11、第一の歌の第二行目を解説しはじめる。あのような辛い苦しみの実として、霊魂はどれほど激しい神の愛の熱情のもとにいるかを描写する

愛のもだえ炎と燃えたち

この一行において、霊魂は、前に述べた愛の火が、ちょうど物質的な火が薪に燃え付くのと同じようにして、この苦しい観想の夜のさなかに、霊魂をとらえ始めることを述べている。この愛の燃焼は、ある意味では、霊魂の感覚的部分の中で起こった前に述べた燃焼と似ているが、また別の意味では、前のとは非常に異なっているのである。ちょうど、霊魂と肉体、あるいは、霊的な部分と感覚的な部分が異なっているように。なぜなら、これは霊における愛の燃焼だからである。この暗い悩みのさなかでは、霊魂は、神についてのある種の実感や予感というような、強烈な神の愛によって、鋭く、深く傷つけられたことを感じる。とはいえ、個々のことを理解することなしに、そう感じるのである。というのも、前に言った通り、悟性は闇の中にいるからである。

この時、霊は強い愛に燃え立っていることを感じる。なぜなら、この愛の燃焼は、愛の熱情を生じさせるからである。この愛は、注賦的な愛であるから、能動的というよりは、受動的である。こうして、霊の中に強い愛の熱情を生じさせる。この愛は、すでに神との一致の幾分かを持ち始めており、その特質に、ある程度参与している。この特質は、霊魂自身の行為というよりは、むしろ、神の行為であって、霊魂に受動的に合わせられている。とはいえ、霊魂がここですることは、それを承諾することである。しかし、熱と力、勇気と愛の熱情、または燃焼(ここでは霊魂は、愛の熱情をこう呼んでいる)は、ただ、霊魂と一致しつつある神の愛からのみ来る。霊魂が、地上のものではなく、天上のものを味わうことができるために、自分のすべての欲求を閉ざし、それから離脱し、それらを自分のうちに留まらせないようにしていればいるほど、この愛は、霊魂と一致し、霊魂を傷つけるための余地と機会とを、ますます多く霊魂の中に残す。

このことは、この暗い浄化の中で、徹底的に起こるのである。といのも、神は、愛好をすっかり乳離れされてしまわれ、押さえつけてしまわれたので、愛好は、自分の望むようなことに、何の楽しみも見出すことができないからである。こういうことはみな、神がなさるのであるが、それは、愛好のすべてをご自分のために取り上げ、抑えて、それによって、霊魂が神の愛のこの強い一致に達するために、より多くの力と能力を持つようになるためである。この浄化を通じて、神はすでにこの一致を与え始められるが、霊魂はその時、霊的また感覚的な自分の力と望みとのすべてをこめて、力いっぱい愛さなければならない。こういうことは、もしも、霊魂が、他の何かを味わい楽しむことに自分を傾けているならば、あり得ないことである。それでダビデは、神とのこの一致の愛の力を受け得るよう神に向かって、「私はあなたのために力を保ちます」(詩59・10)といった。これはすなわち、「神の諸能力の力と欲求と容力のすべてを、あなたのために保ち、その働きや喜びをあなた以外の他のものには向けません」との意味である。

これによって、霊の中でのこの愛の燃焼が、どれほど激しく、どれほどすごいものであり得るかを幾分か察することができるであろう。そこで神は、霊魂のあらゆる力、能力、欲求を、霊的なものも感覚的なものも、すべて内に集中させ、この完全な調和の中で、その力と徳とをこの愛のために使うようにさせ、こうして、第一のおきてを真に実行することができるようにさせる。この掟は、人間性を少しも軽んじることなしに、また、これに付随するものを、この愛から一つも除外することなしに、「心をつくし、霊魂をつくし、精神をつくして、主なる神を愛せよ」と言っている。

