ロザリオの神秘

聖グリニョン・モンフォールの「ロザリオの神秘を」を短くまとめたものです

ロザリオとは何か

ロザリオの祈りとは

ロザリオは、念祷と口祷の祈りとの二つからなっています。聖なるロザリオで念祷といえば、イエス・キリストと聖マリアのご生涯と、死と、栄光という、主となる奥義の黙想です。口頭の祈りは、天使祝詞の十五連を唱えることからなっており、各連はそれぞれに主の祈りによって先導されています。そしてこれを行っている間、同時にロザリオの十五の奥義に秘められているイエスとマリアが実践された主要な数々の徳を黙想し、観想するのです。はじめの五連では五つの喜びの奥義を、第二の五連では苦しみの奥義を、第三の五連では栄えの奥義を敬い、それらについて黙想します。ですから、ロザリオは念祷と口祷の祈りとの聖なる融合であり、これによってイエスとマリアとのこの世での数々の徳、死去、ご受難、及び栄えの奥義を尊び、模倣することを学びます。

ロザリオという言葉は、「バラの冠」を意味します。ロザリオを信心深く祈るたびに、イエスとマリアの頭上にたくさんのバラで編んだ花冠…主の祈りの赤いバラと天使祝詞の白いバラ…を、その人はおのせすることになるのです。天国の花ですから、これらのバラは決して色あせることもなければ、その絶妙な美しさを失うこともありません。ロザリオという名に満足された聖母は、数人の者に出現され、天使祝詞を唱えるたびに、彼らは聖母に美しいバラを捧げているのであり、完全にロザリオを一環唱えることで、バラの冠をお捧げすることになると明かされました。ロザリオ全一環は、バラの大きな花冠であり、五連のロザリオは小さいバラの花輪、もしくはイエスとマリアの頭上に飾る天国のバラの可愛い花冠です。バラは花の女王ですから、ロザリオはあらゆる信心のなかでも最高のものであり、従って最も価値があるものなのです。
注)口祷→言葉を唱えてする祈り。念祷→言葉なしに祈る時で、黙想と観想等に分けられます。黙想的な祈りとは、神やその愛、永遠性等について考えて祈ることです。観想的な祈りとは、神などを考えて祈るよりも、考えを少ししておいて、神やその愛等を味わって祈ることです。しかし、どの祈りにも「・・・について考える」作業もあれば、「味わう」こともあります。「黙想的な祈り」は考えることが主で、「観想的な祈り」には考えることが多少あっても、それを味わうことに重点があり、時間的にもそれが主になります。

ロザリオの起源

聖なるロザリオは、主として、また実際に主の祈りと、天使祝詞から構成されているので、それが使徒たちの第一の祈りであり、第一の信心だったことに疑いの余地はなく、使徒たちや弟子たちの時代から現在に至るまで、何世紀にもわたって、行われているのです。ただし、現在のロザリオの形と、こんにち使われている方法を受けたのは1214年になってからのことでした。ロザリオは、アルビ派(反ローマ教会の団体)や、その他の罪人を改心させる力強い手段として、聖マリアからそれをお受けした聖ドミニコによって教会に紹介されました。聖ドミニコがどのようにロザリオを聖マリアからお受けしたかというお話をお聞かせしましょう。人々の罪のゆゆしさが、アルビ派の改心を妨げていることに気づいた、トゥールーズの近くの森に身を隠し、三日三晩不眠不休で祈ったのでした。この間、聖ドミニコは、全能の神の御怒りを鎮めるために嘆き悲しみ、罪滅ぼしの厳しい苦行だけに打ちこんで過ごしました。この苦行があまりにも激しかったので、彼の肉体は酷く傷つき昏睡状態に陥りました。このとき、聖母マリアが三人の天使を伴って聖ドミニコのまえに現われ、「ドミニコ、この世を救済されるのに、聖なる三位一体がどんな武具をお使いになりたがっておられるかを知っていますか?」とお聞きになりました。「ああ、マリアさま、御子イエス・キリストの隣におられ、常に人間の救いの主となる媒介者でいられるのですから、あなたさまの方がはるかによくご存じでいらっしゃいましょう」とドミニコは答えました。すると聖母はこう言いました。「この種の戦いでは、攻撃の槌は常に新約聖書の礎石である旧約の霊妙な詩編集なのです。ですから、これらの頑ななものたちに近づいたら彼らを説き伏せたいなら、私の詩編集を説いてごらんなさい」。そこで、慰められたドミニコは立ち上がり、その地域の人々の改心を目指す熱意に燃えて、すぐさま大聖堂へ足を運んだのでした。たちまち、目には見えない天使たちが人々を寄せ集めるための鐘を鳴らし、聖ドミニコは説教を始めました。説教を始めた途端、すさまじい嵐が吹き荒れ、地面は揺れ動き、太陽は雲間に覆われ、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、皆、恐ろしさに縮み上がりました。それよりも、皆が震えおののいたことは、人目につく場所に飾られていた聖母の御絵を眺めていると、聖母が天に向かって両手を三度上げられ、ここにいる者たちが改心せず、生き方を悔い改めて神の母の御保護を求めようとしないなら、神の復讐を下してくださいと祈られたことでした。こうした超自然現象という手段によって、神は、聖なるロザリオという新しい信心をお広めになり、それをさらに多くの人たちに知らせることを願われたのです。聖ドミニコの祈りで、嵐はようやくおさまり、彼は説教を続けました。彼は熱心に注意を惹きつけないではおかない調子でロザリオの重要性と価値を説明したので、トゥールーズのほとんどの全住民がロザリオを奉じるようになり、今までの誤った信念を放棄しました。ほんの短時間で、その町には大改革がもたらされ、人々はキリスト教的生活を始め、間違っていた習慣を捨てたのでした。その後、聖ドミニコは残りの生涯をロザリオの説教に過ごしました。彼は、説教の他にも更に模範により、あらゆる都市で、田舎で、身分の高い者にも、低い者にも、学者たちにも無学な者にも、カトリック信者にも異教徒にもロザリオの普及に努めたのでした。

使徒信教

ロザリオについている十字架の部分で唱える使徒信教、もしくは使徒たちの象徴であるこの祈りは、全キリスト教徒の真理の聖なる要約です。信教は信仰の土台であり、基礎であり、全キリスト教徒と、永遠に続くすべての徳、全能の神をお喜ばせするあらゆる祈りの源となるものですから、大きな功徳のある祈りです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ11:6)。神に近づきたいと願う者は、何よりもまず信じ、そしてその信仰が深ければ深いほど、その者の祈りの功徳も大きく、力があり、さらに神の栄光を讃えることでしょう。「天地の創造主、全能の父である神を信じます」という出だしの言葉は、私たちの霊魂を清め、これらの言葉には、信仰と希望と愛とが込められているために、悪魔を敗走させる手段として実に効果があります。「神を信じます」と言うことにより、聖人たちは生前、あるいは臨終の時に訪れる誘惑、とりわけ信仰、希望、愛に関する誘惑に打ち勝ったのです。聖なるロザリオは、イエスとマリアの数多くの奥義を含んでおり、これらの奥義を私たちに明かしてくれる唯一の鍵は信仰なのですから、ロザリオを唱える時には、心を込めて使徒信教を唱えることから始めないといけません。信仰が深ければ深いほど、ロザリオの功徳もさらに深くなります。

主の祈り1

天におられる私たちの父よ
聖なる父は父親の中でも最も愛すべき方です。御父は、全能であられ、見事に世界をやりくりされています。そして御父の摂理は完全な愛に満ちています。天国は私たちの故郷であり、私たちはその跡継ぎです。御父は常にいつくしみ深く、救いにおいては限りない優しさを示して下さいます。ですから神は私たちの父であり、皆は兄弟姉妹です。これがわかれば、私たちは、神と隣人を愛し、この世のものから自分を引き離す理由を知るのに十分でしょう。私たちは天におられる父を愛し、私たちの愛を幾度も繰り返してお伝えしなければなりません。「天におられる私たちの父よ、全能の力で天地を満たしてくださるあなたは、どこにでもいらっしゃいます。栄光によって聖人の間におられるあなたは、永遠に救われない霊魂たちの間にもおられ、この世においても、信心深い人たちの内におられ、また忍耐によって罪人の内にもおられます。私たちが、あなたが私たちを無からお創りになった御父であられることを心に留め止め、そしてあなたの子供として生きていくことができますように」。

み名が聖とされますように
主の御名は聖であり畏敬の念を起こさせます。またセフィラムは万軍の主である神の聖性を常に賛美し、その声が天に絶えることなくこだましています。「全世界が、この上なく偉大であり、聖である私たちの神の特質を知り、崇敬することができますように、そして生きた信仰と、強い希望と、燃えるような愛徳によって神に仕え、神の栄光をたたえることができますように。また間違った信念を全部放棄することによって、すべての異教徒たち、また信仰を持たないもの全てに神が知られ、愛され、崇敬されますように。これらすべてが行われ、全人類が聖になるように祈ります。なぜなら私たちの神ご自身が、聖そのものだからです」。

み国が来ますように
「あなたの恩寵により、私たちの霊魂を治めてください。そうすれば、死後、私たちは完全で終わることのない幸福の内に、あなたの治められる御国で、あなたに会うことができるでしょう。主よ、私たちは、この幸せの来ることを固く信じていますし、それを願い、期待しています。聖なる父である神が、この上のない愛を持って約束してくださったのですから。その上、この幸せのために神の聖子と聖霊の功徳により贖ってくださいました。光であるお方が、私たちにそれを教えてくださったのです」。

み心が天に行われとおり地にも行われますように
すべては、神の摂理によって、神の計画にどおりに起こるようになっています。ですから、この世で神の御旨を妨げることのできるものは絶対にいません。それどころか、み心が天に行われとおり地にも行われますようにと唱える時には、この世で私たちにふさわしいと神が考えられたことすべてに、私たちは謙虚に喜んで従えるようにしてくださいと神に願っているのです。私たちはまた、ありとあらゆることを、聖人や天にいる天使たちのように、いつ何時でも、すぐさま愛をこめ、忠実に、神の聖なるみ旨に従える力を与えてくださいと神に願います。

私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
主は、私たちに必要なもの全てを(それが霊的なことであろうと、世俗の秩序であろうと)神に願うようお教えになりました。日ごとの糧を願うことによって、私たちは自分自身の貧しさと、全てにおいて至らないことを認め、あらゆる世俗の必需品は神の御摂理から来ることを知って神をたたえているのです。日ごとの糧という時には、生命を維持するのに必要なものだけを求めているのであり、贅沢品は当然含まれていません。今日の糧を求めるという、今日というのは、現在だけに関わっており、明日のことは神の御手に委ねているということです。また日ごとの糧を求めるとき、私たちには毎日神の助けが必要であり、神の助けと御保護とに完全に頼っていることを悟るのです。

私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。
私たちが犯す罪の一つ一つは、全能の神に対して私たちが負う負債であり、神の正義はまさに最後の1円に至るまで負債を払い切るよう要求されています。しかし、その負債がどんなに大きくても、私たちは心からの信頼を持って神に近づいていき、犯した罪に対し神の痛悔をもって祈ります。「天におられる私たちの父よ、心に浮かんだ罪と、言葉で犯した罪を赦してください。あなたの審判の御目にとって私たちを限りなく罪深いものとする、心の思いを実際に行いに移した罪と、怠慢を赦してください」。「あなたは心優しく慈悲深い私たちの神でいらっしゃいます。あなたへの従順と愛のしるしとして、私も自分を傷つけたものを忘れることにします。ですから思い切って次のようなお願いをさせてください。あなたの恩寵に対する私たちの背信を見逃し、どうぞこの世や悪霊の、また肉の誘惑に負けることのないようにお守りください」。

私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください 。
罪は災いであり、そのために一時的、また永遠の罰を受けることになることは承知しておりますし、そうなって当然ではありますが、そうならないように私たちを救ってください。

アーメン:(祈りは必ず聞き入れられます)
主の祈りの最後のこの言葉は大きな慰めになります。これは全能の神が、私たちの様々な嘆願の最後で、私達の願いを必ず聞き入れてくださると(まるで神は答えてくださっているかのように)保証する一種の証人の印であります。祈りは必ず聞き入れられます!あなたたちが願ったようになるでしょう。あなたたちは願ったことを確かに手に入れたのです。ここのアーメンという言葉が意味しているのはこういうことなのです。

主の祈り2

主の祈りの言葉の一つ一つは、神の完全さに対して私たちが払う称賛です。私たちは、父という御名で神の豊かさをたたえるのです。父よ、永遠にわたって、あなたは、あなたと同じ神である聖子をもうけられました。あなたと同質で永遠、同じ権能と至上善、上智を備えられた霊的実在を。あなたがたお二方は‥‥聖父と聖子であり、お二方の相互の愛が、これもまた神である聖霊を出されました。三つの神格に分れておられても、お一方の神でいられます。私たちの父、この言葉は人類の父であるという意味です。私たちを創造し、養い続け、また私たちを救ってくださったからです。神は罪人に対しては慈悲に富む御父であり、正義を愛する者にとっては友であり、天国で福楽をえているものたちには栄光に満ちた聖父でもあります。私たちが天におられると唱える時には、神という霊的存在の無限と広大さと豊かさを讃えているのです。神は、「在る。彼は在るというものである(出エジプト3・14)」と呼ばれるのも当然です。神は本質的に永遠に実在されます。なぜなら、神は全ての存在するものの本質であり、全存在の原因だからです。 神は卓絶したご自分のうちに、あらゆる存在の極点を所有しておられ、その本質により、存在により、またお力によってそれら全部の内におられ、しかもそれらの限界に縛られることがありません。私たちは天におられる、すなわち、「玉座につき、正義によって全人類を支配しておられるお方」という言葉で、この方の崇高さと、栄光と、威厳を讃えるのです。み名が聖とされますようにと唱える時には、神の聖なることを崇拝して、神の王権に敬意を表し、み国が来ますようにという言葉によって、天国で天使たちが神に従うように、この地上で人間達が神に従順であることを願いながら、神の戒律に頭を下げるのです。私たちは日ごとの糧を求めることで、神の摂理に信頼していることを示し、私たちの罪をゆるしてくださいと願う時には、慈悲をお与えくださいと神に懇願しているのです。私たちを誘惑におちいらせずと祈る時には、神の素晴らしいお力を頼りにしており、必ず悪からお救いくださいという私たちの希望によって神の至上善を信仰していることを表します。神の聖子はご自身のわざにより常に聖子に栄光を加えるとともに、聖父をたたえることを人々に教えるためにこの世に来られました。聖子は、自らの口からお教えになったこの祈りで、聖父を賛美する方法を私たちに教えられたのです。従って主の祈りを唱えるのは私たちの義務なのです。主が教えてくださった時の精神を込めて、うやうやしく、慎重にこの祈りを唱えなければなりません。

