3 奉献生活

「福音的勧告の誓願によって成立する身分は、教会の位階的構成にかかわりがないとはいえ、教会の生命と聖性に揺るぎなく属しています。

福音的勧告、奉献生活

福音的勧告は、多様な形でキリストのすべての弟子に提示されています。全信者は完全な愛の実践に招かれていますが、奉献生活への召命を自由意志をもって受け入れた人々にとっては、神の国のための独身生活における貞潔ならびに清貧、従順を実践する義務が伴ってきます。教会によって認められた永続的な生活様式の中で、福音的勧告を生きる誓願が、まさに神への「奉献生活」の特徴なのです。

したがって奉献生活の身分とは、洗礼に根ざした、自己を神に余すところなくささげる、「より親密な」奉献を体験する生き方の一つです。奉献生活においてキリスト者は、聖霊に助けられながらより近くキリストの後に従い、すべてにまして愛すべき神に自分自身をゆだね、神の国への奉仕のための完全な愛を追求しながら、来るべき世の栄光のしるしとなり、教会の中でこれを告げ知らせることを目指します。

多くの枝を持つ一本の大木

「神がまかれた種から芽生えた木が主の畑において驚くべき多様な枝を生い茂らせるように、隠世生活や共同生活のさまざまな様式と種々の修道会が発展し、それらは会員の進歩とキリストのからだ全体の益のために寄与しています。

「教会の初期から、福音的勧告を実行することによって、いっそう自由にキリストに従い、より厳密にキリストに倣おうと志し、めいめい自分に適した方法で神に奉献した生活を送った男女がありました。これらの人のうちの多くの者は、聖霊の勧めを受けて、あるいは独居生活を営み、あるいは修道家族を作りました。教会はその権威によって、このような生活様式を快く受け入れ、認可しました」。

司教はつねに、聖霊によって教会に託された奉献生活の新しいたまものを識別するよう努める必要があります。ただし、奉献生活の新しい形態を承認することは使徒座に留保されています。

隠修生活

隠修者は、三つの福音的勧告を公に誓立するとは限りませんが、「この世からのいっそう厳しい離脱、孤独の沈黙、絶え間ない祈りおよび償いを通じて、自己の生涯を神の賛美と世の救いのためにささげる」のです。

隠修者は、キリストとの個人的な親密な交わりという教会の神秘の内的な面を人々に示します。人々の目には触れない隠修者の生活は、自分の生涯をささげたかたについての声なき説教です。なぜなら、そのかたが当人にとってはすべてだからです。荒れ野で、霊的戦いの中で十字架につけられたキリストの栄光を見いだすことこそ、彼らの特別な召命なのです。

奉献されたおとめややもめ

すでに使徒の時代から、いっそう自由な心とからだと精神とをもって余すところなく主に専念するよう召されたキリスト者のおとめややもめたちが、教会に認可を受けて、「天の国のために」(マタイ19∙12)それぞれおとめの身分または終生の貞潔を生きる決意をしてきました。

おとめたちは、「キリストにいっそう近く従う聖なる意図を表明し、承認された典礼に従って、教区司教によって神に奉献され、神の子キリストの神秘的な花嫁となり、教会の奉仕にささげられます」。この荘厳な儀式(おとめの奉献)によって、「おとめは、奉献された者、教会のキリストに対する愛の超越的なしるし、キリストの天上の花嫁ならびに来るべきいのちの終末的かたどりとなります」。

おとめの身分は奉献生活の形態に近いものであって、一般社会の中で生活する女性(あるいは隠修女性)を、それぞれに与えられた身分とカリスマに従い、祈り、償い、兄弟たちへの奉仕、使徒的活動などに従事させます。奉献されたおとめたちは、自分たちの考えをより忠実に守るために協力し合うことができます。

修道生活

キリスト教初期の時代に東方に誕生、教会により正式に設立された諸修道会の中に引き継がれた修道生活は、礼拝様式、福音的勧告の公的誓願、兄弟的共同生活、キリストと教会との一致のあかしなどによって、他の形式の奉献生活とは区別されます。

