4 ときが満ちた時点でのキリストの霊

先駆者、預言者、洗礼者であるヨハネ

「神から遺わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(ヨハネ1∙6)。ヨハネは「母の胎にいるときから聖霊に満たされて」(ルカ1∙15)いました。それは、おとめマリアが聖霊によって宿されたばかりのキリストご自身の力によるものです。こうして、マリアのエリサベト「訪問」は、神のその民への訪れとなりました。

ヨハネは「来るはずのエリヤ」です。霊の火がそのうちに住み、訪れようとしておられる主の先駆者として進ませます。先駆者ヨハネをもって、聖霊は、「準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1∙17)というわざを完了なさいます。

ヨハネは「預言者以上の者」です。聖霊はヨハネをもって、「預言者たちを通して話される」ことを終了します。ヨハネは、エリヤによって始まった預言者たちの時代に終止符を打ちます。彼は、イスラエルの慰めが近づいていることを告げる、慰め主そのものの「声」です。真理の霊が行うように、ヨハネは「あかしをするため」「光についてあかしをするため」(ヨハネ1∙7)に来たのです。このように、ヨハネにおいて、霊は「預言者たちが探求したこと」、天使たちが「願っていたこと」をまっとうされます。「『”霊”がくだって、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』。わたしはそれを見た。だから、このかたこそ神の子であるとあかししたのである。……見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1∙33-36)。

聖霊は、人間を再び「神に似たもの」とするわざを、洗礼者ヨハネの働きによってあらかじめ示し始められます。そしてそれを、キリストとともにキリストにおいて実現されます。ヨハネの洗礼は人間を悔い改めさせるためのものでしたが、水と霊とによる洗礼は新しい誕生をもたらすものとなります。

「恵みあふれたかた、喜びなさい」

この上なく聖なる神の母、終生おとめであるマリアは、時が満ちた時点での御子と聖霊の派遣による何ものにも代えがたいすばらしい成果なのです。救いの計画の中で初めて、御父は御子と聖霊とが人間の間に住むことのおできになる住まいを見つけられます。ご自分の霊がこれを整えられたからです。この意味で、教会の伝承はしばしば、知恵に関するもっとも美しい聖書のテキストをマリアに当てはめて解釈しています。マリアは、典礼の中で「英知の座」として示され、たたえられています。マリアのうちに、霊がキリストと教会とにおいて成し遂げようとされる「神の偉大なわざ」が現れ始めたのです。

聖霊は、マリアを恵みによって準備されました。「神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いるキリストの母は、「恵みに満ちあふれたかた」でなければなりませんでした。マリアは、無償の恵みによって、人々の間でもっともつつましいかた、全能者のえもいわれぬたまものをもっとも素直に受け止めることができる者として、原罪の汚れなく宿られました。ですから、天使ガブリエルがマリアに、「シオンの娘」として、「喜びなさい」とあいさつしたのは、まことにふさわしいことでした。マリアが、永遠の御子を懐妊したときに歌った賛歌の中で、聖霊において御父にささげた感謝は、実は神の民全体、つまり全教会の感謝なのです。

聖霊はマリアにおいて、御父のいつくしみ深い計画を実現されます。マリアは聖霊によって神の御子を懐妊し、出産します。そして、おとめでありながら、聖霊と信仰との力によって比類のない母となります。

聖霊はマリアにおいて、おとめの子となられた御父の御子を現されます。マリアは神の決定的な顕現の「燃える柴」なのです。聖霊に満たされたマリアは、みことばを自分のからだから生まれた人間として示し、「貧しい人々」と諸国民の初穂となる人々に御子を知らせます。

聖霊はマリアを通して、神の慈愛(神の「善意」)の的である人々をキリストとの交わりに迎え入れ始められます。謙虚な人たちが、いつも真っ先にキリストを迎えています。羊飼い、占星術の学者たち、シメオン、アンナ、カナの夫婦、そして最初の弟子たちがそうです。

霊のこの働きの終わりに、マリアは、あの「婦人」、「すべていのちあるものの母」である新しいエバ、「全キリスト」の母となります。マリアはまさにこのような資格で、聖霊降臨の朝、霊が教会の誕生とともに始めようとする「終わりの時代」の始まりに、「心を合わせて熱心に祈〔る〕」(使徒言行録1∙14)使徒たちの間にいるのです。

キリスト・イエス

時が満ちて御子と聖霊とが果たされたすべての働きは、その受肉以来、御子が御父の霊によって油注がれたかたであるということにかかわるものです。イエスはキリスト、メシアなのです。
信条の第2章全体は、この光のもとで読まなければなりません。キリストのわざはすべて、御子と聖霊との共同の働きです。ここでは、イエスによる聖霊の約束と、栄光を受けたキリストが聖霊をお与えになったことについて述べるにとどめます。

イエスは、死と復活とによって栄光を受けるまでは、聖霊について完全には明かしておられません。とはいえ、たとえば群衆に教えながら、ご自分の肉が人々のいのちの糧であると明かされたときのように、少しずつ教えておられます。また、ニコデモ、サマリアの女、仮庵祭に加わった人たちにも教えておられます。弟子たちには、祈りと、弟子たちが立てるべきあかしに関する教えの中で、公然と聖霊について語っておられます。

イエスは、栄光を受ける「時」が訪れたときに、はじめて聖霊の到来を約束されました。なぜなら、イエスの死と復活とは先祖たちになされた約束の成就だからです。イエスの祈りに答えて、御父が真理の霊、別の弁護者をお与えになります。イエスの名によって、御父が聖霊をお遣わしになるのです。イエスは御父のもとから聖霊をお遣わしになります。それは、聖霊が御父から発出しているからです。聖霊がおいでになって、わたしたちは聖霊を知るでしょう。聖霊はいつまでもわたしたちとともにおり、わたしたちとともにとどまり、すべてを教え、キリストがわたしたちに話されたすべてを思い起こさせ、キリストをあかしし、わたしたちを真理のすべてに導き、キリストに栄光を帰されるでしょう。世に関していえば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにされるのです。

ついに、イエスの「時」が到来します。イエスは死に直面して、ご自分の霊を御父の手におゆだねになります。そのとき、イエスは死に打ちかたれました。「御父の栄光によって死者の中から復活させられ」(ローマ6∙4)るや、弟子たちに「息を吹きかけ」て、聖霊をお与えになります。その「時」以来、キリストと聖霊との派遣は教会の派遣となるのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20∙21)。