解放し、すべての低劣なことからも、高尚なことの所有からも空虚にし、完全な孤独のうちにおくならば、時を移さず神は、それらを不可見な神的なことにお用いになる。この孤独において、霊魂をお導きになるのは神である。
彼女が愛しているかのひとただひとり この意味は、彼女の愛する者は、孤独のうちに彼女を導くばかりでなく、さらに、他のいかなる媒介もなしに、かれみずから、ひとりで彼女においてわざをなすということである。事実、霊的婚姻における神と霊魂との一致の特質は、神が、もう天使や自然的能力を使ってではなく、御みずから直接霊魂において働き、ご自身を交流させることである。それというのも、外的感覚や内的感覚をはじめ、すべて造られたもの、また霊魂自身さえ、この段階において神が与えてくださる超自然的な大きな恵みを受けるには、ほとんど役に立たないからである。
かれもまた孤独のうちに愛に傷ついて すなわち、花よめに対する愛に傷ついて。そのわけは、花むこは、霊魂の孤独を非常に愛されるとしても、霊魂が、かれの愛に傷ついて、すべての造られたものから引き退いているのを見ては、彼女自身に対して、さらにいっそう激しく愛に傷つけられているからである。それゆえ、かれは、彼女をこのようにひとりきりで取り残しておくに忍びない。彼女がかれのためにまもっている孤独のゆえに、彼女への愛に傷つき、彼女がかれ以外のものでは満足しないのを見てかれは、ただひとりで彼女をご自分のほうに導き、彼女を引きよせ、おのがうちに吸収する。これは、もしも彼女をこの霊的孤独のうちに見出さなかったならば、お行ないにならなかったことであろう。
第36の歌
ともに楽しみましょう 愛するかたよ
行きましょう。あなたの美のなかで
お互に見るために。
清い水の湧き山る 山へ 丘へ
また、あつい繁みのなかに
もっと深くはいリましょう。
ともに楽しみましょう。愛するかたよ。 これはすなわち、互に愛の甘味の交流のうちに楽しもう。しかも、ただ、ふたりの常住の一致から来る甘さだけでなく、意志をもって熱心な愛の内的行為をするとか、または愛する者への奉仕に関する外的なわざを行なうかして有効的現行的に愛を実行することから来る甘さのうちに楽しもうというのである。
行きましょう、あなたの美のなかで 互に見るために。 すなわち、上述の愛の実行によって、永遠の生命において、あなたの美のうちに相見ることができるようにしようというのである。これをまたいいかえると、私が、あなたの美において、あまりにも変化されて、美において、あなたに似たものとなり、私たちは互にあなたの美のうちに自分を見るように、私はすでに、あなた御みずからの美を所有しているのだから。私はあなたの美のなかにすっかり吸収されて、一方の美も、他方の美も、ただ一つ、あなたの美のみとなり、私たちのひとりが、他方を見るとき、おのおのは相手のうちに自分の美を見るように、それで、私はあなたを、あなたの美のうちに、そしてあなたは私をあなたの美のうちに見るだろう。また私は私自身をあなたの美において、あなたのうちに見、あなたは、あなた自身を、あなたの美において、私のうちに見るだろう。それで私は、あなたの美において、あなたのように見え、あなたはあなたの美において私のように見えるだろう。私の美はあなたの美、あなたの美は、私の美であるように。そうすれば私は、あなたの美においてあなたであり、あなたはあなたの美において私であるだろう。なぜなら、あなた自身の美は、私の美であろうから。
山へ 丘ヘ これは、神の聖言葉のうちにくみとられる神の「朝」の、そして本質的知解を意味する。聖言葉はその崇高さのゆえに、山という語で象徴されている。丘へとは神の夕の認識。すなわち、被造物や神のみわざや、その感嘆すべき秩序における神の上知のことである。この上知は朝の上知よりも低いものであるから。ここで丘という語で象徴されている。しかし霊魂は、次の句にあるように夕の上知を、朝の上知と同様に願っている。すなわち”山へ、丘へ”
霊魂が花むこに向かって、”あなたの美のなかでお互に見るために山へ行きましょう”というのは、神的上知の美に私を変化させ似させてほしいということで、この上知は、前述の通り神の御子なる聖言葉である。また丘へというのは、被造物や、神秘的な神のみわざのうちにあるもう一つの、より低い上知の美においても、形づくられることを願っているのである。これもやはり神の御子の美であって、霊魂は、それにも照らされることを渇望している。
霊魂は神の上知において変化されなければ、神の美のうちに相見ることはできない。実に神の上知においてこそ、霊魂は高いものも低いものも所有するに至るのである。
清い水の湧き出るところへ すなわち、神の知識や上知が知性に与えられるところ。この神的知識をここでは清い水といっているが、それはこの知識が、偶有的なものや、映像からきよめられ、赤裸となり、無知 の霧もなく明瞭だからである。霊魂は神的真理を明瞭に純粋に理解したい望みを常にいだいている。そして霊魂は愛すれば愛するほど、これらの真理のうちに、ますます深くはいりたいと望み、そのために第三のことを願っている。
あつい繁みのなかに もっと深くはいりましょう すなわち、あなたのくすしいみわざと深い判定の繁みのなかにはいりましょう、との意で ある。神のみわざや判定は、きわめて数多く、かつ種々さまざまであるので”あつい繁み″と呼ぶことができるのである。そこには、あふれるばかりの上知があり、さまざまの奥義にみちみちているので、”あつい繁み”と呼び得るばかりでなく、「神の山は肥えた山、凝固った山である」(詩篇67・16)とのダヴィドのことばにしたがって「凝固った繁み」と呼ぶことができる。
