十字架の聖ヨハネ抜粋

■目次

感覚的な楽しみから生じる弊害と、それを退けることによって受ける利益について

感覚的な楽しみから生じる弊害

感覚的な楽しみが生じたときに、心を神に向け、その楽しみを打ち消さないならば、霊魂に害が生じる。すなわち、理性が暗み、霊的なことに不熱心と倦怠が心に生じる。そして五官を通じて得られる楽しみから生じる害は次のように非常に多い。

  1. 目に見える楽しみ:これを拒否しないならば、すぐに虚栄心が起こり、集中力を失い、欲が深くなり、恥ずかしいことも平気になり、外的にも内的にもしまりがなく、不純な考えや嫉妬が生ずる。
  2. 無益なことを聞く楽しみからは、すぐに気が散ったり、おしゃべりになったり、嫉妬や不確かな判断や思い、その他数多くの危険な弊害が生ずる。
  3. こころよい香りを楽しむことからは、貧しいものに対する嫌悪感が生ずる。これはキリストの教えに反することである。なお服従に対する逆らいや、卑しいことも素直に受けとる心をもてなくなり、霊的無感覚が、その欲求に比例して現われてくる。
  4. 食物の味覚を楽しむことからは、貪食や酩酊、怒りや不和、隣人や貧しい者に対する愛の欠如が出てくる。それはちょうど、ラザロに対して無慈悲でありながら、そこから体の具合が悪くなり、病弱になり、欲情の刺激が増すため、よこしまな心が生じてくる。また精神がきわめて鈍感になり、霊的なことに対する欲求を抑えて、霊的怠惰へと導く。またこの味覚の楽しみが満たされるほど、その他のことに集中しにくくなり、それにより不満が生じるようになる。
  5. 快いものに触れる楽しみからは、もっとたくさんの危険な害が生じ、感覚的なものが精神の中にまで流れこみ、精神の力と強さを失くしてしまう。この種の楽しみの多少に応じて、怠慢とその傾きという忌むべき悪徳が生じてくる。欲情が生じ、精神は弱く、臆病となり、ひどく感覚的になり、すぐに罪をおかし、心を傷つけるようになる。むなしい楽しみや喜びが心に浸潤し、舌を抑えることができず、目の慎みに欠け、その他の感覚は、この欲のために、麻痺し、鈍くなる。また霊的無知と愚鈍に留まるために、正しいことの判断ができず、臆病と不安定を作り出す。精神は暗く、心は弱くなるため、何も恐れることはないのに恐れたりする。これは時として精神を暗くさせるため、ものごとの見分けがつかず、心もしくは良心が無感覚になり、理性をひどく弱くさせ、よい意見を与えることも、受け入れることもできなくなり、霊的、倫理的な宝に対して、用をなさないものとなり、まるで壊れた器のように役に立たないものとなる。

感覚的な楽しみを退けることによって受ける利益

  1. 第一の益は、余りに感覚を使いすぎて、さまざまのことに気を散らしていたのが、今では神に集中するようになり、すでに獲得した徳と心とを保ち、育て、獲得していくことである。
  2. 第二の霊的な益は、感覚的な楽しみを求めなくなることである。その結果、感覚的なものから霊的なものが生みだされ、動物的なものが理性的なものとなり、人間が天使的な道を歩むようになり、現世的・人間的なものから神的・天上的なものが現われるようになる。
  3. 第三にあげられる益は、意志の喜びと楽しみが、すでにこの世においても、非常に大きなものとなるということである。その益は、主が仰せになったように、この世において、一を捨てたものに対して百が与えられるからである。

われわれがするべきこと

感覚的な楽しみからいつも清められ、感覚的な楽しみに止まることなく、直ちに心を神に向かわせることができるまで、われわれがすべきこと。

  1. 感覚的な楽しみや喜びを退け、感覚的な生活から離れるようにする。
    なぜなら、そこに至るまで、まだ十分に霊的でないため、感覚的なものを用いることから、霊的なものよりも感覚のためになる糧や力をより多く引き出すことになるであろうし、行ないにおいては、感覚的な力が優位をしめ、これがますます感覚を育てるからである。
  2. 感覚的欲望が、精神に力を与えるなどと考えて、感覚的欲望の働きと力をあえて用いない。
    なぜなら、霊魂の力は、感覚的な力がないことによっていっそう強くなるもので、感覚的欲望の楽しみを用いるよりも、それを失くすことで得られるものだからである。

この世のものを楽しむことによって生じる害、それを退けることによって得られる利益について

この世の宝を喜ぶことはむなしいことである

喜びの第一のものは、この世の宝である。この世の宝は、富、地位、職、その他立身出世、子供とか、親族、結婚などであり、喜びとなるものである。しかし、富や肩書、地位、職、その他そうしたものを喜ぶことが、いかにむなしいものであるかは明らかである。もし、富むことによっていっそう神に仕えることができるなら富を喜ぶべきである。ところが、人は富からくる愛着に心を奪われ神に背くのであって(これが罪なのである。なぜならば罪とは神に背くことだからである)、そのために賢者は「子よ、富をもつならば、罪を避けることはできない」(シラ11・10)と言ったのである。

