3 教会は普遍(カトリック)である

「普遍」の意味

「カトリック」ということばは、「普遍」という意味です。これを文字どおり訳せば、「すべてに及ぶ」もしくは「すべてを含む」という意味になります。教会は次の二つの意味で普遍なのです。
まず、教会のうちにキリストが現存されるので、普遍です。「キリスト・イエスのおられるところ、そこに普遍教会があります」。教会はキリストのからだとして、その頭に結ばれて、すべてにおいてすべてを満たしているかたの満ちておられる場です。したがって、教会はキリストから、キリストが与えようとされた「救いの諸手段のすべての充満」を受けていることになります。その手段とは、正しく完全な信仰宣言、完全な秘跡生活、使徒継承による叙階された奉仕職です。この基本的意味で、教会は聖霊降臨の日から普遍なのです。またキリストの再臨の日まで、つねにそうであり続けるでしょう。

教会が普遍であるのはまた、キリストによって全人類に派遣されているからです。
「人は皆神の新しい民に加わるように招かれています。そのためにこの民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向かって、またあらゆる時代を通して広がるべきものです。それは、初めに人間性を一つのものとして造り、分散してしまったご自分の子らを、ついに一つに集めることを決定された神のご意向が成就されるためです。……神の民を飾るこの普遍性は、主ご自身からのたまものであって、カトリック教会はこのたまものによって、全人類をそのすべての富とともに、頭であるキリストのもとに、キリストの霊による一致において集中するよう、効果的に、たえず努力しているのです」。

各部分教会は「普遍」である

「キリストのこの教会は、信者の正当なすべての地方的集まりの中に真実に存在するのであって、その牧者たちに一致しているこれらの集まりそのものも、新約の中で教会と呼ばれています。……これらの教会の中で、キリストの福音の宣教によって信者が集められ、……主の晩さんの神秘が祝われます。これらの共同体の中に、たとえそれがしばしば小さく貧しく散在しているものであっても、キリストはそこに存在しておられ、キリストの力によって、一、聖、普遍、使徒継承の教会が集まるのです」。

部分教会とは、第一に教区(東方教会ではエパルキア)のことであり、使徒継承に従って叙階された司教と結ばれて、信仰と秘跡とに生きるキリスト信者の共同体を意味します。部分教会は「全教会の像に似て形造られ、それらの中に∙またそれらから、唯一単一のカトリック教会が存在します」。

諸部分教会は、その中の一つであり、「愛において首位を占める」ローマ教会との交わりによって、完全に普遍教会となっています。「ローマの教会は、より優れた起源を持つので、各教会、すなわち、世界中のすべての信者は、当然、この教会と一致していなければなりません」。「実際、人となられたみことばがわたしたちのもとにくだられてから、全世界にあるすべてのキリスト者たちの教会は当地(ローマ)の偉大な教会を唯一の礎、土台とみなしてきましたし、また今もそうです。なぜなら、主ご自身の約束に従えば、地獄の門は決してこの教会にまさったことがないからです」。

「普遍教会をそれぞれ異なった部分教会の総合体、あるいは連合体のごときものと考えてはなりません。主キリストのご意志によって、召命と使命において普遍的な教会、その同じ教会が、風土、文化、社会などを異にするところに根をおろすとき、それぞれの特徴や表現を帯びるのです」。それぞれの地方教会に固有の、きわめて多様な教会規律、典礼、神学的∙霊的伝統は「一致の中にまとまっているので、分かたれない教会の普遍性(カトリック性)をいっそう輝かしく示しています」。

カトリック教会に属する者はだれか

「すべての人が神の民の普遍的一致に招かれており、また、カトリック信者もキリストを信じる他の人々も、さらには、神の恩恵によって救いに招かれているすべての人々も、種々のしかたでこの一致に属しており、あるいは秩序づけられているのです」。

「キリストの霊を持ち、教会の制度の全体と教会に備えられたいっさいの救いの手段を受け入れ、また信仰宣言、秘跡、教会的統治および交わりのきずなによって、教皇と司教たちを通して教会を治めておられるキリストに、教会の見える組織の中で結ばれている人々は、教会の団体に完全に合体しています。しかし、たとえ教会に合体してはいても、終わりまで愛にとどまらず、『からだ』では教会のふところにとどまりながらも、『心』ではとどまっていない者は、救われないのです」。