しかしながら霊魂は神の判定と道とのきわめがたい繁みのなかにはいってゆこうとする。霊魂はこの知識のうちに、もっと深くはいりたい望みで死ぬばかりであるから。それというの も、それらのことを知るのは、あらゆる感覚を越えた実にえもいわれぬ愉悦だからである。それがため霊魂はこれらの判定のうちに沈み、それらを、より深く洞察することを大いに望む。この幸を得るためには、この世のあらゆる悩み、労苦も大いなる慰めと喜びとをもってくぐるであろう。またこの宝をかち得るために手段となるものはすべて、どんなにむずかしくても、辛くても喜んで受けるだろう。さらに、神のうちにより深くはいるために必要ならば、死の苦悶や危険すらおかすであろう。
したがって、霊魂がはいりたいと望む、この”あつい繁み”は、霊魂が耐え忍ぶことを渇望している無数の悩みや迫害のことと解するのもきわめて適切である。苦しみは、この霊魂にとって非常にこころよく、かつ有益であるから。実に苦しみこそ、神のこころよい上知の深みに深くはいるための条件である。苦しみが、純粋であればあるほど、それからもたらされる知識は、いっそう純粋で、いっそう内密であり、したがって、楽しみは、いっそう純粋で崇高である。それはきわめて内密な知識であるから。この霊魂はなんらかの苦しみでは満足せず”あつい茂みのなかに、もっと深くはいりましょう”という。すなわち、私は神を見るためには、死の苦悶をも忍ぶ覚悟だという。
ああ、もしも人が、あらゆる様式の苦しみのあつい繁みのなかにはいらなければ-そしてそこにおのが慰めと望みをおくのでなければ―無限に変化に富む神の上知と富との深い繁みのなかにはいれないことを、完全に悟ったなら! おお、神の上知に真に渇く霊魂は、まず、どれほど苦しみに渇くことだろう。それによって十字架の繁みのなかにはいるために!
第37の歌
それから行きましょう あの岩の高い洞穴に
あのよく隠れている洞穴に
そこに私たちは はいリましょう
そしてざくろの果酒を味わいましょう。
それから行きましょう あの岩の高い洞穴に。 ここでいう岩とは、キリストご自身である。この岩の”高い洞穴”とは、人性と神の聖言葉との一位的結合に関してイエズス・キリストのうちに隠されている神の上知の崇高かつ深遠な奥義にほかならない。それはまた。この(キリストにおける神人両性の) 一致と神における人間相互の一致との間にある調和、人類救済と神の判定の顕現のうちに見られる神のあわれみと正義との適合でもある。神の判定はきわめて高く、かつ、潔いので、霊魂がそれを高い洞穴と呼ぶのはきわめて適切である。”高い”とはそれが含む奥義の崇高さのゆえに。洞穴とはそこに含まれている神的上知の深さのゆえに、洞穴は深くて数多くのくぼみがあるが、同様、イエズス・キリストの奥義の一つ一つはもっとも奥深い上知で、人の子らに関する予定や予知のひそかな判定という無数のくぼみを含んでいる。それで霊魂はただちにいう。
あのよく隠れている洞穴に それらはあまりにもよく隠れているので、この世において聖なる博士たちが、いかに多くの奥義や不思議を発見しても、聖なる霊魂たちが、それらのことをいかに理解しても、かれらのいうところも、知るところも、そのごくわずかな部分にすぎない。キリストのうちには掘り下げて見るべきものが実にたくさんある。かれは、宝を隠す無数のくぼみを有する豊かな鉱山のようである。いくら掘っても決して掘りつくすことがない。かえって、おのおののくぼみのなかに新しい富を隠す新しいたくさんの鉱脈があちこちに次々と見出されてゆく。これらの宝のなかにはいるために、またそこまで達するためにも、すでに述べたように、霊魂はまず、内的、外的の苦しみの狭い道を通らねばならない。これが上知へと導く道である。事実、キリストの奥義というものは、この世で達しうる程度のことでさえ、まず神から前もって、あまたの知的、感覚的恵みを受け、霊的修行に一心に励むことなしにはそこに達することができない。これらの恵みは、みなキリストの奥義の知識以下のものであり、みな、そこに達する準備のようなものである。
そこで霊魂は、愛するかたのふところに隠されて、これらの奥義についての知識の愛のうちに沈み、変化され、酔わされるために、キリストのこれらの洞穴のなかに真実に、はいりたいと望む。
そこに私たちは入りましょう ”そこに”つまり神的奥義の知識のうちに入ろうというのである。そして、花婿は今更、改めてお入りになる必要はないのであるから、私一人が入りましょうと言うほうが、もっと適切であるように見えるが、そうは言わず、”私たちは、入りましょう”すなわち、私と愛人とが入るだろうと言う。これによって霊魂は、この業は自分の業ではなく、花婿が霊魂とともに一緒になさるものであることを明らかにしようとする。それに、われわれが語っているこの霊的婚姻の段階においては、神と霊魂とはすでに一つになっているのであるから、霊魂は、どんな業も、神なしで、一人で行うことは決してない。そして”そこに私たちは、入りましょう”というのは、そこで私たちは変化するであろう、すなわち、前に述べたあなたの神的な、快い判定に対する愛によって、私はあなたに変化するであろうとの意味である。