それで主は、福音書の中で、富を茨と呼ばれている(マタイ13・23、ルカ8・14)。それは意志的に富にかかわるならば、罪を犯すことになることを示すためであった。また福音書の中で「財産のある者が天国に入るのは、なんと難しいことだろう」(ルカ18・24)という嘆息は富を喜ぶ心のことを言っていて、富を喜んではならないことをよく分からせるために言っている。だから、富を喜ぶという危険から離れるために、ダビデは「富において豊かであっても、そこに心を置いてはならない」と言ったのである。したがって人は、富をもって神に仕えるというのでないかぎり、自分が富をもっていても、兄弟が富んでいても、それを喜ぶべきではない。

これと同じことが、肩書とか役目とか、そり他のものについても言える。それらが、いっそう神に仕え、永遠の生命に至る道をさらに安全に進んでいくためのものでないなら、それらを喜ぶことはむなしい。それに、それがほんとうに神に仕えることになるのかどうか、はっきり知ることはできないのであるから、そのようなものについて、手放しで喜ぶなどということは愚かなことである。

故に、万事がそろって順風に帆を張るように進んだとしても、喜ぶより恐れるべきである。なぜなら、その喜びで神を忘れる危険が増すからである。このために万事において慎重であったソロモンは「私は喜びを誤りとし、喜びに対して、“なぜ、お前はむなしく欺かれるのか″といった」と記している。

以上のことすべてがわれわれに教えていることは、神に仕えること以外の喜びをもつのは、むなしく、かつ無益なことで、神によらない喜びは、霊魂のためにならないということである。 

この世のものを楽しむことによって生ずる害について

地上的なものに心を奪われるために霊魂を襲う弊害は、ちょうど火の粉のように、それが消されなければ、世界を焼き尽くす大きな火になることに似ている。すべての善き宝が神に心を奪われることから出てくるのと同様、すべて悪いものは地上的なものと結びつく楽しみや、愛着に心を奪われることから始まる。なぜなら、地上的なものに心を奪われることは神から離れることであり、神から離れるならば、大小の差こそあれ、霊魂に弊害を与えるからである。

この弊害には次の四つの段階がある。そして、その第四の段階に達するとき、あらゆる悪と弊害に至りつく。

  1. 霊的に「あと戻りする」
    「あと戻りする」とは神について心が鈍くなり、神の宝が見えなくなることである。これは、霊的な道を歩む人が、地上的な何かの楽しみに心を置き、欲望に手綱を委ねるようなヘマをするために生じる。この第一段階において、心は鈍くなり、真理を理解し、ものごとをあるがままに見る目が暗くなる。よこしまな心がなくても、この世のことに欲望や楽しみを置くならば、どんなに聖性や正しい判断をもっていても、こうした害を受けるのを避けることはできない。
  2. 第二段階にあたる弊害は、この世の宝を喜び楽しむことを、それほど気にもせず、悲しみもせず、重大なこととも思わなくなることである。これは始めに楽しみに身を委せることにより、楽しみと欲望が意志の中で大きくなってしまったからである。これが大きな弊害を伴うことになる。つまり神に関することや聖なる業から離れ、神ではない他のことを喜び、たくさんの不完全や好ましくないことや、楽しみやむなしい喜びに自らをゆだねることになる。この第二段階がいきつくところまでいくと、今まで行なっていた修練を止めさせ、その人の心も、欲求も、すべて世俗的なものに向かわせるようになる。この第二段階にある人々は、第一段階にとどまっている人々と異なり、真理や、正しさを知るための判断と理性が暗くなっているだけでなく、それらを学んだり、実行したりすることについて、怠惰で、生温く、緊張に欠けている。
  3. 弊害の第三段階は、神を全く捨て去ることであって、神の掟を果たそうと努めず、貪欲のため大罪に陥るままに身を任せることである。この段階にはこの世のことや、金銭や商売にすっかり没頭し、神の掟にもとづく義務をまるで顧みない人々のすべてが含まれる。かれらは自分の救いに関することについて全く忘れ、感覚が鈍っているのに対し、この世ことに関しては、全く勢いづいて、頭がよく働く。御子はかれらを福音書の中で、「この世の子ら」と呼ばれたほどで、かれらは神のことについては無に等しく、この世のことについては万事を心得ている。かれらはまさしく、欲望そのもので、その欲望と楽しみを地上的なものの中に広げる。しかし、その中に渇きをいやす何ものも見つけることができず、かれらを真に充たすことのできる唯一の泉、神から離れれば離れるほど、その欲望と渇きとはひどくなる。これが、この世の宝を愛するためにさまざまの罪に陥る人々であって、その弊害は非常に大きい。
  4. 弊害の第四の段階は「自己の救いである神を離れ去る」ことである。かれらは、この世の宝にとらわれて、神の掟に心をとめず、記憶や知性と意志とにおいても神からはまったく遠ざかり、あたかも神が存在しないかのように神を忘れ、金銭とこの世の宝を自分の神にしている。かれらは霊的なことがらには、その貪欲のために理性が曇らされ、金銭に仕えて、神に仕えず、金銭に動かされて神に動かされず、目の前に金のことをおき、神的価値やその報いをみない。かれらの最高の神であり、目的である金銭を、終極目的である神よりも先にし、そのために、あらゆる手を尽くす。この最後の段階の人は、まことに哀れである。というのは、そうした宝に心奪われ、自分たちの神としているため、このかれらの神に何かの窮乏が生ずると、すぐに絶望し、惨めな目的のために、自らに死を与え、結局かれらは、このような神から与えられる不幸な報いを、身をもって示すことになるからである。このような神に期待できることは、絶望か死以外はない。この死という最後の惨めさまで追いつめられなかった人々は、煩悩やその他の惨めさのうちに生き、心のうちに喜びはなく、常に金銭に心を配り、思い悩み、そのために来るべき永遠の滅びという当然の結果を招くまで金銭に執着しているのである。

