23 第四行目を説明する。この夜において霊魂が書かれる感嘆すべき隠れ家について述べる。また、どのようなわけで、悪魔は他の非常に高い所には入れても、ここには入れないか、について語る。 

顔を覆って闇の中に私は出て行った。

第四行目を説明する。この夜において霊魂が書かれる感嘆すべき隠れ家について述べる。また、どのようなわけで、悪魔は他の非常に高い所には入れても、ここには入れないか、について語る。

「顔を覆って」とは、隠れてとか密かに、との意である。それで、霊魂がここで言うこと、すなわち、「闇の中に、顔を覆って」行ったということは、この歌の第一行目で説明した安全さ、すなわち、霊魂が、神との愛の一致の道において、この暗い観想を通して獲得したあの大いなる安全さを、一層完全に説明するものである。それで、霊魂が、「闇の中でに、顔を覆って」と言うのは、つまり、前に述べた方法で闇の中を旅して行ったので、悪魔からも、その奸計や策略からも隠されて、密かに行った、ということである。

なぜ、霊魂は、この観想の闇の中にあって、悪魔の奸計から自由になって、隠されて進んでゆくのか、というと、それは、霊魂がここで持っている注賦的観想は、感覚的な部分の内的、外的諸能力と感覚とに知られることなく、霊魂の中に受動的に、密かに注がれるからである。それゆえ、霊魂は、その障害(これらの諸能力は、その自然的な弱さ故に、霊魂にとって障害となり得るのである)から隠され、自由になって旅してゆくばかりでなく、悪魔からも同様に解放されて歩むのである。悪魔は、感覚的な部分の諸能力を通してでなければ、霊魂の中にあることや、その中に起こっていることを獲得することもできなければ、知ることもできない。それで、その交わりが、より霊的で、内的で、感覚からより離れたものであればあるほど、ますます悪魔はそれを理解することができない。

それ故、霊魂が安全であるために、非常に大切なことは、神との内的交わりが、霊魂の下級な部分の諸感覚が闇の中に留まっていてこの交わりを知らず、それを理解することができないようなものであることである。それというのも、第一には、感覚的な部分の弱さが、霊の自由を妨げることなく、霊的交わりが、より一層豊かなものとなることができるためである。第二には、今述べている通り、悪魔がそれほど奥まで入り込むことがなければ、霊魂は一層安全に旅してゆくからである。したがって、私たちの救い主の、「右の手がしていることを左の手は知らないように」(マタイ6・3)とのみことばを、霊的な意味で、これに関連させて理解することができる。それはちょうど、右の部分で起こっていること、すなわち、霊魂の最もすぐれた霊的な部分で起こっていることを、左の部分は知ってはならない、つまり、あなたの霊魂の感覚的な部分である下級部分に、それを気づかせてはならない、ただ、霊と神との間のみの秘密のものでなければならない、と言っているようにとれる。