そしてざくろの果酒を味わいましょう。ざくろはここで、キリストの奥義と神の上知の判定、また、これらの奥義や判定の認識によって神のうちに認め知る神の無数の徳や属性を意味する。ざくろが円形の外皮のなかに生じ支えられているたくさんの小さい粒をもっているように、神の属性や奥義や判定や徳の各々は、無数の驚嘆すべき摂理や感嘆すべき効果を有し、それらは、そのような効果に属する徳や奥義等々のいわば球状体のなかに含まれ、支えられている。ここで、ざくろが円形または、球状であることに注意しよう。ざくろの一つ一つは、神のいずれかの徳や属性を示している。そして、これらの徳や属性は神ご自身に他ならず、神は円形とか球状形で示される。そして、これらの徳や属性は神ご自身に他ならず、神は円形とか球状形で示される。神には、始めも終わりもないから、神の上知のなかには、このように数えきれない判定や奥義があるために、雅歌の花嫁は、花婿に向かって「あなたの腹はサファイヤをはめた象牙のようです」(5・14)と言ったのである。ここで神の上知は「腹」をもって象徴され、上知の奥義と判定はサファイアをもって象徴されている。サファイアは、明るく澄んでいる時の空の色をした宝石だから。
ここで花嫁が、自分と花婿が、ともに味わうだろうと言っているザクロの果酒とは、ザクロが象徴する奥義の知解と認識から霊魂内にあふれる神の愛の歓喜と愉悦である。ちょうどザクロを食べると、そのたくさんの粒から同一の汁が出るように、霊魂に注がれるこれらの神秘や偉大さから、ただ、愛の一つの歓喜、一つの愉悦が、霊魂内にあふれる。これは聖霊の飲み物で、霊魂はそれを飲むと、ただちに、おのが神、花婿なる聖言葉にきわめて優しい愛情をこめてそれを捧げる。
第38の歌
そこであなたは見せてくださるでしょう。
私の魂が、せつに願うあのものを。
そこであなたは、ただちに賜うでしょう
おお、私の命よ
ほかの日に、私にすでにくださったあのものを
そこであなたは見せてくださるでしょう 私の魂が、せつに願うあのものを 愛している者は、自分が愛されているそれだけ、自分も愛していると感じなければ満足することはできない。この霊魂は、この世で達し得る神における変化をもってしては、たとえ愛は非常に大きなものであっても、神から愛されていると同じ愛の完全さをもって、神を愛することの不可能なのを見てとる。それで、この愛の同等性に達し得る光栄による明らかな変化に憧れる。この地上で彼女が上げられた崇高な段階においで、意志の真の一致があることは事実だが、この一致は光栄における力強い一致のうちに有するであろう愛の完全さにも力にも達することはできない。光栄にはいるとき、聖パウいがいうように、霊魂は神に知られている通りに完全に知るであろう(1コリント13・12)。したがって霊魂は神に愛されている通りに神を愛するであろう。そのとき、霊魂の知性は神の知性であり、霊魂の意志はは神の意志である。それで霊魂の愛も神の愛である。そこで、霊魂の意志はまだ存続するであろうが、それは、愛してくださる神の意志の 力ときわめて力強く一致するので、二つの意志は、ただ一つの意志、ただ一つの愛となって、霊魂は、神から愛されていると同じ力と完全さをもって神を愛するのである。こうして、霊魂は神自身の意志と力をもって神を愛する。それは、霊魂が、神から愛されているその同じ愛の力そのものに一致しているからであるが、この力は聖霊のうちにあり、霊魂はそのとき、聖霊に変化するのである。そしてこの神の霊は、この愛する力を付与するために霊魂に与えられるのであるから、光栄による変化のために、霊魂に欠けているものを補ってくださる。霊魂が、この世において到達するこの霊的婚姻の完全な変化においてさえ、霊魂は、ことごとく恵みにみちあふれ、この変化の効力によってなし得る限りにおいて、聖霊によって愛するのである。
それゆえ次のことに注意すべきである。ここで霊魂は、神がその愛を、実際には与えてくださるにもかかわらず、与えてくださるとはいわず-(霊魂は単に神が彼女をお愛しになるだろうといっているように見えるから)-ただ自分が望んでいる完全さをもって、いかに神を愛すべきかを神が示してくださるだろうといっていることである。事実、来世において、神は霊魂にご自分の愛を与え、この愛において霊魂に、自分が神から愛されていると同様に、神を愛することが示される。というのも、神は、そこで、ご自分が、われらを愛されるように、清く、自由に、無私無欲に愛することを霊魂にお教えになるばかりでなく、前述の通り、霊魂をご自分の愛に変化させ、霊魂に、神を愛することを可能にするご自分の力を与えて、ご自分が霊魂をお愛しになるのと同じ力で愛することを可能にしてくださるからである。そして、それは、ちょうど彼女の手に楽器をもたせて、彼女とともに、それをかなでながら、彼女にそれをかなでることを教えるのに似ている。それは、彼女に愛することを教え、そして愛することができるようにすることである。もしもそこまで達しないなら、霊魂は満足できないだろう。そして来世においても、自分が神から愛されているだけ、神を愛していることを感じないなら、満足することはできないだろう。すでにいったように、霊的婚姻の段階において、愛は光栄における完全さを有していないとしても、この完全な愛のあまりにも生き生きとしたうつしであるため、それはまったくえもいわれぬものである。
