12、この恐ろしい夜は、どれほど一つの煉獄であるか、またこの夜が霊に引き起こす快い効果について

今まで述べたことから、この愛の火の暗夜は、闇の中で霊魂を浄めてゆくのと同時に、闇の中で、どれほど霊魂を燃えたせてゆくかがわかるであろう。さらにまた、あの世で霊魂は、物質的な暗黒の火をもって浄められるのと同様に、この世では、どれほど霊的な暗黒の愛の火でもって清くされ、浄化されるか、ということもわかるであろう。なぜなら、これが違う点だから。つまり、あの世では、火から浄められるのにひきかえ、この世では、ただ愛によってのみ浄められ、照らされるのである。

神は愛と英知を同時に注ぎ、霊魂がこの愛に満ちた英知の火で照らされ、浄化され、霊魂を無知から浄める。そして、霊魂を浄めるその英知は、天使たちに与えられる英知と同じである。その英知は、天使たちを教え、照らし、神から出て最上位の天使から最下位の天使まで、すべての階級を通って、ついには人間にまで至るのである。

一番遠くの方にいる人間にも、もし神が与えたいと望まれるならば、この愛に満ちた神の観想は届けられるのであるが、自らの人間性に従って、非常に限定された仕方で、ひどく苦しみながら、それを受けなければならない。というのも、天使を照らす神の光は、愛の中に天使を輝かせ、柔和にするが、それは天使が純霊であるため、またこういう注賦を受ける準備ができているためである。ところが人間は、不純で弱いものであるため、その光が人間を照らすと、ちょうど太陽が、目やにだらけで病んでいる目に対してするように、当然、人間を闇に沈め悩ませ、苦しませる。そして、この愛の火自身が彼を霊化し、純化するまでは、これを熱烈に、痛ましく燃え立たせる。彼がこの愛に満ちた注賦の一致の作用を、穏やかに、天使のように受けられるようになるまで、すなわち、主によって浄められるまで浄化され続ける。しかし、それまでは、人間は、愛に満ちたこの観想と知識とを、悲嘆にくれながら、愛のもだえにかられながら受けるのである。

霊魂は、この愛の燃焼やもだえを常に知覚しているのではない。しかし、時が経つにつれて、この火が霊魂を熱し始めると、霊魂は大抵、この愛の燃焼と熱とを感じるようになる。ここで、悟性は、この闇によってますます浄化されてゆくので、ある場合には、この愛に満ちた神秘の体験は、意志を燃え立たせると同時に、もう一つの能力である悟性を、いくらかの神的光と知識とをもって照らしながら、同時に傷つける。それがあまりにも快く、繊細であるので、意志は悟性に助けられて驚くほど熱し、自分からは何もしなくとも、この神的火が、生ける炎となって、意志の中に燃え上がる。それで、自分に与えられる生ける知識ゆえに、霊魂には、もう自分はあたかも生ける火であるかのように思われる。

ここで結び合わされる二つの能力の、すなわち、悟性と意志という二つの能力の、一致を伴ったこの愛の燃焼は、霊魂にとっては偉大な富であり喜びである。なぜなら、それは神性の、ある種の接触であり、霊魂が待望している愛の一致の完成への第一歩だからである。

今までに述べたことから、次のことが推論できよう。すなわち、神によって受動的に霊魂に注ぎ入れられる霊的善において、意志が愛することなしに悟性は理解ことができるように、意志は、悟性が理解しない時にも、十分愛することは、どれほど可能であるか、ということである。なぜなら、この観想の暗夜は、神的光と愛とから成っているので、この愛の光が与えられる時、ある場合には、より多く意志を傷つけ、これを愛によって燃え立たせ、悟性の方は、これを光で傷つけることなしに、闇の中に残しておいても決して不都合なことではないからである。また他の場合には、悟性を光で照らして知識を与えるが、意志はこれを無味乾燥の中に残しておく。これはちょうど、光を見ることなしに火の熱を受けることができ、また、熱を受けることなしに光を見ることができるのと同じである。これは、主によってなされる業であり、主はご自分が望まれるままにこれを注賦なさるのである。