主の祈り3

注意をこめてこの神の祈りを唱える時には、祈りの言葉を声に出すたびに最も貴重なキリスト教徒の徳と言う行為を出来る限り表しているのです。天におられる私たちの父よと唱えることで信仰と、礼拝と、謙遜の行いをしています。み名が聖とされますようにと願う時には神の栄光に対して燃えるような熱意を示しており、御国が来ますようにと願う時には希望を表明しており、み心が天に行われる通り、地にも行われますようにという懇願により完全な服従の精神を示しているのです。私たちの日ごとの糧を願うことで、私たちは心の貧しさ、すなわち謙遜になることと世俗的なものからの離脱を実践します。私たちの罪をおゆるしくださいと願う時には罪に対しての後悔を表しています。私たちも人をゆるしますという願いでは、慈悲と言う徳を最高潮にまで示しています。私たちを誘惑におちいらせずという懇願で神に助けを願うことにより、 私たちは、謙遜と、思慮分別と、不屈の精神と表すのです。悪からお救いくださいと待ち望みながら、私たちは忍耐の徳を働かせます。最終的には、これらすべてのことを求めるということには、自分自身のためのみではなく、隣人や教会のため、神の真の子供としての義務を遂行し、全人類を包括する神の愛に包まれながら、神を模倣し、隣人愛の戒律を守っているということになるのです。口で言っていることと心で考えていることが合致し、私たちの意向が主の祈りの内に表現されているもろもろの願いと相違ないならば、その時こそ、この祈りを唱えることで私たちは全ての罪を憎み、神の掟を全て守っていることになります。神の存在の中に私たちの身を置き、 神の尊厳の偉大さによって私たちから無限に隔たっておられても、天におられる私たちの父よと心に思う時には、いつも圧倒的な畏敬の念に満たされるのです。 ひいては、主に対する恐れがうぬぼれをすっかり追い散らし、自分達は全くの無であることに気づいて、神の前に頭を垂れるのです。聖なる父のみ名を唱えるとき、私たちは、自分の存在は、生んでくれた両親に、また知識は、師と言う座にあり、神の生きたイメージであるために尊敬を払わないでいられません。ですから親や師に礼を失したり、苦痛を与えたりするようなことなど、考えられもしないことです。み名が聖とされますようにと祈るとき、神を冒涜するような気は微塵もありません。神のみ国を私たちの相続すべき財産だと心から考えているとしたら 、この世の物に執着するようなことはとてもできません 。私たち自身が必要としているのと同じ幸せを隣人達にも持てるようにと真心から神に願うならば、憎悪の念や、争いや、嫉妬の気持ちは消え去ってしまうことは言うまでもありません。また、日ごとの糧を神に願うとしたならば、富に囲まれた環境にはびこる暴飲暴食や、 好色を嫌うようになるのが当然でしょう。私たちは罪をおゆるしください。私たちも人をゆるしますと心を込めて神に願うなら、もはや怒りに身をまかせ、仕返ししてやろうなどと考えることがなくなり、悪に善をもって報い、敵を心から愛するようになります。誘惑に会った時、私たちを誘惑におちいらせずと神に願うことは、怠惰と戦い、心底悪い習慣を根こそぎにして、救いに至るための手段を求めていることを証明します。私たちを悪からお救いくださいと祈ることは、神の正義を畏れることであり、そうすることは真の幸福を与えてくれます。神を畏れることから分別が生まれ、神を畏れるということにより人間は罪を避けることができるからです。

天使祝詞1

天使祝詞は、聖処女についてカトリック神学が教えるすべてのことを短く切り詰めた要約です。それは賛美と懇願との二つの部分に分かれています。最初の部分は、マリアの偉大さを作り上げるに至ったあらゆる原因に触れ、第二の部分は私たちがマリアに願う必要があることと、マリアの完全さを通じて必ず叶えられる全ての願いを表しています。最も聖なる三位一体が、私たちにその一部分を現わしてくださり、その残りの部分は、聖霊に神感を与えられた聖エリザベトが付け加えました。聖なる教会は、聖処女が真の神の母であることを定義し、「神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も死をむかえるときも祈ってください」と唱えることで、神の母であるという、この栄光に満ちた肩書を備えられた聖マリアに祈りを捧げるように私たちに命じています。この全教会史の一番大きな出来事は、この世が救われ、神と人間との間に和解を取りもどしてくださった永遠のみ言葉の托身でした。聖マリアは、この途方もなく素晴らしい出来事の不可欠な道具として選ばれ、天使祝詞を受けられた時、その効力を発生されたのです。天使祝詞には、イスラエルの父祖たち、預言者たち、使徒たちの信仰と希望が見られます。その上、天使祝詞を祈ることで、殉教者たちに彼らの不動の意志の堅固さと力を、教会博士たちの賢明さを、迫害に屈することなく信仰を守った人たちと全聖職者たちの生涯の忍耐を与えてくれます。天使祝詞はまた、恩寵の掟の新しい賛美であり、悪霊を震え上がらせ、赤面させる賛歌です。天使祝詞によって、一人の乙女が神の母になり、御子が世に与えられました。その結果、古聖所いた正しい霊魂は、救い出され、空であった天の玉座に上げられました。その上、人間は、罪を赦され、恩寵を与えられ、病を癒され、死から蘇らされ、追放されていた故郷に戻され、いとも聖なる三位一体の怒りは和らげられ、永遠の生命を手にしました。つまり、天使祝詞は、天とこの世の架け橋である虹、神がこの世に与えてくださる憐みと恩寵のしるしなのです。

天使祝詞2

天使祝詞は、私たちが、いと高い方の栄光のために歌うことができる最も素晴らしい賛歌の一つです。天使祝詞によってご托身と救世のお恵みが生じたのですから、私たちもまた人間に対する神の計ることのできない優しさに対して、いとも聖なる三位一体に感謝するため、それを繰り返すのです。私たちは、救い主として、御独り子を私たちに与えてくださるほど、この世を愛してくださった父である神を賛美します。私たちは、聖子は人となられ、私たちを救ってくださった聖子を賛美します。私たちは、処女マリアのご胎内に主の御体を形作ってくださった聖霊を賛美します。そして、深い感謝の念を抱きながら、救いという最高の贈り物に対して、信望愛を示しながら「めでたし」の祈りを唱えないといけません。この新しい賛歌は、神の御母を称賛しており、直接マリアに向けて歌われますが、それにもかかわらず、いとも聖なる三位一体の栄光も讃えているのです。私たちがマリアを賛美するときには、神が創造されたもののなかで、一番完全な方を讃えているのですから、聖父なる神の栄光を賛美していることになります。また、イエス・キリストの御母を讃えているので、神の聖子の栄光も讃えることになります。さらにまた御母を聖霊で満たされることを讃えているので、聖霊の栄光も讃えているのです。また、私たちが、天使祝詞を唱えて聖母を賛美し崇めるときに、聖エリザベトの賛歌に聖マリアがしたのと同じように(下の注参照)、私たちの唱えた聖母への賛歌を、ご自身には何も残さず、すべてそれらを神に向けて賛美します。また、天使祝詞は、聖マリアにお捧げできる最高の賛美であり、最高の愛の表現でもあります。ある日、聖メクティルドゥが、聖母への愛を表現するために、今まで自分がしていたのよりも、更にすぐれた方法はないものかと思案しながら祈っていたときに、恍惚の状態になりました。聖母が、メクティルドゥに出現され言いました。「私の娘よ、天使祝詞によって私を神の母という高い位に挙げてくださったこの祈りを唱えることは、私を最も喜ばせることを知ってもらいたいのです。アヴェという言葉によって、神はその限りない力で、人祖の女性が屈服してしまったあらゆる罪や、それに伴う惨めさから護ってくださったことを、私に教えます。光の婦人という意味を持つマリアという名は、神が私を知恵と、天地を明るく照らす輝く星のような光で満たしていることを、私に教えます。恵みに満ちた方という言葉は、聖霊が溢れんばかりに聖寵を私に降り注いでくださるので、私も聖寵を願う人々に、自分を通じて豊かにそれを与えることができるのだということに気づかせてくれます。主はあなたとともにおられますと私に唱える時には、永遠の御言葉が私の胎内で托身された時の、言葉では表し尽くせない喜びを新たにしてくれます。あなたは女のうちで祝福されと私に唱える時には、私をこの最高の幸せにまで挙げてくださった全能の神の御憐れみを賛美することにつながります。そしてご胎内の御子イエスも祝福されていますと私に唱える時には、人類を救ったことのために崇められ、栄光を着せられる私の聖子イエスを見て、私と共に喜ぶのです」。

★注)(聖ベルナルドのマニフィカトの注釈)。エリザベトは聖霊の内的な照らしを受けて、若いいとこを神のおん母と認めた。感激した彼女の口をついて、賞賛と感嘆のことばがほとばしり出る。最も謙遜なマリアは、エリザベトのあらゆる賛辞を、ご自身には何も残さず、全て神に向けて言います。「エリザベト、あなたは主の母をたたえられますが、私の魂は主を崇めています。あなたは、わたしの声にあなたの子が胎内で喜びおどったと言われますが、わたしの精神は救い主である神によって喜びおどっています。あなたは信じた女(ひと)を幸いとおっしゃいますが、わたしの信仰と幸福は、慈しみ深い神が顧みてくださったからです。これから後、いつの代の人もわたしを幸いな者と呼ぶでしょう。主がいやしいはしために目をとめてくださったからです」

天使祝詞 誤ることのない基準

天使祝詞について、聖母から福者アランに告げられた三つの啓示

  1. めでたしの祈り(この世を救った天使祝詞)を怠慢から、もしくは気がないため、あるいはまたこの祈りが嫌いだからという理由で唱えないとしたら、それは十中八九、そういう人たちが近い将来、必ず永遠の罰を宣言される印だと言えます。
  2. この天使祝詞を愛する人たちは、彼らが救われる運命にあるという特別の刻印が確かに押されています。
  3. 聖マリアを愛する顕著な恵みと、愛をもってマリアに仕えるという恵みを神に与えられた人々は、手に入れた栄光の程度に準じて、マリアが天国で御子の側に彼らの場を決めてくださる時まで、聖母を愛し、仕え続けることに大きな責任を果たさなければならない。

異端者は、全員、悪霊の子であり、明らかに神の非難の印を身につけていますが、めでたしの祈りには恐れを抱いています。この者たちは今でも、主の祈りは唱えますが、絶対にめでたしを唱えることはありません。カトリック信者のなかで、神から非難の印を受けている者というと、ロザリオのことを(それが五連であろうが十五連であろうが)ほとんど考えていない人たちです。この者たちは、ロザリオを唱えることがないか、唱えたとしてもむやみに速度が速いとか、いい加減な唱え方です。天使祝詞、十五連、または五連のロザリオは、悪霊に騙されている者たちと、神の聖霊に導かれている人たちを見分けることができ、誤ることがない基準です。天使祝詞やロザリオを崇高な観想よりもはるかに下であると考え軽蔑するなら、その人は悪霊によって惨めにも道を踏み迷っています。天使祝詞は、神に救いを予定されている人々の上に天から降り注ぐ神聖な露です。天使祝詞は、その人たちがあらゆる徳性において成長できるように、驚くべき霊的な能力を彼らに与えてくれるのです。霊魂がこの祈りによって清められれば、人間の知性にいよいよ磨きがかけられ、心はますます熱意に燃え、霊的な敵を相手とする身の護りは一層強固となります。天使祝詞は、神の御言葉と結びつくと、たとえ生まれつきの能弁という才能がほとんどなくても、これ以上頑なな心はないという心をも感動させ、改心させる力が説教者に与えられるのです。

天使祝詞 恵みの数々

天使祝詞 恵みの数々 天の元后は、この世の思いやりに富んだ礼儀正しい人たちに勝って、感謝の念に溢れた誠実な方であります。他のあらゆる美点に優れていられるのと全く同じに、聖マリアは感謝のお気持ちにおいても私たち人間すべてに勝っています。ですから私たちが愛と尊敬をもって礼を尽くせば、聖母はそのお恵みでその挨拶のお返しをしてくださいます。聖エリザベトは神の御母の挨拶を耳にした瞬間、聖霊に満たされ、そのご胎内の子が踊りました。私たちが、適切に天使祝詞を唱え、イエスとマリアを愛し、賛美し、栄光を褒め称え、私たちが聖母の挨拶や、お恵みにふさわしい者になるならば、確かに私たちは、私たちの霊魂に注がれる恩寵と、霊的な慰めに満たされることでしょう。

幸運な交換  ルカ6・38には「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と記されています。これについての福者アランの説明を見てみましょう。「私が毎日、あなたに150個のダイヤモンドをあげると仮定してみてください。たとえあなたが私の敵であっても、私を赦すのではないでしょうか?私を友達のように扱い、あなたにできる限りあらゆる良いものを私に与えてくれはしないでしょうか?恩寵と栄光という富を得たいなら、聖処女に挨拶をして、御母を尊敬しなさい」。「母(聖処女)を敬えば富を蓄える」と集会の書3・5に記されています。それゆえ、毎日少なくとも50のめでたしを聖母に捧げなさい。…めでたしの一つ一つには15個の宝石の値打ちがあり、この世の宝を全部集めたものよりも聖母をはるかにお喜ばせするからです。また、聖母の寛大なお心から、とても素晴らしいものを期待できます!聖母は、私たちの御母であり、また友でもあります。宇宙の女王であられ、この世のすべての母親や女王たちが、今までに子供たちや臣下のものたちを愛した、その愛を全部まとめたよりもはるかに私たちを愛してくださいます。聖処女の愛徳は全人類の人間的愛を、また天使たちすべての愛ですらもはるかに卓越していると言った聖アウグスティヌスの言葉は確かにその通りなのです。ある日、聖ゲルトルーディスは、金貨を勘定しておられる私たちの主を幻で見ました。そこで、一体何をなさっているのですかと主にお尋ねする勇気を奮い起こして、そうすると、「あなたたちの唱えためでたしの数を数えている。この祈りで、あなたたちは天国の切符を買うことができるのだから」と主は御答えになったのです。