修道生活は教会の神秘に由来します。修道生活は教会がキリストからいただいたたまものであり、教会はこれを、福音的誓願を立てるように神から召された信者に、一つの恒常的な生き方として提供します。こうして、教会はキリストを現すと同時に、自らを救い主の花嫁とみなすことができるのです。修道生活は多様な形式のもとに、現代人に分かる表現様式で神の愛そのものを表すよう招かれています。

すべての修道者は、免属(教皇また他の教会権限所持者直属)であるか否かにかかわらず、教区司教の司牧任務に協力する者です。教会の宣教開始や拡張のためには、福音宣教の初めから、あらゆる形の修道生活の存在が必要でした。「歴史は、修道会が信仰を広め、新しい教会を育てるにあたって果たした大きな役割を証言しています。古代の隠遁修道会から始まって中世期の修道会、そして現代の修道会に至っています」。

「在俗会は奉献生活の会であり、そこにおいてキリスト信者は世俗のなかで生活しつつ、愛の完成を志向し、とくに内部からこの世の聖化に貢献するよう努めるものです」。

在俗会

これらの在俗会の会員は、「〔この〕聖化のために完全に、余すところなくささげられた生活」を通して、「世俗において、かつ世俗から発して、教会の福音化の使命に参与」しますが、この世にあって酵母のような役割を果たします。これらの人々のキリスト者としての生活のあかしは、この世の物を神に従って秩序づけ、また、福音の力によって社会を造り上げることを目指します。彼らは聖なるきずなを通して福音的勧告を受け入れ、固有の在俗生活のしかたに基づいた相互の交わりと兄弟愛とを実践します。

多様な形式の奉献生活の一つに「使徒的生活の会〔が〕ありますが、その会員は、修道誓願の宣立なしに、会固有の使徒的目的を追求し、固有の生活のしかたに従って兄弟的生活を共同で営みながら、会憲の遵守によって愛の完成を目指すものです。これらの会の中には、会員が」独自の会憲に従って「福音的勧告を引き受ける会も存します」。

奉献と使命  来るべき王を告げ知らせる

洗礼によってすでに神にささげられ、すべてを超えて愛すべき神に自らを奉献する者は、いっそう親密に神への奉仕に自分をささげ、教会の善のために尽くします。神への奉献の状態を通して、教会はキリストを表し、また、聖霊がいかに感嘆すべき方法で自分の内に働いておられるかを示します。したがって、福音的勧告の誓願を立てる者の使命は、まず第一に、自らの奉献を生き抜くことにあります。しかし彼らは、「その奉献によって教会への奉仕に自らをささげているがゆえに、特別に、その会に固有な様式によって、宣教活動に熱心に奉仕する義務を有します。

秘跡である教会、すなわち、神のいのちを伝えるしるし、道具である教会にあって、奉献生活はあがないの神秘の一つの特別なしるしとなっています。キリストにはり近く」従い、よりよくキリストを模倣し、ご自分を無とされたキリストを「より明確に」表すことは、キリストの心の中では、同時代の人々と「より深い」関係にあるということを意味しています。なぜなら、この「より狭い」道を歩む者は自分たちの模範によって兄弟たちを発奮させ、「真福八端の精神なしには世の姿を変えることも世を神にささげることもできないことを」明白にあかしするからです。

このあかしが修道者の身分のように公のものであれ、あるいはよりつつましい、さらに隠れたものであれ、すべての奉献者にとっては、キリストの来臨がそれぞれの生活の始まりであり、目標であることに変わりはありません。 「事実、神の民はこの地上に永続する国を持ちませんが、〔この修道身分は、〕信じるすべての入に対して、この世の中にすでに存在している天上のたまものをよりよく表すとともに、キリストのあがないによって獲得された新しい永遠の生命にっいてよりよく説明し、さらに将来の復活と天上の栄光とをよりよく予告します」。