21、「装いを変え」という語を説明し、この夜において霊魂がする変装の色について語る

なぜ、霊魂は、この観想を「秘密の梯子」と呼んだのであるか、その理由を説明し終えた今は、その同じ一行の中の、第三のことばについて説明することが残っている。それは、すなわち、「装いを変えて」ということであるが、どういう理由で霊魂は、「装いを変えて」、この「秘密の梯子」を伝って出て行ったと言うのであろうか。

このことを理解するためには、次のことを知っておかなければならない。すなわち、変装するということは、自分がそれまで身につけていたのとは違った変装や恰好をすることによって、自分を包み隠してわからないようにすることに他ならない、ということである。これは、一つには、別の姿や服装のもとに、自分の心に抱いている意志や目的を、外に表して、深く愛している者の恩恵と意志とを勝ち取るためである。また一つには、競争相手から身を隠して、自分のしようと思うことを、よりよく果たすことができるためである。そして、そのとき人は、自分の心の愛情を、最もよく表し示すと思われる着物や衣服を、また、競争相手から、もっともよく自分を隠すことができるような服を身につけるのである。

そこで、花婿であるキリストの愛に触れられた霊魂は、キリストに好まれる者となることと、その意志を勝ち得ることを望んで、自分の心の愛情を最も生き生きと表すことのできるような装いのもとに、また、道すがら、敵や反対者―すなわち、悪魔と世間と肉―から、最も確実に身を守ることのできるような衣装を着け、変装して出て行くのである。ところで、霊魂が着ている衣服は、三つの主色から成っている。すなわち、白と緑と真紅とである。これらによって、三つの対神徳、すなわち、信望愛が示されている。これらによって、霊魂は、ただ愛する方の恩恵と意志を勝ち得るばかりではなく、三つの敵から完全に守られて、安全に旅してゆくであろう。というのも、信仰は極めて白い、純白の下着であって、その白さ故に、悟性の目を完全に眩ませるからである。それで、霊魂がこの信仰の着物を着て歩んで行くと、悪魔は霊魂を妨害しようとしても、それを見ることも、襲うこともできない。それは、霊魂が信仰によって、最も狡猾で、最も強敵である悪魔から、大変よく(他のすべての徳を合わせるよりも、ずっとよく)守られて進んでゆくからである。

それゆえ、聖ペトロも自分を悪魔から救うのに、信仰以上にすぐれた守り手を見出すことがなかったので、「信仰に心を固めて、これに抵抗せよ」(1ペトロ5・9)と言ったのである。したがって愛する方の好意と、彼との一致を勝ち得るためには、霊魂は、諸徳の他の衣の基であり、始めとして、この信仰の白い衣以上に良い下着や肌着を身につけることはできない。というのも、使徒が言っている通り、「これなしには、神のみ心にかなうことはできない」(ヘブライ11・6)からであり、また、これがあれば、み心にかなわずにはいられないからである。なぜなら、神ご自身、預言者ホセアを通して、「私は信仰のうちにあなたを娶ろう(めとろう)」(ホセア2・20)と言われているからである。これはすなわち、「霊魂よ、もし、私と一致し、私の妻となることを望むならば、内に信仰を着て来なければならない」との意味である。

すでに述べたように、霊魂は、内的苦悩と闇の中を歩いて、この暗夜から出てゆく時には、信仰のこの白衣を着ているのであるが、悟性は、霊魂に、光による援助をいくらかでも与えるようなことはない。上からの光によって助けることもなく、というのは、霊魂にとって天は閉ざされ、神は隠れておられるように思えたからであり、また、下からの光によって助けることはなかった。というのは、彼を教えていた人々は、霊魂を満足させなかったからである。霊魂は、これらの試練の中を、力衰えることも、愛する方を見失うこともなく通り抜けながら、堅忍不抜の精神をもって苦しみ、耐え忍んだ。愛する方は、試練と艱難のうちに、花嫁の信仰を試みられるのである。それだから、花嫁は後に、あのダビデの句を、真に言うことができるのであろう。すなわち、「あなたのくちびるの言葉ゆえに、私は無法な者の道を避け、あなたの道を堅く守りました」(詩17・4)と。

次に、霊魂はここで、信仰のこの白い下着の上に、第二の色である緑の胴着を重ねる。前にも言ったとおり、これによって望徳が象徴的に表されている。霊魂は、これによって、第一の敵に対するのと同じように、第二の敵、すなわち、世間から解放され守られる。というのも、神において生き生きとしているこの希望の緑色は、霊魂に、永遠の生命に関することに対して、非常な熱情と、勇気と、高揚とを与えるので、そこに待ちうけていることに比べれば、世間のすべてのことは、乾ききって、色あせた、生命のない、無価値のものと思えるからであり、事実、その通りなのである。そこで、霊魂は、世間的な衣や衣装をすっかり脱いで裸となり、その心を世間のどんなものの上にも置かず、世間にあるもの、または、あり得るものを何も希望せず、ただひたすら永遠の生命の希望のみを着て生きてゆく。その結果、霊魂は世間から非常に高く上げられた心を持つようになったので、世間は、その心に触れたり、これをとらえたりすることができないばかりでなく、その目にとまることさえないほどである。

