2 どのように挙行するのか

しるしと象徴

秘跡祭儀は、さまざまなしるしや象徴から成り立っています。救いに関する神の教育方法に基づいて、これらのしるしや象徴の意味は、創造のわざと人間文化とに根を下ろし、旧約時代の出来事の中で徐々に明らかにされ、キリストご自身とそのわざにおいて完全に明らかなものとされます。

人間世界のさまざまなしるし。人間生活では、しるしや象徴は重要な役割を果たしています。人間は、物質的なものであると同時に精神的な存在ですから、物質的なしるしや象徴を通して精神的なものを表したり、知覚したりします。また、人間は社会的存在として、他人との意志疎通のために、ことば、身振り、行為によるしるしや象徴を必要とします。神との関係についても同様なことがいえます。

神は人間に、見えるものを通して語られます。人間の知性は物質的世界を見て、創造主の痕跡を読み取ります。光とやみ、風と火、水と土、木と実は神について語り、その偉大さと同時に身近さをも悟らせます。

これらの感覚的事物は、神に造られたものとして、人間を聖化する神の働きの場、神に礼拝をささげる人間の表現の場となることができます。人間の杜会生活上のしるしや象徴にしても同様です。洗うこと、油を塗ること、パンを裂き、同じ杯から飲むことは、聖化する神の現存や創造主を前にした人間の感謝を表すことができます。

世界の諸大宗教は、宗教祭儀のこの宇宙的、象徴的意味を、しばしば感動的に明らかにしています。教会の典礼は、被造物と人間文化の諸要素とを取り上げ、これらに、イエス・キリストによる新しい創造という恵みのしるしの尊厳を与えて、それらを統合し、聖化します。

契約のしるし。選ばれた民は、自分たちの典礼生活を特徴づけるしるしや象徴を授かりました。それは、もはや天体の周期や社会の出来事を祝うものではなく、契約のしるしであり、ご自分の民のために神が成し遂げられた偉業の象徴なのです。旧約の典礼的しるしの中の、割礼、王や祭司の塗油と聖別、按手、いけにえ、とくに過越祭などを挙げることができます。教会は、これらのしるしに新約の秘跡の前表を見ています。

キリストが用いたしるし。宣教の際に、主イエスはしばしば自然界のしるしを用いて、神の国の神秘を知らせようとなさいました。イエスはさまざまな物的しるし、あるいは象徴的な動作でいやしを行ったり、教えを強調したりなさいました。そして、旧約時代の出来事やしるし、わけてもエジプト脱出や過越祭に新たな意味を与えられました。イエスご自身がこれらのしるしの意味そのものであられたからです。

秘跡的しるし。聖霊降臨以来、聖霊は、ご自分の教会の秘跡的しるしを通して、聖とするわざを行っておられます。教会の諸秘跡は、宇宙や社会生活の豊かなしるしや象徴を壊さず、このすべてを浄化し、統合します。さらに、旧約時代の予型や前表を成就し、キリストが行われた救いを示し、実現し、天の栄光を前もって表し、それにあずからせます。

ことばと動作

秘跡祭儀は、キリストと聖霊とにおける神の子らの御父との出会いです。この出会いは、動作とことばを介する対話という形で表現されます。いうまでもなく、象徴的動作自体がすでに一つの言語ですが、神の国の種がよい土で実を結ぶには、さらに神のことばと信仰による応答とが動作と一つになって、それを生かす必要があります。典礼の動作は、神のことばが表すことを意味するとともに、神の恵みの働きと神の民の信仰による応答をも意味します。

ことばの典礼は秘跡祭儀の不可欠な部分です。信者の信仰を培うため、神のことばのしるしを大事にしなければなりません。神のことばが書かれた書(朗読聖書)、それに対する崇敬(行列、献香、ろうそくの光)、神のことばを告げ知らせる場所(朗読台)、聴きやすくて理解できるような朗読、神のことばの告知を深める役務者の説教、会衆の応答(応唱、答唱詩編、連願、信仰宣言)などがそれに当たります。

典礼で用いられることばと動作は、しるしとそのしるしが意味するものという観点で切り離すことができないものですが、さらに、その意味することを実現させるものという観点でも、切り離しえないものです。聖霊は信仰を起こさせて、神のことばを理解させてくださるだけではなく、諸秘跡によって、ことばが告げる神の「大いなるわざ」を実現してくださいます。すなわち、聖霊は愛する御子によって実現された御父のみわざを現在化し、共有させてくださいます。