福者アランは、「ああ、聖マリアよ、あなたを愛する者すべてにこの言葉を聞かせ、心に味あわせてください」と次のように祈っています。私がめでたしを唱えるたびに、天の宮廷はそれを耳にして歓び、地の人々はその不思議さに、心を奪われる。私はと言えば、心は神への愛で、溢れんばかりとなります。めでたしを唱えるとき、わたしの内で信心が育ち、罪の後悔に掻き立てられる。めでたしを唱えるとき、胸の内にある希望は力を得、慰めが露のように、いよいよ数を増して、私の魂に降り注ぐ。めでたしを唱えていると、わたしの精神は歓喜に満ち、悲しみは薄らいで行く。めでたしを唱えていると…

この祝された祈りの甘美さは、あまりにも深いので、それをぴったりと説明する言葉が見つかりません。また、たとえその不思議さが歌われるときにも、それが神秘に満ち、あまりにも深淵なので、その奥底まではまだとても見抜くことができません。めでたしを構成している言葉はほんのわずかですが、驚くほどの神秘性に富んでおり、蜜よりも甘く、黄金よりも貴重なのです。私たちは始終めでたしの祈りについて心のなかで黙想にふけり、いく度もいく度も深い信心をもって祈らないといけません。

天使祝詞 説明

あなたは惨めな罪の状態に入りきっていますか?だとしたら聖母に救いを求め、アヴェと唱えてください。アヴェとは「私は最も敬いの心をもって罪の汚れのないあなたにご挨拶します」という意味です。こう唱えれば、聖母はあなたの犯した罪の災いからあなたを救ってくださいます。あなたが無知と過ちという暗闇のなかを手探りで進んでいますか?もしそうならば聖マリアに近づいて「めでたし、マリア」と唱えなさい。これは「めでたし、正義の太陽の光に浴された御方よ」という意味であります。その方はご自分の光を必ずあなたに分けてくださいます。あなたは天国に通じる道から外れていませんか?マリアの御名は「海の星」、「この人生の旅の間に私たちの霊魂という船を導いてくださる北極星」という意味でもあります。聖母は永遠の救いである港へあなたを導いてくださいます。あなたは悲しみの内にいますか?では、マリアの方を向いてください。マリアの御名は「この世の身を切るような苦痛で満たされている海が、今では天の最も清らかな歓びの海に変わっている」という意味でもあります。聖母は、あなたの苦しみを歓びに、あなたの苦悩を慰めに変えて下さいます。あなたは恩寵の状態を失っていますか?もしそうなら、神が聖なる処女に満たされている無数の恩寵を賛美し、尊び、次のように聖母に祈ってください。「あなたは恵みに満ちた方で、また聖霊のあらゆる恩寵に満たされておられます。ですから、あなたはこれらの恩寵を私に分けることができます」。あなたは神の加護を失い、一人ぼっちで孤独でいますか?それならマリアに寄り頼みこう祈りなさい。「主はあなたとともにおられます…主とあなたの一致は、聖人たちや義人たちと主の一致よりもはるかに高貴であり親密です。…その訳は、あなたは主と御一体だからです。また主は、あなたの御子で、その御肉体はあなたのお体であるからです。あなたと主は完全に似たものであり、御二方の相互の愛により、あなたは主と結びついておられます…あなたは主の御母でいらっしゃるのですから」。その次には「あなたは、いとも聖なる三位一体の寺院でいられますから、神の三つのペルソナがあなたと共におられます」と聖母に言いましょう。そうすれば聖マリアは、もう一度あなたを全能の神の御保護とお世話のもとに置いてくださいます。あなたは見捨てられた者で、神に呪われた状態ですか?それなら聖母に向かい、次のように祈りなさい。「あなたはその清らかさと、神の御子をお産みになられた豊かさにより、女と全人類のなかで祝されています。あなたの霊魂がこの世では聖寵のパンに、また後の世では永遠の栄光に満たされることに疑いの余地はありません。アーメン」。それから、次のように祈ってください。

今、お祈りください。「肉体も霊魂も共に聖であり、比類のない清さと永遠の信心で神に仕えられた聖なるマリアよ、あなたに卓越した聖性を授けた神の御母という偉大な地位によってあなたは聖であります。神の御母、この素晴らしい尊厳に、あなたはふさわしい特性を備えておられます。また、人類の御母として、私たちの擁護者、仲介者であり、神の恩寵の倉庫であり、恩寵を与えるのに適切な者と判断されるとすぐに、惜しみなく分配してくださいます。ああ、私たちの罪の赦しを、すぐにも手に入れてくださるよう、心からお願いします。そして神との和解させてください。あなたは常に憐れみに満ちておられますから、あなたの助けを必要としている罪人のためにお祈りください。罪人を決して軽蔑し、見放すことのないあなたは、罪人のためでないなら救い主の母となられることは決してなかったでしょう。今、この短い人生の旅路で、悲しみと不安に苦しんでいる私たちのために祈ってください。今、祈ってください。なぜなら以外に、確信をもてる時は、私たちにないからです。力ある冷酷な敵に昼も夜も攻められ、もだえ苦しんでいる私たちのために、今、お祈りください」。

死を迎える時も、お祈りください。「力衰え、精神は打ち沈み、霊魂と肉体が不安と苦痛とで弱り果てる恐ろしい危険に満ちた臨終のときも祈ってください。死のときに待っている天国か地獄に永遠に定める分岐点で、悪霊が私たちを罠にかけ、地獄に投げ入れようと全力を尽くしてきます。私たちのために祈ってください。そして、そのとき、あなたの惨めな子供たちを助けにきてください。心優しい憐れみの御母よ、罪人の助け手、避難所であるマリアよ、臨終のときに守ってください。私たちの告発者であり、その恐ろしい存在で、私たちを激しい恐怖で満たす敵、悪霊を、どうか遥か遠くに追いやってください。死の陰の谷間を進んでいる人生の小道を照らし、御母よ、どうぞ、あなたの御子の審判の席へと、私たちを導いてください。その席で私たちを見捨てず、とりなしてください。私たちを赦し、永遠の栄光の王国に入れてくださるよう御子にとりなしてください。そして、選ばれた、祝された者たちがいるところに、私たちも加えて下さい。アーメン。祈りは必ず聞き入れられます」

注)アヴェ(めでたし…この言葉はエワの名から来ている。アヴェを反対から読むとエヴァ『AVE⇔EVA』となる)

ロザリオ 十五の奥義

奥義とは、人知では理解の及ばない聖なることです。主イエス・キリストは神であられると同時に人でいられるために、主の御業はすべて神聖で天からのものです。いとも聖なる処女の御業は、聖処女が、被造物のなかで最も完全で・清いので、非常に畏敬されるべきものです。主の御業と、御母の御業は、聖霊が、それらの奥義を尊ぶ謙遜で素朴な人たちに顕された驚くべきことと、あらゆる類の完全さに満ちており、深く崇高な真理であるために奥義と呼ばれて然るべきなのです。イエス・キリストの御業は、また不思議な花とも呼ばれています。しかし、それらの御業の香りと美しさは、それらについて注意深く考え、勤勉で誠実な黙想によってそれらの花弁を開かせ、その香りを深く甘受するものにしか真価を見出せません。ロザリオは、私たちの主と聖マリアのご生涯を、お二方の数々の美徳と最も大切な出来事を表示する十五の奥義に分けています。これらは十五の劇的場面であり、その一つ一つの細部が私たちの生き方を導き、生気づけてくれるのです。それらは、この地上での人生を送っている間中ずっと私たちの足元を照らし導いてくれる十五本の燃え立つ松明です。それらはイエスとマリアを知ると同時に、私たちを知るために役立つ十五面の鏡であり、またお二方の愛の火を私たちの心の内に灯してくれます。また天上の炎で完全に私たちを燃え尽くすことのできる赤々と燃えている十五の竈(かまど)です。この素晴らしい祈りは、キリスト教徒の熱意を呼び覚まし、その心の中に聖なる主の愛を蘇らせます。聖母は福者アランに出現されて、「人々が百五十の天使祝詞を唱える時に、ロザリオは本当に役に立ち、私にとって素晴らしい贈り物となります。でも、この祝詞を唱えながら、イエス・キリストのご生涯と死とご受難について黙想するならば、さらに一層私を喜ばせることになります。これらの黙想はロザリオの祈りの魂なのですから」とお伝えになりました。

ロザリオの最初の部分は五つの奥義からなっています。第一の部分は聖処女に対する大天使ガブリエルのお告げです。第二は、従姉妹のエリザベトへの聖マリアの訪問です。第三はイエス・キリストのご降誕、第四は寺院での初子イエス・キリストの奉献とマリアのお清め。そして第五の部分は、ご両親が探し求めていた少年イエスを神殿の博士たちの中で見いだす場面です。これは全宇宙に与えた喜びのため喜びの奥義と呼ばれています。聖母と天使たちは、神の御子が托身されたとき、喜びに圧倒されました。聖エリザベトと胎内の洗者聖ヨハネはイエスとマリアの訪問を受け、喜びに満ち溢れました。天地は私たちの救い主の誕生の喜びに湧きました。聖シメオンは大きな慰めを感じ、聖なる御子を胸に抱き取った時、喜びに満たされました。神殿の博士たちは、彼らの質問に対するイエスの答えに驚嘆して舌を巻きました。また三日間行方がわからなくなっていた御子イエスを見出した時の、聖母マリアと聖ヨセフの喜びを誰が描写できましょう?

ロザリオの第二部は苦しみの奥義と呼ばれる五つの奥義からなっています。なぜならそれらの奥義は私たちに、苦しみに打ちひしがれて、心の傷に覆われ、侮辱と苦痛と苦悩に苛まれているイエスと聖母を私たちに見せてくれるからです。苦しみの奥義の第一は、ゲッセマニの園でのイエスの祈りと憂いで、第二は鞭打たれた主、第三は茨の冠を押し被らされたイエス、第四は十字架を担ってゴルゴダへ歩まれるイエス、そして第五は十字架につけられてカルワリオ山上で命を捧げられたイエスです。

ロザリオの第三部は栄えの玄義と呼ばれる五つの奥義から成っています。それが栄えの奥義と呼ばれる訳は、これを唱える時、私たちは勝利と栄光の内におられるイエスとマリアについて黙想するからです。その第一の奥義はイエス・キリストの復活であり、第二は主のご昇天、第三は使徒への聖霊降臨、第四は栄光に満ちた聖母の被昇天、第五は天使と人類との元后としての冠を受けられた聖母の奥義です。これらは神秘のバラの木に咲く十五輪の香り高いバラであり、信心深い者たちはその花の蜜を集めて堅固な信仰をつくりあげるために、賢いミツバチのようにそれらの花々に向かって飛んでいくのです。

キリストに倣うこと

キリスト教徒の主たる関心は、完成に向かうことです。聖パウロは「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と述べています。この義務は、永遠の栄光に到達する私たちの運命について神に定められた唯一の手段として、永遠の神のご意志の内に含まれているのです。私たちを芸術家に例えるならば、私たちの霊魂は自分たちで絵を描き込まねばならない空白のキャンバスであります。その絵に使用する色彩とはキリスト教的美徳であり、私たちのモデルは、聖父なる神の完全さで生きたイメージであるイエス・キリストでなければなりません。立派な制作をものにしたいという願う肖像画家がモデルを前にして、一筆絵筆を動かす前に必ずモデルを見るのと同じように、キリスト信者は常に目の前にイエス・キリストのご生涯と美徳とを思い描いていなければいけません。そうなれば、モデルに調和しないようなことを口にしたり、心に思ったりすることは決してないでしょう。聖母は、私たちの救いを実現するという偉大な責任を果たす援助をしたいとお思いになったので、イエス・キリストのご生涯についての奥義を黙想することを信徒たちに教えるよう聖ドミニコにお命じになりました。聖母がそうなさった訳は、信徒たちがイエスを、ただ崇拝し、栄光を帰するだけではなく、何よりもイエスの美徳に自分たちの生き方と行いとを模倣させるためだったのです。子供というものは両親を見守り、話しかけることを通して彼らを模倣し、親が話すのを聞いて言葉を覚えます。徒弟は仕事をしている主人を見守ることで仕事を習い覚えます。それと同じことで、聖なるロザリオの信心に忠実な者は、イエス・キリストのご生涯の十五の奥義に示されているキリストの美徳を謙虚に覚えようと努め模倣するなら、神なる主に似た者となることができるのです。キリストの恩寵の助けと聖母マリアの執り成しにより、これらを行うことが可能となります。昔、モーセがユダヤの人々に、彼らの上に降り注がれている恩寵を決して忘れてはならないと命じるよう神からの啓示を受けました。それならば、神の御子にはご自分の生涯、受難と死と奥義を私たちの心に刻み込み、常に私たちの目の前に思い描くようにお命じになる更に大きな理由がおありになるはずです。なぜなら、一つ一つの奥義は特別な形で私たちに主の美徳を思い出させてくれますし、イエスが私たちのために途方もない愛と望みとを示してくださるのはこれらの奥義だからです。主は私たちに「通り過ぎて行くすべての者よ、しばらく立ち止まり、私があなたのために体験した苦しみほどの苦しみが今までにあったかどうかを考えてみるがいい。私の貧しさと、私の受けた辱めを心に留めて欲しい。激しい受難の間に、私があなたたちのために飲んだ苦味の混じったブドウ酒のことを考えて欲しい」と言われるのです。ここに出ている、またこの他にも多くのキリストの御言葉を聞けば、ロザリオを唱える間には、ただ、口頭で主と聖母を賛美するだけでは足りず、聖なる奥義について黙想すべきであるのを十分に納得する筈です。

記念

私たちの魂の神聖な伴侶であり、ご自分の完全性とすべての賜物を私たちが覚えていることを望んでおられる親しい友人、イエス・キリストは、その賜物を大切にすることを私たちに求めておられます。信心深く愛をもって、ロザリオの奥義を黙想する時にはいつも、主は思いもかけないほど喜んでくださるのです。聖マリアと天国の聖人たちもまた同じように喜んでくださいます。これらの奥義は、私たちに対する主の愛の最も顕著な成果であり、ひょっとすると主が私たちにお与えになれる最も素晴らしい賜物かもしれません。という訳は、そうした賜物の美点によって、聖母ご自身も諸聖人たちも天国の栄光に浸っていられるからです。

ある日、ある聖人が主に、一番主を崇めることのできる宗教的実践は何か教えてくださいとお願いしました。すると主は、十字架にかかったお姿で現れ「私の娘よ、私の傷を見なさい」とおっしゃったのです。聖人は、その時、主の御苦しみについて黙想することが何よりも主をお喜ばせするということを悟りました。主は、さらにご自分の傷を、またその他の苦しみをお示しになって、「私は、あなた達をすくうために、こうした苦しみすべてを忍んだ。この私の愛に、どう報いることができるのか?」とお尋ねになりました。

ミサ聖祭の生贄はイエス・キリストの受難を表し、これによって父なる神に主の服従と受難と聖なる御血の功徳とを捧げられたように、いとも聖なる三位一体に限りない崇敬を捧げることです。天の全宮廷もミサ聖祭からこの上もない喜びを受けます。そして天国にいる祝せられた全ての者は、信徒たちの聖体拝領による一致に歓喜します。なぜなら聖体の秘蹟はイエス・キリストのご受難と死の記念であり、この手段によって人類はその成果に与り、救いを達成するからです。

ですから、聖なる奥義について黙想をしながら唱えるロザリオは、人類の救いという素晴らしい恩寵に対して神に感謝するために、賛美の捧げ物となります。ロザリオは、またイエス・キリストの受難と、死と栄光とを思い出させるものです。それゆえ、ロザリオが主と、聖母と、すべて祝された者に栄光を帰し、大きい喜びをお捧げすることになるのに間違いはありません。なぜなら、主と聖母と聖人たちにとっては、私たちが、主には大いなる賛美となり、私たちは大変な益となるロザリオという信心業に携わることほど私たちの永遠の幸せに役立つものを他には望み得ないからです。

福音は、改心し痛悔する罪人は天使たちをすべて喜ばせると教えています。ただ一人の人間の悔い改めと改心とが、天使をそれほどまでに歓喜させるのに足りるとするなら、この地上にいる人類がこぞって深い信心を持ち、主の謙虚さと苦悩、また主の残酷で不名誉な死について黙想するのをご覧になる天の全宮廷の喜びはどれほどであり、聖なる主に対するどんなに素晴らしい賛美となることでしょう!ロザリオほど私たちの心を感動させ、心から誠実な痛悔へと導くように造られたものが他に存在するでしょうか?