このようにして、霊魂は、この緑の衣服や変装のおかげで、この世間という第二の敵から、完全に守られて、安全に進んでゆく。というのも、聖パウロは希望を、「救いのかぶと」(1テサロニケ5・8)と呼んでいるからである。かぶとは、外を見るための瞼甲の他は、どこも露出しているところがないようにして、頭全体を保護し、覆う武具の一つである。望徳とは、これと同じようなもので、霊魂の頭のすべての感覚を覆う。それによって、それらは世間のどんなことにも深入りせず、現世の矢が、それらを傷つけることができるような隙も残らないであろう。ただ、目が、他のどこでもなく、上のほうだけを見ることができるように、そこには、たった一つの瞼甲だけが残されている。これが普通、望徳が霊魂の中で果たす務めなのである。すなわち、霊魂の目を、ただ神を見るためにのみ上の方に向けることである。ダビデも、「私の目は常に主に向けられている」(詩25・15)と言って、彼の中で、希望が行ったことを述べている。彼が別の詩編の中で言っている通り、他のところには何も期待せず、ただ、「女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は、私たちの主なる神に注がれている。主がわたしたちを憐れまれるまで、主に期待しつつ」(詩123・2)である。

このような理由で、この衣服は緑なのである。霊魂が、常に神を見つめていて、他の何ものにも目を移さず、神のみに捕らえられているので、霊魂の愛する方は非常に満足される。それゆえ、霊魂は、愛する方から希望するだけのものをすべて、勝ち得ることができるというのは本当である。だからこそ花婿は、雅歌の中で、花嫁に向かって、「あなたはただ一つの目だけで見ることによって私の心を傷つけた」と告げるのである(雅4・9)。神の実に希望を置くこの緑の服がなければ、霊魂にとって、この愛の希求に出てゆくことは適当でなかったであろう。なぜなら、何も獲得しなかったであろうから。というのも、霊魂を動かすもの、また、勝利を得るものは、ねばり強い希望だからである。

霊魂は、この望徳の衣をつけて変装し、前に述べた秘密の暗夜を通って旅してゆく。あらゆる所有と支えから、完全に空になって進んでゆくので、霊魂は、目を他のものに向けることも、注意を神でないものに向けることもしない。すでにエレミアから引用したように、「もしかしたら、まだ希望があるかもしれないと、口をちりにつけている」(哀3・29)からである。

白い下着と緑の胴着の上に、霊魂はここで、この変装や衣装の仕上げとも完成ともして、第三の色である素晴らしい真紅の上着を着る。これによって、第三の対神徳である愛徳が、象徴されている。これは、他の二つの色にみやびを添えるばかりでなく、霊魂を非常に高く上げ、非常に美しいものとして神のそば近くに置くので、霊魂は、あえてこう言ってしまうほどである。「おお、エルサレムの娘たちよ、私は黒いけれど美しい。ゆえに、王は私を愛して、王宮の中に導き入れられた」(雅1・4)と。この愛徳の衣は、もうすでに、愛の衣であり、愛する方に対する愛を一層強めるものであって、霊魂を肉という第三の敵から護り、隠すばかりでなく(なぜなら、神に対する真の愛があるところには、自分に対する、自分のものに対する愛も入ってこないから)、他の諸徳を効力あるものとする。すなわち、それらの徳に、霊魂を守るための活力と力を与え、愛する方を喜ばせるために、みやびかさと優美さとを添えるのである。なぜなら、愛徳がなければ、どんな徳も、神の御前では好ましいものではないからである。愛徳は、雅歌の中で言われている緋色の布であって(3・10)、その上に神は横たわっておられるのであり、霊魂の中を、自分自身と、すべての被造物から出て、愛にもだえ、愛に燃え立ち、観想というこの「秘密の梯子」を伝って、彼の待望の救いである神との愛の完全な一致に向かって進んでゆくとき、この真紅の衣を身に着けてゆくのである。

結局、これが、霊魂が「秘密の梯子」を伝って信仰の夜の中を行くとき身につけたという変装なのである。そして、これが、その変装の三つの色なのである。これらの三つの色は、悟性と記憶と意志という、霊魂の三つの能力によって、霊魂が神と一致するための、最も適当な準備である。なぜなら、信仰は、すべての自然的な知識から悟性を空にし、暗くし、そうすることによって、これを英知との一致に備えさせるからである。また、希望は、被造物についての所有のすべてから、記憶を空にし、引き離す。なぜなら、聖パウロが言うように、「希望は、まだ所有していないことについてのものだからである」(ロマ8・24)。それで、希望は、所有して得るものから記憶を引き離し、希望しているものの上に、これを据える。このようにして、神に対する希望のみが、神との一致のために記憶を清く整えるのである。これと全く同様に、愛徳も、神でない一切のものから、意志の愛情と欲求を空にし、これらをすっかり無くさせる。そして、これらを、ただ、神のみに置く。こうして、この愛徳は、意志という能力を整え、愛によって神と一致させる。これらの徳は、霊魂を、神以下のすべてのものから引き離すという役割を持っているので、その結果として、霊魂を神に結ばせることになるのである。

したがって、これらの三つの徳の衣を着て、真実に、熱心に歩むことなしには、愛によって神との一致の完徳に達することは不可能である。それで、霊魂が切に望んでいること。すなわち、愛する方とのこの愛に満ちた甘美な一致に達することを獲得するためには、霊魂がここで着用した衣服、変装は、非常に適切であったし、必要なものであった。そしてまた、霊魂が、望んでいたものを獲得するまで、つまり、あれほど切望していた愛の一致という目的を達成するまで、それを着るということを思いつき、それを着続けることができたことは、大きな幸運であった。それで霊魂は、直ちに次の句を言う。

おお、すばらしい幸運!