現世的な喜びを遠ざけることによって、霊魂に生ずる益について

  1. 上述に述べたような最も悪質な弊害から免れることができる。
  2. この世の宝に対する楽しみを捨てることによって、寛容という徳を得ることができる。また、それ以外に魂の自由、理性の明晰、平安、静けさ、神における落ちついた信頼と神に対する心からのまことの崇敬と礼拝を捧げることができるようになり、地上的にも大きな喜びと憩いとを得ることができる。

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現世的な喜びを退けるためにすべきこと

  1. この世のことに心を奪われないようにすること。小事が大事に至ることを恐れなくてはならない。最初にはわずかなことであったものが、終わりには重大なことにまで発展するもので、それは山のすべてを焼きつくすためにはひとつの火の粉で十分であるのと同じである。だから、そうした執着が小さなものであると油断をしていてはならない。まだ始めの小さいとき、それを断ち切ってしまう勇気がなければ、それが大きくなり、根を張ってから、切り倒すことができないからである。
  2. 地上的なことに楽しみを覚えるとき、その最初の衝動において、抑制し、次の教えを思いだすべきである。すなわち、すべてにおいて、ただ神に仕え、神のご光栄のために努めること以外に、人間の喜ぶべきものはなく、そのためにすべてのものを、神に仕えるためのみに向け、むなしいものから離れて、地上的なものの中に、喜びや慰めを求めないようにする。
  3. しかし、このような利益は別として、地上的なものを楽しむことで神にお与えする不快というだけで、これらの楽しみを心から消さないといけない。

自然の宝に心を奪われることによって生じる害、それを楽しまないことによって得られる利益について

自然の宝に心奪われることがどんなにむなしいことであるか

ここで、自然の宝というのは、美しさ、優しさ、風采、容姿、その他の体の特質のことで、精神においては、優れた知性とか鑑識眼、その他理性的な特質のことである。こうした自然の宝を自分自身または自分の身近なものがもっていることで喜ぶが、そうした賜を与えられた神に感謝を捧げない。そのように喜ぶことは、むなしい錯覚である。なぜなら、そうした宝のために人間は神の愛を忘れ、虚栄心に陥り、欺かれるからである。したがって、こうした賜や、自然の美しさから空しい高慢や極度な愛着が生じ、神に背く原因にならないかと恐れなくてはならない。それ故、これらの賜に恵まれている人は、それを見せびらかすようなことをして、他のだれかの心が少しでも神から離れてしまう原因とならないように注意しなくてはならない。なぜなら、このような天性の恵みと賜は非常に刺激が強く、誘惑の機会となるので、それに恵まれているものも、それを褒めるものも、心の罠にかからないものは、ほとんどいないからである。

 自然の宝に心を奪われることによって霊魂に生じる害について

  1. 虚栄心、傲慢と、隣人に対する軽蔑
    ある一つを尊敬の目で見るためには、他を自分の目からとり除かないかぎりできない。ここから少なくとも蔑視の気持が生じる。ある一つを大切にするなら、当然心は、他のものを退けて、自分が大切にするその一つのことに集中するので、他のことを軽視することは当たり前である。
  2. 官能的な満足や楽しみ、さらに淫らな気持へと誘われる。
  3. へつらいや、むなしい賞賛のワナにかかり、錯覚と虚栄心のとりこになる。
    その人が優しく美しいことをほめたりする場合、それにより他の人をいい気持にさせて喜ばせ、心に愛着や不完全な意図をひき入れてしまう。それで何かの害を受けてしまう。
  4. 理性や霊の意識をひどく鈍らせる。
    この賜物は人間に密接しているため、こうしたものを喜ぶことは、すぐに心に響いて、心に深い跡を残し、ひどく意識をマヒさせる。そのため理性と判断は、自然の宝の楽しみのとりこになって、光を失ってしまう。
  5. 地上的なものに心を散らす。(④に続き生じる)
  6. 生ぬるさ、気のゆるみなどが生じる。(⑤に続き生じる)
    その人全体にひろがり、神のことについては非常に退屈で、心の重荷になり、ひどく嫌悪するまでになる。