こういう極めて内的な、秘密の霊的交わりが霊魂の中にあって、その交わりがそこで行われている時、(悪魔は、どれがそれなのか、それがいったいどのようなものであるのかを知らないのだが)、感覚や、感覚的部分の諸能力の中に引き起こす大きな憩いや沈黙によって、こういう交わりが実際に行われていて、霊魂がそこから何かの善益を受けていることが悪魔にわかってしまう、ということは、しばしばあることで、これは、まことに真実なことである。極めて霊的交わりの時、悪魔は、霊魂の奥底に入って、それを妨げることができないのを承知しているので、自分のできる限りのことをして、自分の手の届くところにある感覚的部分を、あるときには苦しみにより、あるときには恐怖や恐れでかき乱し、騒ぎ立て、このような手段で、霊魂の上級部分である霊的部分を、その時霊魂が享受して楽しんでいる善益に関して、かき乱し、不安にさせようともくろむ。しかし、このような観想の交わりが、霊の中に純粋に浸透し、その力を霊魂に及ぼす時、霊魂をかき乱そうとする悪魔の努力は、多くの場合、少しも役に立たず、それどころか、かえって霊魂は、その時、新たな、一層すぐれた利益と、より確実な平和とを受けるのである。それは、平和を乱す敵の出現を感じ取ると―これは、本当に、驚嘆すべきことであるが―霊魂は、それがどのようなものかも知らず、また、自分のほうからは何もすることもなく、自分の奥底にますます深く分け入り、確実な避難所に置かれているということを、実にはっきりと感じ、この避難所で、自分がその敵から一層遠ざけられて、隠されていると認め知るからで、結局、そこでは、悪魔が奪い取ろうとしていた平和と喜びは、霊魂に一掃、増し加えられるのである。そして、その時、それらの恐怖のすべては、外側から霊魂にふりかかる。霊魂は、それを明らかに感じながらも、自分は、世間も悪魔も与えることもできなければ、奪い去ることもできない、隠れておられる花婿の味と、豊かな平和を、この上なく確実に味わっていることを知って喜んでいる。この状態にあって霊魂は、これについて花嫁が雅歌の中で言っていることが、どれほど真実であるかを実感するのである。「御覧なさい!六十人の勇士がサロモンの床を囲むさまを…。夜襲に備えて…」と。霊魂は、たびたび、肉と骨とに外からの拷問を感じるのであるが、それでもやはり、この力と平和を感じている。

しかし、霊的交わりが、感覚の中に混ざり込むような場合には、悪魔は一層たやすく霊をかき乱すことに成功し、感覚を通じて、これらの恐怖によって、そこに騒ぎを引き起こすことに成功する。そのとき、霊の中に生じる苦悩と苦痛は非常に大きなもので、時には、それは言語に絶するものとなる。なぜなら、霊から霊へ、赤裸々に行われるのであるから、悪魔の引き起こす騒ぎが霊に達するならば、悪霊が善霊の中に、すなわち、魂の善霊の中に、引き起こす恐怖は耐え難いものなのである。このことも、また、花嫁が雅歌の中で述べており、彼女がこれらの宝を味わおうとして、内的潜心の谷間にくだって行こうとしたとき、こういうことが自分に起こったと言い、次のように述べている。「私はクルミの木の庭にくだって行った。谷間のリンゴを見るために、ぶどうの木が花咲いたかを見るために。私は何も知ることができなかった。私の魂が四島立ての馬車で―つまり、アミナダブの戦車と喧噪で―私をかき乱した」(雅6・10)と。これは、すなわち、悪魔のことである。

また、他の場合には(これは、善天使を通して起こるのであるが)、時として、神が霊魂に与えようと思われる何らかの恵みを、悪魔が知るようなことがある。なぜなら、善天使を通して与えられるこういう恵みをその敵が知ることを、大抵、神は許されるからである。その理由の一つは、正義によって許される限り、悪魔がそういう恵みに反対することができるためであり、これによって、悪魔がヨブに対してしたように、自分には霊魂を征服する余地が与えられていない、などと言って、その権利を欲求することができないようにするためである。もしも、神が、二人の敵対者、すなわち、善天使と悪天使のあいだに、霊魂に対する同等の勝利の権利があるように、その余地を与えられなければ、その通りであろう。しかし、与えておられるので、霊魂に対するどちらの勝利も、高く評価されるであろうし、誘惑の中で勝利をおさめ、忠実であった霊魂は、一層高く評価され、褒められるであろう。

ところで、私たちが知っておかなければならないことは、神が、霊魂を導き、これと交わるのと同じ手段と方法を使って悪魔が同じような仕方で霊魂と交わるのに、なぜ神は、悪魔に許可を与えられるのか、その理由は、これだということである。もし、善天使の媒介によって、霊魂が、真正の示現を受けるとすれば(というのも、キリストご自身が啓示されようとも、示現は通常この媒介を通して来るからである。なぜなら、キリストがそのペルソナ事態において現れることは、まずないことだからである)、神は、悪天使にも、同じ種類のいつわりの示現を霊魂に示す許しを与えられる。それで、外見上は同じようなので、用心深くない霊魂は(実際、たくさんの霊魂がそうであったように)、容易に欺かれてしまう。このことについては、出エジプト記の中に一例がある。すなわち、モーゼが行ったすべての真正の印(奇跡)を、うわべではファラオの魔術師たちも、残らず行ったのである。たとえば、モーゼが蛙を引き出すと、彼らも引き出し、水を血に変えると、彼らもこれと同じことをした、というように(出エジプト7・11~22、8・7)。

