20、愛の他の五つの段階について述べる

(愛の梯子の第六段階)第六段階は、霊魂を速やかに神の方へ走らせ、度々、神に触れさせる。霊魂は、弱り果てることなく、希望によって走ってゆく。ここでは、愛が、霊魂を強めたのである。そして、その愛は、霊魂を速やかに飛び立たせる。霊魂が、この段階において、なぜ、これほどの、愛における敏速さを持っているかというと、それは、霊魂のうちに愛が非常に増大したからであり、ここにおいて霊魂は、ほとんど完全に浄化されているからである。

(愛の梯子の第七段階)第七段階は、霊魂に、激しく、大胆にふるまうようにさせる。ここでは愛は、希望するために判断を用いることもしなければ、身を引くために忠告も必要としない。また、慎みをもって自制することもできない。なぜなら、神がすでに、ここで、霊魂に施しておられる恵みは、霊魂を非常に大胆にさせるからである。これらの人たちは、神に望みをかけて、喜びをもって願うことを、神から獲得する。しかし、もし、霊魂が、「その霊魂の方に傾けられた王の王杓の内的恩恵」(エステル4・11)を感じたのでなければ、この段階に昇ってゆくことは正当なことではない。常に、謙遜のうちに留まっているものでなければならない。

(愛の梯子の第八段階)第八段階は、霊魂に、神をとらえさせ、手放すことなく、抱きしめさせる。この一致の段階において、霊魂はその渇望を満たす。しかし、これは永続的にではない。なぜなら、霊魂は、ちょっとそこに足を置くところまでゆくが、すぐにまた、それを引っ込めてしまうからである。もし、この状態が永続するものであるならば、それは、この世ながらの、ある種の光栄の状態となるであろう。それで、霊魂は、そこにごく僅かの時間しか留まらないのである。

(愛の梯子の第九段階)第九段階は、霊魂を穏やかに、心地よく燃え上がらせる。これは完徳に達した人々の段階であって、彼らは神において、すでに快く燃え立っている。それは、彼らが神と共有する一致ゆえに、聖霊が彼らに、この甘美で快い熱を引き起こすからである。の段階において、霊魂が楽しみ味わう神の宝と富については、語ることができない。なぜなら、たとえ、それらについてどんなに多くの本を書いたとしても、なお、語るべき多くのことは残されてしまうであろうから。これについては、また後にも、何か語るつもりであるから、ここではただ、この段階のあとに、愛の梯子の最後の段階である第十の段階が続くことを述べるにとどめよう。この段階は、すでに、この世のものではない。

(愛の梯子の第十段階)この愛の秘密の梯子の最後の段階である第十の段階は、霊魂を全く神に似せた者とならせる。それは、霊魂が、この世で第九の段階に達した後、直ちに所有する明らかな神の直観が原因となって、肉体を抜け出るからである。というのも、これらのごく僅かな霊魂は、すでに愛によって、すっかり浄められているためである。それゆえ、主は「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るからである」(マタイ5・8)と言ったのである。また、前にも言ったとおり、この直観こそ、霊魂が完全に神に似た者となることの原因である。それは、聖ヨハネが、「私たちは神に似た者となることを知っている」(1ヨハネ3・2)と言っているからである。しかし、それは、霊魂が神と同じように有能で、力あるものとなるからではない。そのようなことは不可能である。そうではなく、ただ霊魂のすべてのことが、神と似たものとなることであろう。それによって、霊魂は、参与によって神と呼ばれるであろうし、また、そうなるであろう。

これが、秘密の梯子である。もっとも、これらの高い段階は、霊魂にとって、それほど秘密ではない。なぜなら、霊魂の中に行われる大きな効果によって、愛は、霊魂に多くのことを顕すからである。しかし、明らかな直観の段階、それは、神が支えておられる梯子の一番端のところになるわけだが、そこにおいては、すでに述べたとおり、神との完全な同化により、霊魂には何一つ隠されていない。それゆえ、私たちの救い主は、「その日になれば、あなたたちは、もう、私に何一つ問うことはないだろう」(ヨハネ16・23)と言われるのである。だが、この日になるまで、たとえ霊魂がどんなに高く昇ろうとも、まだ、何かが隠されたままになっている。そして、その分が、神の本質に余すところなく同化するために、まだ霊魂に欠けているものである。このようにして、霊魂は、注賦的観想と秘密の愛とによって、あらゆるものと、自分自身から出て、神の方へと昇って行く。というのも、愛は、火に似ているものであって、自分の領域の中心に入りこもうとして、絶えず、上へ上へと昇って行くからである。