1 教会の位階制度

「キリスト信者とは、洗礼によってキリストに合体されたことにより神の民とされた者です。キリスト信者はこのゆえに、各人各様に、キリストの、祭司的、預言者的および王的任務にあずかり、各自に固有の立場に応じて、神が教会にこの世で果たすように託した使命を実践するよう召されています」。

「すべてのキリスト信者は、キリストにおける新生のゆえに、尊厳性においても行為においても真に平等ですから、皆、それぞれ固有の立場と任務に応じて、キリストのからだの建設に協働します」。

キリストはご自分のからだの部分の間に違いがあることを定めましたが、まさにその違いがからだの一致と使命の遂行に役立ちます。なぜなら、「教会の中には種々の役職がありますが、使命はただ一つだからです。使徒とその後継者は、主の名(とその権能)によって教え、聖化し、治める任務をキリストから受けました。しかし、信徒もまたキリストの祭司職、預言職、王職にあずかる者であり、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすのです」。さらに、「聖職者の中にも、信徒の中にも、……福音的勧告の遵守の誓約によって、それぞれ特別のしかたで神に奉献され、教会の救いの使命に奉仕するキリスト信者がいます」。

教会における奉仕職の根拠

キリストご自身が、教会における奉仕職の源です。キリストがこれを定め、これに権威と使命、方向と目的とをお与えになりました。 「主キリストは、神の民を牧し、またつねに発展させるために、ご自分の教会の中に、からだ全体の善を目指す種々の役職を制定されました。事実、聖なる権能を有する役職者は、自らの兄弟たちに奉仕するのであって、それは、神の民に属するすべての人が、…救いに到達するようになるためです」。

「聞いたことのないかたを、どうして信じられよう。のべ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうしてのべ伝えることができよう」(ローマ10∙14-15)。個人であれ、集団であれ、いかなる人も、自分で自分に福音を告げることはできません。「信仰は聞くことによって始まります」(ローマ10∙17)。だれも、自分で自分に福音を告げ知らせる命令と使命を与えることはできません。主から遣わされた者が、自分の権威ではなくキリストの権威によって語り、行動するのです。しかも、共同体の一員としてではなく、キリストの名によって共同体に語ります。だれも、自分で自分に恵みを授けることはできません。恵みは与えられ、差し出されるものです。このために、権威と資格とをキリストから受けた恵みの奉仕者が存在しなければなりません。司教と司祭は、頭であるキリストの代理者として働く使命と権能(「聖なる権限」)とを受け、助祭は、司教およびその司祭団と一致しながら、典礼とことばと愛の「助祭職」によって神の民に仕える力を受けているのです。キリストから遣わされた者たちが、自分自身では行うことも与えることもできないことを、神のたまものによって行い、与えることを可能にするこの奉仕の務めを、教会の伝統は「秘跡」と呼んでいます。教会の奉仕の務めは、固有の秘跡によって授けられるのです。

教会の役務の秘跡的本性と密接に結ばれているのは、仕えるという特質です。事実、使命と権威とをお与えになるキリストにまったく依存する者として、役務者は真に「キリストのしもべ」です。これは、わたしたちのために「しもべの身分」(フィリピ2∙7)を進んで取られたキリストの姿に倣うものです。役務者が奉仕者として伝えることばと恵みは、自分たちのものではなくキリストのもので、キリストがこれらを他の人々のために彼らにゆだねたのです。ですから、役務者は進んで万人のしもべとなります。

同様に、教会の役務が団体的性格を持つのも、その秘跡性に由来します。事実、宣教の当初から、主イエスは、「新たなるイスラエルの芽生えであったと同時に、聖なる位階制度の始まり」でもある「十二人」を定められました。この十二人はともに選ばれ、ともに派遣され、その兄弟的一致はすべての信者の兄弟的交わりに奉仕するものとなったのです。使徒団のこの一致は、三位一体の交わりの反映でもありあかしでもあるのです。それゆえ、各司教は、ペトロの後継者でもあり司教団の頭でもあるローマの教皇と結ばれている司教団の中で、それぞれの奉仕職を行使します。司祭たちは司教の指導のもとに、教区の司祭団の中でそれぞれの奉仕職を果たします。

