3 約束の時代の霊と神のことば

初めから「時の満ちる」まで、みことばと御父の霊との共同の使命は隠されてはいたものの、すでに行われていたのです。その間、神の霊はメシアの時代を準備され、両者ともまだ完全に明らかにされてはいませんでしたが、すでに、待望の的となり、両者が現れるとき受け入れられるよう、約束されていました。ですから、教会は旧約聖書を読むとき、「預言者たちを通して語られた」霊がキリストについて何を示されたのかを、その中に探し求めるのです。

ここで「預言者たち」といわれているのは、旧約時代であれ新約時代であれ、神のことばの告知や聖書の執筆に際して聖霊が霊感を与えたすべての人のことであると、教会は信じ考えています。ユダヤ人の伝統は、旧約聖書を、律法の書(モーセ五書)、預言者の書(キリスト教の用語で歴史書と預言書といわれるもの)、および諸書(とくに知恵文学に属するもの、わけても詩編)の三つに区別しています。

創造において

すべての被造物の存在といのちの源は、神のことばとその息吹です。「被造物を治め、聖化し、生かすことは、聖霊にふさわしい働きです。聖霊は御父および御子と同一実体の神だからです。……神として、すべての被造物を力づけ、それらを御父および御子のうちに保たれるのです」。

「人間に関していえば、神はまさにご自分の両手(すなわち、御子と聖霊)をもって人間を造り上げられました。……見えるものもまた神の姿を現すように、造り上げた肉の上に、ご自分の姿を描かれました」。

約束の霊

人間は罪と死によって醜く変貌しましたが、それでもなお「神にかたどられたもの」、御子にかたどられたものです。とはいえ、「神の栄光を受けられなくなり」、神に「似たもの」ではなくなりました。アブラハムになされた約束で開始した救いのわざは、御子ご自身が「人間の姿」を取ることにより、人間に栄光、すなわち「いのちを与える」霊を再び与えて、御父の「似姿」を取り戻させました。

神は、あらゆる人間的な予想に反して、アブラハムに子孫を約束されますが、それは信仰と聖霊の力との実りでした。彼の子孫において地上のすべての民は祝福されるでしょう。この子孫とはキリストであり、キリストによって聖霊が注がれ、散らされている神の子たちは一つに集められるのです。神は、誓約によって自らに義務を負わせることによって、最愛の御子とご自分のものとされた民のあがないを準備される約束の霊とを与えるという義務も自らに負わせられたのです。

神の顕現と律法に導かれて

族長たちからモーセやヨシュア、そして偉大な預言者たちの使命を開始させる神の幻視のときまで、神の顕現が約束の道を照らし続けます。これらの顕現において、神のみことば(御子)は聖霊の雲の中ですでに「覆われた」形で啓示されていたのだと、キリスト教の伝承はつねに認めてきました。

こうした神の教育法は、とくに律法の授与に表されています。律法は、民をキリストに導く「養育係」のようなものとして与えられましだ。しかし、神の「似姿」を失った人間を救うためには無力で、しかも、ますます罪を知らせるにすぎなかったため、聖霊への待望をかきたてたのです。詩編のうめき声が、これをあかししています。

王国時代とバビロン捕囚時代において

約束と契約のしるしである律法は、アブラハムの信仰から生まれた民の心と制度とを統御するはずでした。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、……あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19∙5-6)と神はいわれます。しかし、ダビデの後、イスラエル民族は誘惑に負け、他の国々のような王国になってしまいました。ところが、ダビデになされた約束の王国は聖霊のわざとなります。すなわち霊によって貧しい人々のものとなるのです。

律法を無視することや契約への不忠実は死をもたらします。バビロン捕囚はこの死です。これは、約束の挫折に見えても、実際は救う神の神秘な忠実さを示し、約束された霊による再興の初めとなるものでした。神の民はこの浄化に耐えなければなりませんでした。神の計画の中で、バビロン捕囚はすでに十字架の影に覆われています。そして、捕囚から帰還する貧しい残りの者は、きわめて明白に教会を示す予型の一つとなっているのです。

メシアとその霊への待望

「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43∙19)。預言の二つの路線、すなわちメシアヘの待望および新しい霊の告知の路線は、徐々に発展しながら、「イスラエルの慰め」と「エルサレムの救い」(ルカ2∙25,38)を待望する小さな「残りの者」、貧しい民に集中していきまず。 イエスがご自分に関する預言をどのように成就されたかは、すでに説明しました。ここでは、メシアとその霊との関係がよりはっきりと表れている預言だけに限定して述べます。

待望のメシアの姿の特徴は、(「イザヤは、〔キリストの〕栄光を見た」〈ヨハネ12∙41〉という)インマヌエルの書、とくにイザヤのll章1から2節で現れはじめます。
「エッサイの株からひとつの芽がもえいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、おそれ敬う霊」。

メシアの姿の特徴は、とくに主のしもべの歌の中に示されます。これらの歌はイエスの受難の意味を告げ、また、イエスが多くの人を生かすためどのように聖霊を注ぐかを表しています。イエスがこれを成し遂げるのは、外部からの働きによってではなく、「しもべの身分」(フィリピ2∙7)になられることによってなのです。彼はわたしたちの死をご自分の身に受け、ご自分のいのちの霊をわたしたちに与えることができるのです。

そこでキリストは、イザヤの次のくだりをご自分に当てはめながら、福音を告げ知らせ始められます(ルカ4∙18-19参照)。 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである」。

聖霊の派遣に直接かかわりのある預言のくだりは、神が約束のことばを用いて、民の心にご自分の愛と忠実を表しながら語られる神託の部分ですが、聖ペトロは聖軍降臨の朝に、これが成就したことを宣言することになります。これらの約束によれば、「終わりの時に」、主の霊が人々の心を一新し、新しいおきてをそのうちに刻み、四散し分裂していた民を集め、和解させ、最初の被造界を新にしてくださるはずです。そして、神はそこで、人間とともに平和に住まわれます。

「貧しい人々」、神の神秘な意図に完全に身をゆだねた謙虚で柔和な人々、人間の正義ではなくメシアの正義を待望する人々からなる民が存在し続けることができたのは、実は、約束の時代の間キリストの到来に備えるためになされた聖霊の隠れた偉大な働きだったのです。霊によって清められ、照らされたこの人たちの美しい心は、詩編の中に表されています。霊はこの貧しい人々のうちに、主のために「準備のできた民」を用意しているのです。