自然の宝を楽しむ場合、少なくともその始めに、霊魂は必ず心の純潔を失う。そして、いくぶんの霊の意識があるにしても、きわめて感覚的で、粗雑なものにすぎず、霊的なものでも、内的なものでもなく、集中的でなく、霊の力よりも、むしろ感覚の楽しみのうちにある。なぜなら霊は、楽しみを求める心の傾きのなかにいるならば、力のうちではなく、感覚の弱さのうちに生きているからである。もっとも、多くの不完全があるにもかかわらず、それとともに多くの徳を持つことがありうるのを否定するわけではないが、これらの楽しむ心が取り除かれなければ、内なる霊は純潔でもなく、また香りのよいものでもない。というのは、そこでは霊に敵対する体が支配しているため、たとえ霊がその害を感じなくとも、少なくともそこには隠れた心のワキ見があるからである。

しかし、今、あの第二の害である官能的な満足や楽しみ、さらに淫らな気持に戻って話さなくてはならない。これには無数の害があり、天性の美しさを楽しむことから生じる不幸が、どこまで行きつくか、またどれほどであるかは、余りにもはっきりしている。なぜなら、毎日このために、多くの人々の死、多くの名誉失墜、多くの侮辱、蕩尽された財産、嫉妬と争い、姦通、暴行、邪淫のほか、地に堕ちた多くの聖なる人々でさえ見ることができるからである。どんなにすぐれた聖なる人であっても、天性の美しさを喜んだり楽しんだりするならば、酒酔いのために麻痺した人のようになる。この楽しみの酒に少しでも酔うと、すぐに心はそこに釘づけにされ、酔わされ、まるで酔っぱらいのように理性がくらんでしまう。そしてその人の霊的な力を奪いとり、多くの災いをもたらす。

自然の宝を楽しまないことによってそこから引き出す益について

  1. 神の愛やその他の心構えをつくる
  2. 謙遜と隣人に対する愛に直ちに席を与える。
    人を欺く、外見の美しさに全然こだわらないならば、神がお望みになる愛をもって理性的かつ霊的に愛することができ、心は自由かつ明るく澄んだものとなる。このように愛するならば、それは神によるものであり、そこには大きな心の自由がある。
  3. 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、私に従いなさい」(マタイ16・24)といわれた主の勧めを守ることになる。
    もし、自分の生まれつきの宝におぼれているならば、決してできないことである。なぜなら、自分にこだわっているものは、自分を否定することができず、したがってキリストに従うことができないからである。
  4. 心のうちに大きな平安をもたらし、気を散らさず、五官、とくに、目にしずかな落着きを与える。
    なぜなら、何も楽しみたいと思わないため、それを見ることも、他の感覚をそこに向けようともせず、そうしたものに引きよせられても、それにとらわれることなく、時間も、考えもそんなことに浪費しないからである。
  5. 霊魂と体、すなわち精神と五官の霊的清さ
    霊魂と体を聖霊の神殿にさせ、それらは神に対し天使のようなふさわしさを持つようになる。もし、生まれつきの美しさや長所におぼれているならば、このようなことはあり得ない。
  6. 多くの虚栄や、数多くの害から身を守ることができる。
    特に自分についてあるいは他の人についての生まれつき与えられたものを褒められたいとか、それにおぼれたりする人が与える軽蔑を気にしないですむ。このような人が尊敬する人は、神の御望みになること以外に関心をもたない人である。
  7. 神に仕えるために必要な精神の自由。
    これがあれば、誘惑を克服することも容易となり、困難にも立派にたえしのび、徳において非常に進歩することができるようになる。

自然の宝を楽しまないためにすべきこと

  1. 霊的な道を歩む人々は、美しさとか、その他の人性の優れたものなどは、すべて土からのもので、土に帰っていくものであることを思い、その空しい楽しみから、意志を浄め暗くしないといけない。美しさは土および土からの蒸気のようなものである。虚栄に陥らないため、このことをはっきり自覚し、神はすべての地上的なものを超えて、これらすべてをぬきんでた無限の美しさを備えておられることを、喜びをもって考え、心のすべてを神に向けなくてはならない。ダビデの言っているように、「これらはみな衣服のように朽ち果て、神のみ永久に変りなく留まる」からである(詩102・27)。
  2. 自然の宝に対して、自分の喜びを神に向かわせなかったら、その喜びは常に間違いであり錯覚である。だからソロモンは被造物に心をひかれそうになるときに言った。「喜びに向かって私は言う。お前は、なぜ空しいものへと私を誘うのか」(シラ2・2)と。 
  3. 自然の宝に対するむなしい楽しみに心が動かされるようなことがあったなら、すぐに、神に仕える以外の喜びはどんなに虚しいものであるか、またどんなに危険で、有害であるかを思い起こさなくてはならない。またさらに、天使たちが、自分の美しさや、天賦の賜を喜び、自己満足に浸されたことが、天使たちにとって、どれほど大きな傷をもたらし、そのために暗黒の深淵に堕ちたかをよく考えるべきである。またいかに多くの人々がこの虚栄のために、日々どれほどの害を受けているかを思うべきである。そうならないための方法を詩人は次のように言っている。「始めにまず救いの手を打たなくてはならない。悪が心のうちで大きくなるのを待つならば、救いも薬も間に合わないだろう」と。また賢者は、「酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが後になると、それは蛇のようにかみ、マムシの毒のように広がる」(蔵言23・31)と言っている。

