2 教会は聖である

「教会は聖であり、これを欠くことがないことを人は信仰によって信じています。事実、父と霊とともに『ただひとり聖なり』とたたえられる神の子キリストは、教会をご自分の花嫁として愛し、彼女を聖とするためおのれを彼女のために渡し、神の栄光のために彼女をご自分のからだとして自らに結び合わせ、聖霊のたまものをもって満たされました」。したがって、教会は「神の聖なる民」であり、その成員は「聖徒」と呼ばれます。

キリストに結ばれた教会は、キリストによって聖化されます。また、キリストによって、キリストにおいて人々を聖化します。「キリストにおける人間の聖化と……神の栄光こそ、教会の他のすべての働きが目的として目指していることなのです」。教会を通してのみ、「救いの諸手段のすべての充満」が得られるのです。教会の中でこそ、わたしたちは「神の恩恵により聖性を獲得するのです」。

「教会はすでに地上において、不完全ではあるが真の聖性で飾られています」。その成員が完全な聖性に至るのは、まだ先のことです。「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているキリスト信者はすべて、どのような生活条件と身分にあっても各自自分の道において、父ご自身が完全であるあの聖そのものの完成に達するよう主から招かれているのです」。

愛はすべての者が召されている聖性の魂です。愛は「成聖のすべての手段を支配し、生かし、目的に導きます」。

「わたしは、もし教会がいろいろなな異なる肢体からなりたっている一つのからだであるならば、あらゆる肢体の中でもいちばん必要で、もっとも高貴なものが欠けているはずはないと悟りました。教会にも一つの心臓があり、この心臓は愛に燃えていると悟ったのです。愛だけが教会の肢体を行動に駆り立てているのであって、万が一愛が消えるようなことがあれば、使徒たちは福音をのべるのをやめ、殉教者たちは自分の血を流すことを拒むであろうと悟りました。……わたしは悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召命を含み、愛はすべてであり、あらゆる時代、あらゆる場所を包含する、一言でいえば、愛は永遠である、と」。

「キリストは『聖にして、罪なく、汚れなく』、罪を知らず、ただ人々の罪を償うためにのみ来られたのですが、教会は自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのです」。教会の成員は、聖職者も含めて皆、罪びとであることを認めなければなりません。世の終わりが来るまでは、すべての人の中で、罪の毒麦が福音のよい種に混じっています。だから教会は、罪びとを集めているのです。この罪びとたちはキリストに救われてはいますが、つねに聖化の途上にあるのです。

「教会が自分のふところに罪びとを抱えているとはいえ聖であるのは、教会自身が恩恵の生命しか持たないからです。教会の民が聖とされるのは、その生命により生きることによってです。もしその教会から離れるならば、罪と汚れに覆われ、教会の聖性の輝きが妨げられます。教会はこれらの罪のために苦しみ、償いを行いますが、それは教会が、ギリストの御血と聖霊のたまものを通してその罪から自分の子らをいやす権能を有しているからです」。

教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます。「聖人は、教会の歴史を通してもっとも困難な時期にあって、つねに刷新の源、始まりとなった人たちでした」。事実、「聖性は、使徒的活動と宣教の努力の隠れた源泉、および絶対確実な規範なのです」。

「教会は聖なる処女において、しみもしわもない完成にすでに到達しているのですが、キリスト者は罪を克服し聖性において成長するよう、まだ努力している段階にあります。したがってマリアに目を上げます」。マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。