ロザリオの奥義について黙想することのないキリスト信者は、主への恩義を少しも感じておらず、この世を救うために神なる主が耐えてくださったすべてのお苦しみを気にもかけていないのです。こういう態度の者は、イエス・キリストのご生涯についてほとんど、いや、なに一つ知らないのを示しており、主のことを深く知ろうという努力…人類を救うために主が何をしてくださり、どんなことを経験されたのか…を全くしていないように思われます。このタイプのキリスト信者は、イエス・キリストについて無知であること、もしくは主のことを頭と心から締め出していることに不安を感じてしかるべきです。主は、最後の審判の日にその者を否認され、難色をあらわにされて「はっきり言っておく。わたしはお前を知らない」(マタイ25・12)と言われるでしょうから。ですから、そうならないように、聖なるロザリオという手段を使い私たちの主のご生涯と、受難について黙想しましょう。最後の審判の日に、主が私たちをご自分の子たちや友として扱ってくださるように、主をよく知り、主のすべてのお恵みに感謝するようにいたしましょう。

完成の手段

聖人たちは、常に主のご生涯を彼らの思考の第一の目的とし、主の愛徳とご受難を黙想し、こうすることでキリスト教徒としての完成に到達しました。聖ベルナルドは、ひとたびこの黙想を始めると必ず続けて行いました。「私の改心はまさに当初に、私は救い主のお悲しみを集めたミルラ(没薬を作る原料で香気のあるカンラン科の植物)の花束を作り上げ、ご受難の時の鞭の痕や茨や釘のことを考えながら、この花束を私の心の上に置きました。そして自分自身の全精神力を振り絞り、これらの奥義を黙想したのです」とベルナルドは言いました。聖なる殉教者もまた、これと同じ実践をしたのでした。彼らがいかに見事に彼らの受けた残酷な苦しみに打ち勝ったかを、私は知っています。聖ベルナルドは、殉教者たちの驚くべき志操の堅固さは唯一の源から、つまりイエス・キリストの御傷に関する黙想という源から湧き出ていると述べています。殉教者たちは、キリストの競技者であり、選手たちです。血がほとばしり出て、彼らの体がひどい拷問で打ち砕かれている間、彼らの魂は主の御傷のなかに潜んでいました。主の御傷が彼らを不屈にしたのです。

全生涯を通じて、聖母の第一のご関心は聖子の愛徳とご受難について黙想することでした。聖子のご降誕に際して、天使たちが喜びの賛歌を歌うのを耳にされたとき、また羊飼いたちが馬屋のなかの聖子を拝むことを目にされたとき、聖母のみ心は驚きに満たされ、これらすべての驚異すべきことについて黙想されました。聖母は、托身された御言葉の偉大さを、イエスの深い謙遜さと、ご自分を低められたそのなさり方を比べ、藁(ワラ)に満たされた飼い葉桶のなかの聖子と、天国での聖子の玉座である永遠の聖父の懐におられる聖子についてお考えになりました。聖母は神の御力と赤子の弱々しさ、神の上智と単純さ、を比較されたのでした。ある日、聖母マリアは聖ブリジットに言われました。「私の聖子の美点と、謙遜と、上智に関して黙想するごとに私の心は喜びに満たされます。また残酷な釘で刺し貫かれたわが子の手足のことを思う度に身を切られるようで、私の心は悲しみと痛みとに引き裂かれました」と。主のご昇天の後、聖母は残りのご生涯を、たびたび、聖子が足跡を残されたところ・御受難によって聖とされた数多くの場所を訪れられました。それらの場所に行かれるとき、聖母は主の限りない愛と、その恐ろしいご受難を黙想されたのでした。

マグダラのマリアは、生涯の最後の三十年間をサン・ボームの祈りの隠遁所で暮らしている間、こうした信心業だけに専念しました。聖イエロニモは、これら聖なる土地の信心は、教会の初期の世代の信者たちの間で広く普及されたと述べています。彼らがキリストのご降誕と、御業と、ご受難と死とによって聖とされていた場所や物を見ることで、救い主の無限の愛と記念とを、彼らの心にさらに深く印象づけるためにキリスト教世界のあらゆる所から聖地へ巡礼しました。全キリスト教会は、唯一の信仰を奉じ、各人が天国の福楽を望みつつ、同じ神であるお方を崇めています。彼らの仲介者はイエス・キリストだけですから、神の模範であるこの方に倣わないといけません。そのためにキリストのご生涯の奥義と、美徳と、栄光とを黙想しなければならないのです。

司祭たちや聖職者、またこの世の騒がしさから身を退いている隠遁者だけが私たちの信仰の真理と、イエス・キリストのご生涯の奥義について黙想する義務があると思うのは大変な誤りです。司祭たちや聖職者たちに、彼らの召し出しのふさわしい生き方をするために、聖なる宗教についての偉大な真理を黙想する義務があるとするなら、その義務は在俗信者たちも全く同じにかかっているのです。…彼らもまた、自分たちの、自分たちの霊魂を失うかもしれない霊的な危機に毎日遭遇しているという事実がその理由です。従って、在俗信者たちは、ロザリオの十五の奥義に見事に示されている、聖なる主のご生涯、美徳、ご受難について始終黙想することで武装すべきです。

清めという貴重なもの

聖なるロザリオに込められている救い主の生涯と死と栄光に輝く物語ほど人の心に感動を与えるものは、この世全体を振り返ってみても他には決して見つからないでしょう。十五の奥義の劇的場面の中で、主の生涯という主要な奥義が私たちの目前に展開されます。また、主の祈りや天使祝詞よりも優れた崇高な祈りが一体他にあるでしょうか?私たちが求めること・必要なことのすべてが、この二つの祈りの中に表現されているのです。奥義についての黙想しながら行うロザリオの祈りは、あらゆる祈りの中でも一番易しいものです。それというのも、主イエス・キリストの多岐にわたる美徳と奥義を黙想することで精神を強め、心が散漫になるのを避けるのに役立つからです。これらの奥義は最も深遠な教義の源ですが、その中に私達でも十分に理解できる教えを見出します。

観想生活の最も高度な状態に進む前に、私たちはこの易しい黙想の方法を身につけなければなりません。私たちは、聖なるロザリオの祈りのなかで、十五に分けられたあらゆる美徳を黙想し、その黙想のなかで主イエスとマリアを模倣することで、いわば戦場を体験すべきです。 こうすることこそ、人間が神との身に親密な一致に到達する道であります。なぜならば、この一致がないなら、観想は人を惑わせる危険な幻覚の他のなにものでもないからです。

主の祈りと天使祝詞よりも優れた祈りができると考えることは、悪霊の奇妙な幻覚の犠牲となることです。この二つの天の祈りは、私たちの霊魂の支えであり、力であり、保護してくれるものです。神とのさらに完全な一致を求めるという口実を設け、自ら進んでロザリオを唱えるのをやめてしまうのは非常に危険であると思ってください。時々、言葉にできないほど自尊心が強く、崇高な感想生活の高みまで行き着いたと考える者がいます。しかし、その人は、白昼横行する悪霊に欺かれ、自分は今までよりももっと優れた方法を見つけ出したと考えるために、以前行っていた信心を捨ててしまうのです。そして、ロザリオは劣っており、ありきたりで単なる並の信者たち向きだと思うようになります。しかも、この手のものは、大天使が教えた祈りと挨拶にも、また神がお作りになり、私たちに教えてくださった祈り『だからこう祈りなさい。「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように…』(マタイ6-9)にすら故意に耳を貸そうとはしないのです。この状態に達すると、そうゆう者は最初の幻覚からさらに一層大きな幻覚に流され、いよいよ危険に陥ります。

敬愛するロザリオ信人会の信者たちよ、悪霊が祈る者に仕掛ける罠にかかることなく、祈りの高い水準に達したいと純粋に望むなら、毎日ロザリオ一環を唱えるか、少なくとも五連を唱えるようにとお勧めする私の言葉を信じてください。神の恩寵により、すでに高い水準の祈りに到達しておられるなら、また、その状態に留まりたいと願い、ロザリオを通じて謙遜の徳を養いたいなら、聖なるロザリオを唱え続けるようにしてください。毎日ロザリオを唱えるもので、本物の異端者になったり、悪霊に道を踏み惑わされたりするものは決していないからです。

卓越した祈り

あなたが何をなさろうと、ロザリオについて語るときに始終言及されるローマのある婦人のようになってはなりません。その人は確かに信心深くありましたが、我意を通すという欠点がありました。彼女はあまりにも敬虔で 信心に熱烈なあまり、自分の聖なる生き方を盾にとって教会の最も厳格な聖職者でさえも赤面させたのでした。この婦人が、ある時自分の霊的行き方について聖ドミニコの助言を仰ぐことに決め、彼に告解を聞いてくれるように頼みました。聖ドミニコが償いとして彼女に与えたのは、ロザリオの一環であり、それを毎日実行するよう勧めました。すると婦人は、自分は毎日ローマにある指定された教会の巡礼という信心業を実行しているし、袋地の粗服と毛衣とをまとい、週に数回は自分に苦行を課し、その他にも数多くの贖罪の業を行なっており、厳しい大斉も守っているのでロザリオの祈りを唱える時間がないのを言い訳に、その勧めを辞退しました。聖ドミニコは自分の助言に従いロザリオを唱えるよういくども繰り返して勧めましたが、 婦人はどうしてもその勧めを聞こうとはしませんでした。彼女は、全く自分の好みに合わない信心業を行うよう熱心に説得しようとするこの初めての指導者のやり方にすっかり恐れをなし、告解室を出たのでした。

後日、祈っている間に、その婦人は恍惚状態となり、主の最後の審判の席の前にいる自分の霊魂の幻を見ました。聖ミカエルが彼女の償いの全てとその他の祈りとを秤の一つの皿にのせ、彼女の全ての罪と不完全さともう一つの皿にのせました。すると、婦人の立派な信心業をのせた皿よりも彼女の罪と不完全さとをのせた皿の方がはるかに重かったのです。恐怖にかられた婦人は、やさしさに満ち、思いやりにあふれた代弁者である聖母に憐れみを求め、 御助けを願いました。聖母マリアは、その婦人が償いのために唯一度だけ唱えたロザリオを受け入れてくださり彼女の善行の皿の上にのせてくださいました。この一環のロザリオの重さ大変なもので、婦人の全信心業ばかりではなく、彼女の全罪業よりも目方がかかったのです。聖母はその時、ご自分の下僕、ドミニコの勧めに従わず 、毎日ロザリオを唱えるのを断ったことで婦人をお叱りになりました。その婦人は我に返ると大急ぎで、聖ドミニコのもとへ駆けつけ、その足元にひれ伏して自分の身に起きた一部始終を話し、信仰のなさの赦しを乞うとともに、これからは毎日忠実に、ロザリオを唱えると約束しました。そしてロザリオにより、彼女はキリスト教の完成に、またついには 永遠の命という栄光に到達したのです。祈りの人々である皆様、いとも聖なるロザリオを、奥義について黙想とともに唱えるとき、その信心の力と価値と重要性とがいかに途方もなく大きなものであるかを、この話から納得してください。

天使たちによって日々、天国へあげられ、また主ご自身と聖母の御足元で教えてをいただく特権を持っていたマグダラのマリアと、同等の高い祈りの段階に到達する聖人はまずいません。にもかかわらず、ある日マグダラのマリアが、神の愛に進歩し、完成の高みに到達する確実な方法を教えてくださいと神に願ったとき、神は彼女に、完成に達するには主の受難について黙想する以外に道はないと告げられるため、ご自分の代わりに大天使ミカエルをお遣わしになりました。聖ミカエルは、マグダラのマリアのこもっている洞窟の前に十字架を置き、彼女が実際に目撃した悲しみの奥義を黙想しながら、その前で祈るように彼女に告げました。

聖フランシスコ・サレジオは彼の時代の素晴らしい霊的指導者でしたが、彼の模範を目にするとロザリオの信心会に加われねばという気持ちに駆り立てられます。というのも、聖フランシスコは偉大な聖人であり、その彼が一日も欠かさずロザリオ一環を唱えるという誓いで自分を縛っていたからです。 聖シャルル・ボロメオも毎日ロザリオ一環を唱え、その信人業を彼の司祭たち、神学校の教育者たち、また全信徒たちに強く推薦しました。聖ピウス五世は、今までに教皇を治めた教皇の中でも最も偉大な教皇の一人ですが、毎日ロザリオを唱えました。聖イグナチオ、聖フランシスコ・ザビエル、その他にもその名を挙げていない数を多くの偉大な人達が聖なるロザリオに深い信心を持っていました。この聖人たちの手本に従いましょう。そうすれば、あなたの霊的指導者たちは喜んでくれるでしょうし、あなたがこの信心から受けた恩恵について気づいてなかったとしたら、真っ先にこの信心業を行うように勧めることでしょう。

