9、火が薪を燃やす比喩によって、この浄化を説明する。

物質的な火が、最初に薪に働きかけることは、それを乾燥させ、湿気を外に追い出し、薪が含んでいる水分をしぼり出してしまうことである。それから薪をこがし、真っ黒にし、醜くし、悪臭を放つことさえなる。そして少しずつ乾かしてゆき、薪を明るくし、火に反対するような暗く醜いものをすべて追い払う。そして遂には、外側から薪を燃やし、熱くして、薪を火に変化させ、火そのもののように非情に美しくする。この時に至っては、薪には、その重さが火より重いこと、火に密接になっていること以外に何もない、なぜなら、薪のなかに火の特性と働きを持っているからである。それで、乾いていると同時に乾かし、熱いと同時に熱くさせ、明るくて輝いていると同時に明るく輝かせる。そして以前よりもはるかに軽くなっている。これらすべての特性や効果は、火が薪の中で働いて生じさせているのである。

これと同じ仕方で、観想の愛のこの神的火について考察する。この火は霊魂を変容し、自分と一致させる前に、まず、自分と反対の偶有性のものすべてから霊魂を浄める。霊魂の醜いものを外に出し、霊魂を真っ黒にし、暗くするので、霊魂は、以前よりも悪くなり、今までよりももっと醜く、嫌悪すべきものになったと思われる。この神的浄化は、すべての悪徳や、悪い性質などを除去しているのだが、今まで、それらはあまりにも霊魂の中に根深く巣食っていたので、霊魂にはそれらが見えなかった。したがって、自分のうちに、これほどの悪いものがあろうとは気がつかなかった。しかし今、そういう悪を滅ぼし尽くすために、それらは目の前に置かれ、神的観想のほの暗い光に照らされているので、それらははっきりと見えるようになる(しかし、霊魂は自分自身においても、神との関係においても、決して以前よりも悪くなっているわけではない)。今まで見えなかったものが、自分自身の中に見えるので、自分は神に見られるに値しないばかりでなく、かえって、嫌われるのが当然であると思われ、また現に憎まれているのだと考える。

この比喩によって、これまでに述べてきたことや、これから述べようと思っていることに関して、次の七つのことを理解することができる。

  1. 薪の中に入りつつ薪を火に変化させたその火は、まず最初に薪を準備していた火と同じである。それと同じように、霊魂の中で霊魂と一つにされ、変化されなければならないその光と愛に満ちた英知は、はじめに霊魂を浄化し準備する光と英知と同じである
  2. 薪に火がつけられても準備が整うまでは、すぐに火に変化されないのと同じように、霊魂は、霊魂自身が持っている弱さや不完全が無くなるまでは英知と一致することがない。このため、この苦しみを英知から来るものと感じない。
  3. 煉獄の霊魂はどのように苦しむか、ということである。なぜなら、もし、彼らが苦しまなければならない不完全を持っていないならば、たとえ火が彼らに触れても、火は彼らに対して何の力も持っていないはずだからである。不完全は、煉獄の火が燃え付くための材料であり、この材料が燃え尽きてしまえば、もう燃えるべきものは何もない。同じように、不完全がなくなれば、霊魂の苦しみは終わり、そこはただ、歓びが残るばかりである。
  4. この愛の火によって浄化されるにつれて、霊魂はどのように、ますます愛に燃え立つか、ということである。それは薪が燃えるにつれて、ますます熱くなってゆくのと同じである。とはいえ、この愛の燃焼は、霊魂が常に感じるものではなく、ただ観想が、それほど激しく霊魂を襲わないときにのみ感じられる
  5. こういう中休みがあったあと、霊魂はもう一度、以前よりももっと激しく、鋭く苦しむということは真実であるということである。なぜなら、火が、より深く薪の中に入り始めると、より大きな力と激しさとをもって薪の奥深くにあるものを燃やすのと同じように、愛の火は、より内面的になるに従い、激しくその霊魂を燃やすからである。
  6. なぜ、霊魂にはそのすべての善が失われ、自分が悪で満たされているように思われるか、ということである。それは、この時期には、苦味の他は何も訪れて来ないからである。これもまた、ちょうど燃えている薪のようなもので、燃やし尽くす火以外は、どんなものも触れてないのと同じである。
  7. 霊魂は、この中休みの時期を心ゆくまで味わうのであるが、まだ残っている一本の根に気づくならば、霊魂は、完全無欠な喜びを持つことは許されない、ということを実感せずにはいられない。なぜなら、新たな襲撃に脅かされているように思われるからである。そして、もし、一本の根が残っているなら、苦しみは直ちに返ってくる。結局、もっと中の方で浄化され、照らされるはずのものは、すでに浄化されたものを霊魂に隠すことができないのである。それはちょうど、薪において、一層内部で照らされるはずのものは、すでに浄化されたものとは異なっていることが、実に明らかに感じられるのと同じようなことである。そして、この浄化が再び一層内的に霊魂を襲って来たとき、霊魂には再び自分のすべての善がなくなり、それらの善のもとへは、もう二度と帰ることはないように思えても、別に不思議ではない。なぜなら、一層内的な苦悩の中に置かれているので、霊魂には外面的な善は何であろうと目に入らないからである。