第6項 「イエスは天に上がって、全能の、父である神の右に着かれた」

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16∙19)。キリストのからだは復活の瞬間から栄光化されていました。そのことは、その後ずっと備えておられる新しい超自然的特性からも明らかです。しかし、弟子たちと親しく飲食し、神の国について教えられた四十日間、その栄光は普通の人間の姿のうちに隠されたままでした。イエスの出現は、人性が雲と天とに象徴される神の栄光に決定的に入ることで最後になりました。以後、イエスは神の右の座に着いておられます。「月足らずで生まれたような」(一コリント15∙8)パウロに出現されましたが、これはパウロを使徒とするためのまったく例外的な特別なことでした。

四十日の間、復活されたイエスの栄光が覆われていたことは、マグダラのマリアヘの神秘なことばからうかがい知ることができます。「わたし〔は〕まだ父のもとに上っていない。わたしの兄弟たちのところへ行って、こういいなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父であるかた、またわたしの神であり、あなたがたの神であるかたのところへわたしは上る』と」(ヨハネ20∙17)。これは復活されたキリストの栄光と、天に上げられて御父の右に着かれたキリストの栄光との間に、現れ方の相違があることを示します。昇天は歴史的出来事であると同時に超越的な出来事であって、一方から他方へ移ったことを示すものです。

この最後の段階は、最初の段階、すなわち受肉の際に天からくだられたことと密接に結びついています。「父のもとから出た」かた、つまりキリストだけが「父のもとに戻る」ことがおできになります。「天からくだって来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハネ3∙13)のです。人間は自然の力で「父の家」、神のいのちと至福とに入ることはできません。ただキリストだけが人間にこの道を開くことがおできになりました。「だから、その肢体であるわたしたちは、わたしたちの頭であり本源であるかたがわたしたちに先だって行かれたところへわたしたちも行けると希望しているのです」。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」(ヨハネ12∙32)。イエスが十字架上に上げられることは天に上げられることを示し、また、それを予告しています。前者は後者の始まりです。新しい、永遠の契約の唯一の祭司であるイエス・キリストは、「人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神のみ前に現れて」(ヘブライ9∙24)くださいました。天にあって、キリストはつねにその祭司職を果たされます。「このかたはつねに生きていて」、「ご自分を通して神に」近づく「人々のために執り成しておられる」(ヘブライ7∙25)のです。キリストは、「すでに実現している〔将来の〕恵みの大祭司」(ヘブライ9∙11)として、天において御父を礼拝する祭儀の中心であり、司式者なのです。

キリストは今や、御父の右の座に着いておられます。「御父の右の座とは、神としての栄光と誉れの意です。永遠から神の御子として、また御父と同一実体の神として存在しておられたかたが、人となられ、その肉体が栄光を受けられた後は、からだをもってそこに座しておられるのです」。

御父の右の座に着かれたことはメシアの治世の始まりであり、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7∙14)という、人の子に関する預言者ダニエルの幻視の実現です。このときから、使徒たちは「終わることのない主の国」の証人となりました。

要約

キリストの昇天は、イエスの人性が天上の神のみ国に決定的に入られたことを示します。そこから再臨されるはずですが、それまでは人間の目には隠されています。

イエス・キリストは教会の頭として、わたしたちに先んじて御父の栄光のみ国に入られました。こうして、そのからだの肢体であるわたしたちは、いつか、永遠にキリストとともにいるという希望のうちに生きることができるようになりました。

イエス・キリストは、すべての人のためにひとたび天の聖所に入られるや、仲介者として絶え間なくわたしたちのために執り成し、聖霊が与えられることをつねに保証してくださいます。