恩恵

実に多くの偉大な人たちが実践していたこの信心業を受け入れるためにさらに多くの理由を述べたいと思います。奥義を黙想しながら唱えられたロザリオは、次の7つの素晴らしい結果をもたらしてくれます。

  1. イエス・キリストについての完全な知識を徐々に与えてくれる。
  2. 私たちの霊魂を清め、罪を洗い流す。
  3. あらゆる敵に勝利を収めさせてくれる。
  4. 徳を実践することを容易にする。
  5.  聖なる主の愛で私たちの心を燃え立たせる。
  6. 恩寵と功徳とで私達を富ませてくれる。
  7. 神と同胞に対する私たちの負債をすっかり支払うのに必要なものを与えてくれ、ついには全能の神からあらゆる主の恩恵を得る。

 

イエス・キリストについての理解はキリスト信者の知識、救いの知識である。聖パウロは価値と完全性において、それは人間の全知識を超えている(フィリピ3・8参照)と述べています。まさにその通りであります。その理由は次の3つです。

  1. その対象の尊厳のために。即ち神人に比べれば、全宇宙は単なる水滴か、一粒の砂に過ぎません。
  2. 私たちの助けとなるために。 一方、人間の知識は、煙や自尊心という空で私達を満たすのに過ぎません。
  3. 最後に、その完全な必要性のために。というのも、イエス・キリストについての知識なしでは救われるものは皆無だからである。しかし、その他の知識を全く持たないものは、イエス・キリストについての知識で照らしを受けている限り救われます。

 

キリストの生涯と死と受難と栄光について黙想することにより、私たちの主に関する知識と理解を与えてくれるロザリオが祝せられますように。ソロモンの知恵に感嘆のあまり我を忘れたサバの女王は「あなたの民は祝せられますように。常にあなたの御前にあって、あなたの知識に耳を傾ける者たちは祝せられますように」と声をあげました。しかし、救い主の御生涯、美徳、受難および栄光について注意を集中して黙想する信徒たちは、それよりもさらに祝せられた幸せな者です。なぜなら、こうすることで彼らは永遠の生命の内にある完全な理解を得られるからです。「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」 と聖ヨハネは言いました (ヨハネ17・3)。

聖ドミニコがロザリオについて説き始めるとすぐに、頑なな罪人が心打たれ、自分たちの犯した大罪をひどく嘆き悲しみ始めました。年若い子供たちが信じられない償いを行い、ドミニコが聖なるロザリオを説くところではどこでも、罪人たちが生き方を改め、償いをし、心を変えることによって人々を教化するという宗教的熱情が沸き起こりました。偶然あなたの良心が罪に苦しめられているとしたら、 ロザリオを取り上げ、主イエス・キリストのご生涯、受難、栄光の奥義のいずれかを崇敬しながら、少なくともその一部を唱えなさい。そうすれば必ずそれを行っている間にイエスは天に座す聖父に聖痕を示してくださるでしょう。主はあなたのために弁護してくださり、痛恨の心と罪の赦しを頂いてくださいます。

ある日聖母は、福者アランに「 気持ちに打ちひしがれた罪人であっても、ロザリオ唱えさえするなら私の受難の功徳にあやかり、私が擁護者となって聖父の義をなだめましょう」と言われました。この世は闘争と、連続しておそう誘惑の他の何者でもありません。そして、戦わねばならないのは地獄の悪霊たちです。彼らと戦う手段として、私たちの偉大な指導者である主が私たちに教えてくださった主の祈りと、悪霊たちを追い払い、世の中を一新した天使祝詞よりも力ある武器が他にあるでしょうか?救い主のご生涯、ご受難についての黙想よりも優れた武器があるでしょうか?

聖ペトロが言っているように、主が征服なさった、そしてまた日々執拗に私たちに言い寄る同じ悪霊に対して自己を防衛するために、私たちも武装しなければならないからです(1ペトロ4・1参照)。「イエス・キリストのご謙遜とご受難によってうち滅ぼされた時以来、悪霊はずっと主の御生涯の奥義についての黙想で武装しているものには攻撃を仕掛けることができかねています。また、そういう者を何とか悩まそうとしてみても、必ず面目を潰され打ち負かされてしまうのである。「神の武具を身につけなさい」(エフェソ 6-11)と福音にあります。ですから神の武具である聖なるロザリオで武装してください。そうすれば悪霊の頭を打ち砕き、あらゆる誘惑の前でもびくともしないでしょう。

ロザリオそのものが悪霊にとっては実に恐ろしいものなので、聖人たちがロザリオで悪霊たちをつないで今までとりついていた人たちの体外へ追い払ったという理由はここにあります。こういう出来事がひとつとは言わず、いくつもの信頼すべき記録から伝えられています。福者アランのある男は、彼にとりついている悪霊を追い払うために必死になってあらゆる種の信心業をやってみたがうまくいかないと、アランに話しました。そして福者アランは自分のロザリオをその男の首にかけることを思いつき、その知人に行いました。すると、そのおかげで、その男は随分楽になったのでした。その男はロザリオ身から離すたびに悪霊がひどく自分を苦しめているのに気付いたので、昼も夜もそれを離さないことに決めました。その他にも、福者アランは、ロザリオを首からかけることで、そう他にも悪霊に取り憑かれた数多くの人たちを救ったことを証言しました。

ドミニコ会のある神父は、一年間アラゴン王国で連続して四旬節の説教を行いました。その時に悪霊に取り憑かれた一人の若い娘が彼のところへ連れてこられました。数回悪魔祓いを行って不成功に終わった後、その神父は自分のロザリオをその娘の首にかけました。ところがロザリオをまだかけ終わらないうちに娘は悲鳴を上げ始め、恐ろしい形相で、「これを外せ!取り去ってくれ!このビーズがひどく苦しい!」と金切り声でわめきました。それで、娘を大層哀れんだ神父はとうとうロザリオを娘の首から外したのでした。その日の夜、その神父が床についた時、娘にとりついていたのと同じ悪霊たちが激怒して押し寄せ、神父を捕らえようとしました。しかし、彼は手の中のロザリオをしっかり握っていたので、もぎとろうとする悪霊たちの努力は無駄に終わりました。その神父は「聖なるロザリオの聖母、聖なるマリアよ、私を助けに来てください」と救いを求め、巧妙な悪霊になんとか打ち勝ち、追い払うことができました。その翌日、その神父は、まだ悪霊にとりつかれた娘に会いました。すると、娘の中に入った悪魔の一人が笑い始め、嘲った声で「おい兄弟よ、お前がロザリオさえ持ってなきゃ、さっさと片付けられたとこだぞ!」と言いました。それで、有徳の神父は、大した苦労もなくその娘の首にロザリオをかけてやり、「 悪霊たちよ、イエスの聖なるみ名と、聖なるマリアの御名前によって、また、最も聖なるロザリオのお力により、この娘の体から出て行くことを命じる」と宣告しました。すると悪霊たちは 、たちまちにして服従せざるを得ず、娘は彼らから 救われたのでした。これらの話は、悪霊がもたらす危険のあるあらゆる誘惑に、またあらゆる種類の罪に、打ち勝つ聖なるロザリオの力を示しています。これらの聖なるビーズには、悪霊を追い出す力があるのです。

有益な効果

聖アウグスチノは、 私たちの思いを絶えず救い主のお苦しみに向けることほど、実りの多い霊操は他にないと、実に力を込めて述べています。聖大アルベルトは、キリスト教徒は、ただ主イエス・キリストのご受難について考えるか、黙想するだけで、一ヶ月間、毎週金曜日にパンと水だけで小斉を行ったり、苦行として週に一回、血が流れ出るまで自分を鞭打ったり、毎日し編前章を暗唱することよりももっと功徳があるということを啓示によって知りました。その通りであれば、私たちの救い主の全生涯と受難を記念する聖なるロザリオで私たちの得られる功徳は、計り知れないほど大きなものとなるに違いありません。

ある日、聖マリアは、福者アランに明かされました。主のご受難の生きた記念であり、聖なる生贄を行う聖なるミサに次いで、聖なるロザリオの信心は優れた大きな功徳のある信心であり、ロザリオの祈りはイエス・キリストのご生涯とご受難を受け継ぐ記念であり、象徴と言えると。

聖マリアは、また福者アランに、「あなたに知っておいてもらいたいことがあります。私のロザリオを唱えることですでに多くの免償がついていますが、両膝をついて信心深くそれを唱える者たちには五十回のめでたしを唱える毎に、さらに数を多くの免償を付け加えます。もちろん大罪がないという条件のもとですが。また、黙想しながらロザリオ唱えるというこの信心をたゆまず続ける者のためには、それを行ったことで、私が臨終の時、罰と全ての罪の完全な赦しを受けてあげるという報いを授けましょう。そんなことはありえないなどと考えるような不信心であってはなりません。私は、天の王の母であり、王は私を聖寵みち満てる者と呼んでいるのですから、それを行うのは私にとって易しいことです。また私は、聖寵がみち満ちているので、愛する子供たちに、好きなだけ存分に恵みを分け与えることができるのです」とお伝えになりました。

聖ドミニコは、ロザリオとその素晴らしい価値と効力を確信していましたから、告解を聴いた時には、ロザリオの祈り以外の償いを与えることはまずありませんでした。この例はすでにローマの婦人に、償いとしてただ一環のロザリオを与えたとお伝えした話の中で既にご存知でしょう。聖ドミニコは偉大な聖人でしたから、他の聴罪司祭たちは、悔悛の秘蹟を受ける人たちに、ロザリオほどの効力のない他の償いを与えるよりむしろ、聖なる奥義について黙想とともにロザリオを唱えるように償いを与え、必ず聖ドミニコの例に従うのでした。

またロザリオを唱えている間、人々は、多くの他の信心に付随している無数の免償を受けます。イエス・キリストのご生涯とご受難についての黙想を伴うロザリオ祈りは、確かに主と御母マリアを非常にお喜ばせし、あらゆる恩寵を手にすることのできる非常に優れた手段です。それは自分のためにも、またその人のために祈りたいと感じている他の人たちのためにも、全教会のためにも捧げることができます。ですから、私たちに必要なことすべてを求めて聖なロザリオに向かいましょう。そうすれば、私たちの霊魂を救うために私たちが神に求め恩寵を間違えなくお受けできるでしょう。

称賛すべき結果

自分自身の目でこれらのことを目撃した福者アラン、 聖ドミニコの年代記、またその他の著者たちは、ロザリオの祈りがもたらした驚くべき改心について語っています。大きな罪を犯した人たち、男女とも、二十年、三十年、果ては四十年と言う長い年月、罪や、 口にもできかねる罪を重ねた罪人たちが、聖なるロザリオをたゆまず唱えたことで改心しているのです。 しかも、これらは以前、生き方を改めるようにどんなに頼んでも耳を貸さなかった者たちなのです!敬愛する読者よ、あなたがこの信心を実践し、周りに広めるのに力を貸すなら、どんな霊的読書空よりもロザリオからもっと多くを学べるとお約束します。その上、聖母が、聖ドミニコや福者アラン、また彼女が心から愛するこの信心を実践し、他にも勧めるもの皆に約束された通り、聖母から報われるという幸せに浴するのです。というのも、ロザリオは、人々にイエスとマリアの徳について教え、彼らを心の祈りへ、また救い主イエス・キリスト模倣するように導くからです。ロザリオは、人々に秘蹟を頻繁に受けることや、キリスト教的徳を真剣に身に付けること、またロザリオ通じて得られる多くの素晴らしい免償に関心を持つだけではなく、あらゆる種類の有益な活動を行うことを教えます。ロザリオの祈りから、どんなに豊かな免償が得られるかにあまりよく気づいてない人々が多いのです。これは数多くの司祭たちが 、ロザリオについての説教行うとき、免償のことにはほとんど触れていないからです。

それはともあれ、福者アランが述べているように、聖なるロザリオは無数の恩恵の根本であり宝庫であると保証するだけに留めておきましょう。その理由は、ロザリオによって

  1. 罪人達は赦され
  2. 渇き求めている者達は生き返り
  3. 拘束されている者は束縛から自由にされ
  4. 悲しんでいる者は幸せを見出し
  5. 誘惑に苦しんでいる者は安らぎを知り
  6. 貧しい者は救いを見出し
  7. 聖職者たちは心を改め
  8. 無知なものは教えられ
  9. 生者は思い上がりに打ち勝つことを習い
  10. 死者は(聖なる霊魂たち)とりなしの祈りによって彼らの苦しみを和らげられるからです。

ある日、聖母は福者アランに、「私は、私のロザリオを信心する者たちに、生きているうちは私の聖子の恵みと幸せを受けてもらいたいと思います。また臨終の時と死後には、彼らが頭に冠を受け、手には錫を持つ王のように、あらゆる隷属から解放されるよう願っています」とお告げになりました。アーメン。祈りは必ず聞き入れられます。

ロザリオの唱え方

純粋な意向

全能の神を喜ばせ、その御心を動かすものは、祈る時間の長さではなく、祈りへの熱意です。ふさわしく唱えるただ一つの「めでたし」は、心を込めないで唱える150回の「めでたし」よりも値打ちがあります。大部分のカトリック信者はロザリオを唱えます。15の奥義を黙想しながらのこともあれば、その中の5つ奥義だけを考える5連だけのことがありますが、とにかく全く唱えたことのない信者はまずいないでしょう。それなのに、罪に染まった生活をやめて霊的な生活に入ろうとする者が少ないのはなぜでしょうか?それは、ロザリオを、心を込めて唱えるべきなのに、心を込めず口先だけで唱えているからに違いありません。心から神をお喜ばせしたいと願い、もっと聖なる者になりたいならば、どう祈るべきかをじっくり考えることは大切です。

