7 洗礼の恵み

洗礼の種々の効果は、秘跡の儀式の目に見える要素によって表されます。水に浸ることは、死と清めを意味するとともに再生と一新の象徴でもあります。したがって洗礼には、罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つのおもな効果があります。

罪のゆるしのため…

洗礼によって、すべての罪、すなわち原罪、すべての自罪、また罪のすべての罰もゆるされます。事実、新たに生まれた人々には、神の国に入るのを妨げるもの、つまり、アダムの罪も、自罪も、罪の結果も残りません。その罪の結果の中で最大のものは、神からの離脱です。

しかし受洗者には、苦しみや病気や死、あるいは性格の弱さなどといった人生にはつきものの種々のもろさなど、罪に由来する一時的な結果は残∙ります。さらに、情欲あるいは比喩的に罪のかまどと呼ばれてきている、罪への傾きなどもそうです。「罪への傾きは、わたしたちがそれと戦って訓練されるために残されましたが、それに同意せず、キリストの恵みによって勇敢に抵抗する人々を害することはできません。そのうえ、『規則に従って競技をするならば、栄冠を受けることができるでしょう』(ニテモテ2∙5参照)」。

「新しい被造物」

洗礼は、すべての罪を清めるだけではなく、新しい信者を「新しい被造物」、「神の本性にあずかる者」となった神の養子、キリストの肢体、キリストと共同の相続人、聖霊の神殿とします。

聖三位の神は受洗者に成聖の恩恵、義とする恵みを与えます。
――これにより受洗者は、対神徳によって神を信じ、神に希望し、神を愛することができ、
――聖霊のたまものによって聖霊に動かされて生き、行動することができ、
――倫理徳によって、ますます善を行うことができるようになります。
このように、キリスト者が超自然的いのちを営む上で必要なすべてのものの根源は、聖なる洗礼にあるのです。

キリストのからだである教会に結ばれる

洗礼は、わたしたちをキリストのからだの肢体とします。「だから、……わたしたちは互いにからだの一部なのです」(エフェソ4∙25)。洗礼は、わたしたちを教会に結び合わせます。洗礼の泉から新約における神の唯一の民が生まれます。この民は国や文化や人種や性別などのあらゆる自然的∙あるいは人間的な限界を超えるものです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、…皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12∙13)たのです。

洗礼を受けた者は「霊的な家に造り上げられ、聖なる祭司となる」ための「生きた石」(一ペトロ2∙5)となります。洗礼によってキリストの祭司職、預言職、王職にあずかります。受洗者は、暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを」広く伝えるために「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(一ペトロ2∙9)なのです。洗礼は、信者の共通祭司職にあずからせます。

教会の一員となった受洗者は、もはや自分自身のものではなく、自分たちのために死んで復活されたかたのものです。ですから、人々に従い、教会の交わりの中では彼らに仕え、教会の指導者たちのいうことを聞き入れて服従し、尊敬と愛情とをもって指導者たちを世話するようにと召されています。このように、洗礼によって責任と義務とが生じますが、また同時に、受洗者は教会の庇護のもとでの権利も有しています。それは、諸秘跡を受け、神のことばで養われ、教会のその他の霊的援助によって支えられるという権利です。

受洗者には、「〔洗礼によって〕神の子として生まれかわって、神から教会を通して受けた信仰を人々の前に宣言する義務」と、神の民の使徒的活動、宣教活動に参加する義務とがあります。

キリスト者の一致のための秘跡的きずな

洗礼は、カトリック教会とまだ完全に一致していない人々をも含めて、すべてのキリスト者間の一致の土台を成しています。「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会との交わりの中にいるのです。……信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」。「したがって洗礼は、それによって再生されたすべての人の間に存在する一致の秘跡的きずなです」。

消えない霊印…

洗礼によってキリストに合体した受洗者は、キリストに似た者とされます。洗礼はキリスト者のうちに、当人がキリストのものとなったことを示す消えない霊印(character)をしるします。たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはありません。ですから、洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできないのです。

洗礼によって教会の一員となった信者は秘跡的霊印を受け、キリスト者として神を礼拝する務めをゆだねられます。洗礼による霊印によってキリスト者は、教会の聖なる典礼に積極的にあずかりながら神に仕え、聖なる生活と実践を伴う愛のあかしとによって洗礼による祭司職を果たすことができる者とされ、またそうする義務を負わされているのです。

「主の霊印」は、「あがないの日に対して」(エフェソ4∙30)聖霊がわたしたちにしるされた霊印です。「洗礼は永遠のいのちの霊印です」。最後まで「霊印を保った」信者、すなわち洗礼によって生じる義務を忠実に果たした信者は、洗礼を受けたときの信仰をもって、信仰の完成である神の至福直観を待望し、復活を希望しながら、「信仰をもって(信仰のしるしを刻まれた状態で)」、死ぬことができるのです。