そして そこであなたはただちに 賜うでしょう。おお私の命よ ほかの日に私にすでに くださったあのものを ここで、霊魂が、ただちに花むこが賜うだろうといっていることは、本質的光栄のことで、それは神の本体を見ることにある。それゆえ、われわれは説明を進める前に、ここで一つの疑問を解しておかねばならない。それはすなわち、本質的光栄は神を見ることにあって、愛することにあるのでないとすると、霊魂がここで、自分の願うところは、この愛であるといい、本質的光栄だとはいわず、愛に対する望みを歌のはじめに置き、そのあとに、あたかも、それより関心がうすいことであるかのように、本質的光栄の望みを述べているのはなぜであろうかということである。それは二つの理由による。第一は、すべてのことの目的は愛であり、愛は意志に従属し、意志の特質は、与えることであって、受けることではない。しかるに、本質的光栄の主体である知性の特質は受けることであって、与えることではない。ところで、今霊魂は愛に酔わされて、神が与えてくださるはずの光栄を眺めず、自分自身の利益など少しもかえりみることなく、真実な愛によって、自分を神に渡すことだけに憧れているからである。第二の理由は、第一の願いのなかに当然第二の願いが含まれており、前の歌のなかにすでに予想されているということである。なぜなら神を完全に見ることなしに、神の完全な愛に至ることは不可能であるから。したがってこの疑問の要点は第一の理由によって解かれている。というのは霊魂は愛をもって神に対する自分の負債を支払うのに反し、知性をもっては神から受けるのであるから。
さて、本文の説明にはいって、ここで霊魂がいっている”ほかの日″とはどんな日のことか、その日神がお与えになったもの、そして霊魂が、のちに光栄において楽しむために願っている”あのもの”とは何かを見よう。この”ほかの日”とは神の永遠の日のことで、これは現世の日とは異なるほかの日である。この永遠の日に、神は、霊魂を光栄に予定なさり、この日霊魂に与えるべき光栄をおきめになり、霊魂を創造なさる以前、永遠から、自由にそれを霊魂にお与えになった。そのときから、すでに、あのもの(光栄)は絶対的に霊魂の所有となったので、いかなる出来ごとも、大小いかなる妨害も霊魂からこれを奪い取ることは永久に不可能であろう。したがって、霊魂は神が永遠からくださったあのものを終りなく所有するに至るであろう。これが”ほかの日”に彼女に与えたと神がいわれ、彼女が今、光栄のうちに明らかに見たいと願っている”あのもの”である。ではそのとき、神が霊魂に与えたあのものとは何か? それは使徒パウロがいうように「目がまだ見ず、耳がまだきかず。人の心にまだ思い浮かばなかった」ものである。(コリント前2・9)またイザヤ予言者も「神よ、あなたを待ち望む者にあなたが備えられたもの…… それはあなたのほかに…… はたれも見たこともない」(64・4)といっている。それをなんと呼んでよいかわからないので、霊魂はここで、あのものというのである。それは要するに、神を見ることである。しかるに、神を見ることは、霊魂にとって、あのものというほか、いいようがない。
しかし、”あのもの”について何もいわないでおくわけにもいかないから、われわれは、キリストが、聖ヨハネの黙示録中、さまざまの表現やことばや比喩を用いて、七度にわたって、それについておおせられたことをいうことにしよう。”あのもの”は一語のうちに、また一度で含ませることはできないし、聖ヨハネのこれらすべての説明もそれを全部いいつくしているわけではない。さてキリストは「勝利者には神の楽園にある生命の木の実を食べさせるであろう」(2・7)とおおせられる。しかし、この表現は”あのもの”をよく説明していないので、すぐにまた、「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに生命の冠を与えよう」(2・10)と。けれども、この言葉もまたそれを明らかにしていないので、他の、もっとわかりにくい、しかし、もっと説明的なことばをいわれる。「勝利者に私は隠れたマンナを与えるであろう。また白い石を与えるであろう。その石にはそれを受ける人以外には、だれにもわからない新しい名がしるされている」(2・17)と。これも、まだ、”あのもの”をいうに充分ではないので、神の御子は大きな歓喜と権能をもたらす他の言葉をおおせられる。「最後まで、私のわざを守る勝利者には、私は異邦国に対する権利を与えよう。かれは鉄の棒で、土器を割るように、かれらを治めるであろう。その権利は、私が父から受けたのと同じものである。私はかれに、あかつきの星を与えよう」(2・26)と。神の御子は、”あのもの”を説明するためにこれらのことばをもってしてはまだ満足なさらず、さらにつづけて「勝利者は白い服をつけるであろう。私はその名を生命の書ら消すことなく、御父のみ前でその名を宣言するであろう」(3・5)とおおせられている。
しかし、以上のすべての叙述では不足なので、またそののちも”あのもの”の説明のため、多くのことばをついやしていられるが、それらのことばのなかに実に言語に絶する尊厳と偉大さが、隠されている。「勝利者を私は神の神殴の柱とするであろう。かれはもうそこから出ないであろう。私はわが神のみ名、わが神の都、天から、わが神のみもとから下る新しいイェルザレムの名と、私の新しい名とを、かれの上にしるすであろう」(3・12)それからつづいて”あのもの”の七番目の説明をなさる。「勝利者を私とともに私の王座にすわらせよう。私が勝利をえて、父とともにその王座にすわったと同様に、耳ある者はきけ……」(3・21)と。ここまでが”あのもの”を説明するための神の御子のみことばである。それらは”あのもの”にきわめて完全に合致しているとはいえ、それを明らかにしてはいない。なぜなら偉大な事柄というものは、すべて、すぐれた、崇高な尊厳なことばがそれらによく適合するとはいえ、そのようなことばのいずれも、また、全部を合わせても、それらを説明することができないという特徴をもつものであるから。