利益となるようにロザリオを唱えるには、まず恩寵の状態にいないといけません、少なくとも大罪を犯さないと完全に決意していなければならないのです。どんなに立派な活動も、祈りも、それらが大罪の状態でなされたとしたら何の効力もありません。従って、そうした好意は神をお喜ばせすることもなければ、永遠の命を手に入れる助けにもなりません。コヘレトの言葉に「罪人が賛美の言葉を口にするのはふさわしくない」と記されているのはそのためです。罪を悔い改めない人が、賛美を行っても神をお喜ばせすることはありません。イザヤはこう書いています。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。それは「私の信心会に加わって毎日ロザリオを唱えても(まあ5連が良いところでしょうが)、自分の罪を悔いようとしないものは、私をただ口先で礼拝を行っているだけで、彼らの心は私のことを思ってはいない」と述べているのと同じです。

神は、なによりもまず、恩寵の状態にある者たちの祈りしか聞き入れないというのが事実であるならば、それは、ひいては大罪をもっている者たちは祈るべきではない、ということに通じないでしょうか。いいえ、これは母なる教会に禁止されている誤った教えです。罪の状態をぬけ出し、罪を捨て去るために、罪人は祈らないといけません、いや、善人よりはるかにたくさん祈る必要があります。罪人が祈るべきではないという酷い教えが本当だとしたら、罪人たちにロザリオ一環を、いや、その一部分ですら唱えるように勧めるのは無益で徒労に終わることになるでしょう。

しかし、罪人たちが罪を捨てる気などさらさらないのに、聖母の信心会の一つに加わり、ロザリオか、その他の祈りを唱え続けようとしたら、その者たちは、偽の聖母の帰依者の地位に身を置くことになります。あつかましく、悔悛の情のないこれらの帰依者たちは、聖母のマントの下に隠れ、ロザリオを身につけたり、手にしたりして「聖なる処女よ、素晴らしい母よ、めでたしマリア!…」と声を上げます。しかし、それと同時に彼らは自分の罪によって、主イエス・キリストを十字架につけ、今一度主の肉を裂いているのです。それは大いなる悲劇であり、これをする者たちは、聖母の最も聖なる信心会の一員という地位から地獄の業火へと堕ちていくのです。私たちは、すべての人たちが、ロザリオを唱えるようになるのを願っています。正しい者は、たゆまずこれを続けることにより、神の恩寵が増すように、また罪人たちは罪から引き上げられるようにと。しかし、罪人が罪を愛するのを止めないならば、それでも聖母はご自身のマントでかばってくださる、などという考えを助長することを、神が禁じてくださいますように。そんなことをしても、そのマントはただ、罪ある者の罪を一般の人々の目から隠すだけであり、滅びのマントに変じるのに過ぎないのですから。人間のあらゆる癒しであるロザリオは、そのとき致命的な毒に変わります。ことわざにもある通り、「最も良いものが腐食したときには最悪なものになる」のと同じです。聖処女に近づくためには、天使のような汚れのない者となり、天使祝詞を唱えなければなりません。

ある日、聖母は、たいへん身持ちの悪いが毎日ロザリオを唱えることを習慣としている一人の男性に出現なさいました。聖母は彼に見事な果物の入った鉢をお見せになったのです。豪華な果物を盛った鉢は汚物にまみれていました。これを見ておじけづいた男に向かって聖母はおっしゃいました。「あなたが私を賛美している方法はこうなのですよ!見るも不潔な鉢に入れた馥郁たるバラを私に捧げているのです。こんな贈り物を受け取れると思いますか?」と。

注意を払って

よく祈るためには、あらゆる祈りの中で最も優れたロザリオという手段を用いて、私たちの嘆願に表現を与えるだけでは十分ではなく、心から集中して祈らないといけません。神は口先よりも心の声の方に耳を傾けておられるからです。祈りの間、勝手に気が散るままにまかせて罪を犯すことは、賛美と畏敬の念がひどく不足していることの表われであり、ロザリオの祈りを実りのないものとし、こういう祈り方をする者を罪ある者とします。私たち自身が自分の言っていることに注意を払わないなら、どうして神がその言葉に耳を傾けてくださることを期待できましょう?神の途方もないご威光の前に身を置きながら、そうしている間に、まるで蝶々を追いかけている子供のように気を散らしているのでは、どうして神に気に入っていただけるのを期待できるでしょう?こういう者は、全能の神の祝福を失うばかりか、「主の捧げ物を偽って行うものは災いなるかな」とエレミア書にあるように、不敬な祈りを捧げることで祝福は呪いに変わります。

もちろん、無意識に気の散ることが全くなしにロザリオを唱えるわけにはいかないでしょうし(悲しいことに私たちの想像力は、ほんのわずかな間も、おとなしくしていないのですから)「めでたし」一つまともに唱えることは難しいのです。しかし、故意に気を散らすことに屈服せずロザリオを唱えることは可能です。無意識に気が散る回数を減らし、自分の想像力を抑制するためのあらゆる予防策を講じることもまたできましょう。

このことを頭に入れて、自分を神のみ前に置き、全能の神と聖母が見守ってくださり、守護の天使が右手に立っていて、「めでたし」を満足に唱えられたなら、バラの花の形をしたその祈りを受け取って、イエスとマリアのための花冠を編み上げていくのを想像するようにします。しかし、左手には悪魔が隠れており、自分の方に向かって来る「めでたし」の一つ一つに飛びかかって奪おうとしており、成功すると、それを破滅的な地獄の記録帳に書き込もうとしていることを忘れないでください。

信心と畏敬の念を込めないで、いい加減に唱える「めでたし」を、悪魔がすべてひったくって行くのを避けることはできません。ですから、奥義の記念として各連を捧げることを覚えてください。また、それを唱えている間、それぞれの奥義に関連したイエスとマリアを心に描いてください。

福者ヘルマンの伝記には、彼がロザリオに集中して奥義を黙想しながら、敬虔にロザリオを唱えているときには、聖母が息を呑むばかりの威厳と美しさにまばゆく光輝いて出現されたと書かれています。しかし、時がたつにつれ彼の熱意が冷え、ロザリオを大急ぎで、しかも十分な注意を払わずに唱えるという風になったある日、聖母が再び彼の前に現れましたが、その時に限り聖母は美しいとはとても言い難く、そのお顔にはしわが刻まれ、しかも悲しみに顔をしかめられていました。福者ヘルマンが、聖母の御顔の変化に肝をつぶしていると、聖母は次のようにその訳をお話になったのでした。「この顔が語っているように、これがあなたに対して抱いている私の気持ちなのですよ、ヘルマン。今では、あなたは霊魂の中で私をさげすむべき女、何の価値のない女という風に扱っていますね。どうして以前のように、私の奥義を黙想し、私の受けている特別の恵みを賛美しながら、敬いの念と注意とを払って私に挨拶をしようとしないのですか?」と。

気が散ることと戦うこと

ロザリオがふさわしく唱えられると、それは、ますます、イエスとマリアに栄光を増し、しかもこの祈りには、他のどの祈りよりも霊魂のための功績となります。ただし、ロザリオの祈りは、とりわけ同じ言葉の絶え間ない繰り返しのせいで、どうしても気が散るのが避けられないために、適切に、また飽きることなく、唱えることが難しい祈りです。ロザリオ以外の祈りを唱えるときには、多様な言葉や表現のために用心深くなるので、想像力がさまよい出すのを防ぎ、適切に唱えることが容易なのです。これに反して、ロザリオの祈りは、形の変わることのない「天にまします」と「めでたし」とを絶え間なく繰り返すのですから、うんざりしたり、眠気をもようし、もっと面白味があって、飽きがこない祈りがしたいと考えないようにするだけで大変です。その大変さに屈さずロザリオを唱え続けるには、はるかに強い信心が必要です。

私たちの想像力は、ものの一分も大人しくはしていません。それがロザリオを唱えることを一層難しくします。その上、私たちの気を散らして祈りを邪魔し続けるのを絶対にあきらめることのない悪霊というものが存在します。私たちが悪霊に対抗してロザリオを唱えている間、なんとかしてそれを妨害しようとするのです。人間は、すぐに飽きてしまったり、いい加減になったりします。しかも悪霊たちは、ロザリオを唱えている間は、ますます、その傾向が強くなるように働きかけます。まだ祈り始めてもいない間から、うんざりさせ、気持ちを散漫にさせたり、疲れを感じさせたりするのです。そして祈りはじめるとすぐに、悪魔はこうした傾き全部を強めて祈る者を悩まします。大変な苦労をし、散々気を散らせて、やっと祈りはじめると、悪魔は「お前が、今、していることは何の役にも立たない。ロザリオを唱えても何の利益もない。他の信心業をどんどんやった方がいい。祈りに注意を払わないで祈っても、時間の無駄にしかならない。30分の黙想とか、霊的読書をした方がずっと役に立つ。明日、今ほど疲れていない時に、祈ろう。明日までロザリオをやめておこう」というのです。この手の策略で、悪魔は私たちにすっかりロザリオの祈りを止めさせるか、そこまでは行かなくとも、ほとんど唱えさせないため、ロザリオのことを忘れさせるか、何か別の信心に変えるよう仕向けます。

敬愛する皆様、悪魔の言葉には耳を貸さないで、ロザリオの祈りの間、想像があなたを悩まし、ありとあらゆる気を散らす想いで頭を一杯にしても、心を穏やかに保っていてください。そんな想いが浮かんだら、すぐ懸命に追い出すようにしてください。ロザリオの祈りは一番価値のある祈りであり、祈ることに骨が折れれば折れるほど、簡単に祈ることよりも一層価値があるのだということを、いつも忘れないでください。この祈りを、唱えるのが面倒に感じられ、たとえるなら、小さなアリがムズムズはい回る感触、ハエが飛び回る煩わしさを覚えて祈る気にならず、またロザリオの祈りの真の価値をわからない時には、なお一層難しいものです。たとえ、ロザリオを一環唱える間中、ずっと気が散り続けるのと闘わなければならなくても、手には武器であるロザリオをしっかりと握って敢然と闘ってください。唱えることが辛くて、まったく信心が感じられないとしてもこの祈りを止めてはいけません。それが、どんなに厳しい闘いか、私には痛いほど分かっていますが、忠実に闘う者は報われます。あなたの武器であるロザリオを手放して祈りをやめるならば敗北を認めたことであり、闘いに勝った悪魔は意気揚々として、あなたを置き去りにして姿を消してしますでしょう。しかし、最後の審判の時、神への不忠実さと、勇気が欠けていたことのために悪魔はあなたをあざ笑うでしょう。

「小さなことに忠実な者は、大きいことにも忠実である。小さいことに不忠実な者は、大きいことにも不忠実である」とルカの福音に記されています。ほんのささやかな祈りを唱える時でも忠実に、あくまでも気を散らすことと闘う者は、大きいことに対しても忠実です。このことは絶対確かなことです。ですから、主イエスと、聖処女マリアの下僕である皆さまは、毎日ロザリオを祈るという立派な決心を保つようにしてください。ハエ(ロザリオの祈りの最中に、あなたに気を散らすように闘いを挑んで来るものを、私はハエと呼んでいます)のためにイエスやマリアとのお付き合いを捨ててしますような臆病者になってはいけません。ロザリオを唱えている時、あなたは必ずイエスとマリアの御前にいるのですから。

効果ある方法

ロザリオがふさわしく祈れるように聖霊の助けを願ったら、各連を捧げる前に、ほんの少し休み、その一連で今まさに栄光を帰そうとしている奥義を観想してください。そして、その奥義により、また聖母のとりなしを通じ、あなたが特に必要としている最も輝き出ている徳を必ず全能の神にお願いしてください。これらは、ロザリオにどのくらいの時間をかけるかで決めてください。

ロザリオの祈りの間に、多くの人たちが陥る二つの落とし穴を避けるように十分に気をつけてください。その第一は、まったく何も恵みを求めないという危険です。ですからロザリオを唱える目的を尋ねられても何と答えていいかわからないのです。そうならないように、ロザリオを唱えるときにはいつも、特別な恵みを必ず求めてください。キリスト教の素晴らしい徳の一つを身につけられるように、あるいは、あなたの罪の一つに打ち勝てるように神の助けを求めてください。

聖なるロザリオを祈るときに、多くの人たちが犯す第二の大きな過ちは、できるだけ早くこの祈りをすませようとする以外に目的を持たないことです!これは、ロザリオを心から実践していない多くの者が、この祈りを実際より大変な重荷と思っているからです。とりわけ、ロザリオを規則的に唱える約束がある時、償いとして唱え良心に重くのしかかっている時に、こういう感じを受けます。大部分のロザリオの唱え方を見ると、まったく情けない限りです。みんなあきれるほどの速さで、また祈りの言葉も不明瞭で、もぐもぐ唱えているのですから。たとえ最もとるに足らない人に対してでも、ここまでいい加減な挨拶をすることは考えられないでしょう。私たちは、一体そんな雑なあいさつの仕方でイエスとマリアをお喜ばせすることができると考えているのでしょうか!そんなことでは、この聖なる祈りを何千回唱えたところで何の実りには結びつきません。一向に以前と比べて改善するところがないと言っても、何の不思議もありません!