そして、悪魔は、肉体的示現の類においてのみその真似をするばかりではなく、霊的な交わりにおいても、やはり、その真似をして、それに干渉する。(こういう霊的交わりが、善天使を介して来る場合は、前にも言ったとおり、悪魔はそれを知ることができるのである。なぜなら、ヨブも「彼は崇高なことすべてを見る」と言っているのであるから)。しかし、これらの霊的交わりにおいては、これらは形も像も持っていないから(なぜなら、こういうものを持っていないことが、霊の本質だからである)、悪魔は、他の何らかの外観や形象のもとに示される他の交わりのようには、それらを真似ることも、偽造することもできない。そこで、悪魔は、霊魂を攻撃するために、目下霊魂に与えられているのと同じ方法によって、霊的なもので霊的なものを襲い、これを破壊しようと、霊魂に、自分の恐ろしい霊を示す。

このようなことが起こっている時、善天使が霊魂に、霊的観想を与えようとするその瞬間、霊魂は、十分速やかに観想の、隠され、覆われたことの中に身を置いて、悪魔に気づかれないようにすること、また、悪魔が、ある種の霊的な恐怖や騒乱(これは、しばしば非常に苦しいものである)とをもって、霊魂に迫ってくることがないようにすることはできない。しかし、またその時、時として霊魂は、悪魔から来る、前に述べたような恐怖の中で、霊魂に印象を残す余地を悪魔に与えないで、速やかに悪魔から身を隠すこともできる。そして、霊魂は、そのようにするために善天使が与えてくれる効果的な霊的恵みに助けられて、自分自身の中に深く潜心する。

またある時には、悪魔が優位を占めて、混乱と恐怖とが霊魂を捉える。これは、霊魂にとって、この世のどんな拷問も到底それには及ばないほどの苦痛である。この恐るべき交わりは、物質的なすべてのものからいくらか剥奪されて、明らさまに、霊から霊へ襲うので、そのために、これは、感覚のすべてを越えるほどの苦痛なのである。そして、これは、霊の中にしばらく留まるが、それほど長い間ではない。なぜなら、そのような霊の激烈な交わりによって、肉から霊が出て行ってしまうかもしれないからである。そのあとには、これについての記憶が残るが、それは霊魂に大きな苦しみを与えるのに充分である。

以上述べたようなことはみな、霊魂の中に、受動的に起こる。霊魂は、それを行うことにも、破壊することにも関与しない。しかし、ここで知っておかなければならないことは、善天使が、悪魔に、このような恐怖の霊をもって霊魂を襲いやすいようにすることを許すのは、ある種の大きな恵みや、祝祭のために、この霊的徹夜という手段によって霊魂を浄化し、準備するためである、ということである。善天使は、霊魂に生命を与えるためでなければ、決して死なせることはせず、霊魂を高めるためでなければ、卑しめることもしないのである。そうして、これは間もなく実現する。霊魂は、忍んだ暗い恐ろしい浄化に比例して、驚くほど甘美な霊的観想を楽しむが、しばしば、これは筆舌に尽くしがたいほど崇高である。しかし、実は、これに先んじて与えられた、悪霊の恐怖が、霊魂がこの宝を受けることができるように、霊を非常に洗練したのであった。こういう霊的示現は、この世のものであるよりも、むしろ、来世に属するものだから、その一つを見た場合には、霊魂を更に他の示現に適したものとする。