倫理的な宝に心を奪われることにより生じる害、とそれを退けることによって生じる利益

倫理的な宝について

意志が楽しむことのできる第四のものは倫理的な宝である。ここで倫理的宝というのは、倫理徳とか、徳の習性の、慈悲の行ない、神の掟の遵守、礼儀その他よい性質や傾きをもってするすべての行ないのことである。これらの倫理的な宝は、他の三種類(この世の宝、自然の宝、感覚的なもの)のいずれよりも、いっそう大きな意志の喜びを生みだす。なぜなら、人が楽しみを覚えるというのは、それ自体がよいものであるか、それ自体を手段または道具としてよきものがもたらされるかによる。倫理的な宝は、それ自体がもつ価値からして、それを持つものにとって何かの喜びとなるにふさわしい。なぜなら、倫理的な宝は平安と静かさをもち、理性を正しく秩序立てて用い、調和ある行動をとり、この世において人間にこれ以上に優れたものを持つことはできないからである。これらの徳は、人間的に言うなら、それ自体として愛され、尊重されるのにふさわしく、それをもっていることを喜んでよいのであり、この世において人間によきものであるため、それを実践するよう努めることができる。

しかしキリスト信者は、この世で行なう倫理的宝と善業を、神の愛のために役立ち、永遠の生命を得るためのものとして喜ばなくてはならない。したがって、自分のよい行ないと徳よる喜びは、神に仕え、崇めるためのものでなくてはならない。なぜなら、この見地に立たなかったら、徳さえも神のみ前に価値はないからである。ゆえにキリスト信者は善業をし、よい風習に従うというだけでなく、他の何も顧みず、ただ神を愛するためにだけ、これらのことを行なうべきである。なぜならば、神に仕えるためのみの行ないは、最もすぐれた光栄を報いとして受けるのに対し、それ以外のことに対する考えに動かされていればいるほど、神のみ前において恥ずべきものであるからである。

倫理的な宝に心を奪われるために生ずる七つの害について

  1. 第一の害は虚栄と傲慢と自負と僭越である。自分の行ないについて喜ぶのであるから、そのことを重んぜずにはおれない。ここからうぬぼれやその他のものが生まれてくるのであって、これは福音書の中にでてくるファリザイ人について言われているとおりである(ルカ18・4)。彼は自分が神に祈り、断食し、善業をなしているといううぬぼれにいい気になっていた。
  2. 第二の害は、他人を自分と比較して、その人を悪いもの、劣ったものと考え、人は自分ほどよい行ないをしていないと思い、心の中でその人を軽蔑し、ときにはそれを言葉にだしてさえ言うのである。あのファリザイ人が、その祈りの中で、「神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18・11)と言っているのは、このような害をもっていたことを意味する。
  3. 第三の害は、行ないのうちに楽しみを求めることで、例えば、あるものはその行ないがほめられることを望み、他のあるものは感謝されることを望み、また他のあるものは自分の行ないを語り、あの人にも、この人にも、否世間の人々が全部知ってくれることを喜び、ときとして施しあるいは自分のすることが、第三者の手を通して、いっそうよく知られることを求める、などである。そして、その行ないをすることによって、そこから何かの喜びと称賛が続かないかぎり、その行ないをしようとしない。つまり、キリス卜の言われたように、その行ないのすべては、「人に見られるため」(マタイ23・5)であって、神の愛によってのみするのではない。
  4. 第四の害はこの世において喜びや慰め、名誉とかその他のものを、その業のうちに求めるため、神から報いを受けることがないことである。これについて主は、「かれらはすでにその報いをうけた」(マタイ6・2)と言われている。それではただ骨折り損のくたびれもうけがあるだけである。そのような人が受けるこの種の害はまことにみじめである。というのは、かれらが公にする行ないの大部分は、歪んだものまたは全く価値のないもので、かれらが人間的な関心や尊敬を求めていて、神には向かっていかないため、神のみ前において不完全なものとされるからである。
  5. 第五の害は、完徳の道において進歩が止まることでおる。かれらは自分の業の楽しみや慰めにすっかり心をとられているために、自分のしていることや、修練にそうした慰めや楽しみを見いだせなくなると、気落ちし、仕事に興味がもてなくなって忍耐を失ってしまうのである。
  6. 第六の害は、通常自分に気にいらないことよりも、気にいることや業を、いっそうよいものと考え、そのために欺かれることである。そして後者をほめ、高く評価し、前者を軽蔑する。
  7. 第七の害は、そうした倫理的な行ないにも感ずるむなしい楽しみを打消さないなら、なすべき業に対して与えられる勧告や正しい教えを受け入れるだけの包容力がなくなることである。なぜなら心のもろさのため、そのむなしい喜びにしばられて、他人の勧告をよりよいものと考えず、たとえ、よいものと思っても、それに従うだけの勇気をもち合わせないのである。こういう人々は、神と隣人に対する愛において非常に弱い。なぜなら自分の業に対してもつ自己愛が、その愛徳を冷却させてしまっているからである。

