3 キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた

キリストの全生涯は御父へのささげものであった

自分の意志を行うためではなく、お遣わしになったかたのみ旨を行うために天からくだった神の御子は、「世に来られたときに、次のようにいわれたのです。……『ごらんください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために。』……このみ心に基づいて、ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ10∙5-10)。神の御子は人となられた最初の瞬間から、ご自分のあがないの使命の中で実現するという神の救いの計画を引き受けられます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになったかたのみ心を行い、そのわざを成し遂げることである」(ヨハネ4∙34)。「全世界の罪を償う」(一ヨハネ2∙2)ためのイエスの自己奉献は、御父との愛の交わりを表すものです。「わたしはいのちを捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる」(ヨハネ10∙17)。「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」(ヨハネ14∙31)。

イエスの全生涯は、御父のあがないをもたらす愛の計画をまっとうする望みに駆り立てられたものでした。人となられたのは、あがないのために受難を受諾するためだったからです。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』〔といおうか)しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハネ12∙27)。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18∙11)。さらに十字架上では、すべてが「成し遂げられる」(ヨハネ19∙30)前に、「渇く」(ヨハネ19∙28)といわれます。

「世の罪を取り除く神の子羊」

洗礼者ヨハネは、罪びとと並んで自分のもとに来られたイエスに洗礼を授けてから、イエスのうちに世の罪を取り除く小羊を認めて、それを人人に知らせました。こうして、イエスは囗を開かず、ほふり場に引かれ、多くの人の罪を担う苦しむしもべであり、また、エジプトからの過越でイスラエル民族のあがないの象徴となった過越の小羊であることを明らかにしたのです。キリストの全生涯は、仕え、また多くの人の身代金として自分のいのちをささげる、というその使命を表しています。

イエスは人類のあがないに向けられた御父の愛を心底からご自分のものとする

イエスは人々に対する御父の愛を、人間としてのご自分の心に受け入れ、人々を「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)ました。「友のために自分のいのちを捨てること以上に大きな愛はない」(ヨハネ15∙13)からです。こうして、イエスの人性は苦しみと死に臨んで、人々の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具となりました。実際、イエスは、御父と御父が救おうとされる人間への愛によって、自由に受難と死を受け入れられたのです。「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ10∙18)。ご自分から進んで死に向かわれたときの、神の御子のあの威厳に満ちた自由は、ここに由来します。

イエスは最後の晩さんで前もってご自分のいのちをささげられた

イエスは「引き渡される夜」(一コリント11∙23)、十二使徒とともに食事を取られた間に、ご自分の自由な奉献を最高度に表されました。イエスは受難の前夜、まだ捕らえられていなかったとき、この使徒たちとの最後の晩さんを、人々の救いのために自ら進んで行われる御父への奉献の記念とされました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」(ルカ22∙19)。「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26∙28)。

イエスがこのときに制定されたエウカリスチアは、ご自分のいけにえの記念となりました。イエスはご自身の奉献に使徒たちを組み入れ、この奉献を永続させるようお命じになります。こうして、イエスは使徒たちを新しい契約の祭司に定められたのです。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17∙19)。

ゲッセマネでの苦悩

イエスは、最後の晩さんでご自分を前もってささげられた新しい契約の杯を、続くゲツセマネの苦悩の中で御父の手から受け取られ、「死に至るまで従順でした」(フィリピ2∙8)。イエスは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26∙39)と祈られます。このように、イエスはご自分の人性にとって死がいかに恐ろしいものであるかを表しておられます。事実、イエスの人性はわたしたちのそれと同様、永遠の生命に向けられています。ところがその人性は、わたしたちのそれとは違って、死を生じる罪からまったく免れており、またとくに、「いのちの導き手」、「生きている者」である神の御子によって担われているのです。御父のみ旨が行われることを人として受諾されたイエスは、ご自分の死を、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を」(一ペトロ2∙24)担ってくださるためのあがないの死として受け入れられました。

キリストの死は比類のない決定的ないけにえである

キリストの死は、世の罪を取り除く神の小羊による人間の決定的あがないを成就した過越のいけにえであると同時に、新しい契約のいけにえであって、これにより、人間は、多くの人の罪がゆるされるために流された血によって神と和解し、神との交わりを回復しました。

キリストのいけにえは比類のないもので、あらゆるいけにえを完成させ、それらを超越するものです。このいけにえはまず、父である神ご自身のたまものです。御父こそ、わたしたちをご自分と和解させるために、御子を死に渡されました。それは同時に、人となられた神の御子の奉献であり、御子はわたしたちの不従順を償うため、自由に、愛をもって、ご自分のいのちを、聖霊によって御父にささげられました。

イエスはわたしたちの不従順に代わって従順となられた

「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ローマ5∙19)。イエスは死に至るまで従うことにより、多くの人の罪を担い、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負い、自分のいのちを償いのいけにえとしてささげる苦しむしもべの役をまっとうされました。イエスはわたしたちの過ちの償いを果たし、わたしたちの罪のゆえに自ら御父に償いをささげられました。

イエスは十字架上でご自分のいけにえをまっとうされる

キリストのいけにえにあがないと償いの価値をもたらしたのは、その限りない愛にほかなりません。キリストはわたしたち皆を知り、愛してご自分のいのちを奉献されました。「キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい〔ま〕す。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人のかたがすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」(二コリント5∙14)。人間はだれであれ、もっとも聖なる者であっても、すべての人間の罪を負い、すべての人のために自分をいけにえとしてささげることはできません。キリストは神の御子であって、あらゆる人間を超越すると同時に包括し、また全人類の頭でもあるので、いけにえとなってすべての人をあがなうことがおできになったのです。

トリエント公会議は、「キリストは十字架上での受難により、わたしたちを義とする功徳を積まれた」と教え、永遠の救いの源であるキリストのいけにえの比類のない性格を強調しました。教会は、「めでたし、わたしたちの唯一の希望である十字架よリと歌って、十字架を崇敬します。

わたしたちはキリストのいけにえに結ばれる

十字架の死は、神と人との唯一の仲介者であるキリストの比類のないいけにえです。しかし、キリストは、人となられた神のペルソナにおいて「ある意味で自らをすべての人間と一致させ」られたので、「神のみが知っておられる方法によって、すべての人に復活秘義にあずかる可能性を提供されます」。キリストはわたしたちのために苦しみを受け、その足跡に続くように模範を残し、弟子たちがそれぞれの十字架を背負って、ご自分に従うよう促しておられます。こうして、あがないの恩恵を受ける人々をご自分のあがないのいけにえにあずからせようとしておられます。これは、御母マリアによって最高度にまっとうされました。御母は他のだれよりも緊密に御子のあがないの苦しみの神秘にあずかられたのです。

「十字架のほかに、天に上るはしごはありません。」