1 イエスと律法

十字架上の死と復活というキリストの過越の神秘は、使徒たちおよび彼らに続く教会が世界に告げ知らせるべき福音の核心を成しています。神の救いの計画は、「ただ一度」(ヘブライ9∙26)の御子イエス・キリストのあがないの死によって実現されました。

イエスは自ら、ご自分の過越の前にも後にも、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24∙26)と、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明なさいました。教会はこの教えを忠実に受け継いできています。イエスの受難は、「長老、祭司長、律法学者たちから」排斥され(マルコ8∙31)、彼らが、「人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるため」に「異邦人に」引き渡した(マタイ20∙19)ために、歴史的な出来事となりました。

したがってわたしたちは、福音書が忠実に伝え、他の歴史資料が明らかにしている、イエスの死の状況を信仰によって解明することを通して、あがないの意味を十分に悟ることができるのです。

イエスの公生活の当初から、ファリサイ派の人々とヘロデ党の人々とは祭司長、律法学者たちと一緒になって、イエスを殺すことで意見が一致していました。イエスは、その行動(悪魔払い、罪のゆるし、安息日に行われたいやし、浄∙不浄のおきてに関する律法の独自の説明、徴税人や公の罪びととの親しさのために、悪意を持つ人々の目には悪霊に取りつかれているように見えました。彼らはイエスを、冒漬する者、偽りの預言者、つまり、律法によって石打ちの死刑に当たるとされていた宗教的犯罪を犯す者として糾弾します。

したがって、イエスの行為とことばの多くは、エルサレムの宗教指導者、ヨハネ福音書がしばしば「ユダヤ人」と呼ぶ指導者にとっては、「反対を受けるしるし」でした。イエスの行為につまずいたのは、イスラエル人の群衆よりもこの指導者たちです。ただしファリサイ派の人々とイエスとの間には、論争上の対立をするという関係があっただけではありませんでした。現に、あるファリサイ派の人々は、危険が迫っているとイエスに警告しています。また、イエスは、マルコ12章34節に登場する律法学者など、ファリサイ派のある人たちを称賛し、また何度もファリサイ派の人々の家で食事をしています。イエスは、神の民の宗教的エリートである彼らの幾つかの教説を認めます。たとえば、死者の復活、施し、断食、祈りなどのような信心業、神を父と呼ぷこと、神への愛と隣人愛とをおもなおきてとして認めることなどです。

多くのイスラエルの人の目には、イエスが選ばれた民の次のような重要な教えに反して行動しているように見えました。
――律法のおきてを文字どおりに、ファリサイ派の人々の場合は口伝の解釈に従って、完全に守ること。
――エルサレムの神殿は、神が特別に住まわれる聖所として、イスラエルの宗教活動の中心であること。
――いかなる人間にもあずかることをゆるさない栄光を持つ、唯一の神を信じること。

イエスは山上の説教の始めに、第一の契約の際シナイ山上で神から授けられた律法を、新しい契約の恵みに照らして示し、厳粛な警告を与えられました。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきりいっておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さなおきてを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国でもっとも小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」(マタイ5∙17-19)。

イエスはイスラエルのメシア、天の国でもっとも偉大なかたとして、ご自分のことばに従い、律法をきわめてささいなおきてに至るまで完全に果たさなければなりませんでした。しかも、イエスはそれを完全に果たすことのできた唯一のかたです。ユダヤ人は、自ら告自しているように、ささいなおきてをも含めて律法を完全に守ることができませんでした。例年の贖罪の日に、イスラエルの人たちが自分たちの律法違反のゆるしを神に願ったのは、このためです。実際、律法は一つの全体を成しているので、ヤコブが指摘するように、「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となる」(ヤコブ2∙10)のです。

文字として書かれていることがらだけではなく、精神においても律法を完全に遵守するという原則は、ファリサイ派の人々には大事なことでした。ファリサイ派の人々はこれを力説することにより、イエスの時代の多くのユダヤ人たちを激しい宗教的情熱に導きました。もしそれが「偽善者的」な論議に終わるのでなければ、この情熱は、すべての罪びとに代わってただ一人の正しい人が律法を完全に守るという、前代未聞の神の介入のために神の民を準備させることができるはずでした。

律法を完全に成就するということは、律法のもとに生まれた御子、神である立法者にのみできることでした。イエスの場合、律法はもはや石板ではなく、神のしもべであるイエスの「中」、「心に」(エレミヤ31∙33)刻まれたものです。事実、そのしもべは「裁きを導き出して、確かなものとし」(イザヤ42∙3)、「民の契約」(イザヤ42∙6)となられました。イエスは、「律法の書に書かれているすべてのことをたえず守らない者」が受ける「律法ののろい」をご自分の上に負われるまでに律法を成就なさいました。なぜなら、キリストは「最初の契約のもとで犯された罪のあがないとして」(ヘブライ9∙15)死んでくださったからです。

ユダヤ人や彼らの宗教的指導者の目には、イエスは「ラビ」として映りました。しばしば、律法のラビ流の解釈の枠内での論争もしておられます。しかし同時に、イエスは律法学者たちと衝突しないわけにはいきませんでした。なぜなら、彼らの間にご自分の解釈を提示するにとどまらず、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(マタイ7∙29)です。書かれた律法をモーセに授けるためにかつてシナイ山上で響きわたったその同じ神のことばが、イエスにおいて、今一度至福の山で語られるのです。このことばは、律法を廃止するのではなく、神からの最終的な解釈を供することによって律法を完成します。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、……と命じられている。しかし、わたしはいっておく」(マタイ5∙33-34)。この同じ神的権威をもって、イエスはまた、神のことばを無にしているファリサイ派の人々の「人間のいい伝え」幾つかを非難されます。

イエスは、さらに推し進めて、ユダヤ人の日常生活にとっては非常に重大な食べ物の浄∙不浄にかかわる律法を、神の側から解釈し、その「教育的な」意味を明らかにしながら、完成なさいました。「すべて外から人のからだに入るものは、人を汚すことができない。……すべての食べ物は清められる」といわれたイエスは、さらにことばを続けて、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から悪い思いが出て来るからである」(マルコ7∙18-21)といっておられます。神的権威をもって律法を決定的に解釈したイエスは∙幾人かの律法学者と衝突されました。この学者たちは、イエスの律法解釈がこれに伴う「天からのしるし」によって裏づけられたにもかかわらず、受け入れなかったのです。とくに安息日の問題に関してそうでした。イエスはしばしば、ラビ的な論証を用いて、安息日の休息は神への奉仕や治癒のわざを通してまっとうされる隣人への奉仕によっては乱されない、と指摘されます。