敬愛する皆さま「天にまします」と「めでたし」は唱えるのが容易いので、どうしても速くなることに注意して、数回短い休止を入れるようにお願いします。次のように、主の祈りと天使祝詞の祈りのなかで、休止する部分を☩の印をつけておきました。

天におられるわたしたちの父よ☩、み名が聖とされますように☩。み国が来ますように☩。
みこころが天に行われるとおり☩地にも行われますように☩。わたしたちの日ごとの糧を☩今日もお与えください☩。わたしたちの罪をおゆるしください☩。わたしたちも人をゆるします☩。わたしたちを誘惑におちいらせず☩、悪からお救いください。アーメン。

アヴェ、マリア☩、恵みに満ちた方☩、主はあなたとともにおられます☩。あなたは女のうちで祝福され☩、ご胎内の御子イエスも祝福されています☩。神の母聖マリア☩、わたしたち罪びとのために☩、今も☩、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

この祈りを大急ぎで祈る習慣がついているために、最初はこれらの休止を取るのが難しく思われるかもしれません。しかし、この方法で黙想にふけりながら唱える一連は、超スピードで唱える、休止もなければ黙想もない、何千回のロザリオよりも価値があります。

畏敬の念をもって

ロザリオは、礼儀正しく唱えるべきであることを付け加えたいと思います。すなわち、できる限りひざまずき、両手を合わせて、ロザリオを握りしめて唱えるべきだということです。しかし、無論、病人はベッドの中で、また旅行中の人は歩きながら唱えてもかまいません。病弱でひざまずけないなら、座ってもしくは立って唱えてもいいのです。毎日、手の離せない仕事をしているなら、仕事をしながら唱えることができます。仕事しながら祈るからといって、必ずしも声を出して唱える祈りよりも劣っているということはありません。もちろん、人間のすることには限度があり、手仕事に集中している時には、祈りのような精神的なことに注意を二分することはできません。しかし、他に方法がない時には、こうした祈りでも聖母の御目には価値があります。

私がお勧めするのは、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義を続けてではなく、各玄義(五連)を一日のうちに違った時間に唱えることです。こうする方が、十五連全部を一気に唱えるよりもはるかに良いでしょう。

ロザリオを、まとめて唱える時間を都合ができなければ、次のようにするといいでしょう。一日のうちで空いている時間を見つけ、もし5分とれたら、この時に一連を祈り、次の一連を別の機会に祈る、という方法です。これなら、仕事や、いろいろな頼み事で時間をとられたとしても、床に就く前には、ロザリオを一環唱えることができるでしょう。

集まって唱えること

ロザリオには、いくつかの唱え方がありますが、全能の神に最も大きな栄光を帰し、私たちの霊魂にとっても最善で、しかも悪魔が一番恐れている唱え方は、二つのグループに分かれて、公式にロザリオを祈ったり、歌ったりする形です。全能の神は、人々が集まって祈るのを大変お喜びになり、天使たちや祝せられた人々は、絶えることなく神を讃えるために一致します。地上のいくつかの共同体に属する神の前に正しい者たちが集まってする祈りを、主は、はっきりとお勧めになり、マタイ18:20にあるように「二人または三人が、私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束されました。私たちのまん中にキリストをお迎えすることは、何と素晴らしいことでしょう!私たちが集まってロザリオを唱えさえすれば、主はいらしてくださいます。初期のキリスト教徒たちが、ローマ帝国のあらゆる迫害にもめげずに始終集まって祈ったこと、また集会は禁止された理由はここにあります。人々は、集会に欠席するくらいなら、むしろ死の危険を冒すことの方を選んだのでした。集会には主が臨席しておられるのですから。

集まってする祈りが私たちの霊魂に最も素晴らしく役に立つのは、次に述べる理由です。

  1. 人間の知力は、一人で祈る時よりも公の場で祈る時の方が、普通はるかに鋭敏となるものです。
  2. 皆と一緒に祈る時、一人一人の祈りは私たちの祈りになり、これが集まって素晴らしい一つの祈りになります。ですから、たとえ一人の祈りがおろそかであろうと、その同じ集まりの中で熱心に祈る人たちが不熱心な人々に欠けているところを補うことができます。このように強いものが弱いものを支え、信仰篤いものが生ぬるいものを感動させ、富んでいるものが貧しいものを助け、悪しきものが善いものとして数えられるのです。
  3. 一人でロザリオを唱えるものは、ロザリオ一環の価値しかえられませんが、三十人が一緒に唱えれば、三十環の価値が得られます。これが共同の祈りの価値です。
  4. 公式の祈りは、神の怒りをなだめ、憐れみをくださいと祈るために、個人の祈りよりもはるかに大きな力を持っています。また聖霊に導かれた母なる教会は常に、社会的な悲劇や苦しみの時代には公式の祈りを唱えることを指示しています。

 

人々が共にロザリオを唱える時には、一人の人間が自分だけで唱えるよりもはるかに悪魔を恐れさせます。集まってする祈りは悪魔を攻撃しているのは個人ではなく軍隊だからです。個人の祈りが他のキリスト教徒のたちの祈りと合わせられた時には、悪魔は並大抵の苦労では勝利できません。一本の矢を折ることは簡単でも、それが束になると折れないのと同じです。兵士たちは、敵に打ち勝つために集まって軍隊を構成します。悪い者たちは、飲酒と色事に夢中になり、ダンス・パーティーを行うために始終集まります。悪霊たちもまた、人間に霊魂を失わせるために力を合わせるのです。それなら、キリスト教徒たちも集まって祈り、祈るときにはイエス・キリストに臨席していただき、全能の神の怒りを和らげ、恵みと憐みを求め、悪魔を苛立たせて彼らに対抗し、神の天使たちに、もっと力を与えてくださるように共同すればいいではありませんか。

敬愛する皆さま、あなた方が町に住んでいようと、田舎だろうと、自分の小教区や聖堂の近くにいるなら、少なくても毎夕(もちろん、小教区司祭の承諾を受けての話しですが)二つに分かれて、ロザリオを唱えたい仲間たちと一緒にそこを訪れてください。教会や聖堂へ行くのが無理なら、あなたの家とか隣人の家に集まって一緒にロザリオを唱えてください。この信心業は、善を増加させ、罪が深まるのを防ぎます。こうした小さな町や村々に、聖なるロザリオの信心が根付く前には、酒を飲んだり踊ったりする集会がいつも設けられていました。自堕落な生活や、一生を棒に振る浪費、冒涜、争い、反目などが我がもの顔では広がっていました。気分の悪くなるような卑猥な歌や、意味の曖昧な話の他、耳にすることがなかったのです。ところが、今はどうでしょう。聞こえてくるのは、聖歌と「天にまします」「めでたし」の唱和(一方がまず唱え、続いて他方が言葉を唱えること)だけになりました。目にする唯一の集いといえば、二十人、三十人、あるいは百人とか、それ以上の人たちが決められた時間に、まるで聖職者が行うように、全能の神の賛美を歌うだけの集会だけとなっています。毎日三回、特別な時間にロザリオを公式に唱える場所さえできています。なんという天の恵みでしょう!

しかし悪い者はどこにでもいるように、ロザリオの集会に教会に来ることを避ける人たちは必ずいますし、その集会を馬鹿にさえもし、悪い模範や悪意のある言葉で、自分たちの力を示そうと必死になって、人々をロザリオの集会に出席させまいと力の限り尽くそうとする人もいるでしょう。でも、ロザリオの集会に出席するのを辞めてはいけません。こういうことをする人たちの行き着くところは地獄ですから、こうした惨めな者は、神から引き離されるように、既にこの地上からにおいても主キリストや、主の下僕や、侍女たちの仲間から引き離さないといけません。

ふさわしい意向

前もって神から予定された人々である神の民の皆さまは、神を敬わない生活や、怠惰、また信心の欠如によって自らを破滅させる人たちとの関係を絶ってください。そして、信仰と、謙遜と、信頼と忍耐とをもって、いつもロザリオを唱えてください。主イエス・キリストは、ご自身の模範に従い、絶えず祈りなさいとおっしゃいました。私たちの心の闇、無知と弱さのために、また敵の力とその数のために、絶えず祈る必要がある理由は、そこにあります。主のこの掟に心から耳を貸すものは、一年に一度とか、週に一度ロザリオを唱えるだけでは絶対に満足しないで、毎日それを唱え、決しておろそかにすることがありません。

1・「気を落とさずに絶えず祈らないといけない」(ルカ18・1)。これは聖なる主自らの永遠のみ言葉です。ですから、地獄に堕ちたくないならば、私たちはこの御言葉を信じ、従わないといけません。このみ言葉を、世間が解釈するように解釈し、世俗的なやり方で守るのではない限り、どのようにでも自分の好みのままに解釈して構いません。主は、み言葉のまことの説明を私たちに与えてくださったのです。「わたしがあなた方にした通りに、あなた方もするようにと模範を示したのである」(ヨハネ13・15)と福音には記されています。また「その頃イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6・12)とあるのを見れば分かりますが、日中の時間では足りないかのように、主は夜も祈りに過ごされました。「誘惑に陥らないよ目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い」(マタイ26・41)の節で分かることは、肉体は弱く、誘惑は、至る所に・いつもあなた達を取り囲んでいることです。祈り続けていないなら堕落するでしょう。‥‥ある人たちにとって、主のこれらのみ言葉は明らかに勧告です。ただその狙いをすっかり見過ごしているのです。イエス・キリストを知りつつも誘惑や罪に陥る理由はここにあります。敬愛する皆さま、あなたが流行を追う生活を送り、この世に属しているとしたら(ここで言っているのは、時々大罪を犯しても告解にいけばいいと気軽に思っており、また世間では不道徳だとされている度を越えた罪を避けようと願いつつも、少なからぬ罪を犯すこと)、こういう場合には数多くのロザリオを唱えるのには及びません。ほんの少しばかり「人格高潔」になる必要があるだけです。言いかえれば、夜、短い祈りを捧げ、朝、償いに捧げられた二、三連の「めでたし」を気の向いた時に唱えることです。これだけで十分です。これより、祈りの数が少ないとしたら、宗教上の自由思想家とかだらしない人間と刻印が押されることでしょう。しかし、まことのキリスト教的生き方を送り、純粋な心で自分の魂を救い、聖人たちの足跡をたどり、どんなことがあっても絶対に大罪に陥るまいと願うなら、またサタンの罠を破り、サタンの火炎を発する投げ矢をそらしたいなら、主自らがお教えになり、皆にもするように命令なさったように、常に祈らないといけません。心にこの願いが本当にあるなら、少なくとも毎日ロザリオを唱えるか、それと同等のことを実践しなければいけません。私が「少なくとも」と言った訳は、あなたがロザリオを通して成し遂げるのは、おそらく大罪を避け、誘惑に打ち勝つことだからです。多数の強い者たちがいなくなると、あなたたちは世間の強い悪の流れにさらされます。あなたたちは、最も強くなった者たちでさえ、しばしば惑わされる闇のまん中に身を置いているのです。今に至るまで、もっと老練で、誘惑することにかけては、更に狡猾で有能な悪霊に囲まれているのです。この世の支配力と悪魔と肉を遠ざけ、大罪を避け、天国を得ることができるとしたら、それこそ実に聖なるロザリオがもたらした恵みの驚異です!私が申し上げることを信じられないなら、少なくともご自分の体験から修得してください。あなたが、世の通常の人たちのように数少ない祈りを、その人たちと同じような唱え方をしていた時、あなたの無知な目には大きな過ちとも、また重大なことだとも映らなかった大罪を避けることができたでしょうか?それをお尋ねしたいのです。さあ、今こそ目覚めなければなりません。そして世にある時も、死に至る時も罪を持たないでいたいのならば、絶えず祈ってください。ロザリオ信心会が発足した初期のころ、会員たちが常に実践したように、毎日あなたのロザリオを唱えてください。聖母が、聖ドミニコにロザリオをお与えになった時、毎日それを唱えること、他の人たちにもそうさせることをお命じになりました。聖ドミニコは、毎日かかさずロザリオを唱えることを心から決意していない者には、決して会員の資格を与えませんでした。こんにちでは、週にただ一度だけのロザリオを唱えれば通常会員になることが許されます。熱意と愛徳が冷めているからです。祈ることに冷淡な者から熱意を引き出すように努力してください。「はじめはこんな風ではなかったのです」。ここで三つのことが強調されなければなりません。第一は、毎日ロザリオを唱えている会員たちの祈りと真価とに参加したなら、通常会員に名を連ね、毎日祈るだけでは足らないということです。祈りを実践するのはもとよりのこと、信心会にあなたを迎え入れる力のある人たちにあなたの名を告げないといけません。また、とくにこの意向のために告解と聖体拝領を受けることは素晴らしいことです。その訳は、通常のロザリオ会員資格には毎日ロザリオを唱えることは含められていませんが、この二つの秘蹟を受けることでそれを実践したのと同じだけの功徳を得られます。第二にはっきりしたい点は、毎日、もしくは週に一度、いや、たとえ一年に一回のロザリオを唱えることに決めていたとして、それを実践するのを怠ったからといって小罪にもならないことは確かです。第三の点は、病気の時とか、上長に決められた服従からとか、やむを得ない用事のため、もしくは心ならずも忘れてしまし、ロザリオを唱えなかった時、受けられる功徳や、信心会の他の会員たちが唱えるロザリオの祈りに参加する権利を失うといったことはありません。ですから、自分の過ちのせいではなく唱え損なったロザリオは、翌日埋め合わせるには及ばないと私は心得ています。とは言っても、病気のときに、ロザリオを一部でも唱えられる症状であるならば、少しでも唱えるようにしないといけません。「常にあなたの前にいる者は幸いなるかな」(列王記)。「あなたの家に住む者は幸いなるかな!彼らはあなたを賛美し続けるからであります」(詩編)。「主イエスよ、毎日、あなたの御前にロザリオを唱える信心会の兄弟、姉妹たちの幸せなるかな、彼らは、ナザレのあなたのささやかな家で、カルワリオで、あなたの十字架の下で、また天国のあなたの玉座にいるので、あなたの喜び、悲しみ、栄光の奥義を黙想し、また観想できるからです。あなたがこの人たちにお与えになった、その素晴らしい恵みのために、彼らは地上でもこの上なく幸せであり、実に特別な形で、永遠にあなたを賛美する天においても限りなく幸せであります!」

2・ロザリオの祈りは信仰をもって祈るべきであります。なぜなら主が「だから言っておく。祈り求める者は、すべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる(マルコ11・24)」と言っておられるからです。あなたが願うものは、全能の神の御手から受けることを信じるならば、神はあなたの嘆願を聞いてくださるであろう。神は、あなたに「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように」(マタイ8・13)。あなたたちの中で、知恵に欠けている者がいれば、誰にでも惜しみなく、とがめ立てることのなくお与えになる神に願いなさい。「そうすれば与えられます。少しも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」(ヤコブ1・5、6)と神はおっしゃるでしょう。知恵を必要としている者がいるなら、信仰を持ち、ためらわず、ロザリオを通じて神に願うようにしなさい。そうすれば、その者の願うものは与えられるでしょう。