今述べたことは、神が、善天使を介して、霊魂を訪れたときのことに関するものと解される。そのとき、霊魂は、すでに述べたとおり、敵が少しも捕らえることができないほどに、すっかり隠されているわけでもなく、全く闇の中にいる訳でもない。しかし、神ご自身が霊魂を訪れる場合、その時には、前に掲げた詩のあの一行が、よく立証される。なぜなら、霊魂は、全く闇に包まれ、敵から完全に隠されているときに、神からこの霊的な恵みを受けるからである。その理由は、神は、天使も悪魔も、そこに起こっていることを知るに及ばない霊魂の奥底に、実体的に住んでおられるので、そこにおいて、霊魂と神との間に交わされている親密な、密かな交わりを、彼らは知ることもできないからである。こういう交わりは神自らが行われるので、全く神的であり、至高なものである。それらはみな、霊魂と神との間における神的一致の実体的な接触だからであって、霊魂は、これらの交わりのうちの一つにおいて、他のすべての交わりにおけるよりもはるかに大きな益を受ける。これが、およそ存在し得る祈りの中で、最も程度の高いものであるからである。

なぜなら、これらの実体的接触は、花嫁が雅歌の中で、「その口の接吻をもって私に口づけしてください」(1・1)と言って、懇願しながら彼に至りついた接触だからである。これは、これほど神のそば近くで、神と共に、親しく行われることであるから、そこに至ることを霊魂は、切なる焦燥をこめて熱望し、神が与えられる他のすべての恵みにまさって、この神性による一つの接触のほうを一層尊重し、渇望する。それゆえ、前に記した雅歌の中で、神がこういう多くの恵みを霊魂に与えられたのに(霊魂はそれを、そこで歌ったほどであったのに)、いっこうに満足せず、神にこの神的接触を求めて言うのである。「だれがあなたを、私の兄弟として、私に与えてくれるでしょう。もし、そうなれば、私の母の乳房を吸いながら、あなたが外で一人でいるのを見出して、私の魂の口であなたに口づけしても、私は誰からも侮られず、誰も私を犯すことはないでしょう」(8・1)と。これによって、霊魂が言おうとしていることは、神が、自ら、おひとりで、霊魂に与えられたこの交わりは、私たちが述べているように、すべての被造物の外で、被造物から全く切り離されてのことであったということである。魂の感覚的な部分の、欲求と愛情の乳房をしぼりつくして、涸らして、の意である。(これは、霊魂が、内なる平和と甘味さのうちに、感覚的部分に邪魔されることもなく、感覚を通して悪魔に反対されることもなく、霊の自由さをもってこれらの恵みを楽しむときに行われることである)。そうなると、悪魔もあえて霊魂を襲うことはないであろう。なぜなら、悪魔は、そこに達することもできないであろうし、神の愛に満ちた実体における霊魂の実体の中でのこれらの神的接触を理解するまでには至り得ないからである。

この恵みには、奥底の浄化と、赤裸と、被造物のすべてから引き退いていることによってでなければ、誰一人として、そこに達することはできない。それは「闇の中で」のことである。これは、すでに詳しく、この歌詞の後に説明し、この一行に関して述べた通りである。「覆われて」、隠れて、であるが、今述べたように、この、隠れていることで、霊魂は、愛による神との一致において、次第に強められて進んで行く。それで、そのことを霊魂は、前に上げた一行の中で、次のように歌うのである。
「闇の中に、顔を覆って」と。

この恵みが、隠れたままに霊魂に与えられると、その恵みの中で、霊魂は、それがどういうふうにしてかは解らないながら、自分が、霊的でより高尚な部分によって、より下級で感覚的な部分からすっかり引き離され、非常に遠ざけられているのに気がつく。それで、霊魂は、自分自身の中に、互いにまったく異なった二つの部分があるのを認め、一方は他方と何の関係もないように思われ、一方は他の一方から非常に離され、隔てられているように感じられる。ある意味では、それは実際その通りである。なぜなら、その働きは、その時には全く霊的になりきっているので、感覚的部分には全然交わらないからである。このようにして霊魂は、全く霊的になり、一致の観想のこの家に隠れ家において、その霊的欲求と欲情は、至谷に、完全な程度にまで消え去る。それで、霊魂は、自分の上級部分に関して語りながら、直ちに、この最後の一行を歌う。
我が家はすでにしずまったから…