倫理的な宝についての楽しみから離れることによって、霊魂に生ずる益

  1. 第一に倫理的な宝を楽しみのうちに隠されている悪のおびただしい誘惑や欺瞞に陥ることからまぬがれることである。この楽しみのうちに、いつのまにか悪魔に欺かれるのは不思議なことではない。なぜなら悪魔からの誘惑がなくても、そのむなしい楽しみ自身が欺瞞であり、特によいことをしたとき、心の中に少しでもうぬぼれをもつときには、そうであるからである。
  2. 第二の益は、仕事をするのにも徹することができることである。もしその仕事に喜びや楽しみの気持ちがあるなら、そうはいかない。なぜなら楽しみたいという熱にかけられて、怒りとか欲望が幅をきかし、理性に席を譲らず、大抵はこれをやめて、あれをしてみたり、始めてみたり、やめてみたりして、結局なにもすることなく、することにおいて猫の目のように変わりやすくなるのである。というのも、楽しみゆえにするのであるから、楽しみというものは元来、他のものより変わりやすいものであるため、この楽しみがなくなれば、どんな大切なことでもする気がなくなってしまう。それというのも仕事の力、その励ましとなっているのが楽しみであるからで、楽しみが消えれば、仕事も終わりで、堪え続けることがない。ゆえにかれらからこの楽しみたいという気持を除き、それを引離すことは、忍耐と完成をつくりださせることになり、その益は大であるとともに、それを失うことは大きな損となるのである。賢いものは、業の実質と益あることに目を注ぎ、その楽しさや味わいに目をひかれないのであって、その業からつまらない喜びをとりだすのである。
  3. 第三は神的な益であり、これは何ごとをなすにもそのむなしい楽しみを消し、神の御子が言われた真の幸福の一つである心の貧しさを全うさせる。すなわち「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)ということである。
  4. 第四は、こうした喜びを否定してかかる人は、そのような仕事をする場合にも柔和、謙遜であり、賢明となる。なぜなら楽しみを追う欲や、それが得られない憤りにおされて、荒々しくなったり、あせったりしないからである。また自分の仕事の楽しみから、それを高くかいかぶってうぬぼれることもなく、その楽しみのために注意を欠いたり、盲になったりすることもない。
  5. 第五の益は、神にとっても人々にとっても愛されるものとなることであって、貪欲や貪食、霊的怠惰や嫉妬その他無数の悪徳からも自由になる。

倫理的宝を楽しまないためにすべきこと

  1. キリスト信者の注意すべきことは、断食や、施しや、償いなどの善業の価値を、それらの量や質に置かず、その中になくてはならない神の愛に置くべきである。そのようにすれば、喜びや楽しみ、慰めや、賞賛などに関心をもつことが少なくなる。そしてそれらが少なければ少ないほど、神への愛が、いっそう純粋かつ完全なものとなり、そうした行ないの価値が生みだされる。
  2. 善業をなすことや、その修業に通常伴う喜びや、慰めや、味わい、その他心ひかれることに、心を置かないこと。そのような行ないをもって神に仕えることを望み、自らを清め、喜びに対して心を閉じ、心を神に集中させていくべきで、それらの善業を喜び、ひそかに快く思われるのはただ神だけであるように望み、神のご光栄のためという以外、何の考えも心の糧とするようなことがあってはならない。
  3. この世において喜びや慰め、名誉とかその他のものを、その業のうちに求めるという害を避けるため、神だけがそれをご覧になり、他のものは気づかないよう、その行いを隠さなくてはならない。それをただ他人の目に触れないようにするだけではなく、自分自身に対してもそれを隠さないといけない。というのは、自分の行いが何か大きいことであるかのように考えて、いい気になったりしてはならないのであって、これは主が「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)と言われたことの霊的な意味である。つまり、霊的になす業を、この世的な目や肉の目をもってしてはならないということである。このようにして意志力が神に集中されると、その業が神の御前に実を結ぶようになる。