3・第三に、収税士のようにへりくだり祈らないといけません。高ぶった世俗の人のように、片膝をついて、あるいは片膝をベンチの上にのせてというのではなく、彼は両膝をついて、地面にひざまずいて祈りました。ファリサイ人のように教会の内陣ではなく、収税士は教会の後方にいて、天を見上げようとはしないで目を伏せていました。ファリサイ人のように得意気に顔を上げてあたりを見回すようなことはなかったのです。収税士は、胸を打ち、自分の罪を告白して赦しを求めました、「神さま、わたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と祈る彼は、自分の善行を自慢し、他人を軽蔑するファリサイ人とは正反対でした。心を無慈悲にし、罪を増すだけの祈りを唱えるファリサイ人の自惚れをまねてはなりません。自分を低くして罪の赦しを乞うた収税士が祈ったときの謙遜を模倣してください。全能の神が、ロザリオを唱える聖人たちのごく少数のものに、ほんのまれにお与えになる、尋常でないもの、ヴィジョンとか、啓示とか、その他の超自然的な恵みについての知識を、自分にも欲しいと当たり前のことをお願いしたり、いや、そんな願いは心に抱くことさえもしないようにするように気をつけるべきであります。「信仰のみで十分です」という言葉があるように、私たちには信仰さえあれば全く十分です。たとえ、魂の渇き、倦怠感、また内的な落胆に苦しむとしても、ロザリオの祈りをほんのわずかでも疎かにしないでください。これは自尊と忠実さの確かな印なのですから。それどころか、イエスとマリアの闘士として何も目にしないで、何も耳にせず、なんの慰めを感じることがなくても、奥義に心の底から集中し、まったく無味乾燥であっても「天にまします」と「めでたし」を唱え続けるべきです。まるで子供のように、甘いものとか、日々食するパンに塗るジャムを求めてはなりません。でも、ときとして、ロザリオを唱えることが特につらく思えるときには、もっと速度を落として唱えるべきです。ゲッセマニの園で主のお苦しみをもっと完全に模倣するために、このように祈ってください。「イエスの苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(ルカ22・44)。そうです、苦しいとき主はなお一層祈られたのです。あなたもこうすれば、苦しいときに、主はますます祈られたことを、あなたは模倣することができます。

4・神の限りない寛容さとイエス・キリストのお約束に大きく信頼して祈ってください。神は祈る者たちの心に絶え間なく流れ入る生きた水の泉です。永遠の聖なる父は、ご自分の恵みと憐みという命の水を私たちに与えてくださることを何よりも強く望まれました。主は、私たちに「渇いている者は皆、生ける命の水の源に来なさい」と望んでおられます。これは、「来て、祈りを通じ、私の泉の水を飲みなさい」という意味です。また私たちが、神に祈ろうとしない時には、私たちが神を見捨てようとしているかのように「生ける水の源である私を捨てた」(エレミア2・13)と悲しげにおっしゃるのです。私たちは神に恵みを願うことで神をお喜ばせすることができますが、願おうとしないなら「今までは、あなたは私の名によって何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたたちは喜びで満たされる」(ヨハネ16・24)。「求めなさい、そうすれば与えられる。捜しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7・7)と、主は慈愛に溢れた苦情を漏らされるのです。その上、主に祈ることに更に大きな自信を与えてくださいます。主は、お約束でご自身をしっかりと縛っておられるのです。言いかえれば、私たちが、主の聖名によって願うことはすべて、永遠の聖父が私たちにお与えくださるということです。

不屈の努力

第5の重要な点として、祈るときには、不屈の忍耐力を持たなといけません。願い・求め・門をたたき続ける者だけが、恵みを受けることができます。恵みをいたただくには、一か月とか、十年、いや二十年の祈りでは十分ではありません。飽くことを知らずに、息を引き取るまさに最後の瞬間まで祈り続けないといけません。また、私たちは、死についてでさえ「神は私を殺されるかもしれないが、私は神に信頼をおこう」(ヨブ13・15)と信頼をこめて祈り、神が自分に必要なものすべてを与えてくださることを信じるのです。並外れて富んでいる神は、人々の求めていることを前もって知り、必要なものを与えて、彼らがまだ何も求めていない前でさえも、その寛容さを示します。そして惜しみなく与えてくださる一方、与えたいと願っていられる恵みを、更に貴重な恵みを、また与えられるまでに、もっと時がかかって、私たちに願い求めるようにさせます。神がこうされるのは三つの理由があります。
1・こうすることで、この恵みを一層深く増すため。
2・恵みを受ける者が、その恩恵を更に深くしみじみと味わうため。
3・心を込めて、注意を込めて恵みを受ける者に、それを失うことのないようにさせること…人間というのは、苦労らしい苦労もせずに手にしたものだとほとんど感謝しないものですから。
ですから敬愛するロザリオ信心会の会員の皆さま、霊的、肉体的両面に、あなた方が必要としているすべてのものを、聖なるロザリオを通じて全能の神にお願いする時には、忍耐をもってください。

皆さまは、何にも増して限りない宝である神の賢慮を求めないといけません。「賢慮は、人間にとって無尽蔵の宝」(知恵の書7・14)であり、神の上智を求め続け、知恵を求める旅路の途中で勇気を失わない限り、遅かれ早かれ、それを受けることに何の疑いもありません。「あなたの道はいまだ遠い」と聖書にのっています。これは、あなたの旅路は長く、うまくいかない時もあり、打ち勝たないといけない多くの困難や、永遠の生命を受けるための十分な宝を貯める前に、征服しないといけない敵は多く、天国の道を得るのに十分な『天にまします』と『めでたし』を唱え、忠実な信心会会員を待っている素晴らしい冠を自分のものとしなければならないということです。

「あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙示録3・11)。聖なるロザリオを、あなたよりも忠実に唱える者に、あなたの冠を取られることのないように気をつけなさい。それは「あなたの冠」、全能の神があなたのために選んでくださったものですから。不運にも、誰か他の者がレースであなたを追い越してしまい、あなたよりももっと熱心で、もっと忠実な誰かが、ロザリオを完全に唱え続けることと善い行いとで、あなたのものであるべき冠を勝ち得てしまうかもしれないからです。あなたが、実にそつなく走っている整然とした道に、じっと立ち止まったとしたら、こういうことが皆実際に起こります。「あなたは、よく走っていました。それなのに一体だれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」(ガラテア5・7)。

あなたがロザリオの冠をいただくのを妨げたのは一体誰なのですか?聖なるロザリオの敵である大変な数の悪魔の他ありません。「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」とあるように、冠を奪うのは暴力のみだという私の言葉を信じてください。これらの冠は、世間の嘲笑や、脅迫を恐れている臆病な人たちのものではありません。また、ロザリオをいい加減に、もしくは、少しでも早く終わらせてしまいたいので、たいへんな速度で唱える怠惰で、やる気のない人たちのものでもありません。気の向くままに、時にはロザリオの祈りを止めてしまう人たちについても同じことが言えます。これらの冠は、地獄がロザリオに対して何かことを起こすとすぐに、落胆して降参してしまう腰抜けのものではないのです。敬愛する信心会の皆さま、毎日ロザリオを唱えてイエスとマリアにお仕えしたいなら、誘惑に立ち向かわないといけません。

「子よ、主に仕えるつもりなら、自らを試練に向けて備えよ」(集会の書2・1)。異端者や不身持ちの人々、世間で「人格高潔」で通っている人々、偽預言者だけでなく、外面だけ敬虔な人たちは、自分の堕落した性質や地獄そのものと結託して、あなた方に、この聖なるロザリオの実践を止めさせようと、必死で恐るべき闘いを挑んでくるでしょう。彼らの猛攻撃に対してよりよく武装するのに役立たせるために、こういう人たちがいつも言ったり考えたりしていることをいくつか紹介します。これは、あなた方が彼らに対して自衛するためであって、異端者たちや純然たる不道徳な人たちには当てはまりませんが、とりわけ、世間の目に「人格高潔」に映っている人たちや、信心深くあっても(奇妙な話ですが)ロザリオを全く用いない人々の言葉や意見です。福音には「このお喋りは何を言いたいのだろうか?」「さあ、その者に圧迫を加えてやろう。私たちに反対するのだから」(使徒17・18)と記されています。彼らは「あんなにたくさんのロザリオを唱えて何になるというのだ?いつまでもロザリオを爪繰って何をブツブツ唱えているのか?何という怠け者!古いビーズを持ち歩いてブツブツ言っているなんてひどい時間の無駄ではないのか。そんな馬鹿げたことをしてないで、仕事でもした方がずっと役立つだろうに。私の言っていることは筋が通っている‥‥」と言うのです。「あなたはロザリオさえ唱えればいいのだと私は思います。そうしていれば天からの財宝があなたの膝に転がり落ちてくるでしょう!あなたは指一本動かさないでも、ロザリオがあなたの必要なものすべてを与えてくれるのです!『神は自らを助ける者を救う』という格言がなかったでしょうか。ですから、そんなに多くの種類の祈りを唱える必要はありません。『天は、短い祈りを聞き入れてくださる』のです。心を込めて唱えるなら『天にまします』『めでたし』だけで十分です」。「神は私たちにロザリオを唱えよとは、一度もおっしゃらなかった…でも、唱えることは少しも構わないのだし、時間があるなら唱えればいい。この信心はなかなか捨てたものではないのだから。ただし、ロザリオを唱える者たちが、私たちよりも天国を手にする確率が高いなどとは思わないでもらいたい。ただ一度もロザリオを唱えなかった聖人たちのことを考えてみなさい!はるかにずっと数多くの人たちが自らの目で見て分からせようとしているのだ。人間はすぐものごとを極端に考える。どこへ行っても罪を見るモラルのある人たちが、ロザリオを唱えない者は地獄に堕ちるというようなことを大々的に言っています」。「ああ、もちろん、ロザリオは読み書きできない年寄りの女にはぴったりだろう。でも、聖母のささやかな聖務日課の方が確かにロザリオより価値があるのではないだろうか?あるいは七つの贖罪の詩編とか?聖霊に注ぎ込まれた詩編ほど素晴らしいものが他にあるだろうか?あなたは毎日ロザリオを唱えることに同意しているが、これは火のついた麦わらに過ぎないのだ…言うなれば長続きしない。そんなことは御存じだろう!約束ごとはもっと少なくして、決めた約束を忠実に果たす方がいいのではないのか?」。「さあ、友よ、私の言葉を聞きなさい。朝晩の祈りを唱え、日中はしっかりと仕事に精を出し、それを捧げるがいい…神は、あなたからそれ以上のことをお求めにならない。もちろん、あなたは日々の生計をたてるために働いている。暇のある人なら私は何も言わない‥暇があれば好きなだけロザリオが唱えられるのだから。だから今は、どうしても唱える必要があるならば、時間の沢山ある日曜と聖なる祝日に唱えるがいい」。「しかも、本当にまあ、山のように一杯ついたビーズで何をやっているのか?それでは男ではなく、年老いた女のようではないか!私は、一連しかついていない小さなロザリオを見たことがある…それだって十五連のロザリオと同じだけの価値があるのだ。一体全体帯に何をぶら下げているのか。あなたは狂信家なのか?ついでにスペイン人のように、それを首にかけたらどうなのか?スペイン人たちは、片手には大きなロザリオを、もう片手には短剣を下げているものだから」。「お願いですから、そんな外面的な信心は捨ててしまいなさい。まことの信心とは心の内にあるものです…等々‥‥」。同じように大変の数の賢人や、博学な学者たちが(しかし、こういう人たちは無論、自尊心が強く、我意を通すのである)ときどき、ロザリオなど唱えないように忠告するでしょう。彼らはロザリオよりも七つの贖罪の詩編とか、その他の祈りを唱えるように勧めます。

もし、立派な聴罪司祭が償いにロザリオを命じ、半月か一か月、毎日それを唱えるように言ったのに、この償いを他の祈りや、断食や、ミサに与ることや、施しをすることに帰るとしたら、もう一度告解に行かなければなりません。この世では、祈りの生活を送ってはいても一度もロザリオを唱えようと努めたことのない人たちに霊的相談をするとしたら、その人たちは、観想生活を学ばせてくれないばかりか、それから人々を遠ざけることになります。それは、まるでロザリオの祈りと観想とは相容れないもので、ロザリオに打ちこんでいたすべての人たちは、まるで卓越した観想の高所を体験したことがないと言っているかのようなものです。

あなたに一番近いところにいる敵である悪魔たちは、あまりにも身近にいるために、一層冷酷に攻撃を加えるのです。私が話しているのは、あなたの霊魂と肉体の欲望のことです!…これらは、想いを混乱させ、悲嘆、意志の不安定さ、冷淡な心、疲労、また体の病気を引き起こします。‥こうしたことは、悪魔と結びつき「ロザリオなど唱えるのは止めるがいい。お前に頭痛を起こさせるのはそれだから!止めなさい。止めたからと言って何の罪にもなりはしなしのだから。どうしても唱えないといけないなら一部だけにするがいい。ロザリオを唱えるのが辛いと感じるのは、そもそもお前がそれを唱えるのを全能の神が望んでいられない印なのだ。明日にでも、もっと気乗りのしているときに唱え終えればいいのではないか、等々」と私たちにささやき続けるのです。敬愛する兄弟よ、結論として、毎日ロザリオを唱える会の会員であるということは、たいへんな数の敵に襲われることを意味するのであって、これを死ぬまで屈せずにやり続ける恵みは、全能の神が与えてくださる最も大きなご好意の一つです。ロザリオを、屈せずに忠実に唱え続けるなら、ついには天であなたを待ち受けている素晴らしい冠を勝ち取るでしょう。「死に至るまで忠実でいなさい。そうすれば、あなたに命の冠を授けましょう」(黙示録2・10)と福音に記されています。

ロザリオの短い祈り方

聖なるロザリオにより、イエスとマリアのご生涯、死、栄光とを記念し、勝手な想像を押さえ、気を散るのを減らす唱えかた。この方法を行うには、唱える連に従い、めでたしを唱える度に、あなたがその連で黙想する、イエスの輝ける美徳を表す一言付け加えます。こうすることで、いま、どの奥義を黙想しているのかを思い出すのに役に立ちます。この言葉は、「ご胎内の御子イエスも祝福されています」の「イエス」という言葉の前に付け加えるべきでしょう。

第1連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、托身されたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第2連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、清められたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。(*洗者ヨハネをご胎内の御子は、御母の声を通して原罪から清められた)

第3連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、貧しくお生まれになったイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第4連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、犠牲として捧げられたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。(生贄として捧げられたイエス、など…)

第5連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、聖人のなかの聖人イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。(*最も従順なイエス、など…)

第6連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、苦しんでおられるイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第7連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、鞭打たれたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第8連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、茨の冠をかぶらされたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第9連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、十字架を担うイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第10連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、十字架にかけられたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第11連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、死から復活されたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第12連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、昇天されたイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第13連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、聖霊であなたを満たされるイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第14連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、あなたを蘇らせるイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

第15連 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、あなたに冠を与えられるイエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

最初の5つの奥義の終わりには、「喜びの奥義の恵みよ、私たちの霊魂にくだり、聖なるものとしてください」

次の5つの奥義の終わりに、「苦しみの奥義の恵みよ、私たちの霊魂にくだり、忍耐強くさせてください」

最後の5つの奥義の終わりには、「栄えの奥義の恵みよ、私たちの霊魂にくだり、永遠に私たちを幸せにしてください。アーメン」と唱えます。