ここにおいて、霊魂のすべての欲求と力は、愛のこの燃焼の中に集中され、霊魂は、これらすべてによって傷つけられ、触れられ、そうして熱中させられている。激しい愛によって燃え立たされ、傷つけられ、しかも、それを所有することも、それに満たされることもなく、闇と疑惑の中にある霊魂の、これらすべての欲求と力の動揺と激動がどのようにあるかを私たちはどれだけ理解できるであろうか?疑いもなく、ダビデが述べている犬のように(詩59・7~15)、空腹に苦しみ、町の中を走りまわり、そして、この愛に満たされることがないので吠え立て、うめき続けるであろう。なぜなら、この愛と神的な火が霊魂に施す接触は、霊を乾かし、この神的な愛に対する渇きを癒そうとする欲求を激しく燃え立たせるので、霊魂は自分自身の中をぐるぐる廻り、欲求の激しい望みにまかせて、さまざまな方法や手段を使って神を求めるようになるからである。ダビデはこれを、詩編の中に、見事に描き出している。「私の魂は、あなたに渇く。私の体は、どれほどあなたを渇き求めることか」(詩63・2)と。これはつまり、渇望のうちに、の意味である。また他の翻訳によると、「私の魂はあなたに渇き、私の魂はあなたのために消え失せた、あるいは、滅びた」とある。

これが、この一行の中で、霊魂が、なぜ、「愛のもだえ炎と燃え立ち」と言っているかの理由である。なぜなら、霊魂は、自分のうちに思いめぐらしているあらゆる事柄や考えにおいて、また、霊魂に差し出されるあらゆることや出来事においても、いろいろな仕方で愛するからであり、また、望みにおいても、あらゆるときに、あらゆる場所で、さまざまな仕方で望み、苦しみ、何ごとも憩いを見出さず、燃え上がっている傷の中に、このもだえを感じるからである。預言者ヨブは、そのことを次のように言って明らかにしている。「奴隷が日陰を慕うように、日雇い人が仕事の終わるのを待つように、私に与えられたのは苦しみの月々、悩みの夜々。床につくとき私は言う、『いつ夜が明けるだろう』と。起きれば言う、『いつ夕になるだろう』と。そして、日のくれるまで、もがきにもがく」(7・2~4)。この霊魂にとっては、すべてが小さすぎ狭すぎ、霊魂は自分自身のうちにも入りきらず、天にも地にも入りきれない。ここでヨブが、霊的に、私たちの問題に関連して言っているように、霊魂は真っ暗になるほどの苦しみに満たされる。ここで霊魂が苦しんでいるのは、ある種の光や霊的善から来る確かな希望による慰めなしに待ち望み、苦しむこと、これである。したがって、この愛の燃焼におけるこの霊魂のもだえと悲嘆は非常に大きい。それは、次の二つのことによって倍加されるから。その一つは、霊魂が今その中にいる霊的な闇によるものであって、その疑惑と懸念とで霊魂を苦しめる。もう一つは、神の愛によるもので、霊魂を燃え立たせ刺激するが、愛の傷で霊魂を全く驚くほどふるえおののかせる。

苦しみの、これらの二つのありさまは、イザヤによって次のように見事に描かれている。「私の心は夜、あなたをのぞんだ」(26・9)と。これはすなわち、「惨めさのさなかで」である。これが、この暗夜における苦しみの一つのありさまである。イザヤは続けて言う、「しかし、私の霊とともに、私のはらわたの中で、朝まであなたを待ち望んで夜を徹します」と。これが、霊のはらわた、つまり、霊的愛好の中で、愛における、望みや焦燥から来る苦しみの第二のありさまである。しかし、闇に包まれ、愛のこめられたこれらの苦しみのさなかで、霊魂は、自分のうちに、ある種の力と伴侶とを感じる。それは、しっかりと霊魂に伴い、霊魂を非常に力づけるので、もしも、締め付けるような闇の、この重苦しさがなくなってしまうならば、霊魂は多くの場合、孤独と空虚とゆるみを感じる、その原因は次の通りである。すなわち、霊魂の力と効力は、霊魂を襲った愛の暗黒の火によって、受動的に霊魂に与えられ、伝えられたものであるから、この火が襲いかかることを止めると、霊魂の中では、闇も、愛の力も、愛の熱も止むことになるからである。