さて今、われわれは、ダヴィドが”あのもの”について何かいっていないか、調べてみることにしよう。詩扁のなかにこういう句がある。「あなたを恐れる人々のために、隠しておかれるあなたの御いつくしみはなんとおびただしいことだろう」(30・20)。また他のところでは”あのもの″を愉悦の奔流と呼んで「あなたはかれらを愉悦の奔流からお飲ませになる」(35・9)という。そしてダヴィドもまた、こういう言い方の不充分なのを認めて他のところで、それを「先んじて与えられる神の仁慈の祝福」(20・4)と呼ぶ。要するに霊魂がここで語っている、神が、霊魂を予定なさった至福に他ならぬこの”あのもの”に正確に適合する言葉はないわけである。だから、霊魂が、用いている”あのもの”という言い方で満足して、この句を次のように説明しよう。私にすでにくださった”あのもの”とは、おお、天の花婿よ、あなたが私を創造しようとおきめになったあなたの永遠の日に、私に予定なさった光栄の重みである。あなたはそれを私とあなたとの婚約、そして婚姻の日、私の心の喜びの日に、ただちに私に賜うであろう。私を肉体のほだしから解き放ち、あなたの婚姻の室である崇高な洞穴に私を導き入れ、栄光をもって、私をあなたに変化して、甘美なザクロの果酒を、ともどもに飲むそのときに。
第39の歌
そよ風は吹き
やさしい小夜鳴きどリの声がきこえます
森とそのうるわしさ
澄みわたった静かな夜に
焼きつくしてしかも苦しませない
ほのほが燃えて……。
そよ風は吹き(直訳=風の吸引) この風の吸引は、霊魂の一つの能力であって、霊魂は、神がそれをかしこで、聖霊の交わりにおいて、自分に与えてくださるだろうといっている。聖霊はこの神的吸引によって、霊魂をきわめて高く引き上げ、これを形成し、御父が御子において、御子が御父において生じられる愛の吸引、聖霊にほかならない吸引を生じることの可能なものにしてくださる。この変化において、この神的霊は、霊魂を御父と御子とのうちに吸引なさって、ご自分と一致おさせになる。事実、もしも霊魂が、あからさまに、明らかに、至聖三位一体の三つのペルソナに変化しないなら、霊魂の変化は真実でも完全でもない。霊魂におけるこの聖霊の吸引は、―それによって神が霊魂をご自身に変化なさるものであるが―霊魂にとってあまりにも崇高な、デリケートな深い愉悦であって、それは、人のことばをもっていうすべもなく、人知をもっては、そのいくぶんなりとも理解することはできないほどのものである。地上での この変化において神と霊魂との間におこなわれる交流についてさえ、語ることは不可能であるから。事実、神に一致し、神に化された霊魂は、神自身において神を吸引する。それは、神が、ご自身に変化した霊魂をご自身において吸引なさる場合と同一の神的吸引である。
この世で霊魂が体験するこの変化において、神から霊魂へ、霊魂から神へと移る吸引は、来世におけるような明らかな様式ではないにしろ、霊魂に愛のもっとも崇高な愉悦を味わわせつつ、きわめてひんぱんに行なわれる。聖パウロは、次のことばによってこのことをいおうとしているのである。「あなたたちは神の子であるからこそ、神は父よと叫ぶ子の霊をあなたたちの心におくられたのである」(ガラチア4・6)。これは、来世における福者たちのうちに、またこの世で完全な霊魂たちのうちに、前述の様式で実現する。神が霊魂において吸引なさるように、霊魂も参与の様式で神において吸引するというほどの崇高なわざが行われるようになることを不可能だとみなす理由は少しもない。神は、霊魂を三位一体に一致おさせになり、この一致において、霊魂は神化され、参与によって神となったのであるから、霊魂もまた理解と知識と愛とのわざを行うことが、どうして信じられないことなのだろうか?けれどもそれは、交流と参与の様式で行われ、霊魂内にそれを行うのは神である。これがすなわち、神の三つのペルソナ、権能、上知、愛に変化されることである。この点では霊魂は神に似ているのであり、かつ、ここに至らせるためにこそ、神は霊魂をご自分に似たものとしてお造りになったのである。
それがどういうことであるかは、知ることも言い表すこともできない。ただ、どのように神の御子が、われらをこの高い段階に上げてくださり、聖ヨハネがいっているように、神の子となり得るという、この崇高なほまれを我らのためにかちえてくださったかを述べることができるのみである。そして主ご自身、この同じ聖ヨハネ福音書にあるように、御父に向かってこの願いをしてくださるのである。「父よ、あなたがお与えくださった人々が、私のいる所に私とともにいることをのぞみます。それは、あなたが私にお与えくださった光栄を彼らが見るためであります」(ヨハネ17・24)と。これは、私が本性上行うこと、つまり聖霊の吸引を、かれらだわれらにおいて、参与によって行うようにとの意である。主はまた仰せられる。「また彼らのためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のために祈ります。父よ、あなたが私のうちにおいでになり、私があなたのうちにあるように、みなが完全に一つになるように。そして、彼らも、われわれにおいて一つになるように、私は、あなたがお与えくださった光栄を彼らに与えました。われわれが一つであるように、かれらも一つであるように。そして、あなたが私をつかわし、私を愛してくださるように、彼らをも愛しておいでになることをこの世が知るためであります」(17・20-23)。すなわち、あなたは、かれらに、あなたの御子に対するのと同じ愛を交流おさせになった。これはかれらの本性上の権利によることではないが、愛の一致と変化によることである。また同じく神の御子は、聖人がたが、御父と御子とのように本質上、また本性上一つであるようにとではなく、御父と御子とが 愛の一性において一であるように、愛の一致によって一であるようにと願われるのである。