「洗礼を受けて、キリスト信者の名をいただいてはいるが、信仰の全体を認めていないか、あるいはペトロの後継者のもとにおける交わりの一致を守らない人々については、教会は自分が多くの理由で彼らと結ばれていることを知っています」「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中にいるのです」。東方諸教会とのこのような交わりはとくに深く、「ごくわずかのことが、主のエウカリスチアの祭儀をともに挙行するのを妨げているにすぎません」。

教会と非キリスト者

「福音をまだ受けなかった人々も、いろいろな意味で神の民へ秩序づけられています」。
教会のユダヤ人との関係。新しい契約における神の民である教会は、自分の神秘を深く探るとき、ユダヤ人とのつながりを見いだしています。「この民に、神は最初に語りかけられたのです」。キリスト教ではない他の諸宗教とは違い、ユダヤ人の信仰はすでに古い契約における神の啓示にこたえるものです。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によれば、キリストも彼らから出られたのです」(ローマ9∙4-5)。なぜなら、「神のたまものと招きとは取り消されないもの」(ローマ11∙29)だからです。

そのうえ、将来を考えるときには、旧約の神の民と新しい神の民とは、類似の目標、つまりメシアの到来(あるいは再臨)を志向しています。しかしそれは、一方が、死んで復活され、主、神の子と認められたメシアであるキリストの再臨への待望であるのに対して、他方は、世の終わりのメシア到来への待望なのです。ただし後者の待望のほうは、メシアの姿がはっきりせず、キリスト・イエスを知らないか認めないという悲しい状態を伴ったものなのです。

教会のイスラム教徒との関係。「救いの計画は創造主を認める人々をも包容するものであって、そのような人々のうちには第一に、アブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判される唯一にしてあわれみ深き神を、わたしたちとともに礼拝するイスラム教徒が含まれます」。

教会とキリスト教以外の諸宗教との結びつきは、まず、人類が共通の起源と目的とを持っているということです。 「神は全人類を地の全面に住まわせられたので、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有します。また、すべての民族は唯一の終極目的を持っており、それは神なのです。神の摂理といつくしみのあかし、さらに救いのはからいは、選ばれた者が聖なる都に集められる日が来るまで、すべての人に及びます」。

教会は他の諸宗教のうちに、「まだ影と像のもとで」求められる、知られざる神、しかし遠く離れてはおられない神の探求があることを認めています。なぜなら、神はすべての人にいのちと息とすべてをお与えになり、万人が救われるのを望んでおられるからです。したがって、教会は、諸宗教の中に見いだされるよいもの、真なるものはすべて福音への準備であって、「ついには生命を得るようにとすべての人を照らされるかたから与えられたもの」とみなしています。

しかし、人間の宗教的な実践には、自分の中の神の姿をゆがめる不完全さや誤謬も見られます。 「しばしば人々は、悪魔に欺かれて、自分たちの考えにむなしく迷い、神の真理を偽りと置き替えて、創造主よりも被造物に仕えたり、あるいは神なしにこの世に生きそして死んでゆくなど絶望の極みにさらされています」。

罪によって四散し、道に迷うすべての子らを再び集めるためにこそ、御父は全人類を御子の教会に招集しようと望まれたのです。教会は、人類がその一致と救いとを見いだすはずの場です。教会は、「和解させられた世界」です。教会は、「聖霊の風にキリストの十字架の帆をいっぱいに張ってこの世を航海する」船です。教父たちが好んで用いる別のたとえによれば、大洪水から人々を救う唯一のものであったノアの箱船は教会の象徴だということになります。

「教会の外に救いはない」

教父たちがしばしば繰り返したこの主張を、どのように解釈すべきでしょうか。これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します。

聖なる教会会議(公会議)は、「聖書と伝承に基づいて∙この旅する教会が救いのために必要であると教えます。なぜならキリストのみが仲介者であり救いの道であって、そのキリストはご自分のからだすなわち教会の中で、わたしたちにとって現存するものとなるからです。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばをもって教えることによって、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中に入る教会の必要性をも同時に確認されました。したがって、カトリック教会が神によってイエス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはないでしょう」。

「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。 「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」。

