3 イエスと、唯一の神ならびに救い主へのイスラエルの信仰

律法とエルサレムの神殿に関する教えがイスラエルの宗教的指導者に対するイエスの側からの「反対を受ける」要因であったとすれば、優れた神のわざである罪のあがないにおけるイエスの役割は、彼らにとっては真のつまずきの石であったのです。

イエスは、ファリサイ派の人々と同じように、徴税人や罪びととも親しく食卓を囲んだことで、ファリサイ派の人々をつまずかせました。イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」(ルカ18∙9)幾人かのファリサイ派の人々に、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5∙32)と言明しておられます。さらに話を進め、ファリサイ派の人々に向かって、罪はだれでも犯すのであるから、救いを必要としないと主張する者は自分自身に目をふさいでいることになる、と宣言しておられます。

イエスはとくに、罪びとに対するご自分の慈悲深い態度を神ご自身の態度と同一視されることで、人々をつまずかせました。事実、イエスは、罪びととともに食事をすることによって、彼らをメシアの祝宴に迎えることを示されました。また、とりわけ、罪をゆるすことでイスラエルの宗教的指導者たちをジレンマに陥らせました。すなわち、彼らはおののいて「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか」(マルコ2.7)といい、次の二者択一を迫られたのです。つまり、罪をゆるすイエスについて、人間でありながら神と等しい者のようにふるまうことによって神を冒漬しているというべきか、あるいは彼のいうことが真実であって、彼のうちに神のみ名が現れて現存しているというべきか、のいずれかを選択するように迫られたのです。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対する」(マタイ12∙30)といえるほどのイエスの絶対的な要求を正当化できるものは、イエスが神であるから、ということ以外にはありえません。イエスがご自分を「ヨナにまさるもの、∙ソロモンにまさるもの」(マタイ12∙41-42)、あるいは神殿より偉大なものであるといわれるとき、さらには、ご自分についての説明の中でダビデがメシアをダビデ自身の主であると呼んだことを指摘されるとき、また、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8∙58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10∙30)と断言されるときなどについても、同じことがいえます。

イエスはエルサレムの宗教指導者に、自ら行っている御父のわざのゆえにご自分を信じるよう促されました。しかし、このように信じるには、人は神秘な方法で自分自身に死に、神の恵みに引き寄せられて、天から新たに誕生しなければなりませんでした。メシアに関する旧約時代の約束がイエスにおいてこれほど驚くべき方法で実現するのを前にして、イスラエルの指導者たちは回心を求められたわけですから、イエスは漬聖者として死に値すると判断した、最高法院の悲劇的な考え違いも理解できます。このように、最高法院の議員たちは無知と不信仰によるかたくなな心とによって行動していたのでした。