そこで、霊魂たちは、御子が本性上所有せられるのと同じ宝を、参与によって所有するようになるのである。これによってかれらは、参与によって真実に神であり、神と同等であり、神の伴侶である。それで聖ぺ卜ロはいう。「神および主イエズスを深く知ることによって、あなたたちの上にゆたかな恵みと平安。キリストの神としての力は、ご自分の光栄と勢力とをもってわれわれを召されたお方をわれわれに知らせることによって、生命と敬虔とを助けるすべてのものをくださり、また、それによって、われわれに尊い偉大な約束をお与えになった。それは、あなたたちを神の本性に与らせるためであった」(ペトロ後1・2-5)。聖ペトロのこの言葉は、霊魂が神ご自身ににあずかるものとなる。すなわち、霊魂と神との実体的一致の結果、至聖三位によって行なわれるわざを、前述の様式で、神において、神とともに行なうだろうということを、はっきりと悟らせる。この一致は、来世においてのみ、はじめて完全に実現するものではあるが、われわれが述べているような完徳の段階に達した霊魂は、地上においてすでに、その風味ゆたかな前味を楽しむのである。しかもこの楽しみは、前述のように、筆舌に表わせぬものである。
おお、このような偉大なことのために造られ、また、それに召されている霊魂たちよ。何をしているのか? 何をたわむれているのか? あなたがたの志望は卑賤であり、あなたがたの所有はみじめさにすぎない。あなたがたの霊魂のあわれむべき盲目よ、これほどの光に対して盲目であり、これほどの大きな声に対して耳しいであるとは。偉大さや光栄をさがし求めながら、あなたがたはみじめで卑賤であり、これほどの宝に対して、みずからを無知な者、ふさわしくないものとしていることに気づかないのだから。次は、霊魂が”あのもの”を説明しようとしていう第二のことである。
やさしい小夜鳴どりの歌 かのそよ風が霊魂内に生じるものは、愛するかたのやさしい声である。そして霊魂は、こころよい歓喜をもってそれにこたえる。この二重のメロディーを、霊魂は、”小夜鴫どりの歌”と呼ぶのである。小夜鳴どりとはうぐいすのことだが、この鳥は、寒さや雨、その他、冬の不純な天候が終わった春に、その歌声を聞かせる。この歌声は、耳に快く響き、精神をいこわせる。同様に、この世において、花嫁がすでに楽しんでいるこの愛の交流と愛の変化とのなさかで、彼女は、あらゆる混乱や現世的変転から庇護され、自由となり、感覚の面でも、霊の面でも不完全さや労苦や、こんとんとしたあいまいな状態から解放され、浄化され、霊の自由さ、ひろやかさ、喜びのうちに、新しい春を感じるのである。そのとき、彼女の甘美な小夜鴫どりである花むこのやさしい声をきく。この声によって、霊魂の実体は新たにされ、さわやかにされる。こうして、永遠の生命への道を行くためによく準備された霊魂を、花むこは、やさしく、甘美にお呼びになり、霊魂は、この甘美な声がこういつているのをきく。「私の友よ、私の鳩よ、私の美しい者よ、起って急いでおいで。冬はもう過ぎ去り。雨もやんでもう遠くに去った。いろいろの花が私たちの地にあらわれ、枝を切る時が来た。山鳩の声が私たちの地にきこえる」(雅歌2・10-13)
霊魂の内奥で語りかける花むこの声に、花よめは、すべてのわざわいの終りと、あらゆる善の始まりを予感する。そのさわやかさ、安けさ、こころよい感じのさなかに、彼女も、やさしい小夜鳴どりのようにその声をひびかせ、自分をそこに招かれる神とともに、歓喜にあふれる新しい歌をきかせる。花むこがその声を彼女にきかせるのは、彼女も、かれと声を合わせて、神に賛美の歌をささげるためである。事実、花むこは この霊魂がその霊的歓喜の声を神に向かってあげることを、あつく望まれる。雅歌のなかで、この同じ花むこは、霊魂にそれを願ってこうおおせられる。「起って、急いでおいで、私の友よ、岩のわれめに、石垣のくぼみにいる私の鳩よ、私におまえの顔をお見せ、私の耳におまえの声をおきかせ」(2・13~14)と。神の耳とは、霊魂が完全な喜びの声をご自分に向かってあげるのをお聞きになりたい神の御望みを象徴する。しかし、この声が完全であるために、花婿は、霊魂が、岩の洞穴、すなわち、前にのべた、キリストの奥義への変化において、それをひびかせるようにと願っている。この一致において霊魂は、愛についてさきにのべたように、神ご自身とともに歓喜し、神を賛美するから、この賛美は非常に完全で、神にとってこころよい。というのも、このような完徳にある霊魂は、きわめて完全なわざを行なうものであるから。それで、この歓喜の声は、神にとっても、霊魂にとっても甘美である。だからこそ花婿は、「あなたの声は甘美だ」(雅歌2・14)と仰せられたのである。これはすなわち、あなたにとってだけではなく、私にとって甘美だ。あなたは、私と一つとなって、私のために、また私とともに、やさしい小夜鳴どりの声をひびかせるのだから、という意味である。
