2 救いの営みにおける洗礼

旧約時代における洗礼の前表

教会は復活徹夜祭の典礼で、洗礼水の祝福のとき、洗礼の神秘の前表であった救いの歴史の重要な出来事を荘厳に記念します。
「秘跡のしるしを通して救いの恵みを与えてくださる全能の神よ、あなたは旧約の歴史の中で水によって洗礼の恵みを表してくださいました」。

世界の初めから、この目立たない、しかし、すばらしいものである水は、いのちと豊穰の泉となっています。聖書には、神の霊が水の「面を動いていた」と記されています。
「天地の初めに、あなたの霊は水の面を覆い、人を聖とする力を水にお与えになりました」。

教会はノアの箱舟に、洗礼による救いの前表を見ました。この箱舟によって、「数人、すなわちハ人だけが水の中を通って救われました」(一ペトロ3∙20)。
「ノアの洪水のとき、水をあふれさせて、罪の終わりと新しいいのちの始まりである洗礼のかたどりとしてくださいました」。

泉の水がいのちの象徴であるのに対し、海の水は死の象徴です。ですから、水は十字架の神秘の象徴となることができました。この象徴によって、洗礼がキリストの死にあずかるものだということが表現されています。

とくにイスラエルがエジプトでの奴隷状態から真に解放された紅海通過は、洗礼によって行われる救いを予告するものです。
「アブラハムの子孫がエジプト脱出のとき、海の中に乾いた道を備えて約束の地に渡らせ、ファラオの奴隷から解放して、この民を洗礼を受ける人々のしるしとしてくださいました」。

さらに、ヨルダン川を渡ることも洗礼の前表です。この渡河によって、神の民はアブラハムの子孫に約束された土地をたまものとして受けました。この土地は永遠のいのちの象徴です。この幸いな嗣業の約束は、新しい契約において実現します。

キリストの洗礼

旧約時代のすべての前表は、キリスト・イエスのうちに成就されます。キリストは自らヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、公生活をお始めになります。そして、復活後、イエスは使徒たちに次の使命をお与えになります。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)。

キリストは、正しいことをすべて行うために、罪びとに授けられるヨハネの洗礼を進んでお受けになりました。イエスのこの行動は、自分を「無にしたこと」の表れです。最初の創造のとき水の面を覆っていた霊が、そのとき、新しい創造の序曲としてキリストの上にくだり、御父はイエスがご自分の愛する子であることを啓示なさいます。

キリストはその過越によって、洗礼の泉をすべての人に開かれたのです。キリストはエルサレムでの受難を、ご自分が受けなければならない「洗礼」と呼ばれました。十字架につけられたイエスの脇腹から流れ出た血と水は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体の象徴です。そのときから、人は「水と霊とによって」生まれ、神の国に入ることが可能となったのです(ヨハネ3∙5)。
「あなたがどこで洗礼を受け、洗礼が何に由来するのかを見つめてください。キリストの十字架、キリストの死以外のものからということはありえません。キリストがあなたのために苦しまれたこと、そこにすべての神秘があります。あなたはキリストによってあがなわれ、キリストによって救われるのです。」

教会における洗礼

聖霊降臨の日以来、教会は聖なる洗礼を授けてきました。聖ペトロは自分の説教によって心を動かされた多くの人々にこう宣言しています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、たまものとして聖霊を受けます」(使徒言行録2∙38)。使徒たちとその協力者たちは、イエスを信じる者であれば、ユダヤ人、神をおそれる人々、異邦人のだれにでも洗礼を授けます。洗礼はいつも信仰と結びつけられています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と聖パウロがフィリピの看守に言明すると、看守も「家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒言行録16∙31-33)と記されています。

使徒聖パウロによれば、信じる者は洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち〔は〕皆、またその死にあずかるために洗礼を受け〔ました。ですから、〕わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6∙3-4)26。受洗者は「キリストを着ます」。洗礼とは、清め、聖化し、義とする、聖霊による洗いです。

したがって、洗礼は、神のことばの「朽ちない種」がそのいのちを与える実を結ぶ、水による洗いです。聖アウグスチヌスは洗礼について、「ことばが物と合わされて、秘跡となる」といっています。