さらに、教会の役務が一人ひとりの人間にゆだねられているということも、その秘跡性に由来します。キリストの奉仕者は共同で行動しながら、またつねに一人ひとりの人間として行動しています。各自は個々に召されているのです。「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21∙22)とキリストはいわれました。こうして、各自は共同の使命の中で、一人の人間として証人となり、使命を与えられたかたの前で責任を負い、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」、「あなたの罪をゆるします」といいながら、「キリストとして」人間各自のために行動します。

したがって、教会における秘跡に基づく奉仕は、キリストの名で行われます。それは個人的な性質のものであると同時に団体的な形態を持つものでもあります。このことは、司教団とその頭であるペトロの後継者とを結ぶきずな、自分の部分教会に対する司教の司牧責任と普遍教会に対する司教団の共同の配慮との関係において現れます。

司教団と、その頭である教皇

キリストは十二人を立てたとき、「団体すなわち永続的な集団の形に制定され、彼らの中からペトロを選んでその頭とされました」。「主の制定によって、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体を構成していると同様の理由で、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれています」。

主キリストはペトロの名を与えられたシモンだけを教会の岩として、そのかぎを渡し、群れ全体の牧者に立てられました。「しかし、ペトロに与えられた結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられたことは明らかです」。ペトロと他の使徒たちとのこの司牧の務めは、教会の土台を成しています。これは、教皇を頭とする司教たちによって継承されています。

ローマの司教、ペトロの後継者である教皇は、「司教たちの一致と信者の大きな群れの一致との、永久の見える源泉であり基礎です」。「事実、ローマ教皇はその任務、すなわち、キリストの代理者ならびに全教会の牧者としての任務の力によって、教会の上に完全∙最高∙普遍の権能を有し、それをつねに自由に行使することができます。

「司教団体すなわち司教団は、ペトロの後継者たるローマ教皇がその頭としてともに考えられるのでなければ、権威を持つことはありません」。この司教団も、それ自体として「全教会の上に最高、完全な権能を有する主体でもあります。ただし、この権能は、ローマ教皇が同意するときだけにしか行使できません」。

「司教団は普遍教会に対する権限を公会議において荘厳なしかたで行使します」。しかし「ペトロの後継者によって公会議として確認されたか、あるいは少なくとも受け入れられたものでなければ、決して公会議ではありえません」。

「この団体は多くの構成員から成るものとしては神の民の多様性と普遍性を示し、一人の頭の下に集められたものとしてはキリストの群れの一致を表しています」。

「各司教は、おのおのの部分教会における一致の見える根拠であり基礎です」。各司教は、個別的には司祭と助祭に補佐され、「神の民の中で自分に任された部分の上にその司牧統治権を行使します」。しかし、司教団の一員としては、各自は全教会に対する配慮を分かち持っています。司教はこの配慮の任務をまず、「普遍教会の一部として自分の教会をよく治めることにより」果たします。またそうすることによって司教は、「諸教会のからだでもある全神秘体のために」寄与します。司教の配慮は、とくに貧しい人々、信仰のために迫害されている人々、全世界で働く宣教師たちに向けられるべきです。

互いに隣接し同じ文化に属する部分教会は、教会管区を成したり、総大司教区や(教会)地方区と呼ばれているいっそう広範な地域を形成したりします。これらの地域の司教たちは集まって代表者会議、もしくは管区∙地方区会議を開くことができます。「同じように、諸司教団は、団体意識が具体的応用にまで導かれるように、今日多様豊富な寄与をすることができます。

教える任務

主の命令によれば、司教たちの「第一の義務は」、協力者である司祭たちとともに、「神の福音をすべての人に告げることです」。司教は「信仰の伝達者であって、新しい弟子たちをキリストに導く」、「キリストの権威を帯びている」使徒伝来の信仰の「真正なる師」です。