この地上で有することのできる変化の状態においての霊魂の歌とは、このようなものである。この歌の甘美なことは.実に言語に絶する。しかし、それは光栄の生命における新しい歌ほど完全ではないので、この歌の崇高さのうちに、それより比べものにならぬほど、もっとずっと、すぐれている光栄の歌を予感しながら、楽しんでいる霊魂は、その思いを光栄の生命にあげ、自分に与えられるであろう”あのもの”とは、やさしい小夜鴫どりの歌なのだという。
森とそのうるわしさ 花よめのいうところによると、これは、花むこが彼女に与えてくださるはずの、第三のたまものである。森は、自分のうちに、たくさんの植物や動物を生育させるというところから、こここでは、すべての被造物を造り、それらに存在を与え、ご自分のうちに、生命と根源を見出させる神を意味する。これは、神が、創造主としてのご自分を霊魂に示し、知らせることである。霊魂が、来世のため、花むこにここで願っている森のうるわしさとは、地上の、また天上の被造物のおのおのが、神から受けている恵み、知恵、美のことだけでなく、下級の被造物相互の、上級の被造物相互の、また上級の被造物と下級の被造物との間にある、賢明で秩序だち、笑しく親しい関係から生れて来る美をも、願っているのである。これを知ることは、霊魂に大いなるうるわしさと愉悦を与える。ここで第四のことがつづく。
澄みわたった静かな夜に この夜とは、霊魂が、これらのことを、そのなかで見たいと望んでいる観想のことである。これを夜と呼ぶのは観想は暗いものだからで、そのため人々はこれに神秘神学との別名を与えている。要するに、これはひそかな、隠れた神の上知であって、そのなかで神は、ことばの騒音もなく、肉体的また霊的いかなる感覚の援けを借りることもなく、沈黙と静寂とのうちに、かつ、感覚的ならびに自然的なすべてのものの暗黒のなかで、きわめてひそやかに、隠れて、霊魂をお教えになる。そして霊魂自身もどのように教えられるのか知らないのである。ある霊的な人々は、これを、理解しないで理解することと呼んでいる。というのも、これは、哲学者たちが能動的知性と呼んでいる知性のうちに行なわれるのではなく、可動的知性または受動的知性と呼ぶ知性のうちに行なわれるからである。この能動的知性というのは肉体的諸能力から来る形や映像や知覚の上に働くものであるが、可能的または受動的知性のほうは、形等々を受けることなく、なんらの能動的わざも働きもなすことなく、イメージを脱ぎ去った実体的知鮮を受動的に受けるものである。
このゆえに霊魂は、この観想を”夜”と呼ぶのであって、この夜のなかで、霊魂はこの世で、すでに自分のうちにおこなわれた変化を通じて、この神的森とそのうるわしさとを知るのである。しかし、この知識が、いかに崇高なものであっても、ここで霊魂が願っている至福の観想に比すれば、それはやはり暗夜である。それで、霊魂は明らかな観想を願いながら、この森とそのうるわしさ、ならびにここに述べたその他のものの享楽が、すでに澄みわたった静かな夜、つまり至福の明らかな観想のうちにおこなわれるようにと特にいうのである。要するに霊魂は、この地上での暗い観想が、来世における神性の明らかな、静かな観想と変ることを願っているのである。それでダヴィドは観想のこの夜について、こういっている。「夜は、私の愉悦のさなかに私を照らすだろう.」(詩篇138・11)これはすなわち、神を本体的に見る愉悦のうちにはいるとき、すでに観想の夜は明けて、私の知性の日と光となるであろうとの意である。次に第五のことがつづく。
焼きつくし、しかも 苦しませない ほのほが燃えて……。 ほのほというのはここでは聖霊の愛のことである。焼きつくすとは、し終ること、完成することを意味する。それで、霊魂が、この歌のなかで述べたすべてのものを、愛する御者が自分に与えてくださるはずであり、自分は、完成された完全な愛のうちにそれらを所有するはずだというとき、そしてこれらのものはみな.苦しませない、完全な愛のうちに吸収され、霊魂自身もまた、おなじく、この愛のうちに吸収されるというとき、それによって、霊魂は、この愛の欠けることなき完全性を明らかにしようとしているのである。愛は、完全であるためには二つの特性をもっていなければならない。すなわち、霊魂を焼きつくし、神に変化すること、またこの愛の炎が霊魂内におこなう炎上と変化とは苦しみを与えぬものであること。ところで、これは至福の状態においてしかありえない。そこでは、すでに、この炎はこころよい愛となっているから。なぜなら愛の炎が、霊魂におこなう変化において、両者の間には適合一致と至福的満足しかないから。したがって、この愛は、霊魂がこの完全な愛を有し得る資格に達する以前のように、多かれ少なかれ苦しみをもたらすことはない。完全な愛に達したこの霊魂は愛の甘美のうちに神とまったく適合一致したので、モイゼのいうところによれば神は焼きつくす火であるとはいえ、今はもうそうではない、今は完成する火、絶えず新たに補充する火である。光栄における変化は、霊魂がこの世で経験していた変化とは非常に違う。この世での変化は、愛において、きわめて完全で、完成されていたとしても、霊魂をいくらか消耗し、傷つけるものであった。それは、ちょうど火が、まっかな炭を燃焼させる時のようで、炭は変化し、火のようになり、変化する前にはき出していた煙はもう出ないとはいえ、火は炭を燃焼しながら、これを消耗し、灰と化していったのであった。この地上で、完全な愛で変化された霊魂のうちにおこるのはこれである。霊魂がいかに神的火と適合一致していようとも、ある種の苦悩や損傷を苦しむ。まず。至福直観の必要が、常に霊に感じられる。次に、弱く、朽つべき感覚は、このような愛の激しさと高さとに必然的に圧倒される。事実、すべて、すぐれたものは、われらの、か弱い天性を圧倒し、苦しませるものである「朽つべき休は霊魂に重荷となる」(知書9・13)と書かれている通りである。しかし。来世の至福の生命においては。知識はきわめて深奥で、愛は、はかり知れぬほど大きくとも、圧倒や、苦しみを少しも感じない。なぜなら、神はこの知識のためには、それに必要な能力を、愛のためには力を与えてくださるからで、つまり知性は神の上知をもって、意志は神の愛で完成されるのである。
