2 聖霊の名、呼称、象徴

聖霊の固有名

「聖霊」、これが、御父と御子とともにわたしたちが礼拝しあがめるかたの固有の名です。教会はこの名をキリストから教えられ、教会の新しい子らが洗礼を受けるとき、これを宣言します。

「霊」とはヘブライ語ルアー(Ruah)の訳で、この語が本来意味するのは息、空気、風です。イエスはニコデモに、まさに風の表象を用いて、神の息であるかた、聖霊の超越的な新しさをほのめかしておられます。他方、霊と聖とは三者の神に共通な属性です。聖書、典礼および神学用語はこの二つの語を合わせて、他の場合に使用される「霊」と「聖」ということばに込められているものとはまったく別の意味で、ことばではいい表せない聖霊の神的ペルソナを表現しています。

イエスは聖霊の到来を告げ、約束されるとき、このかたをパラクレートス(Παράκλητος)と呼んでおられます。この語の本来の意味は「そばに呼ばれた者」、弁護者です(ヨハネ14∙16,26、15∙26、16∙7参照)。パラクレートスは「慰め主」と訳されることがありますが、イエスこそ最初の慰め主であられます。イエスは、聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。

使徒言行録や信徒への手紙の中でもっとも多く用いられた聖霊という固有の名のほかに、聖パウロは、約束された霊(エフェソ1∙13、ガラテヤ3.14参照)、神の子とする霊(ローマ8∙15、ガラテヤ4∙6参照)、キリストの霊(ローマ8.9参照)、主の霊(ニコリント3∙17参照)、神の霊(ローマ8∙9,14、15∙19、一コリント6∙11、7∙40参照)という呼び名を用いています。また聖ペトロは、「栄光の霊」(一ペトロ4∙14)という呼称を用いています。

聖霊のさなざまな象徴

。水という象徴は洗礼における聖霊の働きを示します。すなわち、聖霊の助けが呼び求められると、水は新しい誕生をもたらす秘跡的しるしとなります。この世に初めて誕生するまでのわたしたちの成長が水の中で行われるように、洗礼水は神のいのちへの誕生が聖霊において行われることを、実際に示しています。ところが、「一つの霊によって、わたしたちは……洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」(一コリント12.13)。したがって、霊ご自身が、十字架上のキリストから泉のようにほとばしり、わたしたちのうちで永遠のいのちへ向けてわき出る生ける水なのです。

塗油。塗油という象徴もまた聖霊を示すもので、聖霊と同義語となっているほどです。キリスト者の入信式で、塗油は堅信の秘跡的しるしですが、これは東方教会において、いみじくも「博膏(ふこう)式」と呼ばれています。その意味内容を完全に把握するには、聖霊によって行われた最初の塗油、すなわち、イエスのそれに戻らなければなりません。キリスト(ヘブライ語で「メシア」)は、神の霊によって「油を注がれた者」を意味します。旧約時代でも、主の「油を注がれた者」がいて、その中でも傑出しているのがダビテでした。しかし∙イエスは比類のないしかたで神の油を注がれたかたです。なぜなら、御子が取られた人性が、全面的に「聖霊によって油を注がれた」からです。イエスは聖霊によって「キリスト」とされました。聖霊によっておとめマリアはキリストを懐妊しますが、その降誕の際に聖霊は天使を通してキリストであることを告げ、主のキリストを神殿でお迎えするようシメオンに働きかけます。聖霊こそキリストを満たすかたであり、キリストが治癒と救いのわざをなされるときには、聖霊の力がキリストから出るのです。イエスを死者の中から復活させたのも聖霊です。そのとき、死に打ちかった人性をもって完全に「キリスト」とされたイエスは、聖霊をあふれるほどに注がれ、「聖徒たち」が神の御子の人性に結ばれて、ついには「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4∙13)ようにはからわれます。聖アウグスチヌスは、キリストと結ばれて完全になったこの聖徒たちの総体を「全キリスト」と表現しています。