「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々を、神はご自分だけがご存じの道で信仰〔それなしには神に喜ばれることはできない〕へ導くことがおできになるとはいえ、〔すべての人に〕福音をのべ伝えるという必須の義務と聖なる権利とを教会は持っています」。

宣教は教会の普遍性からの要求である

宣教命令。「『救いの普遍的秘跡』となるようにと神から諸国民のもとへ派遣された教会は、教会独自の普遍的性格そのものに促され、また、自分の創立者の命令に従いつつ、すべての人に福音をのべ伝えようと心掛けます」。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28∙19-20)。

宣教の起源と目的。キリストによって与えられた宣教命令の本源は、聖三位の永遠の愛です。「旅する教会は、その本性上、宣教することを使命とします。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源を持っているからです」。そして、この宣教の究極の目的は、人々を、愛の霊における父と子との交わりにあずからせることにあります。

宣教の動機。教会がいつの時代でも、やむにやまれぬ宣教活動の力をくみ取ったのは、万人に対する神の愛です。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(ニコリント5∙14)。事実、神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。神はあらゆる人が、真理を知ることによって救われることを望んでおられます。救いは真理のうちにあります。真理の霊の働きに従う人々はすでに救いの道の途上にあります。しかし、この真理をゆだねられてりる教会は、行って、これらの人々の願望にこたえ、真理をもたらさなければなりません。教会は、救いの普遍的計画を信じているからこそ、宣教しなければならないのです。

宣教の道。「聖霊は、教会のあらゆる使命の主要な働き手です」。宣教するようにと教会を導かれるのは聖霊です。「この使命は、貧しい人々に福音をのべ伝えるために派遣されたキリストご自身の使命を継承し、かつ歴史の流れを通してそれを展開させているものですから、教会も、キリストご自身が歩まれたそれと同じ道、すなわち貧しさ、従順、奉仕の道、そして死一キリストはこの死から、復活を通して勝利者として立ち上がられた一に至るまでの自己奉献の道を、キリストの霊に駆られて歩まなければなりません」。こうして、「殉教者の血はキリスト者の種」となるのです。

しかし、旅する教会はまた、「教会の説く教えと福音を託された者の人問的弱さとの間に大きな隔たりがある」ことをも体験しています。神の民がキリストのみ国を広めるのは、ただ、「悔い改めと刷新」の道、「狭い十字架の道を進む」ことによってのみ可能です。事実、「キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成されたように、救いの成果を人々に分かつためには教会も同じ道を歩くよう招かれています」。

教会はその使命上、「全人類とともに歩み、世と同じ地上的成り行きを経験します。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっています」。したがって、宣教の努力は忍耐を必要とします。まず初めに、キリストをまだ信じていない人々あるいは集団に福音を告げ知らせます。ついで、世における神の現存のしるしであるキリスト者共同体を設立し、地方教会を創立します。各民族の文化に福音を根づかせるためインカルチュレーション(福音の文化内開花)の過程を進めます。宣教の努力を続けるとき、挫折を経験しないわけにはいきません。「人々、団体、国民に関しては、教会は漸進的に彼らに接触し∙またその中に浸透していき、こうしてついには彼らをカトリック的豊かさの中に受け入れるのです」。

教会の宣教は、キリスト者の一致への努力を促します。というのは、「キリスト教徒の分裂は、洗礼によって教会に属していながらも教会の完全な交わりから離れている子らの中に、教会が自分に固有の完全な普遍性(カトリック性)を実現することを妨げ、そればかりでなく教会自身にとっても、生活そのものの現実の中に完全な普遍性(カトリック性)をあらゆる面から表現することがいっそう困難になる」からです。

宣教の任務には、まだ福音を受け入れていない人々との尊敬を込めた対話が含まれています。信者はこの対話によって、「いわば、神の隠れた現存のように、すでに諸民族のもとに存在した真理と恩恵のすべて」をいっそうよく理解できるようになるので、大いに益するところがあります。信者たちがまだ知らない人々に福音を告げ知らせるのは、個々人と民族の間に広まっている真理と善を固め、補完し、高めるためであり、「神の栄光をあげ、悪魔を恥じ入らせ、人間に幸せをもたらすことを目指して」、誤謬と悪から彼らを浄化するためです。