歌と音楽

「全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかりしれない価値を持つ宝庫を成しています。それはとくに聖歌が、ことばと結ばれて荘厳な典礼の一部を成し、必要なもの、または充実をもたらすものだからです」。しばしば楽器の伴奏が伴われていた、霊感を受けて作られる即興の詩編、詩吟は、すでに旧約時代の典礼の一部を成していました。教会はこの伝承を継続し、発展させます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5∙19)歌う者は、二倍の祈りをするのです。

歌と音楽は「典礼行為と固く結ばれるに従って」、いっそうよくしるしの役割を演じますが、そこには忘れてはならない三つの基準があります。つまり、祈りの表現豊かな美しさ、定められた部分における会衆の心を合わせた参与、および、祭儀の荘厳さです。こうして、歌と音楽は典礼で用いられることばと動作の目的、つまり、神の栄光と信者の聖化とに寄与します。
「あなたへの聖歌、あなたへの賛歌、そしてあなたの教会に響く甘美な歌声を聞いて、わたしは幾度涙を流したことでしょう。これらに耳を澄ましては、どんなに感動したことでしょう。歌はわたしの耳に流れ込み、心に真理が注がれました。たまらない敬神の思いが横溢して、涙が頬を伝わりましたが、それは快いものでした」。

典礼のしるし(歌、音楽、ことばと動作)の調和は、祭儀を行う神の民に固有な文化的富に従って表現されるならば、いっそう表現豊かで、実り多いものとなります。ですから、「一般賛美歌を適切に奨励します。そして、聖なる信心行事においても、典礼行為そのものにおいても」、教会の規範に従って、「信者の声が聞かれるようにします」。しかし、「聖歌に用いられる歌詞は、カトリックの教えに合致したものでなければなりません。さらに主として聖書と典礼の源泉からくみ取られるべきです」。

聖画像

聖画像、典礼イコンはおもにキリストを表します。目に見えず、把握できない神を画像で表すことはもともとできないのですが、神の御子の受肉が聖画像を用いるという新しい「道」を開きました。
「かつては、からだも顔もない神を画像によって表すことはまったくありえませんでした。しかし、神が受肉されて、人間とともに生きられた今、わたしは神についてわたしが見たものの画像を作ることができます。……そのお顔の中に、わたしたちは主の栄光を眺めることができます」。

キリスト教の聖画像は、聖書がことばによって伝えるよいおとずれを目に見えるものによって表します。画像とことばとは相互に説明し合うのです。
「わたしたちの信仰を簡潔にあらわすものとして、わたしたちは、記録されたり記録されていない形でわたしたちに伝えられてきたすべての教会の伝統遺産を、そのままの形で保存し続けています。その伝統の一つが聖画像であって、これはみことばである神が外見だけでなく実際に人となられたとの信仰に基づいて、福音書に見られる出来事をのべ伝える際にも役立ちます。また聖画像の使用が有益で役立つのは、ことばと画像とが相互に説明し合って一つの内容を指し示すからです」。

典礼祭儀のすべてのしるしはキリストに関係しています。神の母マリアや聖人たちの聖画像もそうです。事実、これらの画像は彼らの中で栄光を受けられたキリストを表すものです。これらは、今も世の救いのためにかかわり、わたしたちがとくに秘跡において結ばれている「おびただしい証人の群れ」(ヘブライ12∙1)を表しています。聖人の聖画像を通して、わたしたちの信仰の目は、「神の像」に作られた人間、また「御子の姿に似た者に」変えられた人間、キリストのもとに一つにまとめられた天使たちさえも見るのです。
「神の霊感に導かれた教父たちの教えと、カトリック教会の伝承に従って(わたしたちは、この伝承が教会に内在する聖霊によるものであることを知っています)、細心の注意と綿密さをもって次のことを決定します。すなわち、生命を与える尊敬すべき十字架の像とまったく同じように、尊敬すべき聖画像を飾らなければなりません。彩色画やモザイクおよび∙その他の適当な材料によって作られた聖画像を、神の聖なる教会内、聖なる器物や衣服、壁または額、家の中や道路脇にも飾らなければなりません。すなわち、わたしたちの主であり神である救い主イエス・キリスト、聖にして汚れなき神の母、聖なる天使たち、すべての聖人たちの画像を飾るのです」。

「聖画像の美と色彩とはわたしを祈りに誘います。田園の景色がわたしの心を神への賛美に駆り立てますが、聖画像を眺めることもわたしの目を楽しませます」。神のことばの黙想や聖歌と並んで、聖画像は典礼の種々のしるしの調和の中に溶け込みます。こうして祝われる神秘が心に深く刻まれ、信者の新しい生活に現れるようになります。