。水が聖霊において与えられたいのちの誕生と産む力とを意味するのに対して、火は聖霊の働きの変革的な活力を象徴します。預言者エリヤは、「火のよう〔に〕登場し」「彼のことばはたいまつのように燃えて」(シラ48∙1)いました。カルメル山上ではその祈りによって、いけにえの上に天上から火をくだらせます。この火は、触れるものを変革する聖霊の象徴です。洗礼者ヨハネは、「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)主に先だって行き、キリストが「聖霊と火で洗礼をお授けになる」(ルカ3∙16)かたであると知らせます。イエスはこの霊について、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12∙49)といわれました。また、聖霊は聖霊降臨の朝、「炎のような」舌の形で弟子たちの上にとどまり、彼らを満たしました。霊性の伝統は、「〝霊〟の火を消してはいけません」(一テサロニケ5∙19)ということばで表されているこの火の象徴を、聖霊の働きをもっとも如実に表すものとして取り上げています。

雲と光。この二つの象徴は、聖霊の現れに際して切り離すことはできません。旧約時代における神の顕現のときから、雲は、時には暗く、時には輝き、その栄光の超越した部分を覆いながらも、いのちある救い主である神ご自身を啓示しています。モーセの場合、雲はシナイ山上で、集会の幕屋で、荒れ野を通る間に、またソロモンの場合、神殿の奉献に際して現れ出ました。ところで、以上の予型は、キリストにより、聖霊において実現されます。この聖霊はおとめマリアに臨み、マリアが懐妊して幼子イエスを産むように、「その影で」お包みになります。変容の山では聖霊が雲の形で現れ、イエス、モーセ、エリヤ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを覆い、「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえ」(ルカ9∙34-35)ました。また、昇天の日、イエスは同じ雲に覆われて、弟子たちの「目から見えなく」なられました。この雲はまた、再臨の日に栄光に輝く人の子を示すことになるのです。

証印は、塗油の象徴に近いものです。事実、「父である神が認証された」(ヨハネ6∙27)のはキリストであり、御父はまた、キリストにおいてわたしたちにも証印を押されます。証印は洗礼、堅信、叙階にあたって聖霊の塗油の結果が消えないものであることを示します。そのため、証印という表象は、ただ一度しか受けられないこの三つの秘跡によって刻まれる消えない「霊印」を表すために、若干の神学的伝統の中で用いられています。

。イエスは按手によって病人をいやし、子供たちを祝福されました。使徒たちもイエスのみ名において、同じようにしています。それどころか、使徒たちの按手によって聖霊が与えられました。ヘブライ人への手紙は、按手をこの手紙の教えの中でも「基本的な項目」としてあげています。全能の聖霊が注がれることを表すこのしるしを、教会は秘跡の儀式の中での聖霊の働きを求める祈りの中で用いてきました。

。「イエスは神の指によって悪魔を追い出されます」。神の律法が「神の指で」(出エジプト31∙18)石板に書かれたのに対して、使徒たちの手にゆだねられた「キリストの手紙」は「生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた」(ニコリント3∙3)ものです。「ヴェニ∙クレアトル∙スピリトゥス(創造主である聖霊、来てください)」の聖歌では、聖霊を「御父の右手の指」と呼んでいます。

はと。大洪水(洗礼に関する象徴)の終わりに、ノアが放ったはとはくちばしにみずみずしいオリーブの小枝をくわえて戻ってきましたが、これは土地が再び住めるようになったしるしでした。キリストが洗礼の水から上がられた後、聖霊ははとの形でキリストの上にくだってとどまりました。霊は受洗者の清められた心にくだってとどまります。ある聖堂では、聖体が祭壇の上につり下げられたはとの形の金属製聖櫃(columbarium)に安置されています。聖霊を表すはとの象徴は、キリスト教の聖画像では伝統的なものになっています。