第3節 イエス・キリストは葬られた

イエスは、「神の恵みによって、すべての人のために」、「死」(ヘブライ2∙9)を味わわれたのです。救いの計画において、神がはからわれたことは、ただ御子が「わたしたちの罪のために死」(一コリント15∙3)なれるだけではなく、「死を味わわれる」ことでした。すなわち、御子は十字架上で息絶えた瞬間から復活されるまでの間に、死の状態、つまり、ご自分の霊魂と肉体との分離の状態を体験されました。この、埋葬されたまま死者のもとに下っておられるという、亡くなられたキリストの存在のありようは神秘です。それは、墓に納められたキリストが宇宙全体に平和をもたらす人類の救いを成就して神の大安息に入られたことを示す、聖土曜日の神秘です。

埋葬されたからだとともにおられるキリスト

キリストが墓にとどまられたことは、生前の苦しむことのできる状態と復活したキリストの現実の栄光の状態とが結びついていることを表しています。その「生きている」同じかたは、「わたしは一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて」(黙示録1∙18)いるということがおできになるのです。 「神(御子)は、人間本性の定めに従い、死が霊魂と肉体とを分離することを妨げられませんでした。しかし、復活によって両者を新たに相互に結びつけられました。こうして、ご自身が死と生の合流点となられ、死によって生じた人間本性の分解をご自分のうちでやめさせ、ご自身、分離したそれぞれの部分のための再結合の源となられました」。

殺された「いのちへの導き手であるかた」と「復活されて生きておられるかた」とは同一のかたなのですから、神の御子キリストが、死によって互いに分離されたご自分の霊魂と肉体とを担い続けられるのは当然のことでした。 「キリストの死の際に霊魂が肉体から分離したことで、キリストの唯一の位格(ペルソナ)が二つに分かれたわけではありません。キリストの肉体と霊魂は、当初からみことばのペルソナのうちに同じ資格で存在していました。死によって両者は分離しましたが、それぞれ、同一のみことばと結ばれていたのです」。

「あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておられない」

キリストは、死によってこの世における人間としての生存を閉じました。したがって、キリストの死は真の死です。しかし、キリストの肉体は御子のペルソナと結ばれていましたから、他の人々のような死体とはなりませんでした。その肉体は「死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった」(使徒言行録2∙24)ので、「神の力がキリストの肉体を腐敗から守った」のです。キリストについては、「いのちある者たちの地から断たれた」(イザヤ53∙8)ともいえますし、また、「わたしのからだ〔は〕希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録2∙26-27)ともいうことができます。「三日目」(一コリント15∙4、ルカ24∙46)に起こったイエスの復活が、そのしるしです。なぜなら、腐敗は四日目から現れると考えられていたからです。

「キリストとともに葬られる」

洗礼の本来の意味を十分に表現しているのは、浸水洗礼です。これは、新しいいのちに生きるためにキリストとともに罪に死ぬキリスト者の埋葬を効果的に表します。「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6’4)。

要約

イエスはすべての人のために死を味わわれました。死に、そして葬られたのは、まぎれもなく、人となられた神の御子です。

キリストが墓にとどまっていた間、神としてのキリストのペルソナは、死によって互いに分離した霊魂と肉体とを担い続けておられました。したがって、キリストの死んだ肉体は「朽ち果てることがなかったのです」(使徒言行録13∙37)。