1 教会の名と像

「キリストは諸民族の光なのですから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての造られたものに福音を告げることによって、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照らすことをせつに望みます」。このことばは、第2バチカン公会議の「教会憲章』の冒頭に記されているものです。この冒頭のことばをもって、公会議は、教会に関する信仰箇条がキリスト・イエスに関する信仰箇条にまったく依存していることを表しています。教会は、イエスの光以外の光を持ちません。教会は、教父たちがよく用いる比喩に従えば、太陽の反射によって輝く月のようなものです。

教会に関する信仰箇条はまた、それに先だつ聖霊に関する信仰箇条にも全面的に依存しています。「事実、聖霊がすべての聖性の源、贈り主であることを示した後、わたしたちは、まさにその聖霊が教会に聖性を備えたことを公言します」。教父たちの表現を借りれば、教会は「霊が咲き誇る」場です。

教会が「聖」、「普遍」であり、また「一」、「使徒継承」(ニケア∙コンスタンチノープル信条の付加)であると信じることは、父と子と聖霊である神への信仰と切り離すことができません。しかしまたわたしたちは、使徒信条の中で、教会への信仰(《Credo Ecclesiam〉)と神への信仰(《Credo in De㎜》)とを違った表現を用いて宣言します(神の場合はinを付けますが、教会の場合は付けません)。それは、神とそのわざである教会とを混同しないため、また神がご自分の教会にゆだねられたすぺての恵みをはづきりと神ご自身のいつくしみに帰すためです。

「教会」というギリシア語のエクレシア(έκκλεσίαはέκ-καλειν〈呼び出す〉に由来)は「招集」を意味します。人々の集いの意味ですが、宗教的な集いを意味することが多かったのです。この語はギリシア語訳旧約聖書の中で、選ばれた民の神前集会、とくに、イスラエル民族が律法を授かり、神の聖なる民とされたシナイでの集会を表すため、頻繁に用いられています。キリストを信じる人々の最初の共同体は、自らを「教会」と呼ぷことにより、この集会の継承者であると自認していました。教会の中で、神は全地の果てからご自分の民を「招集されます」。その派生語として英語のChurchやドイツ語のKircheが生まれたKるμα:加(キュリアケー)は、「主に属するもの」という意味です。

キリスト教用語の「教会」は、典礼集会を指すと同時に、キリスト者の地域共同体、あるいはすべてのキリスト者の普遍的集いを示します。この三つの意味は実際には切り離すことができません。「教会」とは、神が全世界からお集めになる神の民のことです一の教会は地域共同体に存在し∙典礼集会、とくにエウカリスチアの集会として現れます。教会は神のことばとキリストの聖体とによって生かされて、キリストのからだとなっていくのです。

教会のさまざまな象徴

聖書には相互に関連し合う数多くの像と表象とがあり、神の啓示はこれらを通して教会のくみ尽くしえない神秘を示しています。旧約聖書に由来するさまざまな像は、神の民という一つの基本的概念を多様な形で表すものです。新約聖書では、これらのすべての像はキリストがこの民の「頭」となり、民がそのからだとなる事実から、新しい中心を見いだしています。この中心を軸として、「牧者生活、耕作一建築∙あるいはま嫁庭∙婚礼などから引き出された」種々の像がまとめられています。

「教会は羊のさくであり、キリストはその必要唯一の入り口です。教会はまた羊の群れであり、神は自らその牧者となることを予告されました。この群れの羊たちは、人間である牧者たちに牧されているにせよ、キリスト自らによってたえず導かれ養われています。キリストはご自分の生命を羊たちのために与えたよき牧者であり、牧者たちの頭です」。

「教会は耕作地もしくは神の畑です。この畑に古いオリーブの木が成長します。旧約の太祖たちはその木の聖なる根であり一その木においてユダヤ人と異邦人との和解が行われましたし、またこれからも行われるでしょう。教会は選らばれたぶどう畑として天上の農夫によって植えられました。キリストは真のぶどうの木であって、枝であるわたしたちに生命と実を結ぶ力を与えます。わたしたちは教会を通してキリストのうちにとどまるのであり、キリストなしには何もなしえません」。

「教会はまた、たびたび神の建築と呼ばれます。主もご自分を、家を建てる人々一こよって捨てられはしたが、かえってすみの親石となった石にたとえておられます(マタィ21.42および類似の箇所:使徒言行録4∙11、一ペトロ2∙7、詩編118∙22)。教会は使徒によってこの土台の上に建てられ、この土台から堅固さと結集力を受けます。この建物は種々の名称をもって飾られます。すなわち、神の家族が住む神の家、霊における神の住居、人々のもとにおける神の天幕、またとくに聖なる神殿と呼ばれ、それが石造りの聖堂によって象徴されて、聖なる諸教父からたたえられ、典礼においては正当に、聖なる都、新しいエルサレムに比較されています。わたしたちはこの聖なる都において、生きた石としてこの地上で建設に加えられます。ヨハネは、この聖なる都を、世界の一新のときに神のもとより天からくだってくるもの、『夫のために着飾り準備の整った花嫁』として観想しています(黙示録21∙1-2)」。

「教会は『上にあるエルサレム』、『わたしたちの母』(ガラテヤ4∙26)とも呼ばれ、汚れなき小羊の汚れなき花嫁として描かれます。キリストはこの花嫁を『愛し、彼女を聖とするために、おのれを彼女のために渡されました』(エフェソ5∙25-26)。キリストは彼女を、解きえない契りをもって、ご自分に結び合わせられました。そして彼女をたえず『養いはぐくまれます』(エフェソ5∙29)」。