2 信徒

「ここでいわれている信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会の中に認可された修道身分に属する者以外のすべてのキリスト信者のことです。すなわち、洗礼によってキリストに合体され、神の民に加えられ、自分たちの様式においてキリストの祭司職∙預言職∙王職に参与するものとなり、教会と世界の中で自己の本分に応じてキリストを信ずる民全体の使命を果たすキリスト者のことです」。

信徒の召命

「信徒の独自の使命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけてゆくことによって神の国を追求することです。……彼らが密接に結ばれているすべての現世的なことがらが、たえずキリストに従って行われ、発展し、創造主とあがない主の賛美になるように、それらすべてに光をあて方向づけを与えることは、とくに彼らに託された使命です」。

社会、政治、経済の分野にキリスト教の教えと生き方を浸透させるための手段を発見し、工夫するにあたっては、信徒の自発的な働きがとくに必要です。この自発的な働きは教会生活に不可欠の要素です。 「信徒は、教会生活の最前線に立っています。信徒によってこそ、教会は人間社会に生命を与える源となります。ですから信徒は、自分たちが単に教会の一員であるということだけではなく、教会そのものであるということを、今まで以上にはっきりと自覚しなければなりません。つまり、すべての者の頭である教皇と、交わりのうちに教皇と一致した司教たちに導かれた地上の信者の共同体、これが教会なのです。

すべてのキリスト信者がそうですが、信徒は洗礼と堅信とによって神から使徒職に任じられたので、個人として、あるいは団体として、神の救いの知らせが世界中のすべての人に知られ、受け入れられるように努める義務と権利とを持っています。この義務は、人々が信徒によってしか福音を聞き、キリストを知ることができない場合には、いっそう緊急なものとなります。教会共同体の中で信徒の活動は必須であり、信徒の活動を抜きにした司牧者たちの使徒的活動は、多くの場合、十分な効果を上げえないのです。

キリストの祭司職への信徒の参与

「信徒はキリストにささげられ聖霊から塗油された者として、霊の果実が自分の中につねにより豊かに実るようにするという、すばらしい召命と手段を受けています。彼らがすべての仕事∙祈り∙使徒的活動∙結婚生活∙家庭生活∙日々の労苦∙心身の休養を聖霊において行い、なお生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらのすべてはイエス・キリストを通して神に喜ばれる霊的いけにえとなり(一ペトロ2∙5参照)、聖体祭儀の執行において主のからだの奉献とともに父に敬謙にささげられます。このように信徒もまた、どこにおいても聖なる行いをもって神に礼拝をささげる者として、世そのものを神に奉献するのです」。

父母は、「キリスト教的精神のうちに夫婦の生活を送り、子女のキリスト教教育を配慮することによって」、特別なしかたでこの聖化の任務に参与します。

信徒は必要な適性を備えているならば、恒常的に朗読奉仕者や祭壇奉仕者の奉仕職に任命されることもあります。「信徒は、奉仕者が不足し教会に必要と認められる場合には、法の規定に従い、朗読奉仕者または祭壇奉仕者ではなくとも、その若干の職務、すなわちことばの奉仕職を果たし、典礼の祈りを司式し、洗礼を授け、聖体を分配する職務を果たすことができます」。

キリストの預言職への信徒の参与

「キリストは、……聖職位階を通してばかりでなく、信徒を通しても、その預言者としての務めを果たされます。このためにキリストは信徒を証人に定め、信仰の心とことばの恩恵を授けられます」。 「人に教えて信仰に導くことは、説教者だけの働きではなく、すべての信者の務めでもあります」。

信徒はまた、自分たちの預言者的使命を福音宣教、「すなわち、生活のあかしとことばとをもってなされるキリストの宣教」によっても遂行します。信徒による「この福音宣布……は、それが世間の普通の生活の中で行われること自体から、ある独特の性格と特別な力を獲得します」。 「この使徒職は、ただ生活によるあかしのみにあるものではありません。真の使徒職はことばをもって、信じない者にも……信者にもキリストを告げ知らせる機会を捜し求めるものです」。

信徒の中で能力があり養成を受けた人たちは、要理教育、キリスト教関係の諸学の教授、広報活動の諸分野で協力することができます。

「キリスト信者は、各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権利およぴ時として義務を有します。同様にまた、信仰および道徳の十全性ならびに牧者に対する尊敬心を損なうことなく、共通の利益および人間の尊厳に留意し、自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利と義務をも有します」。

キリストの王職への信徒の参与

死に至るまでの従順によって、キリストは弟子たちに王的自由のたまものを与えられました。それは、彼らも「自己放棄と聖なる生活をもって、自分の中にある罪の支配に打ちかつ」ためでした。 「自分のからだと魂を支配し、情欲に屈しない者は自我を治める者であり、その人を王と呼ぶことができます。なぜなら、自分自身を治めることができるからです。その人は自由で、自立心が強く、罪の奴隷となることがありません」。

「そのうえ信徒は世の中に人を罪に押しやるような制度や生活条件があればこれを改善して、これらのすべてが正義の法則に基づくものとなり、また諸徳の実践の妨げよりもむしろ助けとなるように努力しなければをりません。こうすることによって、彼らは文化と人間の諸活動に道徳的価値を付与することができます」。

「〔信徒は〕司牧者の協力者として教会共同体のために奉仕するよう召されています。神が与えられた恩恵とカリスマに応じて、さまざまな役務が共同体の成長と活動のためにできます」。

教会での統治の権限の行使に、「信徒は、法の規定に従って……協力することができます」。たとえば、部分教会会議、教区代表者会議、司牧評議会に参加し、小教区の司牧任務に携わり、経済問題評議会に協力し、教会裁判所の構成員となることができます。

信者は、「教会に属する者としての自分たちに付与されている権利∙義務と、人間社会の構成員として有する権利∙義務とを、注意深く区別することを学ばなければなりません。この両者の間に調和を保つように努めなければならないのであって、人間のいかなる行為も、たとえそれが現世的なことがらに関するものであっても、神の支配から除外することはできないのですから、現世的ないかなることがらにおいてもキリスト教的良心に従わなければならないことを記憶すべきです」。

「このように信徒は皆、自分に与えられたたまもの自身によって、『キリストのたまもののはかりに従って」(エフェソ4∙7)教会自身の宣教の証人であると同時に生きた道具でもあります」。