記憶から生じる弊害、それから離れることで得られる利益について

記憶から生じる知解や推理を用いることから生じる弊害

  1. 世俗的弊害
    世俗的弊害とは、知解や頭の働きがつくりだすさまざまな弊害のことで、例えば誤謬や、不完全、欲望、判断、時間の浪費、その他、多くの不純を霊魂のうちにつくりだすものなどである。そうした知解や頭の働きに席を譲るなら、多くの誤謬に陥り、真実が誤りに見え、確実なことが疑わしく見え、またはその反対のことが生ずる。なぜなら、われわれは、一つの真理にしても、それを根底から知るということは不可能だからである。また、聞いたり、見たり、触れたり、嗅いだり、味わったりするその中に、記憶をとどめるならば、その度に不完全が伴う。そこでは何かの執着が生ずる。そして、苦痛とか、恐れ、憎しみ、あるいは、むなしい希望や、はかない喜び、虚栄心などが出てくる。また、あれこれと心に思うことが少なからず出てくるのも当然で、他人の善悪について何かと記憶を働かさざるを得ないことになり、時に、悪いことがよく見えたり、善いことが悪く見えたりするものである。すべてのことについて記憶の目を閉じ、暗くしなかったならば、これらすべての弊害から誰も免れることはできない。もし、そうした知解に気をとめるなら、すべての弊害に打ち勝つことはできない。というのは、そうした知解には、無数の不完全なものや横着なものが入っていて、そのあるものは目につかないほど非常に細かく、知らぬ間に霊魂にくっつくものだからである。
  2. 悪魔からくる弊害
    悪魔は記憶から生じる知解や推理によって、霊魂に大きな力を及ぼすことになる。というのは、何かのイメージや知解や推理をもって、あれこれと次々に心を煩わせることによって、傲慢や貪欲や、怒りや嫉妬などで心を汚し、さらに正しからぬ憎しみ、むなしい愛を吹きこみ、さまざまの形で欺くことかできるからである。また、悪魔は、これらのことを、誤りがほんとうのように思われ、ほんとうのことが誤りにみえるように、妄想に刻みつけてしまうからである。要するに悪魔が、霊魂に対してなす大部分の欺瞞や悪は、むだな思い出をあれこれとめぐらすことによって入りこんでくるのである。
  3. 倫理的な善を妨げ、霊的善を奪いとる善の喪失
    われわれは何かを考えるごとに、その知覚に応じて多少とも動かされ、変化をうける。知覚が重苦しいものであれば、悲しみが生じ、快いものであれば、欲望や喜びが生ずるなど。したがって、その知覚の変化によって、あるときには悲しみ、あるときには憎しみ、あるときには愛する、というように心の乱れが生じることになる。これらのことを忘れるよう努めないならば(心の静けさから生みだされる)いつも変わらぬ一貫した態度を保つことができない。故に、それら知解が、倫理徳の宝をはなはだしく妨げるものであることは明らかである。そのようなことで埋められた記憶が、霊的な宝をも妨げることは、上に述べたことから明らかである。なぜなら、そのように変質した霊魂は、倫理的善の基礎をもたないため、その状態に止まるかぎり、霊的宝をうけとる力がないのであって、霊的宝は落ちついた平和な魂のうちにのみ刻みこまれるものなのである。その上、人間というものは、ひとつのことにしか注意を向けられないのに、いろいろのことにとらわれているなら、測ることのできないお方である神のために、自由であることはできない。

記憶から離れることにより霊魂がうける益について

  1. 第一には、心の平安と落ちつきとを、心ゆくまで味わうことができることである。というのは、思い出から生ずるいろいろの考えのため心が乱されたり、動かされたりしないため、その結果として、より大切な、良心と心の純潔をもつことができるからである。
  2. 第二の利益は、悪魔からくる数多くの示唆や誘惑や働きかけから逃れることができることで、悪魔は、思いや考えを通じて、多くの不純と罪を心の中に入れ、そこに陥らせるからである。したがって、そのきっかけとなる思いを捨ててしまえば、悪魔は霊魂に挑む通常の手段を失うことになる。
  3. 第三の益は、こうしたすべてのものを忘れ去り、心をひそめることによって、霊魂は、聖霊によって動かされ、かつ教えられるための心構えを保つことになる。なぜなら、聖霊は、「理性からはずれた考えからは、遠ざかるおん者である」からである(知1・5)。
  4. 記憶をからにすることによって、ただ煩悩からまぬがれるだけでも大きな徳であり宝である。なぜなら、それとは反対のことがらによって生ずる苦しみ、悩みは、煩悩を静めるために何の役にも立たず、それどころか通常ただ霊魂を傷つけるだけだからである。自ら心を乱すことは、何の役にも立たないことであり、いつも空しいことであるのは明らかである。いつも静かな落ちつきをもって、すべてを耐えしのぶことは、多くの善を得るために役立つだけではなく、同じ逆境にあっても、それらについて、よりよい判断を下し、適切な救いの手をさしのべることができる。もし、ただ、あれこれと考えたり思ったりすることなく、またそれらを忘れ去るだけではなく、聞いたり見たり交わりをもったりすることから、できるだけ身をひいているならば、人はこの平安を失うことはないであろう。というのも、われわれの本性はきわめて弱く、もろいものであるため、心を乱したり、気持を動かしたりするものがあれば、それらを思いだすことにより、つまずきにならないことはあり得ないからである。そこでエレミアは、次のように言っている。“記憶を呼びおこすときわが魂は痛みのために力を失う”(哀3・20)と。