教会が使徒たちから伝えられた信仰を純粋に保つため、キリストは、教会が真理そのものであるご自分の不可謬性を分かち持つように定められました。教会の生きた教導職の指導のもとに、神の民は「超自然的な信仰の心によって……信仰を損なうことなく固く守ります。

教導職の使命は、神がキリストによってご自分の民と結ばれた契約の決定的性格を帯びています。この教導職は神の民を逸脱と誤りから守り、真正な信仰を誤りなく宣言する客観的な可能性を保証しなければなりません。したがって、教導職の司牧的任務は、神の民が自由をもたらす真理の中にとどまるように配慮することを目指しています。キリストは司牧者たちにこの任務を果たさせるため、信仰と道徳を誤りなく教えるというカリスマを付与されました。このカリスマは幾つかのしかたで行使されます。

「司教団体の頭であるローマ教皇は、その職務の権能により、この不謬性を持つのであって、それは自分の兄弟たちを信仰に固める任を持つすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときです。……教会に約束された不謬性は、司教団体がペトロの後継者とともにその最高の教職を行使するとき、司教団体の中にも存在します。それはとくに公会議において行使されます。教会が、その最高の教導職によって、あることがらを「信ずべき神の啓示として」、またキリストの教えとして宣言するとき、それらの決定については「信仰の従順による同意が要求されます」。この不謬性は、「神の啓示の遺産の広がりと同じ広がりを有します」。

神の助けは、ペトロの後継者と一致して教える使徒の後継者たちが、またとくに全教会の牧者であるローマの司教が、不謬の教義決定でも「決定的なしかた」での宣言でもなく、通常の教導職を行使して、啓示をよりよく理解させるための信仰∙道徳に関する教えを提示するときにも、与えられます。この通常の教えに対して、信者は「敬謙従順な心をもってそれに同意しなければなりません」。この同意は信仰の同意とは異なってはいても、それに沿うものです。

聖化する任務

司教はまた、「『最高の祭司職の恩恵の管理者』です」。司教はこの責任をとくに、自らささげるエウカリスチア(感謝の祭儀)において、あるいは協力者である司祭たちによってささげられるようにするエウカリスチアにおいて果たします。なぜなら、エウカリスチアは部分教会の生活の核心を成しているからです。司教と司祭たちは自分たちの祈りや仕事によって、ことばや秘跡の奉仕を通して教会を聖化します。また彼らは、「ゆだねられている人々に対して権威を振り回す」ことによってではなく、「群れの模範に」(一ペトロ5∙3)なることによって、教会を聖化します。こうして、「自分にゆだねられた群れとともに永遠の生命に達します」。

統治する任務

「司教はキリストの代理者および使者として、自分たちにゆだねられたそれぞれの部分教会を助言、勧告、模範をもって、なおまた権威と聖なる権能をもって統治します」。ただしその権威と権能は、師であるキリストと同じ奉仕の精神で部分教会を育成するために行使されなければなりません。

「司教がキリストの名において自ら行使するこの権能は、たとえその行使が最終的には教会の最高権威者によって指揮されるものであっても、司教にとって固有の、本来の直接な権能です」。しかし、司教たちを教皇の代理者とみなすことは正しくありません。なぜなら、教皇の全教会に対する本来の直接の権威は、司教たちの権威を無効にするものではなく、かえって確認し、擁護するものだからです。司教たちの権威は、教皇の指導のもとに全教会との交わりの中で行使されるべきものです。

よい牧者であるキリストは、司教の司牧的任務の模範であり、原型です。司教は自分自身の弱さを自覚して、「無知な人々や迷っている人々に同情することができます。配下の人々を自分の真実の子供のようにいつくしみ、……彼らに聞くことを拒んではなりません。……教会がイエス・キリストに一致し、イエス・キリストが父に一致しておられるように、信者たちは司教に一致しなければなりません」。 「皆さん、イエス・キリストが御父に従われたように司教に従い、使徒たちに従うように司祭に従いなさい。助祭を、神のおきてのように尊敬してください。だれであれ、教会に関することは司教を抜きにして行ってはいけません」。