2 キリストのからだである教会

教会はイエスとの交わりである

当初から、イエスは弟子たちと生活をともにし、彼らに神の国の神秘を明らかにし、ご自分の使命や、喜び、苦しみにあずからせてくださいました。イエスはご自分とご自分に従う者たちとのいっそう親密な交わりについて語っておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。……わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15∙4-5)と。また、ご自分のからだとわたしたちのからだとの神秘的で実在的な一致についても、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)ということばで教えられます。

イエスはご自分の姿が弟子たちの目には見えなくなったときにも、彼らをみなしごにはされませんでした。世の終わりまでともにおられると約束し、聖霊を遣わされました。こうして、イエスとの交わりは、ある意味でいっそう親密なものとなりました。「子は自分の霊を与えることによって、諸国民のうちから呼び集めた自分の兄弟たちを、自分のからだとして神秘的に構成されたのです」。

教会をからだとみなすたとえは、教会とキリストとの間に存在する親密なきずなに光を投じます。教会はただキリストを囲んで集められたのではなく、キリストのうちに、そのからだのうちに統合されているのです。ところで、キリストのからだである教会の三つの面を、とくに浮き彫りにする必要があります。すなわち、キリストに結ばれていることによる教会所属者相互の一致、からだの頭としてのキリスト、キリストの花嫁としての教会です。

「ただ一つのからだ」

神のことばを受け入れ、キリストのからだの肢体となる信者は、キリストに密接に結ばれた者になります。「このからだの中で、キリストの生命が信じる者のうちに広げ与えられるのであって、彼らは諸秘跡を通して、苦しみを受けそして栄光を受けたキリストに、神秘的実在的な方法で結ばれるのです」。これはとくに、わたしたちをキリストの死と復活とに結びつける洗礼について、また、「わたしたちが主のからだに参与し、主との交わりとわたしたち相互の交わりにまで高められる」聖体の秘跡に関して当てはまります。

からだは一つであっても、肢体は多様です。「キリストのからだの建設においても、それぞれ肢体と職務の相違があります。霊は一つであって、その豊かな富にふさわしく、また役務の必要に応じて、教会の益のために、いろいろのたまものを分け与えられます」。神秘体が一つであることは、信者の間に愛を生み、はぐくみます。「このために、一つの肢体が苦しめば、すべての肢体はともに苦しみ、一つの肢体が尊ばれれば、すべての肢体がともに喜ぶのです」。さらに、キリストのからだが一つであれば、あらゆる人間的分裂を克服することができます。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3∙27-28)。

キリストがこのからだの頭である

キリストは「そのからだである教会の頭です」(コロサイ1∙18)。キリストは創造とあがないの源であり、御父の栄光に上げられ、「すべてのことにおいて第一の者となられ」(コロサィ1∙18)ました。とくに教会に対してそうであり、教会を通してご自分の支配を万物に及ぼされます。

キリストはわたしたちをご自分の過越と一体化させてくださいます。キリストのからだのあらゆる肢体は、おのおののうちに「キリストが形づくられるまで」(ガラテヤ4・19)キリストに似た者となるよう努力しなければならないのです。「〔そのため〕わたしたちはキリストの生命の諸神秘のうちに摂収され、……頭に結ばれている肢体としてキリストの苦難にあずかり、キリストとともに栄光を受けるために、今はキリストとともに苦しみを耐え忍ぶのです」。

キリストはわたしたちの成長に必要なものをお与えになります。キリストは、頭であるご自分に向けてわたしたちを成長させるため、ご自分のからだである教会のうちに、わたしたちが救いの途上で相互に助け合う手だてとなるたまものと奉仕とを用意してくださいます。

したがって、キリストと教会とは「全キリスト(Christus totus)」を形づくるのです。教会はキリストと一つです。聖人たちはこの一致を強く自覚しています。 「だから喜び、感謝しましょう。わたしたちはただキリスト者になっただけではなく、キリストご自身になったのです。皆さん、神がキリストを頭としてわたしたちにお与えになった恵みのほどがわかりますか。驚嘆し、喜んでください。わたしたちはキリストとなりました。実際、キリストは頭であり、わたしたちはその肢体なのですから、キリストとわたしたちとで、一人の人間全体を形づくっているのです。……キリストの完全な姿、それは頭と肢体です。頭と肢体、といいましたが、それはどういうことでしょうか。キリストと教会にほかなりません」。
「わたしたちのあがない主は、ご自分が担われた教会とただ一つの、同じかたとなられました」。
「頭と肢体とは、いわば、神秘的な一つのペルソナです」。
裁判官に対するジャンヌ∙ダルクの次のことばが、聖なる教会博士たちの信仰を要約し、信仰者の良識を表しています。「イエス・キリストと教会ですが、わたしの考えでは、それは一つの全体で、これに異論の余地はないはずです」。

教会はキリストの花嫁である

キリストと教会とは頭と肢体として一つのものですが、互いに関係している区別された二つのものでもあります。この面は、しばしば夫と妻の関係で表されています。教会の花婿であるキリストという考えは預言者たちによって準備され、洗礼者ヨハネによって宣言されました。キリストは、ご自身が「花婿」(マルコ2∙19)であるといわれました。使徒パウロは教会とキリストのからだの部分である各信者とを、主とただ一つの霊となるために「婚約した」キリストの花嫁である、と述べています。教会は汚れない小羊の汚れない花嫁、キリストに愛された花嫁であり、キリストはこの花嫁を「聖なるものと」(エフェソ5∙26)するためにご自分をささげ、永遠の契約によって教会をご自分に結びつけ、ご自身のからだのようにたえず配慮しておられるのです。

「これは全キリスト、頭とからだ、多くのものからなるただ一つのものです。……話すのが頭であろうと、肢体であろうと、ほかならぬキリストが話しておられるのです。キリストは時には頭の役を取り、時には、からだの役を取られて話されます。『「二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです』(エフェソ5∙31-32)といわれているではありませんか。また、主ご自身も福音書の中で、『二人はもはや別々ではなく、一体である』といっておられます(マタイ19∙6)。ご存じのように、実際は異なる二人の者がいるわけですが、それでも、二人は夫婦の契りでただ一体となります。……頭としては『夫』といわれ、からだとしては『妻』といわれるのです」。