花よめは、前の歌と、今、われわれが説明している歌のなかで非常に広大な神的交流と知識とを願った。この交流と知識の偉大さ崇高さに順応した愛で愛するため。きわめて強く、きわめて崇高な愛を必要とする。それで花よめはここで、これらの交流や知識が、完成された完全な強い愛のうちに与えられることを願っているのである。
第40の歌
たれも それを見ませんでした。
アミナダブも 姿を見せません。
包囲はとけました。
騎士たちは 水を見て
降りてゆきました。
たれもそれを見ませんでした。 これはちょうど、こういっていることになる。私は、高い、低いのいずれを問わず、あらゆる被造的事物から赤裸となり、離脱し、孤独となり、それらとは無関係なものとなって、あなたとともに、いとも深い内的潜心のうちに引き退いているので、いかなる被造物も、私が、あなたのうちに所有している内密な愉悦を見ることができない。つまりいかなる被造物も、そのこころよさをもって、私のうちに快感を生じさせることもなく、また、そのみじめさ、いやしさをもって、私を不快にしたり、悩ましたりすることもない。私の霊魂はそれらのものから、あまりにも遠ざかり、あまりにも深い絶え間ない愉悦のうちに沈んでいるので、いかなる被造物もそれを見ることがないのである。それだけではない。
アミナダブも姿を見せません。 アミナダブとは聖書のなかで悪魔の象徴であって、霊魂の敵を霊的に表現する。悪魔はその大砲の無数の弾薬で絶えず霊魂を攻撃し、混乱させ、霊魂が花むことともに内的潜心の城塞、隠れ家のなかに、はいれないようにしていたのである。しかし今、霊魂はすでにこの要塞のなかにおかれ、みずから所有する徳と、神の抱擁とのおかげで、非常に恵まれた強い者、勝利者となっているので、悪魔はあえて近づけないばかりでなく、ひどく恐れて、はるか遠く逃げ去り、姿を見せる勇気さえない。霊魂は徳の実行と、すでに達した完徳の状態によって、悪魔を完全に追い払い、克服してしまったから。悪魔はもう霊魂の前に出てこない。それでアミナダブも、霊魂が熱望する幸福を妨害するなんらかの権利をもって姿を見せるようなことはもうないのである。
包囲はとけました。 包囲とは、欲情と自然的欲求を意味する。それらは、克服されず、弱められていないかぎり、四方八方から霊魂をとりまき、攻撃するので、包囲と呼ばれるのである。包囲はとけたというのは、霊魂の欲特は理性に服せしめられ、その欲求は抑制されたことを意味する。このようなありさまであるから、霊魂は花むこに向かって、自分がかれに願う恵みの与えられぬはずがない。欲情の包囲は妨害するために、もうそこにないのだから、という。これはすなわち四つの欲情が、神に従って律せられ、欲求が抑制され浄化されるまでは、霊魂は神を見る資格がないということを意味する。
騎士たちは水を見て 降りてゆきました。 水というのは、ここでは、霊魂が、この段階において、自分の内奥で、神とともに楽しんでいる霊的宝や愉悦を意味する。騎士たちとは感覚的部分の内的および外的の肉体的感覚である。(注―)というのは、これらは、おのがうちに、その対象の幻想や、映像を有するからである。これらの感覚がこの段階において、霊的水を見て降りていったと花よめはいうのである。なぜなら、この霊的婚姻の段階にあっては、霊魂の感覚的な低い部分は浄化され、ある意味では霊化されているので、この部分もその感覚的能力や自然的力とともに、神が霊の内奥において霊魂に交流おさせになる霊的な偉大なことがらを、その分相応に楽しみ、かつ、それにあずかるために内部に集中しているからである。
ここで、花よめは騎士たちが水を飲みに降りていったとはいわず、水を見て降りていったといっていることに注意してほしい。それは、感覚的部分とその諸能力とは、この世においてのみならず、のちの世においても、霊的宝を本質的に、かつ、本当の意味で味わう資格がないからである。感覚的部分とその諸能力とは、霊からのある種のあふれによって、上記の霊的宝から喜び楽しみを感覚的に受けるのみである。この楽しみによって、肉体的感覚は内的集中―そのなかで霊魂は霊的宝の水を飲むのである―に引かれ、それが水を見て降りていったということで、水を飲んで、水それ自休を味わうことではない。霊魂は降りていったといって、進んでいったとかその他の言い方をしないのは、霊的部分と感覚的部分との交流において、前述の霊的水の飲みものが味わわれると、感覚的能力はその自然的働きをやめて、霊の内的集中のほうに降りてゆくからである。
花よめは、これらの完全な心の準備を神の御子なるその愛するかたの前に差し出す。それは、この地上で、戦いの教会のなかで、神が上げてくださった霊的婚姻から、勝利の教会の栄えある婚姻にまで、かれによって移していただくことを望むからである。どうか、忠実な霊魂たちの花むこである いともやさしいイエズスが、その み名を呼びたのむすべての人をそこに導いてくださるように! 父と聖霊とともに永巡に、かれにほまれと栄えがあるように。アーメン