記憶から生じる弊害をなくすためにすること

  1. 記憶の自然的知解というのは、聞く、見る、かぐ、味わう、触れるという体の五感の対象によって記憶が形づくることのできるもののことで、他のそれに類した形のものすべてを含む。これらすべての記憶のうちに残るもの、その形づくるものから全く離れ、虚しくなるため、いろいろ想像を働かせることのないように努め、何の跡も、思い出も残さないようにしなくてはならない。あたかも過去に何もなかったかのように、何もかも忘れ果て、すっかり空になってしまわなくてはならない。
  2. 神と一致したいならば、そうした形から、記憶を全くすて去ってしまわなくてはならない。なぜなら、神は、何かの形をとったり、何かはっきりとした概念としてとらえられるものではないのであるから、神ならぬすべての形のものから離れてしまわなければ、神との一致は不可能だからである。キリストのことばにもあるように、だれも二人の主に仕えることはできないのであって、神と、何かの形や明確な概念とを同時に結びつけることは不可能である。

神との一致のためには、すべてに対し赤裸となり、信仰の教えることを強く信じること。

信仰とは、人間の理解をはてしなく越える神そのものによって啓示された真理を信じさせるものであるので、あらゆる自然の光のかなたにあるものである。ここで信仰によって与えられる極度の光が、霊魂にとって闇になる。それは、あたかも、太陽の輝きがわれわれの弱い視力をつぶしてしまうと、他の光は太陽の輝きのため、もう光とは見えなくなるようなものである。それは、太陽の光があまりにも強く、われわれの視力を超えてわれわれの目を奪い、盲目にしてしまうからである。このように、信仰の光は、余りにも大きいため、理性の光を押さえ、打ち負かしてしまうのである。

神ならぬつくられたものは、いかなるものであれ、その働きや巧みさは、神の尺度にあうものでなく、また、それに至るものでもない。したがって信仰のよい導きを得るためには、地上的なものや、感覚的な低俗なもの、霊的な関連をもつ理性的な高い部分について目をつむって、真っ暗な状態にとどまらないといけない。そして神と霊魂との一致にふさわしい唯一で身近な手段である信仰に集中し、全く、しんから、しずかに落ち着いてしまわなければならない。

なぜなら、信仰と神との間にある類似は非常なもので、見られる神と、信じられる神ということのほかに違いはないくらいだからである。神が無限の御者であるならば、信仰も、やはり神を無限のものとして示す。また、神が三位であると同時に一体でいるならば、信仰もやはり、われわれに、神を三位にして一体のものとして示す。また神はわれわれの知性にとって闇であれば、信仰もまたわれわれの知性を盲目にし、またその目をくらませるものである。このようにして神は、すべての知性をこえた神的光りの中に、この信仰という唯一の媒介によって、われわれに自らをお示しになるのである。

したがって、信仰が深ければ深い程神との一致も大であるということになる。これが、聖パウロのことばで、「神に一致するものは、神を信じなくてはならない」(ヘブライ11・4)ということである。すなわち、信仰のみとなって、知性はその目を閉じ、闇の中にとどまっていないといけないということである。というのは、この闇の下において、知性は神と一致し、この闇の中に神は隠れているからである。

 精神の三つの能力(知性・記憶・意志)を完成させる対神徳(信仰、希望、愛)について

精神の能力である知性・記憶・意志は、信仰・希望・愛と関連していて、信仰は知性のうちに、希望は記憶のうちに、愛は意志のうちに、それぞれ生み出される。これら三つの対神徳は、精神の三つの能力のうちに空白をつくり出す。

信仰は知性のうちに不知の暗黒、希望は記憶を空にさせ、愛は意志において神ならぬすべてのものに対する愛着と楽しみを洗い落とす。

信仰は知性をもって理解できないことを告げるものである。聖パウロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11・1)といった。つまり信仰とは、望んでいることの事柄への確信、知性がそれを確実なものとして堅く信じるにしても、理性によって見出されるものではない。なぜなら、もし見出されるなら、それは信仰でなくなるからである。信仰は、知性を強くしてくれるが、それを照らし出すというよりも、暗黒にするものである。

希望は、記憶からこの世のこと、あの世のことなどすっかり忘れさせ、目を閉じさせる。希望とは、まだ所有していないものについてであり、聖パウロも「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」といっている。つまり、この徳も空白をつくり出す。それは、所有しているものではなく、まだ所有していないものに関するものだからである。

愛徳もまた、意志において、すべての事物から心を空白にさせる。というのは、愛徳は、われわれに、すべてに越えて神を愛する義務を負わせるので、われわれの愛着をすべて切り離さないと、神を愛することができないからである。

したがって、われわれは、この三つの能力の各々を、獲得にしたがってかため、それぞれを赤裸にして、それぞれを、対神徳以外のすべてのものに目を閉じさせて、この三つの精神能力を、三つの対神徳へと導いていかないといけない。これが精神の暗夜である。